後話 永遠の別れ
――イザナキの命、イザナミの命、何をしている!?
突如、イザナキの脳裏に突き刺すように聞こえたのは、高天原にいるタカミムスヒ(高御産巣日)の神の切羽詰った声だった。
イザナキは口を固く閉じ、敢えて答えようとはしなかった。
一度黄泉に行った者を連れ戻すことが、禁忌だということは、最初から知っている。
たとえそれが許されないことだとしても、イザナミはイザナキにとって何よりも必要な存在だった。
――汝命たちの国生みの役目は、すでに終わっている。イザナミの命は死すべくして死んだのだ。早くそれを受け入れよ。
火神を生むことは、すでに定められていたことであり、またそれによってイザナミが黄泉に行くことも決まっていた。
タカミムスヒはそう言っているのだ。
たった一人の子のために、なぜ妻を失わねばならぬ!?
イザナキは無言のままイザナミの手を引いて歩き続けた。
――わからぬか!? 全てが終わった今、二人の霊力は一所にあるには大きすぎる。この世を壊すつもりか!?
その言葉にイザナキの足は止まった。
タカミムスヒの言わんとしていることが、わかってしまった。
それでも、イザナキは迷っていた。
このまま進むべきか、妻を置いていくべきか。
すでに中つ国への出口から差す光が見え始めている。
「イザナキの命……?」
イザナキはイザナミを振り返り、その不安げな瞳をしばし見つめた。
心は決まっていた――。
イザナキは震える足で一歩後ずさり、ぎゅっと目をつぶると、彼女を置いて一気に駆け出した。
「吾が背……? なにゆえ、吾を置いて行く!?」
イザナミが後ろから追ってくるのがわかる。
それでも、イザナキは振り返ることなく出口を抜け、重い岩戸を閉めた。
「吾を選んではくれぬのか!? イザナキの命、応えを!」
イザナミの悲しい叫びが、岩戸を通して聞こえてくる。
岩を叩く音が響く中、イザナキは戸に寄りかかり、息を整えながら遥か遠くを見つめた。
あふれんばかりの緑に光輝く美しい大地、清く甘い水の流れる川、木々の生い茂る姿のよい山々――。
これらは全てイザナミと愛し合ったという確かな証拠。
あまりに美しすぎるそれらを前に、イザナキは拳を握り締めて、歯を食いしばった。
「汝はここに来てはいけない。吾もそこへは二度と行かぬ。汝は死を司る黄泉の神として、永遠にそこで生き続けるしかない。代わりに吾はこの中つ国を永遠に生かそう」
戸を叩く音が不意に止んだ。
沈黙が続いたが、イザナミが去った気配はなかった。
しばらくして乾いた笑い声が聞こえ、それはやがて高らかなものに変わっていった。
「吾が黄泉を治める神に? 吾の霊力を黄泉のために使えと? そのような戯けたこと……!」
「イザナミの命、永遠の別れぞ。しかし、汝のことを決して忘れはしまい。汝も――」
「別れ……?」
イザナミの笑い声が不意に止まった。
イザナキは不吉な影が胸によぎるのを感じ、顔が強張った。
「よかろう。吾は今後ヨモツ(黄泉津)大神として全ての死を司る。永遠の別れとなるか。吾を拒んだこと、覚悟されるがいい」
その言葉を最後に、イザナミの気配は遠ざかっていった。
イザナキはふらりと黄泉戸を離れ、川のせせらぎの聞こえる方へ足を引きずるようにして歩いていった。
穢れが全身を蝕み、霊力を消耗している。
黄泉はそれほどまでに汚かった。
身体中にこびり付いた穢れを早く落とさなければならない。
そうでなければ、すぐにでも黄泉に引きずり込まれるだろう。
イザナキは川に入り、冷たい清流にその身を沈めた。
両手で水をすくって顔に浴びせかけると、冷たい水と混じって、温かいものが頬を伝って流れ落ちていく。
あのような別れ方をするくらいなら、迎えになど行くべきではなかった。
記憶の中に残る幸せな日々を胸に抱いて、生きていくべきだった。
後悔の念ばかりが頭の中を占め、イザナキはただ涙を落とし続けた。
ふと人の気配に顔を上げると、真白い衣を着た美しい青年と愛らしい少女が、目の前に立っていた。
二人の放つ清浄な霊力は、つい今まで暗く汚い黄泉にいたイザナキにとって、眩しいものだった。
「父上」
青年は目を細めて労わるようにイザナキの肩にやさしく手を置く。
おかげでイザナキは、ようやく笑みを浮かべることができた。
「どうやら、吾は最後に尊い神をもうけたようだ……」
イザナキはゆっくりと立ち上がり、自分の涙とイザナミの穢れから生まれたこの二柱の神を、感慨深く眺めた。
そして、首から下げていた御頸珠をはずし、少女の首にかけてやった。
「汝はアマテラス(天照)。高天原に行き、子を増やせ。そして、その子らにこの中つ国を治めさせよ」
アマテラスは返事と共に、その命を全うすべく、高天原へとその身を飛ばした。
それから、イザナキは青年に向き直った。
「汝はツクヨミ(月読)。同じく高天原に行き、夜の世界を治めよ」
ツクヨミは頷いたが、すぐに立ち去ろうとはしなかった。
「それらはもともと汝命の役目のはず。父上は高天原に行かれないのですか?」
イザナキは視線をそらし、再び黄泉戸の方を振り返った。
「いや、吾はここに残る。ここにいれば、いつでも彼の命を感じていられるからな」
イザナキはゆったりと目を細め、静かな笑みをたたえた。
「それに、吾はいつまで生きられるのかわからぬ。だから、汝たちに全てを委ねるのだ。さあ、疾く行くがいい」
背後からツクヨミの気配が消えると、イザナキは川から上がり、岸辺の草むらに腰を下ろした。
そして、未来に思いをはせ、目を閉じた。
いつか、自分は一番愛しい人に殺されるだろう、と――。
次話より序章に入ります。