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銀杏並木の見えるカフェ  作者: 二階堂真世
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第10章 偽りの無い生き方

もうすぐ秋になる。慎一を喜ばせたくて、あんなことを言ってしまったのだが、受験勉強は、なかなか進まない。昔のように、覚えられないのは年齢のせいばかりではないようだ。

「奥様、施設からお電話が」と家政婦の昌子さんが電話の子機を持って来た。慎一のおかげで、母親を高級介護施設に入れることもできた。貧乏な時には、付き合いもなかった親戚も増えた。豊に棄てられ無くしてしまった普通の幸せが戻って来たのだろうか?いや、あの恋が無かったならば、得られなかった今の豊かさなのだと、わかっている。慎一は17歳の初恋の証。かけがえのない青春のかけら。そして、直子の愛の人生の全てだったのだから。

「慎ちゃんが敬老の日に、とても高そうなバッグをプレゼントしてくれて。ありがとう言っておいてな。若い時に子供を堕ろして自分の子供はできんようになったけど、あんなエエ子を養子にして良かったなぁ。本当の孫がいたら、同じ年だったと思うと不憫で、たまらんわ。水子供養も、ちゃんとせなあかんなぁ」と、30年以上も前のことを最近母は思い出して電話してくることが多い。何不自由なく生活していても苦労した過去の思い出ばかりが押し寄せて来るのだろう。「施設の人は良くしてくれるの?何か欲しいものは無いの?」と話題を変える。「松本のおじいちゃん、覚えとる?日頃は大人しいんだけど、急に看護師さんにキレて、暴力振るってしまって、大変なんよ。」と関係の無い利用者の男の話をしたりする。ボケが始まったのかも知れない。「施設の人に、また何か美味しいものでも差し入れておくね」と言うと「今度来る時、空也のモナカ買って来てよ。阪急の小林社長が亡くなる前に新幹線に乗って、買って来てもらっただけあるわ。一度食べたらやみつきになってしもうたやん。それと、銀座4丁目にある松崎の手焼きの煎餅もな。この年になったら、食べることしか楽しみがないから」と言うので「それだけ食欲あったら大丈夫そうやね」と笑った。電話を切りそうになると、母は名残惜しそうに、そして遠慮しながら必ず言う。「施設もええんやけど、やっぱり、たまには直子と買い物や食事にも出かけたいわ」と。貧乏だった昔には行けなかったレストランでの食事が楽しみのようだった。

関西人だった母は、東京暮らしなのに大阪弁が抜けなかった。おかげで、お笑い芸人みたいで、人気者だった。社交的な母は近所のオバサンたちと井戸端会議に余念が無かった。仕事場友人や仲間が多く、母の周りには笑いで溢れていた。家でも、ずっと鳴りっぱなしのラジオのように賑やかな人だった。そんな母から笑顔と仲間たちを奪ったのは直子だった。何年ぶりかに実家に帰った直子は、母が自分を探しに行って事故に遭い、半身不随になったことを初めて知ることとなった。車椅子に乗った母との再会。直子は泣いて謝った。帰る気などはなかったのだが、明菜の考えたシナリオどおりに慎一の里親になるには、誰かと結婚する必要があった。

そこで、当時、掃除婦として働いていた直子の上司だった男に白羽の矢を当てた。誰でも良かった。どうせ里親になるための偽装結婚のつもりだったから。草食系の優しい男だった。しかし、几帳面な所があって「結婚前に、直子さんの親に挨拶したい」と「お母さんに会って正式に結婚を認めてもらわないと」と言ってきかなかった。そのおかげで、久しぶりに母とは再開できたのだが、決して裕福ではない生活が待っていた。母の介護の余裕も無いのに、幼い慎一を里子として育てるのは容易なことではなかった。ただ、養子縁組ではなく、里親だったのでいくらか行政からお金がもらえたので助かった。しかしそんな経緯で結婚したものだから、夫には、愛情が持てなかった。夫婦の溝は深まる一方だった直子が働けば働くほど、夫はダメになっていく。「慎一さえいれば、それだけで生きていける」そんな思いが夫に伝わっているかのように、夫は慎一に嫉妬すら感じていたようで、そのうち暴力まで振るうようになった。それでも片親にはしたくなかったので直子は耐えた。

夫との間には子供は出来なかった。夜の営みから直子が逃げていたからだが。離婚は意地でもしてくれなかった。明菜に相談したかったが、連絡も取れなかった。慎一が14歳になった時、無事養子縁組ができた。これで、夫と別れられる。里親なら夫婦が揃っていなければ子供を任せてはもらえない。そのための結婚だったのだ。そのうち一緒に生活していたら、本当の家族になれるのではないかと、ほのかな希望抱いていた。しかし、夫とは最悪な状態だった。なので、慎一を連れて2人で逃げた。でもすぐに追って来る。そんな絶望的な時に、明菜は現れ、厳しく叱責され目が醒めた。劇場型詐欺の仕込みは、まだ終わってはいなかったことを思い出した。慎一が薬剤師の資格を取らなければ、この詐欺の成功は、ありえないことを忘れていた。そこから必死で与えられていたミッションを遂行するために頑張った。慎一に勉強を教えるのは楽しかった。そして、期待どおり有名な中高一貫校に入れることができた。大学の薬学部にも成績優秀者ということで、学費免除。

卒業後も薬剤師の資格も取得して、無事製薬会社にも入社できた。そんな時、また明菜が現れ。豊の寿命が、あとわずかだと知らされる。相続の時、慎一は見つけられる予定だったのだが。豊のビジネスパートナーの愛子が優秀だったので、豊が生きている間に慎一は会うことができた。そこから急転直下。慎一の運命は一気に動いた。その才能も愛子のおかげで開花した。そして、慎一は明菜が書いたシナリオ以上の成果を上げる。めまぐるしい変化の日々。慎一のために成功哲学を学びに行っていた時は、周りのムードに酔ったように、「大学を目指して勉強をする」なんて言ってしまったけれど。

母が亡くなったり、慎一が道子さんという女性と結婚して次々に孫が生まれたりして、それどころでは無くなってしまった。いや、それは言い訳だ。あの時、慎一が喜ぶ顔が見たくて、心にもないことを言ってしまった。「薬学部に行く」なんて、よくも言ったものだ。恥ずかしくなる。全然勉強ははかどらなかったし、大学に行くよりも家庭で慎一たちの面倒を見ている方が、ずっと楽しかった。

到底自分には人が笑うほどの夢なんて思い描くことなんて出来ない。誰かから尊敬されたいとも思ったことが無い。贅沢したいとか、お金持ちになりたいなんて考えたこともない。成功というものが社会貢献なら、自己中心だと思われても愛する家族と平凡でいいから一緒に住みたいと真剣に願っている。

明菜さんにも、愛子さんにも、嫁の道子さんにもかなわない。なぜか中学生の時に好きだった格言が頭に浮かぶ。まだ、何者にでも成れると信じていた思春期に、向上心に溢れ、本ばかり読んでいた頃に、呪文のように唱えていた。【満足したブタよりも、不満足な人間の方がいい】と言ったのは、ソクラテスだっただろうか?高邁な理想があるワケでもなく、何も努力しない凡庸で今の生活に満足しきっているブタで何が悪い?皆が成功者でなければならない法律はないだろう?などと悪態をついて苦笑する。自分の心に直になりたい。孫ができたら、可愛くて大学なんて、どうでもよくなった。誰も、直子の選択に意見するでもないのに、言い訳ばかりしている自分が嘆かわしい。勉強は好きだったが、合格しても、例え国家試験に受かって薬剤師になったとしても、多分仕事にはしない。十七歳の時には、薬剤師になって母を楽にしてあげたいという目的があった。しかし、今は母も他界して、恩返しする人はいない。一人暮らしなら、それほどお金も使わないし、必死で仕事をするにも年齢制限にひっかかって雇ってくれないだろう。それなら、せっかく同居できたのだから、孫を思う存分可愛がって、ずっと一緒にいたい。お金の不安に苛まれ、いままでしたいこともガマンして来た。人並の生活をしてみたかった。慎一も妻の道子さんも仕事に熱心で、子育てに目が届かない。

慎一と一緒に勉強していた時は楽しかった。また、孫たちとそんな時間を過ごしたい。そんな思いが、どんどん大きくなった。それを告げると慎一は落胆するだろうか?それでも、自分の心に正直になりたい。いつも、他人が喜ぶ回答ばかりをしていた。本当にしたいワケでもないのに。仲間に媚び、自分をも誤魔化していた。流されるまま、慎一の成長のみを楽しみに、幸せだったと言える。だから、夫が去った後も、何人もの男性からアプローチされても、全然興味も無かった。慎一が、豊の面影が直子には生きる活力をくれていた。


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