第5話 恋
その小半刻後、頼通は青白い顔をして、ナオクスヒメの局で寒さに震えていた。
「大丈夫か?」
ナオクスヒメが濡れた直衣を脱がせて衣桁に掛け、代わりに櫃から出した袿やら綿入れやらを何枚も羽織ってやると、頼通はその前をかき合わせて、縮こまっていた。
吾のせいだとはわかっているものの……。
その姿があまりに滑稽に見えて、ナオクスヒメは呆れ顔を隠せなかった。
頼通もそれがわかっているのか、面目なさそうに恥ずかしげに俯いている。
だいたい頼通が震えていることに気付かなかったら、いつまでもあのまま外に立ちっぱなしだったことになる。
「無理をする前に言えばよかったものを。格好つけるでない」
「あなたの哀しみを少しでも癒してあげられたらと思って……」
頼通の『支えになりたい』という言葉は偽りではなかった。
ナオクスヒメは嬉しさに顔がほころんでいた。
「やはり何も話してはくれないのか?」
「話さずとも、吾にとっては充分ぞ」
ナオクスヒメは頼通の向かいに座り、額に軽く手を置いた。
今のところ熱はないようだが、頼通は身体が弱い方だと聞いている。
「今、従者を呼んできてやる。家に帰ってゆっくり休まねば、風邪をひくぞ」
「いや、結構」
頼通の即答に、ナオクスヒメは眉宇をひそめた。
「……汝、家に帰りたくない理由でもあるのか?」
「私がここにいたら、まずいのか? その、誰かここに来るとか……」
そう言って、頼通はそわそわと落ち着かない様子で辺りを気にしている。
ナオクスヒメが喉を鳴らして笑っていると、頼通は急に真顔になって見つめてきた。
「もう今朝の文の返事は出したのか?」
「関係ないではないか。吾は汝のものではない」
「それはそうだが……」
頼通は顔を曇らせ、口をつぐんだ。
ナオクスヒメには頼通の気持ちが不可解で納得がいかない。
左近中将――オオマガツヒが文を送ってきたのは、単に女房たちに諍いの種をまいただけのこと。
教通を始めとする他の公達は、新参者の女房がもの珍しかっただけだろう。
そんな彼らの行動は容易に理解できる。
しかし、頼通は少なくともナオクスヒメがただの女房ではないことを知っているはず。
真夜中に剣片手に出歩いているナオクスヒメを、いったい何者だと思っているのか。
そうでなくとも、正室の隆姫には具平の死霊がまとわり付いている。
隆姫のためならば、すぐにでも悪霊に変わることだろう。
それを知っていて、頼通が本気で他の女に手を出すことは考えにくい。
気が付けば沈黙の中、頼通は居心地悪そうに小さく縮こまっていた。
「一つ聞いてもよいか?」
ナオクスヒメが考えをまとめながら口を開くと、頼通は顔を上げた。
「汝は吾に対して好意があるようだが、恋人にしたいと真面目に考えておるのか?」
「そ、そういうことを露骨に言われたら、身も蓋も……」
頼通は顔を真っ赤にし、視線をうろうろとさまよわせた。
「遊びというのなら、まだわかるが――」
頼通は一転して、真剣な顔で訴えてきた。
「遊びなどではない! 初めて会った時から夢にまで見て、ずっと忘れられなかった。探し歩いて、やっと見つけて――!」
ナオクスヒメは手を伸ばして、頼通の口をふさいだ。
「それ以上は無用ぞ。物の怪を侮るでない。汝も死にたくなかろう。汝は隆姫一人を大切にして生きるしかない」
頼通はナオクスヒメが差し出した手を握り締めると、その身体を引き寄せ、強く抱きしめてきた。
「なぜだ……? 私の気持ちはあなたにとって、迷惑でしかないのか?」
「そのようなことはない」
「ならば、私の気持ちを受け止めてほしい」
ナオクスヒメは甘い囁きと力強い抱擁に目眩がし、気が狂いそうになった。
何と答えればよいのか――。
自分の気持ちが整理できずに困惑した。
イザナキを探すために寝てきた男たちは皆、日嗣の皇子と血の繋がりのある者。
だから、その他の男たちに興味をそそられることは、一度としてなかった。
しかし、この男だけはなぜか違う。
初めて会った時、口付けたのも単なる戯れでしかないはずだった。
ところが、中宮付きの女房になってからというもの、教通が藤壺を訪れるたびに、その兄である頼通を思い出さずにはいられなかった。
再会してからは、会うたびに心の奥から激しい感情を引きずり出される。
そして今、この胸に抱きしめられていると、頭の中がとろりと溶けたような、おかしな感覚が全身に伝わっていく。
これが恋なのか?
恋というのはこうして自分でも気付かないうちに始まるものなのか?
少なくとも相手が神であれ人間であれ、このような感情を抱いたことは一度もなかった。
だからこそ、自分の中に初めて沸いた想いに戸惑っている。
しかし、これが本当に恋というものなら――。
ナオクスヒメは固く目をつむり、気の高ぶりが収まるのを待った。
そして、両腕に力を入れて頼通を押し離した。
「汝は真剣なのだな。ならば、吾は受け入れられぬ。一夜限りの戯れならば、相手しようぞ」
ナオクスヒメがゆっくりと目を開くと、頼通は屈辱のためか、目元をうっすらと赤く染めていた。
「帰る」
そう言って、頼通は衣桁から着物を引ったくるように取ると、羽織りながら局を出ていった。
頼通を怒らせることはわかっていた。
真摯な思いを無下にしたのだ。
敢えてそうしたのだから、これでいい。
そう思っても、ナオクスヒメの脳裏には頼通の怒った顔が焼き付き、心の臓は締め付けられたかのように痛かった。
吾が自ら具平を悪霊に変えるわけにはいかぬ。
何度も自分にそう言い聞かせながら、心が落ち着くのを待つしかなかった。
確かに頼通への思いを成就させる方法がないわけではない。
具平を黄泉に葬ればいい。
簡単なことだ。
そうすれば、恋路を邪魔する者はいなくなる。
万が一、悪霊になって頼通に憑りついたならば、具平が諦めて出てくるか、それとも頼通が死んだ後にしか黄泉に送れなくなる。
または頼通もろとも殺すしかない。
黄泉に送るのなら、逆に死霊の今の方がいい。
しかし、具平は今、死霊として隆姫を静かに見守っているだけで、黄泉に送る必要はない。
そんな自分勝手な理由で死霊を黄泉に送ることなど、許されまじきことだ。
もしも行動に移したならば、死霊の最期の叫びにこの身は耐えられない。
ナオクスヒメは頼通の閉めていった遣戸をじっと見つめ、それからぎゅっと目を閉じた。
「……これ以上、好きにはならぬ」
ナオクスヒメは小さく呟くと、そのままごろりと横たわった。
先ほどまで頼通が羽織っていた着物に顔を埋めると、その温もりはまだ残っていた。