第5章 黄昏時に見る夢は
豊の80歳過ぎの父は、まだお盛んのようだ。噂は聞こえて来る。もう何年も会っていない。結婚した時以来、話をすることは無かった。
あれは、いつのことだったろう?肝硬変と糖尿病で入院して、やっとゆっくり自分の人生を振り返ってみて思い出す。あの銀杏並木の黄金に輝く光景を。そこには白いブラウスに黒のスカート、長い黒髪が風を受けてサラサラと音を立てているかのようになびいている。振り向く女の白い顔。大きな瞳にピンクの唇。あれは明菜か?好きなタイプの女性なので、他の数名の名前も思い出す。そこには直子の名前もあった。まだ20歳の時だったろうか?高校生の直子は大学の下見に来て、校内で迷っていた。そこで声をかけ、大学を案内してあげたのが始まりだった。
その頃、彼女がいた。同棲していた気がする。なので、直子とはホテルで関係を持った。処女だった。真面目で頭のいい女の子だった。同じ薬剤師の道を夢見て、勉強に励んでいた。家が貧乏らしく、「私立は授業料が高くて諦めていたの。でも、ここの大学は成績優秀者には奨学金が出るって聞いて、見学に来たんです」と言っていた。
ホテルに入る時は少し拒まれたが、「何もしないから」などという男の常套句に騙されて、部屋に入ったら豊の手練手管でイチコロだった。直子にとっては初恋。男性とは付き合ったことも一度も無かったらしい。震えていた。逃げて拒んで、「痛い」と泣いた。新鮮だった。その当時つきあっていた彼女も処女ではなかったのだから、困惑してしまった。マスコミが【14歳の女の子の性は乱れている】という特集をしていたのを目にしていた豊には、17歳にもなって処女で、キスさえしたことの無い女の子がいるなんて信じられなかった。豊なんてキスなんて幼稚園の時に経験済だった。小学生の時から彼女はいた。毎年、クラス変えがある度に相手は変わったが。お医者ごっこだって暗い押し入れの中で、懐中電灯を持って入って親に知られないよう何人の女の子とやったことだろう?こんなに無菌状態で育てられた少女がいるなんて、思ってもいなかった。シーツの上に残った赤い印に罪悪感が沸き上がって、当時の彼女とは別れて直子に夢中になった。
まるで初恋のように、映画に行ったり遊園地でジェットコースターに乗ったり。ひとつのアイスクリームを2人で食べたり、水着姿の直子に赤面したり。プレイボーイの豊らしくない行動は今、思い出しても笑えてくる。一緒に歩く時でも、どこかが触れていないと不安で、真っ白なブラウスの方が黒くなるほど、ずっと直子の肩を抱いていた。あの時は不思議と満ち足りていて、他の女には目もくれず毎日受験勉強に付き合って一緒にいた気がする。学生街の安いお好み焼き屋やラーメン屋、ファーストフードのお店がデートコースだった。高級店やお洋服を気にしなければならないフレンチなどは行きたがらなかった。そんな所で恰好つけなければいけない相手ではなかった。
一緒に居られれば充分だった。別れを惜しんで公園や川べりで長い間、たわいもない話をして、よく笑った。ハシが転んでも可笑しい年頃と言うのは本当のようだった。豊も素の自分でいられた。純情で人の悪意などにも無頓着で【性善説】を信じて疑わない、まっすぐな性格は安心できて信頼していたコロコロ変わる表情も、感動屋なところも大好きだった直子とは恋人同士の甘い時を一緒に過ごした記憶が多い。楽しかった。他の男の手垢が付いていない。何十人もの女と寝たが、直子だけだった気がする。バージンだったのも。そして、一図に自分だけを愛してくれていたのも。どうして別れてしまったのだろう?他の女との時は、気をつけていたのに、
直子の純粋さに素のまま抱き合って、子供が出来てしまった。初めてのことだったので、ビビッてしまい、親に相談した。父が慣れていたので、話をつけて堕胎してもらったと報告された。両親には、この時、嫌と言うほど叱られた。「未成年の、しかも18祭以下の女子をホテルに連れ込むなんて、警察沙汰になっても仕方ないのは知っているのか?法律ぐらい成人したのなら知っておけ。今回は表沙汰にならなかったものの。相手の女の子はシングルマザーで育てられ、かなり成績が良かったのに、今回の件で、高校も中退したそうだ。それ相当のお金は積んだがなかなか受け取ってもらえなかった。本当に後味の悪いこんなこと、二度とするな」と父親に叩かれた。生まれて初めてだったかも知れない。親父にぶたれたのは。「親父だって、してるじゃないか」という内なる声は発さなかったが。今ならわかる。一人の好きだった女の子の人生を無茶苦茶にしたのだ。不幸にした罪はお金でも償えるものではないのだが、貧乏なのになかなか受け取らないのはプライドなのか?豊との恋を汚されたくないとの思いは、本気度は伝わって来て胸がえぐれそうに痛んだ。直子が通っていた学校や家にも行ってみた。。しかし、どこに行ったのか?周辺の人も誰も知らなかった。しばらく、直子との思い出に泣いた。それから随分長い間、彼女も作らなかった。もし、もう一度出会えたら、結婚しようとまで思い詰めていた。しかし、二度と会うことはなかった。まだ好きだった。今思うと。あの時に戻りたい。そして、もう一度抱きしめて言ってあげたい。「うれしいよ。結婚して、一緒に、育てよう」と。
そんな昔のことばかりが思い出され、うつらうつらしていると愛子がイチオクターブ高い声で病室に入って来た。若くてスラリと背の高い美青年がベッドの横に立っていた。
「誰だと思う?」と愛子の声は歓びに満ちている。「慎一です。初めまして。お父さん?」と精悍な顔つき、男らしい声。どこか自分の声にも似ていた。「慎一?明菜ちゃんの子供か?」と張りのない声で尋ねた。「ハイ。母の顔は知りませんけど。 僕は3歳の時に孤児院に預けられて、里親に育てられたものですから。」と悲しそうな声だった。何も答えられないでいたら「母は噂では、過労で倒れて僕が5歳の時に亡くなったそうです」と、その沈黙を破るかのように、続けた。
「お父さんがいたなんて、しらなかった。しかも、僕を探してくれていたなんて。驚いて、とても嬉しかった」と、感慨深く言うと、静かにベッドを覗き込む。父の愛おしそうな目線に、少し恥じらいながら「ありがとう」と。しばらく見つめていたのを、愛子の声が明るく遮る。「慎一さんも薬剤師なんですって?」と。慎一は愛子の方を振り返って「そうなんです。育ての母が、薬学部への進学を望んだものですから。でも、あの有名な製薬会社の社長が父親だったなんて、考えもしなかった。昔から斬新な経営手段で会社を今のような一流企業にした有名な経営者として憧れていたんですよ」と。その爽やかな声が心地良かった。
あんな過去があったにもかかわらず、恨みがましいことは一切言わない。知らないのかも知れないが。本当に立派な好青年に育ってくれている。豊には子供が出来なかった。自分の代で終わってしまうのかと思うと、莫大な財産も頑張って大きくした事業もむなしくて仕方なかった。せめて会社をどうにかしたかったのだが、築いてきたものを引き継いでくれるという者はいなかった。従業員でも重役でも、豊のような才覚は無いので、経営者としては荷が重かったのだろう。話を持ちかけても、誰も頭を盾に振らなかった。
どう考えても、何より任せられる人材を育てられなかったのは豊のせいだ。全て、独裁者のように君臨して動かして来た会社だった。並外れた発想や交渉力は恋愛経験で育まれた豊だけの才能でもあった。草食系男子の多い現代、羊のような大人しく言うことをよく聞く真面目な者は多いのだが、豊のような破天荒な遊び人タイプの経営者は少なくなった。浮気や不倫も社会悪のようにバッシングされるので、やんちゃな男は成りを潜め、品行方正な男ばかりになってきた。お酒も飲まない。夜の付き合いも参加しない。時間外の仕事は、残業代をはずまないとやってはくれない。昔は会社のためにサービス残業など、あたりまえだった。結果を出せなければ、徹夜でもやりきった。そんな国や社会や会社のために、そして家族のために戦う男はいなくなった。
毎晩接待で飲んで、贅沢なものばかり食べていたら痛風になって、医者にかかって検査するごとに次々と深刻な病気が判明した。それでも忙しさにかまけて不摂生をしていたら、とうとう闘病生活。リタイアするには早すぎる年齢だった。だから、積極的な治療に挑んだのだが、このありさまだった。仕事は?会社は?今どうなっているのかさえもわからない。いや、わかったからと言って何が出来るだろう?座ることすら億劫なのに。
「ベッドを立ててくれ」と愛子に言った。愛子は嬉しそうに豊を座らせベッドを上げた。「ちょっと力を貸してくれる?」と慎一に指示をして豊の体を支えてもらう。刹那、豊は逞しい腕に抱きしめられる格好になった。大きな目が明菜に似ていたが、後は自分にそっくりだと思った。
ベッドに体を預け、久しぶりに愛子が入れてくれたお茶と慎一が持って来てくれたゼリーを食べた。「大きくなったな。何か運動でもしているのか?」と聞いて、照れて言い直す。「小さい頃を知っているわけでもないのに、すまない」と。「テニス部でした。剣道部にもいたけれど。スポーツは好きで、何にでも挑戦していました」と笑う。「好奇心旺盛なのはいいことだ」と言う声は、いつもの快活な豊に戻っていた。人は夢や希望が無ければ生きてはいけない。自分の分身が現れたのだから、やらなければならないことが沢山できた。「愛子は最強のビジネスパートナーでもある。仕事のことは全て知っている。弁護士にも遺産相続については話してある。」「遺産相続なんて。縁起でもない」と慎一が怒ったようにたしなめる。「愛子、病状について後で説明してやってくれ。とにかく、そんなに長くはない。子供のいない自分に最後に神様がくれた贈り物が君だ。よく来てくれた。」と言うと豊は大きなため息をついた。みるみる顔が青ざめて苦悩の色が広がる。それでも、声を絞るように「少し話過ぎた。疲れたのでベットを戻してくれ」と言った。横になった豊は辛そうで、愛子は急いでナースコールを押す。看護婦が来て計器を確認すると、俄かに病室に緊張が走った。医者もかけつけて、「尾崎さん、大丈夫ですか?」と大声で声をかける。酸素吸入と、点滴が取り付けられる。けたたましい医療機器の警告音がする。その様子に慎一も凍り付く。愛子は慎一を促して病室を出る。「もう3か月もつかどうか?さっきみたいに話すの何年ぶりかしら?本当に嬉しかったのね」と愛子は言って目頭を抑えて涙をぬぐっていた。「今日は時間ある?」と言うと、顔は厳しいキャリアウーマンの表情に変っていた。豊に頼まれているミッションを遂行するために、仕事とこれからの予定を告げられても、慎一は上の空だった。愛子は、ため息をつき笑顔を作った。「そういう所まで豊さんにソックリね。わかった。今日は私の奢りで飲みに行きましょう。くよくよ考えたって、私たちに豊さんを助けられるワケじゃないし。早いところ、貴方を一人前の後継ぎとして立派に育てなくっちゃ。本当に、間に合わなくなっちゃう」と、高級そうな小料理屋に連れて行かれる。常連らしく、奥の小部屋に通される。「いつものコースで」と愛子が言うと女将らしい着物の似合った女性が「尾崎様の?」と愛子とアイコンタクトを交わしていた。そして、何もかも悟ったかのように慎一を包み込むような優しい声で「いつも、お父様にはご贔屓にして頂いてますのよ。お好きな物とかお嫌いなものがありましたら申しつけ下さい」とかしこまられて慎一は戸惑って「好き嫌いは無いので大丈夫です。あっ。お酒は飲めないので、お茶でお願いします」と恐々小さな声だった。「ウーロン茶で、よろしいですか?」と聞かれて「いえ、温かい日本茶でお願いします。」と応えた。愛子も同じものを頼んだ。相手に合わせているのがわかる。「愛子さんは気にせず飲んで下さい。父の看護で、お疲れなんですから」と心使いを忘れない。「じゃあ、ビールを。いつものを。」と注文する。
先付から魚料理、肉料理と慎一はモリモリ食べた。「美味しい、美味しい」と感激しながら、季節の炊き込みご飯は何度もおかわりをしていた。「ごちそう様。本当に、こんな美味しい料理を食べたのは初めてで、食べ過ぎちゃいました。お父さんと初めてお会いしてショックなことばかりで食欲なかったのに」」と恥ずかしがっている。食事の合間に、愛子は少しづつ豊の状況と会社のことを話してくれた。最後にコーヒーが運ばれて、お料理全てが下げられた後に、カバンから書類を出して慎一に先ほど話した数々に署名させた。
その卒ない様子に、父の豊が、どれほど彼女の才能に頼っていたかを思い知る。慎一が知る限り、こんな才女は初めてだった。母よりも上だと聞いたが、ずっと若く見える。スタイルもいい。天は二物を与えるのだと感心する。「愛子さんが社長をされた方が良いのでは?」と思わず言う慎一に「まだまだ男社会なのよ。女になんて使われたくない男ばかりなんだから」と苦笑する。「君のような青二才に使われるのも嫌な男も多いだろうけど。若いので、実力さえ認めさせたら、期待は大だから。未来を切り開くのは君しかいないでしょ?」と笑顔を見せる。「心配しなくても、私がついているから、大丈夫」と肩をポンと叩かれた。サバサバしていて女なのに男前だと感じた。
その後もずっと愛子は慎一に寄り添って至れり尽くせり。住むところも、スーツも全て愛子が用意してくれた。「息子がいたら、こんな感じなのかなぁ」と前身をジロジロ眺め回してご満悦だった。スピーチの練習をはじめ、会社の内容も厳しくレクチャーされ、取締り役会で、全員一致で社長として受け入れられた。日に何度も豊に報告を入れているようだった。面会遮絶が多くなって、やっと会えた父親なのに慎一はあれから数度しか会うことができなかった。そして、臨終の時、皆が社葬や次の段取りに追われ病室が空になった時、直子が入ってきた。直子はベッド横に座って、そっと豊の手に触れていた。かすかに苦しそうな息がした。直子は豊の耳元に口を近づけて言う。「豊さん。直子です。覚えていますか?」と。咄嗟に目が開いた。調度、豊は直子の夢を見ていたところだったから。目は「信じられない」と言うように大きく見開かれたと同時に視線は空を泳いで直子を捉えた。そして、懐かしそうに目を細めて何かを言った気がした。「あの子は、慎一は、あの時の貴方と私の子供なの」と耳元で囁く。酸素吸入をしている口元が少し緩んで微小しているかのように見えた。そして、目を閉じた。呼吸も静かに止まった。目から涙のひと筋が。直子はそっと、その涙を嘗めるようにキスをした。