第3話 ヨモツ大神
ナオクスヒメは久しぶりに黄泉国に来ていた。
ここの主、ヨモツ大神に呼び出されたのだ。
黄泉国は見渡す限り、岩と砂で覆われた不毛の地である。
天空はどこまでも続く闇。
そのずっと先に魂の入口となる黄泉戸がある。
死を迎えた者は肉体から離れて魂となり、ナオクスヒメが送った者も天寿を全うした者も、黄泉戸まで誘われる。
そして、等しく目に見えないほどの小さな泡粒となって、後から後から黄泉の大地に降り注がれる。
その一粒一粒が紅に光り輝き、黄泉国をほんのりと明るく照らし出ているのだ。
この魂たちには生前の記憶も意思もない。
ただこの世の理に従って、永遠にも近い時をかけて黄泉国を支える霊力に変えられゆく。
そして、その果てに待っているのは完全なる消滅――。
これから消えゆく宿世の儚い魂しか存在しない世界は、生者であるナオクスヒメにとって、陰鬱なものでしかなかった。
ずっと来ることを避けていたのだが、ついにヨモツも痺れを切らしたというところだろう。
ヨモツの神殿は黄泉国の中心にぽつんと建っていた。
この世界にある唯一の建物といっても、それはヨモツの霊力で具現化されただけのもの。
実際に木材を運んできて作ったものではない。
鰹木と斜めに差した二本の千木が屋根の縁を飾る古風な建物は、中つ国にある神の社とよく似ている。
その姿かたちは、ナオクスヒメが生まれた千年前と少しも変わらない。
ナオクスヒメはクラノオハバリを片手に、小さな神殿の階をゆっくりと上り始めた。
母親に会うのは何年ぶりだろうか。
数えるのも億劫なほどの年月が経っている。
ナオクスヒメは階を上り切ると、神殿の扉を開いた。
二人も入れば息が詰まりそうなほどの狭い室内は、壁にかけた灯皿の淡い光で全てが朧げに見えた。
窓も装飾も何もない、四方を板壁に囲まれたそこは、ヨモツを避けているのか、魂たちも入り込むことはない。
ヨモツは太古を思わせる真白な上衣と裳を着け、肩から紅の領巾をかけた姿でそこにいた。
たった一つの調度品である倚子に腰掛け、何かを呟きながら目を閉じている。
「母上」
ナオクスヒメが声をかけると、ヨモツはゆっくりと目を開いた。
その顔はまるで鏡越しに自分を見ているかのようによく似ている。
ただ彼女の場合は、妖艶という表現が似合う雰囲気を持っていた。
「久しぶりだのう、ナオクスヒメ。吾のことなぞ、とうの昔に忘れたかと思っておったわ。吾が背は見つかったのか?」
ヨモツはゆっくりと立ち上がると、裳裾をひるがえしてナオクスヒメから背を向けた。
「いえ、それは未だ……」
「千歳も何をぐずぐずしておる。役目を忘れて、ふらふら遊んでおるでないぞ。何のために好きでもない男と通じて、汝を生んだと思うておる」
ヨモツは振り返り、目尻を上げてナオクスヒメを見つめた。
「わかっております……」
ナオクスヒメは、唇を噛み締めて俯いた。
自分はこの女神の駒でしかない――。
そのことがナオクスヒメをこの上なく重苦しい気持ちにさせる。
ナオクスヒメが生まれるその前、ヨモツは愛しい夫――イザナキ会いたさに、大いなる霊力をもって彼を黄泉へと誘った。
しかし、同時に彼は器を捨てて実体無き者となり、黄泉へ行くことを拒んで中つ国に留まった。
神はその霊力の気配で存在を知る。
イザナキは再び襲われることを恐れ、その霊力を隠すために、人間の身体を器として利用した。
宿りやすいのは自分の血を色濃く引く者。
それはイザナキから生まれたアマテラス、彼女の末裔である皇族、つまり、日嗣の皇子たちだ。
そうして、イザナキはその気配を完全に消し、ヨモツの霊力の及ばないものとなった。
それでも、ヨモツは諦めなかった。
しかし、彼女は黄泉から自由に動けない。
そこで気が付いたのだ。代わりに手足となって、イザナキを黄泉に送らせる者が必要だと――。
そんな時、ツクヨミの利害も一致していた。
夜の闇をさまよい、人間に害をなす悪霊から夜の平和を守るための駒が必要だった。
死霊に対峙できるのは、ヨモツの霊力のみ。
そうして、ただ互いの利益のために、愛し合ってもいない二人の間から、ナオクスヒメは生まれた。
『イザナキの器の右肩には印がある』
襲った時に残したのだと、ヨモツは生まれたばかりのナオクスヒメにそう言った。
それは暗にイザナキの候補の男と寝ろという意味でもあった。
そんなことが神としての役目なのかと思うと、ナオクスヒメは虚しさに最初は涙したものだった。
しかも、月の満ち欠け、天気で霊力を左右される忌まわしい身体。
夜の支配者であるツクヨミの娘だというのに、月がなければ只人同然の不完全な神――。
時々思う。
自分に考える力がなかったのなら、使命を果たすだけの傀儡だったのなら、どんなに楽だっただろうかと――。
「汝命はひどいことを仰せになる。吾もまた好きでもない男に抱かれている事実を御存知のはず。吾はできる限りのことはしています。信用ならぬと仰せなら、再び他に子をなすがよろしいでしょう」
ナオクスヒメは睨むように母親を見つめてから、踵を返した。
そして、クラノオハバリに霊力を込めて一振りする。
突如として、空間に闇を吸い込んだような裂け目ができた。
それが中つ国への入口だ。