第5話 神聖なる誓約
大内裏から南、朱雀大路に面して左近中将――オオマガツヒの住む三条大納言邸はある。
敷地は一町を有す広大なものだが、その割りに簡素である。
庭木どころか草一本生えていない奇妙な邸だ。
ナオクスヒメは寝殿の屋根の上に舞い降りると、刹那ぶるりとその身を震わせた。
何ぞ、この穢れは……?
邸全体を穢れた空気が覆っている。
オオマガツヒの霊力とも違う――これは死の穢れだ。
実際、彼の気配はこの中には感じられなかった。
その時、きしむような車輪の音が北の門の方から響いてきた。
ナオクスヒメは興味をそそられ、門が良く見える北の対屋の上に飛び降りた。
そこでは下人らしき二人の男が、筵をかけた手車を門に入れているところだった。
そのまま北の対屋の階に寄せている。
「あっ」と、片方の男が手にしていた轅をすべらせ、車はごとりと鈍い音を立てて傾いだ。
筵の隙間から幼児の腕らしきものがぶらりと滑り落ちてくる。
屍か!?
ナオクスヒメは驚きに目を剥いて、その筵に包まれた屍が邸内に運び込まれるのを見届けた。
***
燈台の芯を短く切ってある薄暗い廂の上には、広げられた筵の上に幼子の屍が転がっている。
御簾を隔てた身舎の中では、数人の年老いた女房に囲まれて、女主人の靖子が脇息にもたれてその様子を見つめていた。
「では」
下人の一人がそう言うのを合図に、二人の男が屍の腹に小太刀を入れた。
部屋の中は一気に血生臭い香りがたちこめ、女房たちはゆったりと袖で鼻を覆う。
時折、小太刀と骨がこすれ合う音がするほか、辺りは静まり返っていた。
やがて、骨からきれいに剥がされた肉と臓腑が高坏に盛られる。
下人が軽く頭を下げると、女房の一人が進み出て高坏を受け取り、御簾の中に運んだ。
「どうぞ、お方様」
「ああ、ありがとう」
靖子は箸を取り、血の滴る肉を一つまみ取り上げた。
そのまま口の中に入れて咀嚼し、ごくりと飲み込む。
「今宵はずいぶんと新鮮なものが手に入ったこと」
そう言って、靖子はもう一口肉を口に入れた。
「本当に。まだ死んで間もないようですね」
「それに、このように寒くなったので、日持ちもよいのでしょう」
「夏の腐ったものに比べれば、この方がおいしく頂けるというものです」
ありがたいこと、と靖子は小さく呟いて、黙々と食べ続ける。
女房たちもそれ以上何も口を挟まず、靖子の食事を見守った。
そう、これは神聖な儀式なのだ。
靖子は改めて思う。
十五年前、靖子は年老いてようやく授かった息子を流行病で亡くした。
九つに満たない子の葬儀は許されず、捨てにいった河原でその亡骸を抱き、悲嘆に暮れていた。
『どうして、神仏はこのようなむごい仕打ちをなさるの? こんな形で奪うくらいなら、最初から授けて欲しくなかった』
靖子は尽きることの知らない涙と共に、誰ともなしに訴えていた。
たった六年とはあまりに短い幸せだった。
浮気な夫を持ったせいで孤独だった生活を忘れられたのは、この子のおかげだった。
すくすくと成長していく姿を見続けることが、唯一の生きがいだった。
その子がもういない――。
夕闇が迫りくる中、供の女房たちが不安になってきたのか、早く帰るように急かしてくる。
しかし、子を失うほどに恐れるものなど何もなかった靖子は、少しでも長く息子を抱いていることの方が大事だった。
このままこの子を抱いて、飛び込んでしまおうか。
不意にそんな思いが胸をよぎり、ふらりと立ち上がると、一歩踏み出した。
『お方様!』
女房の叫び声と共に靖子の身体は引き戻され、そのまま亡骸と共に草むらに転がった。
そして、靖子はついに心の箍が外れて、大声で泣き出した。
『なぜなの!? この子のためならば、何でもできるのに! 死ぬことすら怖くはないのに!』
その時だった。
頭の中に直接声が響いてきたのは――。
『助けてやろうか』と。
その奇妙な感覚に、靖子の涙は止まった。
『誰……?』
――子のためだったら、何でもすると言ったな。その言葉に偽りはないか?
『ないわ』
――ならば、月に一度、屍の肉を喰らえ。さすれば、子を生かし続けよう。
これは神仏の声なのだ、と靖子は瞬時に悟った。
神仏が自分の訴えを聞いてくれたのだ。
靖子は亡骸を抱き寄せ、夢心地で夕焼けに染まる空を仰いだ。
――誓約するか?
靖子に迷いはなかった。
即座に『するわ』と答えていた。
――では、誓約した。
その言葉と同時に、腕の中で何かがぴくりと動いた。
靖子が視線を下げると、息子の目が開くところだった。
『ああ……っ』
靖子は嬉しさに、再びむせび泣いた。
それからひと月、まるで何もなかったかのように、いつもの幸せな日常が戻っていた。
やがて、約束の日、靖子は河原から屍を運ぶように下人に命じた。
これも息子のためだと思えば何でもないと、割り切っていたつもりだった。
しかし、運ばれてきた腐った屍とその臭気に、靖子は胃の腑の物を吐き散らした。
ましてや切り刻んで食すなど、到底できるものではない。
それでも息子の死には代えられないと、何度も気を失いかけながらやり遂げた。
人間とはつくづく不思議なものだと思う。
慣れるということを知っている。
それから一年も経たないうちに匂いと味に慣れた。
五年過ぎた頃には、当たり前の儀式になっていた。
それができたのは誓約通り、息子が無事に育っていったからなのかもしれない。
しかも、屍を喰らえば喰らうほど、賢く美しくなっていく。
我が子を見るたびに誇らしさに胸が熱くなる。
だからこそ、決してやめることはできない。
この命が尽きるまで――。