第7話 禍を起こす神
一章最終話です。
ナオクスヒメは紫宸殿の屋根の上に腰掛け、オオマガツヒが来るのを待っていた。
指先でそっと頬をなぞると、涙の痕に触れる。
涙の理由が自分でも不可解だった。
あの時、泣くほど悲しかったのか。
図星を当てられたようで頭に来たのか。
支えをほしがっているように見られたのが悔しかったのか。
それとも、それを言ったのが、心を乱すただ一人の男だったからなのか――。
不思議な男だ。
ナオクスヒメの美しさに言い寄ってきた男は数知れないが、あんな風に言ってくる男は一人としていなかった。
秋の乾いた風が舞い上がり、額髪を躍らせる。
はらはらとこぼれ落ちる髪を頬に感じながら、なぜか心が温まるのを感じた。
逢いたかった、か……。吾もそうだったのだろうか。
ナオクスヒメはそんなことを考えながら天を見上げた。
深夜を過ぎて風が出てきたせいか、月は雲間に出たり入ったりと、手の中にある神剣クラノオハバリもそろって、現れたり消えたりしている。
クラノオハバリはナオクスヒメが生まれた時、同時に生み出された剣。
この世で唯一死霊を斬り、黄泉へ送ることができる。
ただし、使い手のナオクスヒメの霊力に呼応するため、月が出ている間しかその姿を現さない。
「汝も役に立たぬな」
ナオクスヒメは黒い刀身にそっと唇を押しあてると、手の中から消した。
「待たせたな」
男の声にナオクスヒメが顔を上げると、そこにオオマガツヒが髻を外した髪をかき上げながら立っていた。
「宿直は終わったのか?」
「今宵は。お前のせいであらぬ嫉妬を受けるとは困ったものだ」
困ったと言いながらも、彼がこの状況を楽しんでいるのはその表情から優に読み取れる。
「そう仕向けたのは汝だろうが。わざと戸を開けようとしただろう?」
「気付いていたのか」
「立ち聞きしていたのは気配で知っておったわ」
オオマガツヒは「なんだ」と、つまらなさそうに口を尖らせながら、ナオクスヒメの隣に腰を下ろした。
「あれが左近陣に女を連れ込むとは前代未聞。どんな女かと思えばお前だった」
「吾で悪かったな。汝を探しに行ったら捕まっただけぞ」
「それにしてはただならぬ空気を感じたが。恋でもしているのか? あれは本気のようだったが」
「恋など……!」
ナオクスヒメはかっと赤く染まった顔を隠すように背けた。
「汝と戯れるために呼んだのではない。単刀直入に聞く。そもそも実体のない汝が人の姿など借りて何を企んでおる? 三条の邸の屍はどういうことぞ?」
「企んでいるとは失敬な。ちょっとした人助けさ」
オオマガツヒの飄々とした顔を見る限り、真面目に答えているとは思えない。
「禍を好んで起こすことしか頭にない汝が人助けとは笑止」
「まあ、面白くなりそうだと思ったのは否めないが。おかげで人が人を喰らうなどという、なかなか見られないものが見られる」
「あれを喰わせておるのか?」
「母の愛とはすさまじいものよ。子のためなら何でもする」
そう言って、オオマガツヒは嫌な笑い声を上げた。
悪趣味な、とナオクスヒメは思ったものの、オオマガツヒらしいそのやり方に反論する気は起きなかった。
そもそもナオクスヒメが相手にするのは死霊であって、屍ではない。
魂の抜けた器をどうしようと、どうでもいいことなのだ。
「ところで、カムナオビはどうした?」
「死んだ」
予想をはずさなかった返事に、ナオクスヒメは小さく唸った。
「汝が殺したのか」
なじるような口調で言ったのが気に入らなかったのか、オオマガツヒは眉根を寄せて軽く睨んできた。
「文月の洪水で自滅しただけだ。俺が殺したわけではない」
文月の洪水というと、鴨川が決壊して、左京の一条、二条がかなりの被害を受けて死者すら出たものだ。
「……ちょっと待て。あの洪水はカムナオビが起こしたというのか? 汝がやったのではないのか?」
「本当に失敬な奴だな。全ての禍を俺のせいにするな」
洪水を起こしたのがカムナオビだったということは、その目的は川の穢れを流すため。
しかし、今宵見てきたところでは、河原は穢れであふれていた。
つまり、カムナオビが全ての霊力を注ぎ込んでも、穢れを完全に浄化することはできなかった。
そして、力尽きて死んだ。
カムナオビが死んだということは、オオマガツヒの霊力が無限にも増え続けるということを意味する。
「して、余りある霊力をどうする?」
「どこかで消費するしかないだろう。禍を起こすことこそが、俺の唯一生きている意味だしな」
楽しそうに目を光らせているオオマガツヒを見て、ナオクスヒメはやはり、と落胆を隠せなかった。
禍が起これば人が死ぬ。
予期せぬ死に人間はこの世に想いを残し、死霊になる可能性が極めて高い。
そして、中には悪霊となる者もいるだろう。
悪霊の番人、ナオクスヒメにとって嬉しい事態ではない。
「では、今上の病は汝が原因か?」
「まさか。俺とて命は惜しい。日嗣の皇子になど手を出すか」
「確かに天孫に何かあれば、アマテラスとツクヨミが黙っておらぬだろうが」
「桓算が憑いていたと、もっぱらの噂だろう?」
「いや、桓算はとうの昔に黄泉に送った。あの僧都は如何様師だ」
憑坐になった女官と共謀していたか、操っていたかのどちらかだ。
桓算であるはずがない。
「今のところあれに悪霊の気配はない。原因は金液丹というところだろうな」
成分、効用ともに怪しい薬が原因ならば、いくらアマテラスの末裔とはいえ、彼の神の加護は及びようがない。
ふとオオマガツヒを見やると、彼は思い出したように笑っていた。
「何ぞ?」
「正直、驚いた。お前が後宮に居を置いていたとは」
「仕方なかろう。他に勤め先が見つからなかったのだから。好きであのようなところにいるわけではない」
「男に抱かれるために人間のふりをしなくてはならないとは、憐れをそそる」
ナオクスヒメはオオマガツヒを睨みつけ、その胸倉を掴んだ。
「汝、黄泉に行きたいか? すぐにでも送ってやるぞ」
オオマガツヒはまあまあと、人好きのする笑みを浮べて、ナオクスヒメの手を制した。
「語弊があったのは認めよう。イザナキを探す、という大役のためだったな」
明らかに皮肉の込められた言葉に、ナオクスヒメの苛立ちはいまひとつ収まらなかったが、オオマガツヒを突き飛ばすように放した。
そろそろ大内裏の諸小門を開く開諸門鼓が鳴る時間になる。
日が昇り、月の光が抑えられるまでは時間があるが、人は起き出し、動き始める。
ナオクスヒメは立ち上がり、大きく伸びをした。
「さて、帰るとしよう。内裏で会う時は知らぬふりをしてくれるとありがたいが、汝に期待する方が無駄というものか」
「そうでなければ楽しくないだろう、美濃殿?」
ナオクスヒメはもはや返す言葉もなく、身をひるがえして藤壺へ向かった。
次話より二章が始まります。
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