第9章 成功哲学を学び、かけがえのない宝物に気づく
怖い者でも見るかのように怯える目を向けて去って行った夫に、きっと明菜が何かしたに違いないが、それも「知らぬが仏」だと、気がつかないフリをしている。夫と別れ贅沢な邸宅で「奥様」と呼ばれ、何不自由なく生活している自分を夢の中にいるような気がして過去の悲惨な日々を思い出す。慎一がいなかったら、こんな日は訪れることなどなかっただろう。「苦労が好きなのね」と言う明菜の声がしたような気がする。確かに、お金が無くて夢中で働いた日々が懐かしくもある。若かった。寝なくても頑張れた。母がして来たように、どんな汚い仕事も嫌ではなかった。むしろ、母もこうして自分を育ててくれたかと思うと感謝しかなかった。「思考が現実になるって知ってる?」と明菜が教えてくれた。「健全な未来をイメージできないから、貧困な生活しかしてこなかったから貧乏な生活を選択するのよ」と言っていた。しかし、直子には、成功哲学なんて、意味がわからない。それは、一部の優秀な才能を持った、ひと握りの人にとって必要なこと。一般市民の、平凡な多くの人々には関係の無いものだと考えていた。今まで無縁だった。まさか、そんなことに大金を使ってまで学びに行くとは思っていなかった。
そもそも、やりたい夢があるワケでも無い。愛子や明菜が言っていることなど、直子にはチンプンカンプンだった。女だてらに、夢見るだけでバカバカしいことだと思っていた。どう考えても、周囲を見渡しても不幸な女しか見当たらない。ほとんどのダメ男を支えて苦労している女性ばかり。暴力、女遊び、お酒にバクチ。生活保護の助成に養ってもらっている男たち。昼間から安酒を一緒にあおり、子供にはカピカピのご飯にシーチキンのおかず。狭い部屋で、醜悪な快楽を貪る大人たちを見て育ったら、暗黒の世界から逃げ出すことなどできるはずない。陽のあたる世界を知らない。豊かな生活が、どんなものなのかも知らない。成長しても、どんな職業があるのかもわからない。画一な教育の中で、好きなことを見つけるのは至難の技だ。『誰かに認められることがあったなら。誰かに目をかけてもらえることがあったなら。この闇から連れ出してくれる人がいたなら』などと夢想しても、シンデレラのお伽話。そんなことはあり得ない。
夢物語なのだと、目の前にある世界でのたうち回って生きることしか方法が無いという現実に押しつぶされる、どこの国でもそうだ。貧困や目には見えない差別から逃げ出せる人はほんのわずか。教育にもお金がいる。良き指導者に出会えなければ、才能も発掘すらしてもらえない。「人が笑うくらいの夢を見ろ」と強運セミナーでは言っていたが、皆が「飛べない蛙」なのだ。何度も飛んでも蓋に頭をぶつけてケガをする。頭を打ってばかりいたら、やがては飛ぶのが怖くなる。「もう蓋は開いているよ」と言われても信じられない。沢山のことを諦めてきたせいで、たとえ外の世界に飛び出したとしても、どうしてよいのか、わからない。むしろ、リスクばかりが頭に浮かぶ。生まれ育ちが悪いと、どうしようもないトラウマを知らず知らず担がされているのだ。
明菜さんに勧められて能力開発のセミナーにも参加した。慎一に教えるためだ。理解できても成功体験の無い自分が学んだことを伝えても、信憑性など全然なかっただろう。なのに慎一は一生懸命聞いてくれた。「絶対に無理だ」と思っている直子だが、慎一の成長を見ると「思い込めば、できるかも知れない」と思い始めた。実際慎一は、大きな夢を描き、理想とする人物の名前を書いて、その資料を机の前に貼っている。尾崎豊の記事を。そして、夜遅くまで勉強しているみたいだ。能力開発のテキストの中に、自分で書き込むスペースがあった。そこには将来の夢が書かれており、それを実現するための長期目標と実務を書くところがあった。次のページには10年後の自分の姿をイメージして書いてあった。その下には、そのために、しなくてはいけないことを毎年書くようになっていた。そして、次のページは5年後のことを。プライベートや仕事、趣味のことなどなど。ぎっしり書かれていてビックリした。3年以内に結婚すること。母の直子をハワイに連れて行くことなどが書かれて会った。子供も3人欲しいことまで書いているので笑ってしまった。子供は授かり物、自分の予定どうりに生まれてくる筈など無いのに。そして、最後のページには、ここ1年の目標と毎月やらなければならないことを書くようになっていた。そして、今までの3か月の予定は、赤いペンでチェックされていて、ほとんどが完了しているようだった。覧をはみ出していて、紙が継ぎ足してあった。内容を見ても難しくて、理解できない。スピーチの練習なども目につく。プライベートでは、豊の病院に行くことなどが書かれていた。そして、目標に「父の病気を治す」と書かれている。しかし、豊は死んでしまったので、果たせなかったと、大きくバツがしてあった。よほど、悔しかったのだろう。涙の痕も見受けられた。まるで、見てはいけない日記帳を覗いたみたいに罪悪感が。
「こんなことを慎一は考えているんだ」と意外だった。最近話す機会が無かったので、うれしかった。まだ書き込まれていない空白な覧にも、徐々に予定が書かれるのだろう。いつも肌身離さず持っているナポレオンヒルズのシステム手帳にも、毎日のやるべき事が書かれているようだった。
一度見せてくれたことがある。枠の中にはナンバーがふられてある箇条書きの用事が。「これ全部一日ではやれないかも知れないんだけど、忘れないよう書いているんだ。愛子さんが言うには、一番重要な順に番号をふって、3番まで毎日達成できたらいいんだって。人はそれほど重要でないけれど、すぐできそうな事ばかりやってしまうんだって。だから、いつまでたっても成功しないって言ってた。確かに、大切なことは最後にゆっくり時間をかけてやりたくなるからね。と興奮気味で話す慎一に「いい師匠ができたみたいね」と褒めてあげると、照れくさそうに「お母さんのおかげだよ。この、成功哲学を僕の代わりに聞きに行ってくれただろう?3日間、朝早くから夜遅くまで缶詰なんて、今の僕には時間が無いもの。このテキストを読んで必死に挑んでいるんだ。今は、愛子さんが推薦してくれていることは全てチャレンジしてみたいんだ。それには、お母さんの協力が、本当に助かってる。ありがとう」と言ってくれた。30万円もするセミナーだった。成功したい様々な業種の人が、日本中から集まっていた。皆、真摯で、直子なんて浮きまくっていた。しかし、あのエネルギーを慎一本人が受けたなら、もっと大きな成果を上げたに違いない。代理だとしても、直子にも少し、明菜の言っていたことが理解できるようになったことは収穫だったと思う。「ねえ、お母さん。薬剤師になる夢は、もういいの?今からでも遅くないと思うんだけど、やってみない?お母さんなら大検だって、すぐ受かるだろうし、受験勉強だって僕としていたから受かると思うよ」と慎一は思いもよらないことを言う。「この年で、6年も大学に行っていたら、何歳になると思う?こんなお婆ちゃんが授業を受けていたら、若い人が笑うわ」と苦笑した。「そうなのかなぁ?お婆ちゃんでも美術系の大学院に行ってるらしいよ。もうすぐ80歳になるって言うのに。若い者と一緒に学んでいると、若返るんだって」と言った。豊の母親は、青山で陶芸教室をしている。だから、学生ではなく、教授で大学に教えに行っているのなら話はわかる。しかし、豊の母親と、まだ付き合いがあるとは思ってもいなかった。すでに父親は亡くなっていて、その遺産相続以来、親戚付き合いは無いと思っていた。しかし、慎一は豊にソックリなので、会いたいのだろう。母親なのだから当然だと言える。よく呼び出されて食事をしているようだ。
ニューヨークの愛子さんとも、十二時間もの時差を、ものともせず毎夜コンピューターで打ち合わせをしている。色々とアドバイスをもらっているようだ。最近、会社の顧問弁護士もしてくれている愛子さんの後輩の道子さんの話が多くなっている。デートも重ね、結婚も考えているようだ。今まで、慎一のために生きて来た。しかし、そろそろ出番が少なくなって来た。まだ50代だ。何か今、始めなければ、すぐに年老いて何もできないまま人生を終えてしまいそうだ。好きなことや生き甲斐を持っている女性は若々しく輝いている。明菜さんも、「暴力や貧困で虐げられている女性のための施設をついに設立できた」と連絡があった。埼玉の自然多い水がきれいな場所に建築したらしい。土地も安く、ブルーベリーやワサビが採れるらしい。自家農園で働くこともできるし、隣接する老人ホームのお年寄りたちが子供たちの面倒を見てくれるので親は安心して働きにも行ける。老人たちも、昔取った杵柄か、若い時にやって来たスキルを活かし、子供たちに教えるのは生き甲斐になっているようだ。そこにはシングルマザーや親のいない子供たちが助けを求めているのだから。時間をもて余し、能力を発揮することが出来ない老人にとっても有意義なこと。
一度、寄付金を持って慎一と訪問したことがある。そこのスタッフは皆、若々しく容姿も美しかった。聞けば、みんな明菜さんの子供だと言う。「本当の子供かどうかは問題ではない。ここに来る者は家族。一緒に育てれば、自分の子供と同じ」。弁護士や医師、議員にもなっている子もいるらしい。それぞれ、莫大な遺産をもらって成功していたり、大きな会社の経営者として活躍しているそうだ。皆、父親は違う。浮気や遊びで、望まれないで生まれた命なのだろう。多分、慎一と同じ詐欺か?策略で富や地位を得たのだろうか?明菜は、留守だった。最近は海外のセレブたちがターゲットのようだ。まだまだ現役。見た目も30代にしか見えないので、ハニートラップも仕込めるのだろう。
施設は、お洒落で、レストランも、そこいらのお店よりも、ずっと美味しい。昔教師だったという老人たちが子供たちに勉強や生活のこまごまとしたことを教えていた。まるで、本当の孫のように、愛おしそうに、ずっと寄り添い一緒に調べ物をしていた。
時間が緩やかに過ぎて行く。施設長の女性には見覚えがあった。直子が初めて入ったキャバレーで、売れっ子ナンバーワンだった金森さんだ。「あら。直ちゃんなの?すっかり上流階級の奥様ね」と気さくに話かける。さすがに目の下のシワが過ぎて来た年月の長さを物語っているかのようだった。「明菜さんは、恩人なの。ヤクザ者の男から逃がしてくれたの。今も、ちょっとした裏のドンみたいなものよ。初めて会ったのは、彼女が小学2年生だったかしら?お母さんもキャバレーで働いている私の先輩だったの。昔は、キャバレーの裏にある小さな小部屋に幼い子供たちが一緒に住んでいたんだけど。食事もロクにもらえない。酔った男から暴力を振るわれ、死んだ子もいたわ。それでも女たちは借金のカタに働かされていたので、反抗することもできない。子供たちは、お風呂にも入れてもらえない。ややもすれば忘れ去られてしまうんだけど、母が来るのを信じて待つしかないの。でも、明菜ちゃんのお母さんは男と逃げてしまって、遠い親戚か何かに引き取られて行ったの。それから、5年もしないうちに、またキャバレーに帰って来たの。体中キズだらけで、痩せてひどいものだったわ。瀕死の状態って、あのことを言うのね。多分、13歳だったと思うけど。キズが治ったら、すぐ客を取らされて、妊娠、出産した子も、3歳にならないうちに亡くなってしまって、この世界に、男たちに仕返ししたいと考えたのは当然よね。若いチンピラを思いのまま操って、最初はゆすりやタカリを。そのうち偉い人を後ろ盾にして、大掛かりな詐欺でボロ儲けをしていたわね。そんな時、直ちゃんが入って来て、劇場型詐欺が始まったのよ。明菜ちゃんは、直ちゃんのような女性の面倒を見て、皆から頼られていたわね。自分も何人か子供を産んで、皆立派に育てて、今は各界の名士ばかり。子供たちも、それぞれ自立したし、夢だった施設をやっと作ることができて、私を施設長に雇ってくれたの。潤沢な資金があるから、ここにいる子供たちは、一流の教育を施されて社会に次々と羽ばたいて行っているわ。ここにいる子供たちは、皆私の子供だと思って愛情込めて育てているの。母親のいない子もいるし、心にキズを負った子もいる。性的な被害に精神を病んでる子も。どこにも行き場がない女たちが救いを求めてやって来るの。どこで聞いたのかは、わからないけれど。口コミで、どんどん集まって来るの。そして、助けられた女性たちが、直ちゃんのように寄付してくれたり、手伝ってくれているから。お役所からは一切助成金なんて、もらっていない。だから、入居者も自由。旅するように、束の間ここで羽を休めて飛び立つ人もいるし。ここへ留まって、好きなことをしながら施設に貢献してくれる人もいる。最近は海外からもステイ希望者が殺到しているの。明菜さんが「グローバル社会のために他の国の人と共同生活するのも子供にとっても刺激になるし、いいんじゃない?」と言うものだから受け入れているのよ。金額は取る気はないのに、来た人みんな寄付してくれるから民宿みたいに採算が取れているのよ。不思議でしょう?でも、楽しいわよ。また遊びにいらっしゃいね」と施設を案内してくれながら話してくれた。
救ってくれた明菜の本性が、この時初めてわかった気がした。優しいと思ったら,悪知恵で大金を巻き上げるヤクザまがいのこともする。警察沙汰になるのではないかと、いつも恐れていた。でも、こんな高邁な夢の実現のために頑張っていたなんて、思いもよらなかった。底辺からのし上がるのは、さぞ大変だったことだろう。一切男に頼ることなく。この施設には、それぞれの年の憂鬱が、見事なまでも解消できるよう考えられているではないか?幼い頃に、ずっと誰かに見守られて育つことができたなら、子供はきっと安心して自分の才能を花咲かすことができるだろう。親が忙し過ぎても、地域や近所の誰かが、助け教えてもらえた子供は自己概念の他界人間に育つ。孤独で暴力に怯えながら幼児期を過ごした明菜にだけ解る、理想の環境がここにある。それが証拠に、ここにいる子供たちの目は輝いていて、人なつっこくて、大人を信じているのがわかる。
たまに、詐欺仲間だったのか?と思われる人相の悪い筋肉隆々の男たちもいた。直子たちに向けられる目が怖い。顔にキズ痕もある。明らかに恐怖を滲ませる直子に、「金森さんは、明菜さんのビジネスパートナーよ。何年も一緒にボディガードのように動いていたの。人相悪いけど、あれで腕のいい警部だったのよ」と耳元で囁いて笑う。「てっきり、ヤクザか何かだとおもっちゃいました。でも、大丈夫だったんですか?明菜さんの詐欺はバレたりしないの?」と聞くと、「世の中には必要悪というものがあるのよ。汚いことをしてでも、やらなければならないことだってある。そんな地獄絵を体験したから、明菜さんは乗り越えて、ここまで来れたんじゃない?昔、私たちがいたキャバレーなんて、知らないだけで、何人のかわいそうな女たちが殺され、その体を弄ばれたことか?直ちゃんだって、短い間だったけど、知らないとは言わせないわよ。それに、男と逃げたことになっているけど、きっと明菜さんの母親はどこかに売り飛ばされたか?それとも殺されたに違いない。あんな子供が命だった女性が、子供を置いていなくなる筈ないもの。」と声は上ずっていた。
慎一が遠くで、ここにいる子供たちを遊んでやっていたので、この話は聞こえなかったと思う。昔の、決して知られたくない事実。思い出すだけで、身がこわばってくる。忘れていた。いや、忘れようとしていた。ほんの数か月だったけれど、あのまま辞められなければ、慎一にだって顔向けできない女になっていたに違いないのだから。明菜さんが、まとまったお金を出産するために用意してくれ、あの世界から逃がしてくれたから。表世界で、例え掃除婦やレジ係りでも、安全な世界で生きて行くことが出来たのだ。「ここにいる女性たちも、水商売から足を洗うの大変だったのよ。だいたい、時給のいい夜の仕事なんて、どこかの暴力団が裏で仕切っているに決まっている。綺麗な女の子ほど、組の幹部の目に留まり、逃げられなくなる。最後はヤク中毒で頭もおかしくなって、棄てられるのにね。」と残酷な笑みを浮かべて話す。耳を塞ぎたくなった。あのまま、女を武器にして、安易にお金を儲けようとした浅はかな自分に、ゾっとした。
「今は笑い話。ごめんなさいね。嫌な過去を思い出させちゃったかしら?私も、未だに悪夢にうなされることがある。長かったからね。本当に、こんな生活ができるようになるなんて夢のよう。明菜さんには足を向けて寝れないわ」とおどけて見せる。昔のような厚い化粧やキツイ香水の匂いはない。ここにいるのは別人かと思うくらいだ。でも、その悲し気な目には覚えがあった。そして、腕にある刺青の痕が痛々しい。そんな辛い過去を持った女たちが、ここには集って、肩寄せ合っているのか?「それにね。明菜さんが多重人格者だって知っているわよね」といきなり言われて驚いた。「知らなかったの?幼い頃から、虐待を受け過ぎて、キャバレーに戻って来た時、全く違う人格が5人はいたわね。最近は3人しか出てこなくなったけど。かなり凶暴な男性や、エロい女性もいたみたい。それを、治そうとしないで、活かして劇場型詐欺に使うところなんて明菜さんらしいけどね。どんな残虐なことをしても覚えていないんだから。本人は助かるよね。一度聞いてみたい気もしたのよ。それぞれの人格が、今までしてきたことを。でも、怖くてできなかった。どんな蛇が出るか、わからないもの。下手したら、私だって命の保証はないからね」と首をすくめた。
明菜に対する様々な疑惑が、秘密のベールからのぞく真実がちょっと理解できた気がした。いや。きっと誰にもわかりはしないだろう。そして、今も明菜は弱い底辺の人間を一人でも救うために闘っていることを。何で泣いているんだろう?慎一の顔を見たら、いつも思い出してしまう。あの豊さんとの幸せだった日々のことを。そして、別れの時に流した涙の苦さを。
慎一の後ろ姿が愛した人と重なって見えて、後ろから抱き着いた。「お母さん?ビックリした。脅かさないでくれる?」と頓狂な声を出す。慎一に気づかれないよう目元を拭って、「はい、慎一が鬼。みんな逃げて」と子供たちを促す。みんな嬌声を挙げて慎一から離れて鬼ごっこを楽しむ。「運動不足だな。全然走れない。明日から一緒にウォーキングでもしようか?」と慎一が息を弾ませて言う。「こんな時間が、ずっと続きますように」と直子は心の中でそっと願いをかける。
快い風がサロンの中にもそよいで気持ちがいい。セミしぐれが川辺の方から聞こえて来る。「いい所ね。孫たちも連れて来てあげたいわ」と直子は独り言のように静かに言った。「そうだね。とっても落ち着くね。自然を感じられるし、今度、子供たちとワサビ獲りに来てみたい。ワサビって、水がきれいな所にしかないんだって」と慎一も、天井からサンサンと入る太陽の光を浴びながら、リラックスしていた。「明菜って、本名だったんだね。名字はさすがに違うみたいだけど。今までどんな苦労をして、修羅場を生きて来たんだろうね」と慎一も、会えなかった明菜の姿を思い浮かべて目をそばだてる。きっと慎一も産みの母である明菜さんに会って甘えたかったのかも知れない。父親の豊がかつて愛した女の一人。そして、慎一たちの恩人。陰で慎一の成長を見守り厳しい指導をしてくれた実の母。「勉強するとか本を読むとか、しっかりしなさいよ」と厳しい声が聞こえてきそうだ。「慎一。薬学部に行ってみようかしら?」と突然言う母に驚きながら、慎一は満面の笑みをこぼしていた。