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銀杏並木の見えるカフェ  作者: 二階堂真世
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第4章 劇場型サギの最終章

「お母さん、本当の、お父さんが見つかったんだ。僕が、お母さんに、これから親孝行する番だ。もう大丈夫。仕事なんて辞めても食べさせてあげれるから」と掃除をしている直子に慎一は言った.「明菜さんにも、お礼しなきゃ」と直子は嬉しかった。明菜は死んではいなかった。全てはトラップ。田中明菜というのも偽名だし、その名前の女性は多分ヤクザ者に殺され、もうこの世にはいないかも知れない。「同じ年齢なので使わせてもらった。次は誰に成りすまそうか?」と明菜が言っていた。ひとつの劇場型詐欺が終わると、整形手術で顔を変え、もちろん名前も変える。なので、明菜というのは、夜の仕事での愛称だけで、本名は誰も知らない。

あれは、直子が17歳の時のことだった。高校3年生の夏休みに、尾崎豊の子供が出来た。どうしてよいか解らず、豊に相談すると、弁護士だという人が現れ「君は成績も良く、大学も推薦でどこでも行けるらしいじゃないか。将来のことを考えて、豊君の子供は堕胎して欲しい。それが、君のためでもある。ここに五十万円用意してある。とりあえず、これを持って産婦人科の病院行きなさい」と言われた。「豊さんは?このこと知っていらっしゃるんですか?」と聞くと、ちょっと戸惑っていた。きっと豊の指示ではない。もう一度会って確かめたかった。しかし、いくら電話をかけても出てはくれない。きっと、直子のことは無かったことにしたいのだろう。病院からも催促の電話が何度かあった。「早くしないと、体にどんどん負担がかかりますから。できるだけ早く、当院にいらしてください。手術は、すぐ終わりますが、麻酔を使うので意識が戻るまで半日はかかりますので余裕を持って予約してください。」と看護婦の機械的な声が受話器からしても、切ることも返事をすることもできなかった。

もう一度、弁護士がやって来た。「病院まで車で連れしましょうか?」と優し気に言った。「明日まで待ってください」と直子は叫んで、家の戸に鍵をかける。車の音が遠のいた。

直子は、もらった50万円と、着替えや当分家出するのに必要なものをバッグに詰めた。今日も母は仕事で遅くまで帰らないだろう。机の上に「お母さん、ごめんなさい。でも、探さないで」とメモを書いて置いた。それから、初めて新宿を目指した。目的などなかった。ただ、歌舞伎町なら、知人にも会うことが無いだろうと考えただけだった。その日はカラオケボックスに泊まった。こんなこと、母親に知られては、どんな目に合うかわからない。貧困家庭に育った直子には豊との恋愛は夢のようだった。本当に愛していた。未だに信じている。

病院に行くようにと弁護士は50万円置いていった。その大金があれば、どうにかなると思って逃げた。シングルマザーの母には悪いと思ったけれど、悲しむ顔は見たくなかった。また豊の弁護士が現れ、母に事実を告げるかも知れない。プライドの高い母は慰謝料は受け取るだろうか?「少しでも生活が、それで楽になったらいいのに」と、お金に苦労ばかりしてきた母のことを思う。そして、自分と同じ道を選んでいる娘を不憫に思うだろうか?

薬剤師になって親孝行したかった。それでも資格が取れるのは順調に行っても、まだ8年後になるだろう。その時、あんなに愛した豊の子供を亡くしてしまった自分は耐えることができるだろうか?いや、何にも代えがたい。あの愛の日々の印。大切な命。自分を母として選んでくれた赤ちゃんと出会いたかった。

貧乏は慣れている。きっと耐えられる筈。今までだって母との2人だけの生活も、決して不幸では無かった。直子は母が大好きだった。頑張り屋で、働きづめなのに文句ひとつ言わず、大きな愛で包んでくれた。あんな母に自分もなりたいと思った。きっと、この子がいてくれたら母のように逞しく生きていける。そんな思いで、上京してインターネットカフェで数日住んで、年齢をサバ読んで夜の女になった。子供が産まれるまでに、もっとお金を稼いで、住む所も見つけなければならない。そこで出会ったのが明菜だった。

「許せない。」と尾崎に詰め寄るという明菜を止めたのは直子だった。「でも、生まれて来る子供に肩身の狭い思いをさせてはいけない」と壮大な仕返しを考え、地雷を埋めてくれた。「直ちゃんと子供が、幸せになったら地雷はいらないかも知れない。でも、その子の本当の父親が、いずれ役に立つこともあるから」と。そして、豊にハニートラップを仕掛け、子供が出来たと偽装。それだけで、尾崎家から500万円を受け取ったと言って、200万円を子供のために分配してくれた。「詐欺仲間に分配しないといけないから。サギを仕組むのには、人もお金も結構いるのよね」と言って、今回のストーリーを教えてくれた。子供が産まれたら、明菜の子供として戸籍に入れる。その前に偽装した婚姻届を出して、尾崎豊と結婚したことに。「本人が知らない間に結婚していることなんて、すぐにバレるのでは?」と直子は驚いていた。「よくやるパターンなのよ。海外の女性が男の家政婦に入って、偽の婚姻届を出すと、役所から間違いかと問い合わせの書類が送られる。それを消去して、男と関係を持つ。子供が出来たら産んで戸籍に入れる。そこで、自分の国に帰るのよ。20歳過ぎたら日本で国籍を取れるよう3年以上働いて取得。その時、男の状況によるけれど、亡くなったら遺産は子供にも分配されるという算段。DNA判定しても子供なのは間違いないし、一度詐欺でも籍を入れてると、本人が認知しようとしまいと子供としての遺産相続は受けられるそうよ。貧しい国の女性は80過ぎの身寄りの無い老人と結婚だけして国に帰ったりするらしい。男が死ぬと妻に遺産と2か月に一度社会保険が死ぬまで入るからね。格差の大きな貧困な国に住んでいたら、遺族年金だけでも十分だからね」と明菜が説明してくれた。「すごいね。でも結婚した時に連絡があるんでしょう?」と言うと、「海外の女性が婚姻届を出した時はね。日本人なら通知など来ない。いつの間にか誰かと結婚したことになっていたり、離婚届が出されていて本人は知らない場合も多いのよ。もちろん弁護士を立てて闘えば、公文書偽造の罪に問われ、元に戻ることはできるけれど。子供はDNA判定で親子関係が認められたら遺産相続はできる筈。

「でも、人生百年時代、遺産をもらう頃まで生きていない気がする」と直子は、いつもネガティブなことしか言えない。「それは大丈夫。50歳まで生きることができたら、儲けもの。仕上げは御覧じろ。私を信じて。慎一君を立派な男に育てて頂戴」と笑った。

誰か刺客を放っているのかも知れない。思わず背筋に悪寒が走った。もう豊さんとは会うことはできないのだろう。どうやっても棲む世界が違い過ぎるのだから。諦めなければならない。この壮大な詐欺に加担したのだから。「結婚してない独身貴族が多いからね。成功者ほど、家族に縁が無かったりするから。国に多大な遺産が取られるくらいなら、若い女性との老い楽の恋で、貧困家庭の可哀そうな女性を助けてあげられるならいいと思わない?」と笑う明菜の目は遥か彼方を見ているかのように夢心地で、透き通っていた。

まさか、多くの男たちを骨抜きにして、ひれ伏させ大金をせしめている詐欺軍団のトップに君臨している女性だとは誰も思わないだろう。今回は、明菜自ら手を下してくれたのだから、異例中の異例。豊の弁護士ともグルになって、多くの金持ちの情報をもらっていたことも、他の詐欺師の女の子から聞いたことがある。直子も誘われたけれど、男に騙されてばかりいるバカな女なのだから、使いようが無いのだろう。明菜からは、いずれ相続するだろう遺産の半分を、その時が来たら分配すると約束して別れた。

日頃、連絡を取りたくても、明菜がどこにいるのか直子は知らない。なのに、状況が変わる度に明菜から連絡が必ずある。どこかで見ているかのようだった。息子の慎一は、豊の後を継いで大手製薬会社の社長となって、活躍している。明菜から薬学部に行くようアドバイスされていたのは、こんな時が来ることを予想してのことだったに違いない。詐欺師なのに、貧困家庭から脱することのできない女たちから神様のように崇められているのは、現実体を張って騙され利用された女たちの遺恨を晴らして、貧困から救ってくれているからに相違ない。

明菜は50歳は超えている筈なのに、まだ30代にしか見えない。慎一も憧れている位だから、充分現役で通用している。夜の町で、虐げられたかわいそうな女性を演じながら、大金を稼いでいるのだろう。明菜の年齢も、その素性も知る者は誰もいない。

そして、ひとつの詐欺が終わるたび、姿形も変え、また若々しくなる。ただ、あの孤独を湛えた深淵な目の奥に潜む闇と、鈴のような涼し気なかわいい声だけが明菜だと認識できる唯一のものだった。

尾崎豊は不摂生のせいで50代で亡くなった。あの好色な父親は、まだ病院の医院長として君臨しているようだ。豊以外の兄たちも、幸せな家庭とは縁遠い人生を歩んでいるらしい。それもこれも 「親の因果が子に報い」なのだと明菜が昔言っていた。「もしかしたら、豊への仕返しは、過去に豊の父親と何かあって、その報復に明菜自ら手を下してくれたのかも知れない。」と密かに直子は睨んでいたが、それには触れない。知ってどうなる?【やぶへび】になりかねない危うさを秘めているからだ。あの時、豊との恋を汚し、犬の子でも棄てるように堕胎を迫った豊の父親を祖父として慎一はうまく立ち回れるのだろうか?明菜が母だと信じているあの父親が生きている間は安心して慎一とは会えない。孤児院にいた慎一を養子として迎え育てた履歴も作ってくれたが、守秘義務と厳しい個人情報保護法で守られ、直子のところまで、あの弁護士は来ることは無かった。完全犯罪だが、いつか暴かれるのではないか?いや、あの一家のやったことが、社会に知られることを望んでいるのが本音なのだと直子は思うことがある。あの自堕落な夫とは、呆気なく離婚することができた慎一の里親になるためだけに利用してしまった。明菜の計画には、真面目で人の好い男と結婚して安定した家庭を持つことが必要だったから。自分に気のある近場の男性をターゲットにして結婚したまでは良かったのだが。愛情が持てなかった。昔はお見合いで顔も知らない男女が結婚して、生活しているうちに情が出て行くものだと教えられたものだった。嫌いでは無かったので、明菜が預けた慎一を孤児院から引き取れば家族になれると信じていた。なのに、夫は結婚すると豹変。男尊女卑で、直子を奴隷のようにこき使った。子供が出来ない体ということにしていたのも悪かった。好きでも無い男の子供を作りたくなかった。そのうち愛情も沸けば変わるだろうという淡い思いは粉砕された。「子供の産めない女は役立たず」なのだと、親戚中からバッシング。そのうち、そんな女房をめとったダメな男だと自分を卑下した夫は仕事も休みがちになり、直子にも手を上げるようになった。

慎一のためにも幸せな夫婦を装わなければならない。慎一の成長だけが生きがいだった。14歳になって、里親ではなく養子縁組をして、やっと自分の子供として育てることができるようになった。里親の時は、いくらか養育費をもらっていたのだが、養子縁組したらもらえなくなった。それでも、直子は明菜から株の配当金とパートのお給料で慎一を育てることができた。それも夫にとっては良くなかったのかも知れない。一向に夫に頼らない、むしろ存在している意味など無いかのような扱いは怒りすら感じたのだろう。夫の愛情を利用した報いだと直子は、それを受け止めるしかなかった。慎一は、そんな夫婦仲の悪い両親を反面教師としてか優しくて成績もいい好青年に育ってくれた。直子の命がけの愛情は、しっかりと受け取っていた。そして「いつか、離婚したら、お母さんだけは僕が幸せにする」と決意していたのだ。

慎一は日に日に豊に似てきた。あの青春の日々が思い出されて、夢見がちになる。そんな時ほど夫は暴れた。お酒を飲み、仕事も辞めて家でゴロゴロ。「俺がいなくても生活できるのだろう。やってもらおうじゃないか。俺を食わしてくれよ。こんな縁もゆかりもない息子ばかりに色気使いやがって」と罵るのだ。反抗するものならぶたれ、引きずり回され、ひどい目に合う。慎一が止めようものなら、手あたり次第、物を壊され気が済んだら家からプイと出て行き、泥酔して帰って来て、また暴れた。家の中はぼろぼろ。直子は、いつもどこかをケガして包帯を巻いていた。暴力にも罵られるのも限界だった。

慎一と逃げたが、どこに行っても慎一の学校を調べて追いかけて来る。地獄だった。何より慎一がキズつけられるのが一番堪えられなかった。そんな時、明菜と再会した。「本当に幸が薄い人ね」と明菜は呆れたように言った。「明菜さんが誰とでもいいから結婚したら慎一の里親として一緒に住めると教えてくれたから」と言い訳をする。「慎一君と一緒に住めたでしょ?でも、ここまで悲惨になるのは、ナオちゃんの思考が歪んでいるからよ。きっと、自分なんて幸せになっちゃいけないとでも思っているでしょ?旦那に対しても、悪いことをしているというのが相手に伝わっちゃうのよ。あなたには慎一君を任せてはおけないわ。戸籍上の母親としては。シナリオを書き換える必要ありそうね」と冷たく言った。「私から慎一だけは奪わないで。そんなことになるんだったら、真実を全部打ち明けて本当の母子だとバラしてしまいたい。」と泣きそうになっていた。「一体、ナオちゃんは、どう生きたいワケ?」と詰め寄られて「多くの事は望まない。ただ慎一と平凡でいいから一緒にいられるだけでいいの。なのに、そんなささやかな願いすら叶えてもらえないの?私が何をしたと言うの?明菜さんたちの企みに乗ったばかりに、こんな苦しい立場になったんじゃない?」と罵った。そう、あのまま明菜と出会わなければ、夜の世界でシングルマザーとして慎一を育てながら、貧乏と闘いどうなっていただろう?「男たちのオモチャになって、しょうもない男がヒモになって、風俗に売られる。慎一も、そのうち邪魔になり、幼児虐待で死なせるか、どこかの孤児院に入れられるか?男が出来たらおしまい。でも、女一人で誰の手も借りずに子育てできるほど、世の中は甘くない」と明菜は憤っていた。「私の母もシングルマザーだったわ。お金は無かったけれど、私を愛し、大切に育ててくれたわ。」と言うと「そんな母親を棄てて、夜の女に成り下がっていたのは誰?無理しないで、子供が無事産めたのも、生活苦で育児放棄しないで済んだのも、あの計画が成功したからでしょう?あなたは、まるで自分は何もしていないで私たちに利用されたとでも思い違いしてない?将来のことも何も考えず、愛とか正義とか振り回して、子供にゴハン食べさせてあげることも出来ないんだから。いい?すでに、慎一の将来の可能性を潰しているのは、あなたなのよ。もう、これ以上、慎一を任せられない。彼は将来豊さんの遺産を引き継ぎトップを取る逸材なんだから。その才能と未来の成功を愛情ボケした女のせいで台無しにするわけにはいかないんだから」と凄む明菜に直子の身は竦んでしまった。「意味がわからない」と自信無く小声で言う直子の首元を抑えて「下手に事情を知ると、邪魔なだけなんだから、慎一のためを思うなら黙って言われたことだけをやっていたらいいのよ」首を絞められ、殺されるのかと思ったが、そうはしなかった。「いい。これ以上私たちを裏切らないで。高校中退だからって、成績優秀だったんでしょう?少しは勉強したら?本を読むとか資格を取るために勉強するとか。それとも、恋にうつつを抜かして人生をダメにするタイプなの?どんどん落ちていくナオちゃんを見ていると辛くなる。あの時、手を伸ばして助けたのが悪かったのかってね」と明菜の目は悲嘆に暮れていた。美しい横顔だった。それに比べて、自分はキズだらけで服装は惨め、髪もくくっているからわからないが何年も切っていない。体も太って、以前の可愛らしさはどこにも無い。同じ位の年齢だった筈だが。

「まあいいわ。そんなに不格好なら豊さんも、あの父親でも、あの時の彼女だったなんてわからないだろうから。そうして、汚くあんな旦那にまつわりつかれて不幸を纏って生きていけばいいわ」と吐き捨てるように言った。「それに、あなたのお母さんどうしているか知っているの?」と背を向けたまま言う。呆気に取られて何も言えなかった。

「認知症になって施設に入っているそうよ。生活保護だから、施設も都会では無理なので、四国かどこかの施設に回されたみたいよ。愛情深く育てられた割には親不孝なのね」と氷のように冷たい声だった。母のことはすっかり忘れていた。最近は連絡すらしていない。自分たちの生活だけでせいいっぱいだった。それより今は、どうにか明菜の怒りを鎮めなければ。直子は、必死で言葉を選んで言った。「ごめんなさい。私はどうしたら良いのでしょう?間違っていました。明菜さんと出会わなかったら、今頃生きていたかどうかもわからないのに。本当に、ごめんなさい。許して。なんでもします。させて下さい」と。

怖かった。自分一人、ここで死のうが生きようが世間の人たちは全然困らない。いてもいなくてもいい人間なのだ。慎一と一緒に住むことが出来ただけでも感謝しなければならない。里子として育てたから、金銭的にも助かった。好きではなかったけれど、夫と一緒だったから今まで育てていけた。ああ、不満を上げればキリがない。不安が被害妄想を膨らませ、自分だけが損している恐怖に苛まれて、不幸を勝手に纏っていた。「とにかく慎一君は中学3年から寮のある進学校に入学させるから。ナオちゃんも、将来薬学部に入って欲しいと夢を語るのよ。あなたも、本当は薬剤師になりたかったんじゃない。その夢を息子に託すのよ。息子ってね、母親のために一生懸命頑張るらしいわ。豊さんの後取りなんだから、それ相当に優秀じゃあないとね」と明菜は有名私立高校のパンフレットを直子に渡した。今から、この高校に入れるかどうかは、あなたと慎一君の頑張り次第。中学から入ると少し簡単なようだから、もう時間はわずかしかないの。半年で、死ぬ気でやらせるのよ。」と言って、今考えているシナリオを説明してくれた。直子の目に輝きが戻って来た。この数年の努力で、大きな成功が手に入るなら、やるしかない。「できなかったら?」と直子が聞くと、明菜は首を切る恰好をして笑っていた。「これは遊びじゃないのよ。死ぬ気で頑張りなさい」と語っているようだった。

明菜さんに甘えるのは危険だと、直子は自分の甘さを恥じた。本当のことを暴露したら、一体何の刑に処せられるのだろう?詐欺罪?そんな刑よりも怖いのは明菜さんだと言うことを忘れていた。多分、リークしようとした時点で命は無いだろう。覚悟が違うのだと、久しぶりに会って気がついた。

慎一を産もうと思った時点で、どんな地獄を見るかわからなかったなんて、本当にマヌケだ。でも、あの時の選択は間違っていなかった。今は慎一だけが生きがい。彼がいない選択なんて考えられない。慎一を幸せにするためなら、何でもする。そう決めていたじゃあないの?そのために自分がしてきたことは、夫の暴力に耐え、贅沢ではないけれど、手作りの食事を作ってあげたことくらいだ。自分の幸せに溺れ、慎一の未来について考えもしていなかった。ここから普通の平凡な男にしてしまうのも、一流の教育を施して稼げる実力者に育てるのも母親次第。豊の残した偉業を継ぐにふさわしい男に育てられなければ、全て水の泡だということを忘れていた。日々、生活するだけで必死で、明菜が語ってくれていたシナリオのことなど、すっかり忘れてしまっていた。食べていければそれだけで良かった。慎一が一緒にいてくれるだけで充分だった。ほんの些細な小さな幸せだけで、満足しきっていた。せっかく明菜さんが引いてくれた線路から脱輪してしまっていた。そして、こんなに惨めな姿なのに、幸せだと思い込もうとしていた。この壮大なストーリーには、平凡な平和な人生などは、地獄の旅でしかないことを。

有り金全部で、慎一に家庭教師をつけ、明菜の用意してくれた中学への転入を目指した。夫に告げる必要などない。きっと、邪魔される。どんな手を使っても、慎一には薬剤師の資格だけは取ってもらわなければならない。それには今行っている公立の中学校ではダメだ。今の成績では進学校にも、大学で薬学部にも進めそうもない。それに、学友のレベルも社会に出たら、問われるという。人は環境の生き物だから。この数年は資格を取るために家族とも別れて学問に集中するのは得策かも知れない。思春期になって、慎一も、いつ反抗期が訪れるかわからない。夫の暴力を真似て、金属バットということは無いだろうが。慎一の進路を考え手配してくれた明菜に任せていた方が成功できるにきまっている。その時から、直子は慎一に自分の夢だった薬剤師になって欲しいと語るようになった。そして、そのために、今まで夫に内緒で貯めていた預貯金を全て使ったことを告げた。慎一が、この中高一貫校に行かなくても、このお金は返って来ないということも。慎一の目に、強い信念のようなものが宿ったのは、この時のことだ。

プレジデントなどの成功者の載っている雑誌で豊の記事を見つけて、さりげなく慎一に見せた。「思考が変わると未来が変わる」という本を手にして目を輝かせている息子を見ているのが嬉しかった。明菜は、間違った子育てをしている直子にガマンできなくて会いに来てくれたのだと、はじめて気がついた。下ばかりを見て恐れていた。人並の幸せなど望んではいけないと、どこかで思っていた。日陰の女なのだから、目立ったことはしてはいけないと自粛していた。いわんや、夢など見てはいけないと思い込んでいた。もう慎一は子供ではない。夫と別れたからと言って、悲しむこともないだろう。いや、暴力に苦しんでいる日常から解放されて、自由になるかも知れない。もう、充分だ。アメリカでは、とっくに一人暮らしをしている年頃だ。そろそろ親がうっとうしくなる年齢でもある。喜んで、旅立ちを応援するべきだろう。ここまで気がつくまで、心の整理ができるまで数か月がいった。最初は明菜が怖くて言うことを聞いていたが、みるみる目に光を宿し、成績も鰻登りの慎一に、背中を押されて、目からウロコが落ちた。いつか子供は親を超える。むしろ子供から様々なことを教えられる。人生を復習しているかのように、慎一の勉強に付き合っている時が一番楽しくなっていた。勉強が好きだった。将来に夢抱いて、薬剤師の道を目指して頑張っていた。化学も数学も得意だった。先生から褒められて、うれしくてゲーム感覚で問題集を解いていた。あの青春の日々。恋して閉ざされた道。あの向こうには、何があったのだろう?今度は慎一と見ることはできるのだろうか?向こうに、その道を遮る大きな穴が。豊の背中が遠のいて行く。「お母さん、大丈夫?」と言う声に目が醒める。夢だったのか受験前夜のことだった。「お母さんの方が、上がっちゃって。高校受験以来だものね」と言うと「お母さんは公立でも一番レベルの高い進学校で、奨学金までもらっていた秀才だったんでしょう?」と聞く。「どこで、そんなこと聞いてきたの?」と聞くと「明菜さんが教えてくれた。そして、お母さんが本当の、、、、」と何かを言いかけていたのに、直子は気づかず「そうよ。だから。この数学だって面白くて仕方なかったんだから。勉強だと思うから辛くなるのよ。遊びだと思ったら、どこで失敗しても、次へのチャレンジで克服できる。なんたって、答えをすぐ見てもいいんだから」と笑った。「なるほど。自分で考えようとするから、いけないんだね」と感心。「ねえ慎一。優秀な自分になることと、優秀な仲間がいることと、どちらが成功できると思う?」そんなトンチに「そりゃ本人が優秀じゃあないと、何も始まらないよ」と答える。「正解。でも、バカなフリして周囲の才能を生かした方が、難しいけれど楽しいんじゃあないかな?」と言うと「そうかも知れないね。思うんだけど、勉強できる奴って、好きなんだよね。勉強が。学ぶことが。新しいことを知るのが。好きだとか楽しんでいる人にはかなわないんだ。この尾崎豊社長みたいになりたいな。無理なら、一緒に仕事がしてみたい。新たな可能性を信じて、医療や薬学の未来について語っているんだけど。胸が熱くなったよ。任せておいて。絶対に薬剤師の資格を取って、こんな理想を掲げる会社に就職して、お母さんの夢を叶えるから」と、はにかんで視線を外しながら言った。「慎一を産んで良かった」と小声で、そっと呟いた。



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