前話 ナオクスヒメの神
時は寛弘六年(1009年)。
所は都の左京、一条東洞院にある一町を敷地とする高倉殿――。
そこの主である中務卿宮具平親王は今、病の床に就き、臨終の時を迎えようとしていた。
その顔は四十六とは思えないほどに痩せ衰え、枯れ木と見紛うほどだった。
具平の枕もとに座って泣いているのは、彼の妻ともうすぐ十五になる娘の隆姫。
御簾越しの南廂からは、僧侶たちの臨終念仏に合わせて、長年連れ添った家人や女房たちの泣き声が響いてくる。
一人の少女が西廂の襖をほんの少し開き、身舎の中のそんな様子を窺っていた。
具平は赤く充血した眼を開き、隆姫の方へ少し頭を傾ける。
「……姫、すまないな。私のせいでおまえの結婚が、一年も遅れてしまう」
「父様、そんなことをおっしゃらないで……」
隆姫の言葉を遮るように具平は手を伸ばし、彼女の手を力なく握った。
「頼通殿と、幸せに、な……」
そのまま具平は眠るように目を閉じ、息を引き取った。
「殿!」
「父様!」
亡骸にすがり付き、悲鳴にも似た声を上げて泣く母娘の姿に、少女はぎゅっと目を閉じ、大きく息をついた。
そして、再び目を見開き、手にしていた十拳の剣を握り締める。
開いた目に、具平の身体から煙にも似た陽炎がゆらゆらと立ち上るのが見えた。
「……さあ、いずこへ行くか」
少女は小さく呟き、その陽炎――魂の行方を注意深く見つめ続ける。
刹那、それは二つに分裂し、一つは南へ、一つは北へと素早く飛んでいった。
少女はとっさに南に向かって駆け出し、逃げ去り行く魂を追った。
妻戸を体当たりするように開いて簀子縁に飛び出し、辺りを見回す。
屋根の上に向かう魂は、隈なき望月のもと、徐々に人型に変わりつつあった。
「待て!」
少女は鋭い声で叫ぶと、高欄を踏み台に階隠の上に飛び乗った。
そのまま屋根を駆け上り、そして、追いついた。
「ようやく汝と出会えた」
少女が安堵と共に微笑むと、それは血赤の唇を歪めて、皮肉気に笑った。
「ついに会う時が来たというわけか、ナオクスヒメ(直久須比売)の神よ」
そのしわがれた声は、辺りの空気を震わせるくらいに淀んでいる。
ナオクスヒメが対峙したのは、袈裟をまとった男の悪霊――。
刺さった針のような銀色の髪、鵄のような真っ黒な瞳、袖や裾から覗く長々と伸びた爪。
死後、長く現世に留まったせいで、哀れにも異形の人間の姿に成り果ててしまった。
故大納言藤原元方卿――。
五十年以上も昔、自分の孫が就くはずの東宮位を藤原師輔の孫に奪われたことを恨みつつ死んだ男。
時の村上帝を始め、その皇后、血を引く者たちに次々と憑りつき、殺してきた。
ナオクスヒメは悠然と両手に剣を構え、元方を見据えた。
「汝を追って五十年。今宵で会えなくなるかと思うと、少々淋しい気もする。が、黄泉へ行く時間だ」
元方はふわりと浮くと、ナオクスヒメから一歩離れた。
「我にはまだやるべきことが残っている。今、黄泉に行くことはできぬ」
「冷泉院か」
「我が一番憎き皇子。苦しめ、いたぶり、そう簡単に殺すまい。あの苦痛に歪む顔は、我が至極の悦び」
「汝が行くまでもない。祐姫のせいで、あれは余命幾許もなかろうが」
「最期を見ねば、我が恨みは成就せぬ」
元方は強い口調で言い放つと、ひらりと身を翻し、西の方へ向かって飛んでいく。
「戯け! 逃がすものか!」
ナオクスヒメは元方を追って、入母屋造の屋根を駆け下り、渡殿の上を滑るように渡った。
ナオクスヒメの神としての霊力の源は月にある。
望月の光を燦々と浴びて、最高の霊力が身体の中に満ちあふれていた。
「黄泉へ参れ!」
西の対屋の棟木で踏み切り、空を舞いながら元方の肩から腰にかけて、剣を斜めに振り下ろした。
「ぎゃあああー!」
断末魔は夜の静寂をすり抜け、遥か遠くの空気まで揺るがせた。
ナオクスヒメは屋根の上に膝をついて下り、少しの間、目を閉じた。
現世に想いを残し、黄泉に行けずに中つ国をさまよう死霊たち。
その中でも人に憑りつき、悪霊と化してしまったものを黄泉に送るのが、ナオクスヒメの役目。
それは名が示す通り。
『ナオ(直)』は正すの意、『クスヒ(久須比)』は奇し霊。
死者の世を支配するヨモツ大神と、夜の世界を支配するツクヨミの命、その二柱の神から生まれた女神――。
「元方、すぐに祐姫も送ってやる」
ナオクスヒメは二度ほど目を瞬かせ、立ち上がった。
そして、もう一つの魂が飛んでいった方角、北に足を向けた。
「北というと土御門殿か……」
一瞬迷いを覚えたが、ナオクスヒメは二町先にある土御門殿を目指した。