第2章 仕事のできる男は遊び人
あれから豊は留年を繰り返しながらも、ぎりぎり8年大学生活を送って、どうにか卒業。そこから2度国家試験に受からなくて、気が向いた時だけアルバイトをしたが、ほぼ、プー太郎。女遊びにふけって社会人になるのをできるだけ延長したいかのように自堕落で頽廃的な生活をしていた。「今年ダメだったら勘当だ。仕送りもしない。マンションも車も取り上げる」と父親に脅されて試験勉強を必死でやったら、すぐに資格は取れた。「やったら、できる子なんだから」と母親に自慢する。その時母がさりげなく言った「お父さんは、実は豊に一番期待してるって言っていたわよ。大学時代にどうしようもない遊び人の方が社会に出たら出世するんだって。なんか大阪の阪急グループの小林社長も学生時代は遊び暮らしていたんだって。その時の経験があったからこそ宝塚歌劇を創ったり、阪急電鉄周辺の都市を斬新な発想で企画して成功したんだって。ほら、豊が高校の修学旅行に行った岡山県の倉敷の町をクリエイトしたとも言われている大原美術館を創った大原孫三郎さんも遊び人だったそうよ。東京から金貸しが倉敷の家まで取り立てに来た時、学生の分際の息子にこんな大金を貸してくれるなんて、それだけ息子の価値を高く見積もってくれたと喜んで父親は歓待したんだって。その父親も偉かったけれど、後に学生時代遊びまくっていたおかげで、音楽や絵画、経営に芸術的なセンスを発揮して、後世に遺る偉業を成しえたんだって。成功者を創るのは父親の財力なんだとも言っていたっけ。初めてじゃあないかしら?子供に、これほどお金を使ってくれるのも。感謝しなさいよ」と言われた。こういう時の母の博識なことには、たまに驚かされる。だてに有名私立大学出では無いと感心してしまう。
母の言うとおり、確かに父は放任主義で自由にさせてくれた。大学にも8年行かせてくれたし、遊ぶお金は惜しみなくくれた。真面目な兄たちは父に認められたくて幼い頃から勉強もよくできた。兄達の実母は、それぞれ多額の慰謝料をもらって、新たな人生を楽しんでいるのだろう。子供に会いに来ることも無く、兄たちの孤独な魂は、母のいる豊へのイジメで発奮しているかのようだった。しかし、幼かった兄たちには離婚して一緒に住めない母への恋慕は、耐え難いものだっただろう。ママ母にも反抗するでもなく、いつも大人の対応で新しい環境にも順応していた。しかし、それは大人に対する顔で、幼い弟に対する態度はひどかった。年齢も離れていたので喧嘩すればかなうはずなどなかった。暴力でねじ伏せられ、いつもひどい目に合わされていた。秀才たちの、しかも医学を学んでいる者のイジメは知能犯で残酷だった。母に言えないのをいいことに、インケンでじゃれ合っているように見せて、性的にも弄ばれた。幼い頃から卑猥な映像を見せられ、淫乱な兄貴の彼女にも犯された。実際、豊は幼い頃、女の子のように可愛かった。周囲の愛情を一身に受けた分、兄たちの嫉妬はひどかった。だから、家を出てマンション暮らしになって、初めて安心して眠ることができた。
今は兄たちも、それぞれ高級マンションをあてがえられ、実家にはいない。帰らぬ父を待って、一人暮らしをするには広すぎる実家に住んでいた母も、兄たちが離れて行ったら自分の義務でも果たしたかのように父と離婚した。次の女と闘ってではなく、自分の生き方を求めての離婚だった。
豊も、この年になると母に連絡することは無くなった。あんなに幼い時は母が人生の全てのように感じられていたというのに、薄情なものだ。好きな女ができたら、存在さえも忘れている。母にも恋人がいるような気配がする。子供は、母の女の部分は見たくないものだ。なので、表面上は父の浮気にガマンが出来なくなって離婚したことになっているのだと聞いて、深くは追求などしない。父も妻の浮気によっての離婚というのは、体裁が悪いようだ母に充分な慰謝料を払ったらしい。子育てを放棄して女にうつつを抜かしてきたのだから、当然の報酬なのかも知れない。
母は陶芸家として、結構活躍していたそうで、青山にお洒落なサロンを開いて自立していたようだ。いつから、そんな高尚な趣味があったのだろう?全然知らなかった。そういえば豊の家にも、母の作ったコーヒーカップや食器があった気がする。女の子が「どこで買ったの?私も欲しい」などと言っていたっけ。そんなことには無頓着な豊は、離婚後に母のサロンに行くことがあって、初めて気がついた。母のことを、最近見てもいなかった気がする。そういえば、数年前から装いも若々しくなってイキイキしていた。青山のお洒落な陶芸のサロンには、いつもセレブな女性たちが集っていた。利益など求めてはいないようだが、人脈の広さと客層が良いので結構儲かっているようだった。豊が行った時も、有名な作家先生の個展を開いていた。スタッフの女性たちを紹介されたが、皆で協力してギャラリー経営に夢膨らませているようだった。
息子3人のママ友だけでも、かなりの美魔女たちが集まるだろう。実際、社交的母は、ママ友たちから様々な恩恵を受けていた。皆、裕福で、ジュエリーのデザイナーや、インポートファッションを買い付けてブティック経営をしているメンバーもいた。そんなママ友たちに触発されたのだろう海外にも勢力的出かけてジャパンブランドをPR。陶器をはじめ、書道や絵画、お茶や着物などを海外に広め、あちこちでジャパンブームを巻き起こしているようだった。バブルで超一流なものを手に入れ、享受して磨かれたセンスは、温故知新とも言える新たな芸術的なウェーブを起こしているようでもあった。ともかく、50歳近くとはいえ、ハイセンスなアラフォーの美魔女たちのエレルギーには頭が下がる。
セレブな女たちは高額なものを、より好む。エステや美容にはお金に糸目をつけない。そんな豊かな女性たちが相手の商売なのだから、市場は大きい。儲ける気が無くても、お金も情報も人も集まるのは必須。こんなコミュニティを望む人妻は多かった。忙しい夫と一緒に人生を楽しむことのできない妻たちの欲求不満を満たしてくれる。お金を惜しげもなくかけて、若々しく美しい妻たちが憧れる危険な恋。それを疑似体験できる場所。束の間、母から女になることができたなら、きっと明日から家事や子育てに頑張れる。美しく、文化芸術にも精通している仲間との交流。高い品格と知性を秘めた女たちは、若き芸術家を先生として、同時に恋をして少女のようにときめいているのがわかる。女としての最後の狂い咲きをしているのか?一度しか行ってはいないが、その怪しげな雰囲気には背筋に悪寒が走ったのを鮮明に思い出す。「ウワサに違わずセクシーな息子さんね」と色目を使って来た女性が母と同じ年だと聞かされて一気に嫌悪感が走ったのだ。風俗で、同じ年頃の女を抱いていたことに気づいて、自己嫌悪にも陥った、父の浮気など、母の色目に比べれば、罪は無いとまで思ったくらいだ。風俗で働いている女と、ひとつも変わらない。どれだけ若く見えようと、美しく、男が放っておかないと言っても、母だけは清廉潔白な慈悲深いマリア様のような存在であって欲しかった。
若くて才能豊かな美男子との、道ならない許されない恋。そんな怪しくも危険な香りのするカフェには、子育てを終えた女たちが集い、仲間で集まってお茶や食事、ダブル不倫のためのコンパを楽しんでいるのがわかる。でも、認めざるを得なかった。母は父と結婚している時よりも随分綺麗になっていた。新しい恋人は、主婦たちに一番人気の陶芸作家の先生のようだった。年下で奥さんもいるらしい。母は既婚者が、そもそも好きなようだ。父の時もそうだった。不倫して豊を妊娠し、前の奥さんを追い出し父と結婚。本妻の地位を勝ち取ったのだが、兄たちには恨まれ、嫌われた。
そして、豊も、医師になった兄たちとは違い、薬剤師になることで、どうにか尾崎家との繋がりを持とうとしていた。しかし、兄たちは豊のことなど目にもかけていない。
大病院を継ぐのは長男の雄一か次男の茂だろう。父は子供たちに毎年100万円を定期預金に振り込んでくれている。産まれてきてからずっとなので3千万は貯まっている。その他、マンションに車、豊のための大手薬品会社への投資はかなりのものらしい。そのおかげで、30歳そこそこで大手メーカーの役員に抜擢されている。父が母に言ってたように、女の子と遊び暮らしていた経験も無駄ではなかったようで、接待や営業面で豊は素晴らしい功績を納めていた。そして、まんまと社長令嬢を射止め、婿養子に入って、尾崎家の息子でいるより豊かな生活を手に入れていた。もちろん父や兄たちが医者だということにも助けられている。尾崎家のネットワークで医者仲間からのオーダーも大きい。初めて父や兄達と手を繋ぐことが出来た気がした。父が言っていたように、医者ではなく薬剤師でよかった。豊が娘婿になるだろう製薬会社の業績は、おかげで鰻登り。たった3年で業界ナンバーワンに躍り出ることができた。プレジデントやダイヤモンド社からの取材も多い。一躍、やり手経営者の片腕として脚光を浴びた。
義理の父が社長なのだが、マスコミ嫌いなので取材に応じるのはいつも豊なので、業界でも経営者の中でも有名人だった。しかし、裏金、表には出せないリベートも医者たちに払っている。そんなグレーゾーンも、しなやかに対応できるのが豊の才能でもあった。しかし、妻との関係は数年もしないで冷えまくっていた。もちろん、相変わらずの豊の女性関係がバレたのが一番の理由だったが。どんな女でも抱ける自信があった豊だったが、プライドが高く、自分のことを卑下してバカにする妻だけは抱くことが出来なくなっていた。ベッドでの慇懃無礼な態度、可愛くない言葉に傷つけられる日々。「お金と地位目的で結婚したんでしょう?私のことなんて愛していないくせに」と慟哭されては、取りつく島もない。肉食系で、寝れば女は自分の所有物になると信じていたのに、一向になびかない。不感症なのか?いつになったら、女の悦びを感じられるようになるのか?女の感じるツボは心得ているのに。いつも苦痛を訴えて来られたら、いくら豊でも萎えてしまう。
そして、子供ができるまでと習慣のように抱いていたのに、生理が理由で拒まれてから誘うのが億劫になってしまった。そのまま、セックスレス夫婦だ。それが妻のためだと思おうとしていた。心だけでなく体も繋がらないのだから、豊が不倫に走るのは仕方無いのではないだろうか?自分を愛していないから求めて来ない。愛していないから抱いてはくれない。「お金と会社でのポスト狙いで結婚したんでしょう?」そう言って豊を攻め立てる妻に恐れを抱き、家には帰らなくなってしまった。
そして、豊の数々の浮気の発覚は、妻にとって、離婚に踏み切る良いキッカケになったのだろう。
そもそも妻はセックスを汚いものだと思っている節があった。子供を作るためだけの行為だと仕方なく応じているようだった。あんなに嫌そうに顔を歪めて逃げようとするなら、「人工授精の方が良いのではないか?」そう提案したら、余計に溝が深まってしまった。女の考えていることがわからない。理解できない。恋人なら逃げられる。付き合うのを止めればいいだけなのだから。しかし、結婚はそうはいかない。ベットの上での出来事は他言無用。親にも言えない秘密事項だ。
性格の不一致もあるが、セックスの不一致はどうにも解決法が見つからない。豊なりに頑張ってはみたものの、ダメだった。初めての結婚だったので、夫として、どのように接すればいいのか?何をしても妻の逆鱗に触ってしまい撃沈されるのだから。もう、逃げるしか方法はなかった。そのうち落ち着いたら怒りも消えるだろうという甘い期待も打ちのめされて、離婚しかないと追い詰められていた。子供さえできれば、どうにかなるのだろうか?でも、処女だったらしい妻は他の男とのセックスなどは知らない。男ならば「風俗にでも行って、勉強して来い」と言いたいところだが、女はそうはいかない。女は一体どこで、セックスの手ほどきをしてもらえるのだろう?
家庭が修羅場なのは知ってる筈なのに、義理の父は仕事上、豊がいなければ困るものだから娘夫婦の不和には目をつむって何も言わない。しかし、幼い頃から甘やかされ、お金も愛情も自分にだけ注がれていた妻は、豊のことが許せなくて実家に帰ってしまった。豊の欄だけを埋めれば提出できる離婚届が届く。「とうとう来たか」と豊は、それほど驚くことなく、その離婚届にサインをして、すぐに提出した。その俊敏な態度もカンに触ったのだろう。脅しや泣き言のメールが何度も届いたが読みもせず棄てた。
「ここ数年は、心も体も冷え切って、互いに無関心を決め込んでいた。まだ若い。やり直すなら早い方がいい。たぶん、このまま結婚生活を送っても子供なんて出来ないだろう」と考えスピーディに決断、行動しただけなのに、女の気持ちは複雑だった。「普通土下座して、『二度と浮気はしないので許して下さい』と謝りに来るものでしょう?なのに、さっさと送った離婚届けにサインするなんて。ひどい」と電話もあった。日に日に妻の中ではありもしない妄想が拡がり、事実のように解釈されていた「電話くらい出ろ。無視するな。闇夜の道で殺されないよう気をつけろ」などと口汚いメールが頻繁に届くようになった。実際ガソリンが撒かれた痕があり、ボヤだったが火をつけた形跡があった。ある時などは、飲んで泥酔して家の外から大声で「こら。出てこい。この浮気男が。また女でも連れ込んでるんだろう」と男みたいな口調で罵り、玄関のドアに石を投げるので、警察に連絡して抑えてもらったこともある。精神を病んでいるのかも知れない。そこまで追い込んだのは豊だったのかも知れないが、勝手に実家に帰り「別れたいの」と言ってきたのは妻の方だった。最近では「私の父の製薬会社での地位とお金目的で結婚したくせに。どうせ家のための政略結婚なんだから、愛情なんて、これっぽっちもないんでしょう?」と泣きじゃくられて、さすがの豊も成す術が無かった。「離婚は結婚の数倍体力もお金もかかる」と昔、父がこぼしていたのを思い出す。自由が好きな豊が、たった一人の女性と一生添い遂げるなんて、ありえる筈がなかった。「30歳にもなって所帯を持たないのは、どこかに欠陥があるに違いない」と親戚や親兄弟から攻め立てられ、「一度はしてみようか」などとそそのかされたのが、そもそも間違いだった。
いつもそうだった。あまり気の乗らないことを無理矢理やったら、ひどい目に合う。人並とか常識とか平凡というのが一番遠い性格なのに、皆と同じようにしようとすると人との違いが突出してしまい、苦笑いで逃げるしかなかった。そういう無責任男を笑って面白がる仲間や恋人にしか受け入れられないことは嫌ほど思い知っていたのに。つい、家柄や地位や名誉に目がくらんでしまった。お見合いの席で妻は豪華な白の振袖で洗い立ての上質なタオルのように一緒にいるだけで優雅な気持ちにさせてくれたものだった。生活は波乱万丈よりも、平凡で静謐な方がいいと思って結婚を決意した。まさか、こんな鬼嫁になるとは思ってもいなかった。そういえば、妻の母親もキツそうな性格をしていた。ずうずうしく夫婦の生活に意見し、毒を放つ。疑惑や不安を娘に植え付け、男に対する被害妄想はとめどもなく、嫉妬の炎で、あちこちを灰にしてしまう勢いだった。
社長の浮気も探偵社を使い、ほとんど証拠を集めているらしい。証拠写真を娘にも見せて「男なんて、皆こんなものよ。お金目的で、女に利用されてるなんてわからないで、可愛そうだわ」と話しているのを廊下で聞いたこともある。「明日は我が身」とゾッとしたものだった。いつも親子で豊の有ること無いこと。そのうち無い事の方が多くなったが、ヒマを持て余しているのか?噂話で、何が真実で、何が絵空事なのか?もはや、わからない位、疑惑から生まれた数々のストーリーが、既成事実になって豊を2人で攻め立てるようになった。女同士とは恐ろしい。夫婦の夜の営みについても知っていて、ホテルに何人かの女性と入る写真も証拠として突き付けられたが、豊には全然覚えがなかった。接待でキャパクラや怪しげなクラブへも行くことがあった。それを清廉潔白な妻たちは鬼の首を取ったかのように攻め立てるのだが、夜の付き合いで、大きな商談を数々まとめて来た事情など一切理解してもらえない。「そんな公務員みたいな、家に早く帰って来る男がいいなら、別れてやるよ。その代わり、会社の業績も下がるけど、責任は取れるんだろうな」と思わず怒鳴ってしまった。鬼の形相で行く手を阻む妻を突き飛ばしたことも確かにあった。女性に手を上げることなんて、一度もなかった豊を、これほど怒らせるなんて。「地位やお金を失うのが怖くて、仕事なんてしてられるか」などと、変な言いがかりをする妻に反撃したこともある。それが悪かった。DV男として、警察に報告され、「次に暴力振るったたら牢獄行きよ。やれるものなら、やってみなさいよ」と言われて、家から逃げ、帰らなくなってしまった。
それも仕方ないことだろう?恋愛とは違い、結婚には様々な義務が生じる。法的にも、道義的にも、両家の付き合いとか、親戚の手前とか。とにかく出演者の多いこと。その上、仕事関係者がチョロチョロその夫婦喧嘩に加担してくるのだから、意味がわからない。そのうち豊は気がついた。皆に合わせられないのに無理していい人を演じるからややこしいのだと。豊は、周囲に媚び、自分を殺して人に合わせるのをやめた。破天荒で遊び人で、非常識なのを美徳と考え、どんな嘲笑も侮蔑も洒脱な冗談で躱した。自分らしく自然体でいたら、生きやすくなった。離婚問題も、ため息と共になくなっていった。
不思議なもので、常識に捕らわれると、怒りを誘発する。どれだけ正しくても、相手をこてんぱんにやっつけたら、恨まれ仕返しをされる。どんな嫌いな相手でも好きなフリをして笑顔で接していたら、間違いも大目に見てもらえる。恋愛と仕事で得た護身術みたいなものだった。真正面で、妻と対峙していた時は、こっぱみじんにやられていたのに、おどけて笑い飛ばしていたら妻も諦め笑顔で離婚することができた。
今まで仕事にばかりかまって、家を振り返らなかった報いだと痛感したものだった。家のことを考えるというのは、妻を愛し、子供を育て幸せな家族を作ることだけではない。間違った結婚だと気がついたなら、リスクが大きくなるまでに何か手を打つのもビジネスと似ている。所詮他人の集まりなのだから、子供といえ別人格で自分の持ち物ではない。互いをリスペクトして思いやれば、たとえ別れても出会った時に笑顔でいられる間柄になる筈。
「夫は妻が夜の営みを拒否しようと、家事を放棄しようと、へりくだり許しを乞い、妻のために金を稼いで尽くさなければならないのだろうか?」と言いたいことは沢山あったが。本音をさらけ出して気が済んだ後には焼け野原。全てを灰にして失ってしまうのは府愚の骨頂だ。
妻には気が済むまで言わせておけばいい。吐き出すことが一番の治療になると心療内科の医者をしている友人が言っていた。相手は精神を病んでいるのだから。まともに相手していたら、こちらまでおかしくなってしまう。浮気をして奥さんからひどい仕打ちを受け続けている同僚や先輩たちの話を聞くと、離婚が結婚の何倍もの体力と精神力、そして財力がいることを思い知らされたものだ。
豊は策を講じ、先輩で未婚のエリートを自分の後釜として据えようとした。その先輩も次の社長の座を狙っていたので、さりげなく妻が通うテニス場に出かけ、アプローチさせた。妻の好きな食べ物や趣味を伝え、恋愛に長けた豊の思うつぼで、2人は恋に堕ちた。おかげで豊への脅しやいやがらせは無くなった。「失恋の痛みは次の恋愛でしか癒せない」との鉄則は、見事に的中した。もちろん、豊のアドバイスで元妻との結婚を果たした先輩には感謝された。体の相性もよかったのだろうか?すぐに赤ちゃんができたようだ。真面目で勤勉、面白味はないものの、似た物夫婦で気も合うのだろう。幸せそうな2人の姿を目にしたことがあったが、あの修羅のような怖い顔をしていた妻が優し気な笑みを浮かべているのには驚いた。
おかげで、副社長にのし上がった先輩は、豊に一目置いて大事にしてくれた。ただ、豊の浮気相手のひとりが社長の愛人だったのが悪かった。社長秘書の野口愛子は東京大学出身のエリートで頭がキレるだけでなく、素晴らしいプロポーションで美形という、完璧な女性だった。潔癖で、自分よりも頭がいいので最初は敬遠していたのだが、社長と飲みに行って、泥酔してしまった社長を家まで送って行って、次に彼女を送ろうとしたら誘われ深い関係になってしまった。「据え膳食わねば男の恥」と言われるように、こんな美人に誘われて断る男なんていないと思う。年齢も少し上だったし、学歴も能力もかなわない豊には、こんなスキの無い女性が見せる弱さというか、甘えるのが、むしろ新鮮だった。男は自分よりも下の女子の方が居心地が良いという。あまりにも美人で素晴らしいと「釣り合わない」とか「高嶺の花」とか言って敬遠するものだ。そういう意味では豊は物怖じせず、大胆で恐いもの知らずとも言えるだろう。付き合いが深くなるにつれ、社長の愛人であることや会社の実務は全て彼女がやっていることなどなど。この会社を成長させたのは愛子だったと気付いてしまった。それからは、愛子の言う通り動いたら、たくさんの契約も取れたし、会社での発言権も高くなった。
社長の弱みを知り、副社長には貸しもある。愛子の頭脳と豊の行動力を持ってすれば不可能なことは、何もないような気がしていた。愛子のマンションで社長と鉢合わせするまでは。そこから社長の風当たりは手のひらを返したように悪くなった。社長の娘と離婚したから豊に辛く当たるようになったのだと、周囲の人々は思っていたに違いないが。愛子をめぐる三角関係で、犬猿の仲になっていることなどは、副社長の先輩には言えない。しかし、さすがに社長との中互いは仕事には差し障りが出だした。その調整役に疲れたのだろう。中堅の製薬会社の取締り役のポストを先輩が探して来てくれた。
他社からのヘッドハンティングの話は、たくさん来ていたのだが、愛子の協力無しで成功できる筈などないことを一番知っているのは豊だ。そこで、「愛子と一緒に別の会社に移りたい」と先輩に相談してみた。社長は、もちろん反対した。そこで、人の良い先輩に、愛子への恋心を話し、一緒にビジネスパートナーとして、新しい会社に移動したいのだと話した。先輩は親身に相談に乗ってくれて、2人の関係を喜び応援してくれた。本当のことは言えない社長は諦めるしかなかった。後処理があると言う愛子より1か月先に豊は会社を辞職した。解雇という形を取ってくれたので、すぐ失業保険が入り、一番苦手だった簿記の資格を取るための勉強をした。愛子に「経営者になるならファイナンシャルプランナーと簿記の2級くらいは資格を取るべきだ」と、いつも説教されていたからだった。
日本人はお金の勉強をしていない。まるで金儲けをしている者が悪人なのだと思っている節がある。豊もそうだった。親の財力で贅沢しまくっていたが、婿養子に入って経営手腕を求められ、税金や法律について、初めて興味を持った。税理士や会計士、司法書士や弁護士に何かあれば相談すればいいと安楽に思っていた豊だったが、「そんな資格を持っていても無能な人は沢山いるのよ」と愛子は先生方を馬鹿にした。実際、名前ばかりで、無能な税理士たちには、何度もひどい目に合わされたものだ。「有能かどうかも、わからないことが問題だとは思わない?細かい数字は、わからなくても、損益くらいは頭で計算できなくて、利益は出ないわ。リスク管理だって、大切。年商が多いほど、何かあった時の負債は多くなる。経営者の采配で何億もの損益が違ったりする。ほら、ブラックマンデーやリーマンショックで、会社が飛びそうになったの覚えているでしょう?前日私が逃していたから助かったけれど。税理士たちの言うとおりにしていたら、とっくに会社は倒産していたわ。」と腹立たしげに言い放つ。「だから、簿記くらいは勉強しなさい」と有無を言わせない。
愛子は、ギリシャ危機も、ユーロの下落も察知して操作していた。輸入は円安になっただけでも、胃が痛くなる位、利益が無くなってしまうからだ。それぞれの国によって、金融機関の利息はもちろんルールが違う。時差があるのに、愛子は地球の裏の国の状況まで精通していた。東大出というのも大きかったのかも知れない。
同期や部の先輩たちのネットワークは国の中枢機関にいなければわからないものばかりだったし、外務省にも知人が多く、それぞれの国に散っている外交官たちが、人脈作りに応援してくれていたからだった。豊には、とてもそんな芸当は無理なのだが、せめて税制や収支くらい基本的なことを知らないと話にもならないことを、最近痛感していた。時代を読み、どう処理すれば利益が出るのか?そして、明確な意思を持って新規事業への投資に使うべきだと言うことや、税金を無駄に払うよりも寄付して社会貢献にお金を使った方が会社のイメージアップに繋がることなどなど。知らないと損をする経営の知恵とか。鮮度の良い情報を活かし、知識と知恵でお金を儲け、守り、使うことが肝心なのだと。愛子に教えられて、お金の勉強の大切さに初めて気がついた。
学歴重視、年功序列、終身雇用という日本の神話が消えつつある現代、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」などという日本人気質を変えなければ、この激動の経済の波を乗りき切ることはできない。
ここ数年、バブルが崩壊して、天国と地獄を見て来た豊にはわかる。来たるグローバル社会では柔軟な発想と、新たな変化をチャンスに変える行動力が求められていることを。これから真面目で面白味の無い日本人が世界を魅了することができるだろうか?信用と技術力と、地道な努力と責任感で他が真似のできない者作りに圧勝してきたが、国の格差が無くなり始め、インターネットの進歩で世界の情報が一瞬で手に入る時代。未来を予測するには過去のデータや経験、今の行動力が必要なのだと ぼんやり予感していた。
今の会社を辞めるタイミングも、次のカードを引くのも今。愛子のジョーカーさえ揃えば、大きな勝負を賭けることができる。仕事の成功は優秀な仲間たちの能力を生かし、才能をお金に換えることができるかにかかっている。たった一人のヒーローが歴史を動かしているのではない。確かに、ウェーブを起こすのは時代の動きを捉え、よりよい時代を夢見て、イメージできた人物に引き寄せられ、様々な必然と奇跡に促されて切り開かれるものかも知れない。チャランポランで、成り行き任せで遊び人の豊が、ビジネスを切り開く先駆者になるなんて想像すらできないことだったろう。
尾崎家は代々医師の家柄だったので、お金には困らなかった。それでも大病院に成長して、高い医療機器や従業員の給料などがかさみ、病院経営も火の車らしい。「小さな個人病院の方が儲かったし、気楽だった」と父も愚痴っていたことを思い出す。女性というだけで、どんなに能力があっても報いられない愛子のことを一番理解し、その才能を認めてリスペクトしているのが豊だという自信があった。
愛子は恋人であり、先生であり戦友でもあった。もはや、なくてはならない大切な存在だった。社長にとっても同様だったに違いない。しかし、そのことに気づいていない愚鈍な先輩に、事実を明かすワケにもいかなかったのだろう。社長は断固として最後まで反対したのだが、愛子と関係があったことなど明かすワケにもいかず、経営手腕が愛子にあることも言えるはずもなく、娘にまで諭されて頭を盾に振らざるを得なかった。
会社の都合で辞めたということにしてくれたおかげで半年間、愛子とヨーロッパやアメリカや中国、インドなどに旅してグローバルな人脈を手土産に次の会社に招かれることとなった。
厚生労働省のせいで、国内の薬の認可は著しく困難だ。治験にも多大なる費用が掛かるし、時間もかかる。それなら、海外で事情を取り入れ、新たな薬を輸入した方がいいのでは?バイリンガルの愛子と海外の製薬会社を訪問したことは後のビジネスの大きな糧となった。ネット情報ではわからない、研究者や製造者の思いや人柄などなど。今はまだ研究途中だが、人類を救う新薬が、生み出されるだろうと期待できる会社も見つけた。Face to face。会って話してみなければわからないことがある。訪問して初めて、社員たちの息遣いを感じることが出来る。今まで世の中になかったものをクリエイトするのは夢多き若者だと思う。
まだ30代だった豊には、世界で活躍する若き薬剤師たちとの交流が未来への活力になったことは確かだった。新たに愛子と入社した製薬会社は中堅だったが、社員が若く意欲に溢れていた。会議でも海外で得た情報が、これからの未来に夢抱かせてくれるには充分だった。直に世界の潮流を感じ、未来を予測することができた。そして、5年後には業界トップに躍り出た。政財界からも注目され、経営者の間では「前の会社の業績は豊のおかげだったに違いない」と噂された。
海外からも新薬やサプリを輸入。団塊の世代が欲しくて仕方ない生活習慣病の新薬やアンチエイジング関係のサプリは、新たな潮流を起こす。病気になって治す薬より、予防に力を入れた健康維持の栄養学的なものが好まれるようになった。活性酸素を除去できる抗酸化剤やマイナスイオン。日本では認可されないサイトカイインよる治療。遺伝子的なゲノム治療、病気の早期発見と措置。関西の大学で研究されている画期的な治療法への出資。次々に新たな製品を出し、SNSを駆使したPRなどで素晴らしい業績を上げることができた。それに影響され、他社が追従する形になった。
その先見性やカンの良さは、愛子の才能だった。なのに、決して出しゃばらない。いつも黒子に徹して豊を広告塔にして、その成功を喜んでくれる。しかし、結婚を互いに求めることも無く、自由に愛し合い気ままに付き合う仲だった。豊は、プライベートでは女関係は盛んだったにも関わらず、結婚には至らず天涯孤独な独身貴族で遊び暮らしていた。「離婚はこりごりだ」と、結婚イコール離婚としかイメージできないくらい前の結婚生活の痛手は何年も豊の行動を縛った。「どうせ、長くは続かない」と、多くの恋愛体験と一度の離婚を経験した豊は思い込んでいたのだが、愛子のような存在は異例なことだった。ビジネスパートナーとしても、恋人としても欠かせない。かけがえのない空気のような存在。だから別れなど、ありえない。
そもそも結婚に対する健全な意識を持つことができない豊に問題があるのはわかっていた。
女は母親に、男は父親に似て、どんなにあがなっても同じようになってしまうようだ。反面教師という例もあるが、「育てられたように子は育つ」というのも当たっている。父親を尊敬していたわけではない。むしろ、軽蔑しながらも一番父と同じような生き方をしていたのが豊だった。だから子供ができても、きっと無責任な態度しか取れない気がする。所帯じみた生活なんて不自由そうで見ていられない。きっと、父のように結婚しても他の女のところに入り浸り、家族のことなど気にもとめないで、もちろん子供のことなどお金を与えるだけで何もしないだろう。たぶん興味すら起こさない気がする。母親違いの兄たちにイジメられた過去のトラウマが思わず蘇って来て胸を切り裂く。あんな思いを子供たちにはさせたくはない。嫉妬、憎悪、そしてライバル意識。決して幸せそうではない母の顔。欲求不満の母の不倫も息子には許せないことだけれど、大人になったのか?仕方ないことだと納得もできるようになった。父は子供を産んだ途端に女とは見れなくなるらしい。妻の不倫さえ興味がなかったようだ。それはそれで母には寂しい事だったのではないだろうか?次々に若い女のところへ行く父は自分の事を光源氏の生まれ変わりなのだとうそぶいていた。源氏物語は、作り話だろうに、歴史的な人物だと思っているところが嘆かわしい。
父は自分を邪険にしたり、偉そうにされると途端に女と別れた。心から愛とリスペクトが失われたら、とっとと逃げる。それは豊にも経験があるので父を罵倒することはできない。その都度繰り広げられる修羅場も慣れたら結構笑えたりする。そんな父を身近に見て来た豊には自分の離婚も、別に驚くことではなかった。ラッキーなことに、豊の妻には潤沢な財産もあった。なので、浮気が元での離婚なのに豊には慰謝料も請求して来なかった。豊が紹介した先輩との再婚がうまくいったからだろう。
しかし、豊と愛子がいなくなったら、業界トップだった製薬会社は傾き、多大な負債をかかえて倒産したと聞いた。あの気位の高い元妻も、初めて家計を助けるためにパートに出ているらしい。それでも3人の子供に恵まれ、貧乏暮らしも逞しくも楽しんでいるようだ。あの、お嬢様が変わればかわるものだ。
人生、いつどうなるか?誰にもわからない。世界ナンバーワンだったダイエーの中内さんも、文化芸術に貢献した西武の堤さんも一時代を一世風靡したにもかかわらず、衰退してしまった。商売は絶えず次々に先手必勝。走り続けなければ繁栄は無い。
仕事は楽しかった。それだけで人生丸儲けだと思う。思い返してみても一流企業にのし上がることが出来たのも、あれだけの富を得ることが出来たのも。バイリンガルで東大出身の愛子のおかげだと思う。そして、新たな会社で、みるみる業績を上げ、取締役になった。愛子の頭の中には、前の会社の成功例や担当者名、そして細かいデーターまでがインプットされていたからだ。本当の実力者は愛子だった。豊は言われるままに接待したり、指示通りに動いていただけなのだから。
愛子はプライベートでも完璧だった。姉女房みたいに尽くしてくれた。ただ年齢が40歳を2人とも超えていたので、子供は諦めていた。不妊治療も考えた。病院に豊の精子も冷凍保存されている。今まで子供が出来ても女たちに堕胎ばかりさせて来た仕返しなのか?望んだ時は、得られない。他の女との間にも子供はできなかった。もし、この時、誰かに子供ができたら、愛子と別れて結婚したかも知れない。周囲の仲間たちが、子育てに奮闘している姿が羨ましく感じていたのも、この時だった。多分、仕事も余裕が出て、余暇の時間を親父らしいことをしてみたくなったのかも知れない。
家族団欒。子供の未来を憂い、自分のためだけでなく、誰かのために稼ぎ、感謝されたくなったのだ。らしくもないのだが。しかし、この時愛子が子宮系の病気をしていたことも発覚。愛子に勧められて、20代の若い女とも付き合ったが、話が合わないので疲れる。精力も強いので明菜のことを思い出す。そして、数々の棄てた女のことを思い出した。「きっと何度恋しても永遠には続かない。どうせ、すぐに浮気。心もコロコロ変わる。そもそも本当の恋などというものがわからないのだから」と、内縁の妻のような愛子を家政婦のように便利に扱いながら、顔も覚えていない若い女と、ただやりたいとの衝動だけで体を重ねる。「まるで、父のようだ」と豊は50歳過ぎて思う。