第1章 銀杏並木
第1章 銀杏並木
街路樹の銀杏の木は、秋の寂し気な空気の中で、キラキラと金色に輝いていた。
学生街には若々しい活力のようなものを感じるのは、通行人に圧倒的に若者が多いからだろうけれど。紅葉の燃えるような山々も、銀杏並木にも興味無さげな男女が、ワイワイと歩道を塞いでいる様子を、今日は腹立たしい気に感じてしまうのは、明菜と連絡がつかなくなったせいだとわかっている。
幸せそうなカップルや、何かのサークルの集まりなのだろうか?賑やかに盛り上がって、嬌声を挙げている様子までイライラして見るに堪えない。
出会ったのは、銀杏の見えるこのカフェだった。なので、付き合ってちょうど1年になるのだろう。なのに豊は明菜がどこに住んでいるのかも知らない。豊のところに転がりこんで来たのは、3か月前だっただろうか?同棲して1か月で逃げ出したのは自分の方だったのに、また会いたい、声だけでも聴きたいと、あの手この手で探したけれど見つからない。別れ話を両親から詰め寄られた時、子供ができたと言っていたが、本当だろうか?勢力を使い果たしていた時は、両親の話も上の空だったのだが、元気を取り戻したら確認したくなった。
しかし、携帯電話も繋がらなくなってしまった。マンションには彼女のいた形跡は何も無かった。毎日使っていた歯ブラシも、一緒に買ったペアの服も。そして、可愛いティッシュカバーまで、明菜が選んで買った様々な物が全て無くなっていた。そして、金目の物も。明菜への激しい怒りすら感じる。部屋の荒らされ様に最初は臆していた豊だったのだが。調べれば調べるほど、キツネにつままれたようで、怒りがこみあげてくる。
同じ大学の後輩だと信じていた。でも、学部や学年も違うのでキャンパスで出会うことは無かった。そういえば、つき合うようになって、大学の学食には、一緒に行っていたが、彼女の友人とは出会うことは無かった。豊の友人たちに遊びに誘われても断ってばかりいた。二人の交際は、今にしてみれば誰も知らなかった。秘密にしているつもりなどなかった。しかし、いつものように、『すぐに飽きて次の女にうつつを抜かすだろう』と思っているせいか、友人たちも、明菜のことを話すと、「どの子のこと?」と聞かれる始末だった。ワザと、明菜は素性が知られないよう、友人たちとの集まりに来なかったのだろうか?写真も撮るのを異常に嫌がったのだが、明菜との恋に夢中になった頃、彼女に知られないよう、隠し撮りをしていた筈なのに、どこにもその写真が残っていなかった。「もしかしたら、ハメられたのかも?」と猜疑心が芽生える。「お金目当て?それとも、泣かした女からの依頼?」などと考えて、頭を振る。「ハードボイルドの小説の読み過ぎだ。そんなことが、一般市民の自分に起こる筈がない」と考えすぎだと疑惑をデリートするものの、最近父の病院でも些細なトラブルが勃発しているらしい。父の看護婦との浮気も、全て暴露され母も怒って実家に帰っているらしい。しかも、長年、病院の経費で愛人を囲っていたことまで辞めた経理の女性からリークされマルサまで動き始め大損害をもたらしているらしい。ワンマン経営のひずみが指摘され、後継ぎの兄たちの立場もあやしい空気が。なので、息子たちにも反旗を翻らされ、病院を追われそうになっているという話だ。
そもそも個人病院だったのだが、数年前に合併を重ね、大病院になっていて、外部から優秀な医者や経理や経営陣を向かい入れて飛ぶ鳥を落とす勢いと業界でも注目されていた。なのに、父の女癖だけは直らないようで、いつも数人の愛人や恋人と遊んでいて、それを経費でおとしていたのが悪かった。個人病院だった頃の習性だけは変わらずルーズな会計をしていたことが今回の一連のトラブルを巻き起こしたと言える。それとは、豊の一件は無関係だと思っていた。病院を継ぐのは優秀な兄たちなのだから。
兄たちとは母親がみんな違う。豊の女好きは父の遺伝に違いないと確信するものの、いつも父の愛人たちの反乱は噂を聞くだけでゾっとする。次々に手をつけた父も悪い。
本妻から奪った愛人たちは、愛されなくなった本妻をあざ笑い、貶め、正妻の地位をを奪い取って、子供を産んでは父に飽きられ、他に女を作られた。父は子供が出来たら妻を女としては見ることができない性分らしい。なのに、女は自分の方が前の妻よりも優れていると思い込み、先妻に成り代わって、妻の座を手に入れたがる。実際美しい妻ばかりだったので、愛人になった途端、ライバル意識は凄いものがあった。前妻が美しければ美しいほど、奪い取った時の優越感は、たまらないものがあったに違いない。そうやって女達を競わせていると、父は皆から至れり尽くせりされることを知っていた。ジェラシーで面倒になると、嫌気がさして父に逃げられるのを知っている女達は父の前では下手なことは何も言わない。父はそんないざこざに無関心を装いながら、楽しんでいるかのようだった。子供のように、ただ愛情を貪っていただけなのだろうか?いつも父は愛人が妻の座についた途端、自分の立場をふりかざし、小言を言い、父を攻め始めると、どこかの女の所にふけて家には帰って来なくなるのだ。「逃げ足だけは学生時代から早いのだ」と言うのが父の自慢だった。自分だけを真剣に愛してくれていると信じていた女たちは、次々と父の本性を知り逃げて行った。その度に、多大な慰謝料を請求され、財産を持って行かれたにもかかわらず、父の女遊びは止まることはなかった。
一度、豊に父が言ったことがあった。高校生の女の子を孕ませて、慰謝料を工面してくれた時のことだ。「お前は俺に一番似てるようだ。でも、医者ではなく薬剤師の道に行って良かった。医者は沢山の患者の死に立ち会い、命の現場で寝るヒマも食べるヒマさえ無く、休み無く大病院のトップに立って、心労ばかりの毎日だから。優しくしてくれる女の所に逃げたくなるんだ。お前が羨ましいよ。腹違いの兄たちにイジメられて、辛かっただろう?知っていても何もできなかった。昔から苦手なんだ。人の憎悪とか嫉妬とかが。こんな父親で悪かったと思っているんだ。これでも。でも、歴史は繰り返すだな。俺も、お前くらいの時に、やっぱり高校生の彼女を孕ませて、堕胎させたことがある。無理矢理親に引き離されて、二度と会えなくなった。でも、今思うと、あの時の彼女が一番好きだったような気がする。プラトニックな時間が一番長かったせいかな?一度寝ちゃうと、高い山に到達したみたいに次にチャレンジしたくなるんだ。だから、すぐ肉体関係を持った女の顔なんて覚えてもいない。ひどい男だよな。でも、お前なら、わかってもらえるかな?」と。大人の会話をしたのは、後にも先にも、その時が最後だった。
「明菜ちゃんと言ったっけ?あの子は忘れた方がいい。たぶん、素人じゃあない。きっと狙われたんだ。でなきゃ、子供が出来たって、あんな大金をネダれる筈が無い。一緒に来た弁護士と言うのも、カタギでは無い。もしかしたら、これからも揺すられるかも知れないぞ。一応、その筋の弁護士には話してあるから。何かあったら、すぐ連絡してくれ」と言って、ある弁護士の名刺を渡された。「女と遊びたいなら、当分風俗にしとけ。お金で始末できる相手にしないと、まだ若いんだ。地獄を見たくなかったらな」と、苦々しく言った父は、しばらく見ないうちに随分老けて見えた。
明菜が玄人?何のことだろう?父の奥歯に衣を着せたような物言いは気にかかる。女については、父に言われなくったって、何人も付き合って来たのでわかっているつもりだ。高校生の彼女をを孕ませた時には父に助けられたと感謝している。でも、あれから子供ができないよう避妊には気をつけていた。だから今回も、本当に自分の子供かどうかは疑わしいとも思っている。しかも、産まれてDNA検査をすれば決着がつく問題ではないのか?何故、弁護士まで出て来て大袈裟に言うのか?意味がわからなかった。確かに子供が出来たと言う明菜に色よい返事は出来なかった。まだ学生で、家庭を持つには収入も無いし、心の準備も無かったからだ。しかも、体を重ねてからの明菜の豹変ぶりに、恐怖を感じ逃げていた負い目もある。でも、親父が言っていたように明菜とはプラトニックな時が長かった。プレイボーイの名が廃るほど、明菜をおとすのは大変だった。と言うか、すぐにホテルに誘い深い関係になっていた豊には、女の子と半年以上もプラトニックで付き合ったことなど無かった。だから、余計に新鮮だった。いつも主導権は明菜にあった。追えば逃げる。諦めると近づいて来る。ある距離をキープしながら、様子を伺い、臆病な小動物のような怯えた目が印象的だった。でも、自分に好意が無かったとは思えない。あの清らかな笑顔が目に浮かぶ。刹那、胸がキュンと痛んだ。まだ彼女を愛している。この感情は何なんだろう?肉体も、世界中で、たった一人のピッタリの相手だったと思う。逃げだしたのは自分だった。阿部定のように、いずれ愛欲の海に沈められ殺されてしまうのではないかという恐怖に。
けど、夢現、一緒に過ごした1か月が、本当にあった事だったのかどうかも、わからない。「人見知りで、あまり友人はいないの」と寂しそうに言うものだから豊は余計に明菜を守ってあげたいと思っていた。あまり自分のことは話さないが、学生のわりに贅沢なマンションに住む豊のことを、憧れと同時に引け目を感じているのが何となく感じられて、彼女のことをあまり詮索しないようにしていた。もちろん、恋人と言っても、まだ学生なので結婚は意識しながらも遠い未来のことのようで話をすることはなかった。
そもそも大学時代というのは、自由に女遊びが出来る唯一の時でもある。付き合い始めると、すぐに結婚だとか、親に紹介するなどとめんどくさいことを言う女子も多いのだが。
豊は、見た目も好青年だったし、大病院の実家のおかげで、東京でマンション住まいだし自家用車も持っている。合コンすれば一番かわいい子をお持ち帰り。何度か付き合っても、すぐ飽きて次の出会いを求めてしまう。プレイボーイだとかジゴロだと、もてはやされて、いつの間にか真面目な女の子は相手をしてくれなくなった。そんなウワサを、知らないようで、満員のカフェで「お隣、いいですか?」と言って、横の席に座ったのが明菜だった。「学部はどこなの?」と豊が聞くと「文学部国文学科です。教育学ですけど、理工学科ですか?」と言って、飲んでいるアイスティの横に目を通していたアルバイト情報誌を置いて、笑顔で応えてくれた。普段は一人でカフェなど入らないのだが、次の時間が休講になったものだから、大学近くの、お洒落なカフェで可愛い女の子でも会えないかとスケベ心で入ったのが正解だったようだ。「俺は薬学部なんだ。だから8年も通わなければならないんだ」と言うと「大学院とかですか?」と聞くので「いやいや、出来が悪いものだから、8年したら追い出されてしまうからね」と言うとクスリと笑ってくれた。「私は、一年生なので、まだ東京暮らしには慣れていなくて。今は厳しい女子寮にいるので、門限が早くて、なかなか良いアルバイトが見つからなくって。実家は母だけなので、経済的な負担はかけたくないので今日も、このカフェが募集していたから面接に来たのだけど。人見知りなので、飲食のバイトなんてできそうにもないし。せっかく、履歴書持って来たんだけど、店長さんに声かけれなくて、思わずアイスティのオーダーしちゃって。何やってるんだろうって、情けなくなっちゃう」と目を伏せる。「お酒は、まだ未成年だから飲めないんだよね」と聞くと「まだ、コンパとか行ったことないから、わかんないけど。友達なんて、新人歓迎会とかで飲まされるって言ってた。でもね、どうせクラブ活動なんてしている余裕もないし、大学って教材だって高いし。私は教職取っているから、取らなければいけない単位も多いし。みんなのように優雅なキャンパスライフなんて無理だわ」と寂しそうな顔をして言うものだから豊はつい「じゃあ、新人歓迎会を二人でやろうか?せっかく上京したのに、おいしい食事も遊びにも行かないなんて、もったいないよ。ねえ、何が好き?フレンチ?お寿司?それとも、焼肉かステーキなんかもいいね」と言うと「初めて会ったばかりの方と、そんな」と呆れ顔で言うのが新鮮で、真正面に向き直って本格的にアプローチを始めた。「ねぇ、名前聞いていい?俺は尾崎豊。歌手にも有名な人いたけど。母がファンだったみたいで、恥ずかしいんだけど。覚えやすいでしょ?」と苦笑しながら言うと、少し遠慮気味に「田中明菜」と恥ずかし気に小声で言ってくれた。「明菜ちゃんか。可愛い名前だね。ねえねえ、午後からの授業サボッて、ドライブでも行こうよ。湘南とか鎌倉とか。今からなら海の見えるレストランで食事もできるし」と強引に誘った。「ごめんなさい。午後からの授業は出ないと、単位が取れないと困るから」と断られた。ノーと言われればいわれるほど、燃え上がるのがドンファンの宿命。
「じゃあ、授業が終わるのは何時?袖振り合うのも何かの縁。東京ミッドナイトツアーに、ご招待するよ」と言うと「門限が8時なの。遅くなる時は、前日まで報告したら10時までいいそうなのだけど、私は7時の食事までは、いつも帰っているので、せっかくだけど」とすまなさそうに言った。断るのが心苦しいようで、何か罪滅ぼしでもできないものかと考えあぐねている様子が面白かったので、ついからかってしまった。「こう見えても奥手なんだ。明菜ちゃんが、あまりに可愛くて、つい強引に誘ってしまったけど。軽い男だと思った?」と目をのぞき込んで言うと、頬がみるみるピンクに染まって初々しかった。「ウソ、私なんて田舎者で。周囲の女の子を見ると、コンプレックス感じちゃって。そんな冗談、本気にしたらどうするつもり?」と意地悪そうな目を向ける。「本当だよ。都会のチャラチャラした女なんて、キミの足元にも及ばないよ。男なんて、化粧の上手い女よりも、素顔の可愛い純情そうな気取らないキミのような女性に魅かれるものなんだよ」と囁くように顔を近づけて言うと、みるみる耳まで真っ赤になった。「あと、ひと押し」と豊は明菜の白い華奢な手を包むように握って、「これからドライブ行こうよ。もっとキミのことが知りたいし、何より離れたくないんだ」と言うと、かすかに振るえる手に力が入りコクリと頷いた。「本当?嬉しいな。車回すから、ちょっと、ここで待ってて」、豊は、明菜の携帯電話に電話すると言って、電話番号を聞きプッシュしてワンコールだけ確認してカフェを出て行った。しばらくして豊から電話があり、指示通りカフェの前で待っていると、真っ赤なポルシェが停まり、中から豊がドアを開けた。しばらく戸惑っていたが、後ろから車が来てクラクションを鳴らすので、急いでポルシェに明菜は乗り込んだ。車の中では尾崎豊の【I LOVE YOU】の曲が流れていた。「この曲、知ってる?」と豊が聞くので明菜は声も出さず頷いた。そこから、豊は銀座や浅草や上野を案内して、夕方には早々に東京タワーの見えるレストランで食事をした。車なので飲めないので、健全な時間に渋谷まで明菜を車で送って行った。女子寮まで送ると言ったのだが、「誰かに見られたら困るから」と言って、渋谷が便利がいいと言って、住んでいるところは教えてくれなかった。「こんな贅沢な所に連れて行ってくださる人に、あんなボロ女子寮なんて見せられないし」と明菜は恥ずかしがった。「次は、いつ会える?今度は湘南に行こうよ。鎌倉でもいいし」と言うと「わかった。次の日曜日はどう?横浜で10時に。車の止められそうな所まで行くから。電話して来てくれる?」と笑顔で行った。セミロングの少し茶色かかった柔らかそうな髪が風に揺れていた。モノトーンの学生らしい清楚な感じが新鮮だった。
いつもなら豊の方から提案するのだが、親しくなるに連れ、彼女のペースになっていて、別れる時には彼女が主導権を取っていた。それが豊には、新鮮だった。今まで付き合ったことのないタイプの女性だった。こんなに好きだと言っているのに、肩に置いた手もすり抜けられて、キスひとつもできなかった。スキが無いというか、かわされてしまうのだ。そして、悪びれず、爽やかな微笑に、瞳はくぎ付けになる。手に入れたいのに、手が届かない。いい線行っているのに、肩すかしを食らっている感じ。洒脱な会話も、完璧だった。途中、豊のマンションにも誘ったが、もちろんなびかなかった。そんなに簡単におちる女には興味ないから合格だとも言える。でも、いずれ、あの高級マンションに来る日も近いだろうと、今までの経験で感じていた。なのに、次の日曜日も、鎌倉の海に行っても、砂浜を子供のように走って行って、海岸無邪気に遊ぶものだから、砂だらけになってキスどころではない。スケベ心満載の豊はガマンができなくなって横浜のラブホテルに入ろうとした。しかし、明菜は泣きそうな顔をして断固として、それを拒んだ。そして、真っ赤な目をして、東横線の日吉駅で強引に車を停めて降りて行った。
それから、どれだけ電話しても明菜とは連絡が取れなくなった。「会えないのなら、キミの学部の校舎の前で何日でも、何時間でも待っている」とショートメールを入れたら、電話がかかって来た。「もう二度と、あんなことしない?」と言うので「神に誓って」と答えた。そんな自信は無かったが、そうでも言わなければ、二度と会ってくれない気がしたからだ。別れてからも、ずっと明菜のことを考えていた。「あの程度の女なんて、そのへんに何人でもいるじゃあないか?なのに、何で気になる?どこで生まれてどんな生活をしていたのか?親のことも家族のことも、過去のことも何も話さない。電話が繋がらなければ、二度と会えない気がする。逃げるから追いかける。それが男の性分だから。今まで狙った獲物を逃がしたことは無い。いや、フラれたら追わないのが自分のやり方なのだから。失恋なども無い。来る者拒まず、去る者は追わず。それが、自分の流儀だった筈だ」と豊は苦々しい思いで、先日の湘南デートを思い出す。砂浜で彼女と肩を並べて、海を見ながら話をして、夕日の美しさに感動しながらキスをする。それが、いつものパターンだったのに。海を見た途端、砂浜を駆けて行って、一人で波と戯れる。追いかけて、捕まえようとしても足が速い。スポーツ万能だと自慢して、つい勝負をしていたら、本気になってムードなど何も無い。濡れたジーンズのまま、車に乗って、「やだ。早く帰らないと風邪ひいちゃいそう」などと言って、食事もしないで早々に帰ろうとする。ジャブジャブ海に入って豊にも海水をかけるものだから、濡れてしまって予定していたオシャレな店にも入れない。着替えも持ってきて無いので、諦めるしかない。早々に横浜駅まで送って、その日は終了。とにかく、自然児というか天然というか?突拍子が無くて、どうも恋人気分にはなれない。でも、このままにはしたくなかった。秘密めいた彼女の素顔を。本性を剥がしたくなった。処女か?それなら、一度体を重ねたらオシマイだ。きっと自分のモノになる。すぐに、自分色に染めてみせる。そう確信したのに、半年過ぎてもプラトニック。キスひとつも、させてくれなかった。自分のことをキライなのかとも思った。自身もコッパみじん。恋を語ろうとすると、くすぐったいかのように笑って体を離す。奢って、尽くして何のご褒美も無いのか?と悔しくて、別れを覚悟したことは数知れず。喧嘩する度に、明菜のことが少しわかる。怒った時に、少しづつ明菜の苦しみが見える。「男の人って、女をそんな風にしか何で見てくれないの?結婚してからで、いいじゃないの?子供が出来たらどうするの?女の私にはわからない。好きなら、嫌がることなんてしないんじゃないの?どうせ、遊びの女の一人だと思っているんじゃないの?」と言う明菜の体は実際、恐怖で震えていた。「ごめんなさい。嫌わないで」と言って、背中から抱き付かれたこともあった。そんな明菜が愛おしくて仕方無かった。
ポツリポツリと語る、少女時代の話には、胸が痛んだ。優しい先生だと思っていた高校の教師は、放課後、明菜を指導室に呼んで無理矢理抱きしめ胸を触った。幼い頃から合気道をやっていたおかげで教師を投げ飛ばし、家に逃げ帰った。教師はケガをして救急車で運ばれたと後で聞いたが、明菜がそれから学校に行くことは二度となかったらしい。大検を受けて合格。自力で今の大学に入学したらしい。
しかし、高校の時のトラウマは明菜を恋愛から遠ざけた。怖くて、男性を見ると逃げ出した。でも、豊に手を握られた時、嫌では無かった。むしろ、胸が熱くなった。恋しているのかと思ったらしい。しかし、デートで、ホテルに連れ込まれそうになった時、あの放課後の先生の顔と豊の顔が重なって、恐怖を覚えたのだと。「好きなんだ。明菜が嫌がることなんてしない。神に誓って。俺は明菜と2人だけで、ゆっくり話せるところを探していただけなんだ」と、言い訳をした。「でも、ラブホテルなんて行ったことないけど、男女が淫らなことをする所なんでしょう?」「淫らだって?」と豊は、思わず爆笑していた。「好きなら淫らになる位、キミを快楽の海に沈めたいと思うのが当然だろう?いくら過去のトラウマがあろうと、それで本当の恋ができないなんて可笑しいよ。男女が愛し合うことは、汚いものじゃぁない。神聖な、神々しいものなんだ」と彼女の震える心を受け止めるように言った。それでも頑なに明菜はスキンシップを拒み続けた。「ホテルってね、カラオケとかもできるんだ。それに、船が浮かべてある部屋とか、スベリ台がある部屋とかあって面白いんだよ。車を止められるし、ランチも豪華で美味しいんだから。一度行ってみない?絶対に明菜ちゃんが嫌がることはしないからさぁ」と粘り強く言ったら、やっと承諾してくれた。
豊に襲われたって、かわすくらいの力量はある。しかも、今まで連れて行ってくれた所は、どこも面白かったし、食事も美味しかった。その上、あれから無理矢理明菜に迫ることも無くなった。そういう意味で、豊の願いも少しくらい叶えてあげてもいいと思ったと後で言っていた。
そこは、ゴージャスなラブホテルで有名なところで、最上階には一部屋しかなく、入るとガラス越にプールがあった。その水の上には大きなボートが浮かんでいた。豊は声を挙げて、そのボートの上にジャンプして乗り込み、まるでトランポリンのように体を弾ませながら明菜を呼んだ。「おいでよ。面白いから」と言って。明菜は部屋をゆっくり眺めながら、大きなベッドの上にある沢山のボタンを触っては、驚いていた。「ほら」と豊がTシャツと短パンを明菜に投げて、自分は、そそくさと同じラフな格好に着替えて、プールの中に飛び込んで、泳いでいた。明菜も、そのプールに映し出されるイルカや魚の映像を覗きこんで思わず目を見張った。「早く明菜ちゃんも着替えて一緒に泳ごうよ」と爽やかに豊がプールの水を明菜にかけた。「冷たい。お洋服が濡れちゃったじゃぁない」とふくれっ面したが、すぐに着替えて来て、バスローブをプールサイドに脱いで、水の中に飛び込んだ。「素敵。まるでイルカと一緒に泳いでいるみたい」と言って、泳ぎ始めた。「久しぶり。プールなんて何年ぶりかしら?」と言う明菜を水の中から豊がふいに現れて驚かせる。「もう」と言って、水をかけ合う。そして、水中で絡み合う。「やめて」とコワイ顔をして睨まれると、豊は何もしていないよと言わんばかりに両手を挙げる。「ほらボートの上に上がってごらん」と豊が手を伸ばし、明菜をボートの上に持ち上げた。ボートの上は広々としていた。豊が歩くと明菜は立ち上がろうとするのだけど、すぐに座りこんでしまう。その横に豊は体を投げ出し、横になる。「明菜ちゃんも、横になってごらん。水音が聞こえて、気持ちがいいから」と言って目をつむり、耳をそば立てている。明菜もそっと、横になってみる。滝のような水しぶきの音が、どこからかする。明菜は目を開けて、周囲を見ると、大きな竜の口の中から水が滝のように音を立てて噴射していた。豊がボタンを押すと、天井から光がガラス超しに青空が見えた。眩し気に豊が目をそば立てる。「ウワサには聞いていたけれど、すごいな」と息をのんだ。「屋上だから、夜には星空が見えるんだろうね」と明菜に微笑んで言う。「豊さんも、初めて来たの?」と聞くと「当たり前だろう。学生が頻繁に来れる金額では無いからね。本当に好きな子が出来たら来ようと思って、小遣いを貯めていたんだから」と、まるでいたずら坊主のような、あどけない顔をして言った。「なんか癒されるよね。たった2人きりで、どこかのリゾートに来たみたいだ。それにしても、よく、こんな所作ったよね」と周囲を見渡していた。「いろんな所にボタンがあるだろう?どんな仕掛けがあるのか?押してみようか?」と言うが早いか、近くのボタンを押す。いきなりボートが動き始める。そして、プールサイドにぶつかると、方向転換して、また違う方向へと波を立てて動く。二人は、ボートの中で転びながら、停止ボタンを探す。他のボタンを押すとボートの上はローラーのようなものが走り、まるでマッサージ機のようだ。「案外気持ちいいね」と豊は、その体をローラーの上に横たえて喜んでいる。また違うボタンを明菜が推すと上から温水のシャワーが。みるみる泡だらけになる。フワフワの泡に包まれていると、上からシャボン玉が次々に。太陽の光でキラキラ輝いて、思わず明菜は「綺麗」と呟いていた。違うボタンを押すと風が。天井のガラスが音を立てて、開いていた。「夏ならいいけれど、今はちょっと寒いね。」と言って、ボタンを押す。ガラス窓は閉じられ、屋根も一緒に閉じられた。天井にはプラネタリウムのような星々が輝いている。「素敵」と明菜は夢現。豊は明菜の細い体を抱き寄せ、そっとキスをした。一瞬の出来事だったので、明菜も贖うことが出来なかった。泡にまみれた体はツルツル滑って、豊の腕から逃げ出すのも簡単ではなかった。それぞれ、思うように体がすべって動けないので、しばらくは絡み合い、ジタバタ笑いながら触れ合っていたが、そのうち豊が抱きすくめて「愛してる、こんな気持ち初めてなんだ。ずっと一緒にいたい。一緒に住まないか?」と言った。それには答えず、明菜もギュッと豊を抱きしめた。そして、そのまま転がるように水の中に沈んだかと思うと、向こうのプールサイドから上がって、お風呂の方に消えて行くのが見えた。豊も、慌てて明菜の後を追う。シャワールームに飛び込んだ豊は明菜の白い肌に縋りつくように抱きしめた。シャワーが豊の体の泡を溶かしていく。濡れた衣類を脱ぎ捨てて挑みかかろうとする豊にシャワーが噴射され、明菜はお風呂に飛び込んだ。その俊敏なこと。豊も後を追ったが、「ダメ。何もしないって約束でしょう?」と、たしなめられた。「何もしないから。お願いだ。肌を寄せ合っているだけでいいから」と両手を挙げて降参したかのようなフリをして懇願する。明菜は近くにあったロープで豊の両手を縛る。そして、自由のきかなくなった豊の上に乗って、激しくキスをした。「私の言うこと、何でも聞いてくれる?お湯の中で豊は悶絶していた。「なんでも言うこと聞くから。許して」と。明菜の目には、いつもの純情そうな様子は消え、妖艶な悪女のように目は笑っていた。
目が醒めたのは、次の朝だった。明菜は何事もなかったかのように、コーヒーを入れてくれていた。洋服はいつの間にか、着用して、すぐにもチェックアウトできそうな感じだった。豊は昨夜の彼女の豹変ぶりが、まだ信じられなかった。聖女のような仮面の下に、あんな残虐な悪女の顔が隠れているなんて。「面白かった?」と豊の膝の上に乗って手を絡ませて来る。頑なに拒んでいたのに、一晩で別人みたいだと豊は言葉を失っていた。どう明菜に声をかけたら良いのかさえ、わからなかった。「夢みたいだったよ。君は?」と言う豊の口をふくよかな明菜の胸が塞いでいた。「隠していた修羅の私を、呼び覚ましたのはあなたよ」と厳しい声で明菜は言った。そして、耳を軽く噛みながら息を吹きかけて「今日から私は、あなたのもの。もう離さないで」と囁いて、ベッドの上に押し倒した。なんて、身が軽いのだろう?力だって、半端じゃぁない。そして、めくるめく快感に埋もれて、意識を無くしてしまった昨夜の営みを、思い出すだけで「とんでもない女と関係を持ってしまったのではないか?」と恐怖さえ感じているのだ。なのに、まるで蛇に睨まれたカエルのように、成す術もなく、彼女の言いなりだ。
ライオンの雄は雌ライオンを自分の下僕にするために200回もセックスをすると言う。そして、雌ライオンが白旗を挙げるまで辞めないのだと言う。それが無いと、群のトップとして君臨することはできないのだ。若いライオンたちが、その雄ライオンの地位を求めて闘いを求めて来ても、決して負けない。負けた方が群から去らねばならないらしい。人間は知恵とか経済とか、地位や名誉などという武装で、動物としての根本的な逞しさをそれほど重視されなくなってしまった。まだ豊のような好色で肉食系男子はマシだが、種を残す能力も衰えた男子たちは群を成すこともなく、家族や子孫すら放棄して独身貴族とやらの自由を謳歌している。女性を抱くことも無く、愛し合う悦びも知らぬまま。そんな情けない友人たちを見るにつけ、女性たちに悦楽を教えてあげるミッションが自分にはあるのではないかと勝手に思っていた。明菜と出会い、体を重ねるまでは。
あの日から明菜は豊のマンションで同棲するようになった。引っ越しするほどの物も無いらしく、まるで旅行に行くみたいな感じでサムソナイトいっぱいの洋服や身の回りの物を持って来て、豊の生活の一部となって馴染んでいた。豊の携帯電話はGPSで管理されていた。いつどこにいるのか?会話も盗聴されているかのように、筒抜けだった。
全て明菜に豊の行動はコントロールされていた。豊も明菜の肉体に溺れ、大学にもほとんど行かなくなってしまった。「このままでは、いけない」と思えば思うほど、明菜との情事にふけってしまう。社会とは断絶されてしまい、未来はずっと明菜との日々しか思い抱かれない。
ある日、豊の両親がマンションを訪ねて来た。珍しい事だった。大学から、また留年の沙汰が届いたのだろう。ラッキーなことに、その日は明菜は大学に行っていて留守だった。随分痩せて生気の無い息子に両親は驚き、体を心配した。「大丈夫。少し休めば大学にも行くから」と言って、両親を納得させた。毎夜繰り返される情事に体力を奪われ、疲れ切っていた。
なのに明菜は日に日に艶っぽく、女の色気が出て来た。趣味の良い洗練されたファッションのせいだろうか?髪にはカラーを施し、緩やかなパーマがフェミニンな女性を演出していた。化粧の腕も上がったようで、明菜を見る男たちの目は、彼女の美しさに色めき合っている。豊は、あまりに激しい愛の営みに、誰かが明菜の相手を一日でもしてくれたらと真剣に思うほど、疲れきっていた。「明菜ちゃん、もうダメだよ。勘弁してくれ」と懇願すると、「だって、豊さんが浮気できないよう毎日空っぽにしてないと、安心できないんだもの」と言う。「まさか。絶対に浮気なんてしないよ。神にかけて」と言っても「豊さんの神にかけてって絶対嘘だもの。信じられない」と攻め立てる。
彼女が大学に行っている間に、豊は逃げ出した。案陳・清姫の如く、明菜は豊を探しまくり、実家まで押しかけて来た。賢い豊の母親は、「豊は精神を病んで、長野の病院で療養させています。ところで、あなたは誰?豊の彼女なの?」と問い詰め、別れを強要したのだ。「ひどい。私のお腹には豊さんの子供がいるのよ。お母さま。この子を堕ろせとおっしゃるなら慰謝料頂きたいです。誠意を見せて下さい。この1か月、毎日のように愛し合っていたんです。豊さんを私に返して。この子の父親を」と言って、号泣した。
その姿を奥の間で見ていた父親は不憫に思って豊に迫った。「あの子と結婚しなさい。純粋そうないい子じゃぁないか。ちゃんと父親としての責任を取らないと。お前も年貢の納時だ」などと言われた。
父親も明菜の美しい容姿が気に入ったのだろう。実家で療養して元気になった豊は、次第に明菜のことがまた思い出されて、まるで中毒者のように明菜を求めてマンションに帰った。
しかし、そこには明菜の姿は無く、豊のコレクションした時計とか、金目のものは全て無くなっていた。父親に聞くと、慰謝料500万円も渡したのだという。シングルマザーとして子供を一人で育てると言うのだから、少ないくらいだと言った。そんな筈はない。ちゃんと子供が出来ないよう心がけていたしかし、本人がいない今、それを正す手段も無い。彼女が専攻していた文学部の学生課に行って、彼女の名前を探したが、どこにも明菜の名前が無かった。携帯電話に残っている筈の明菜の写真は全て消されていた。唯一、友人に送信していた写真が見つかり文学部に行って、写真を見せたが誰も彼女のことは知らなかった。携帯電話に電話してみたが、「現在使われていません」との機械的な声のみがリフレインした。
明菜の姿を探し求めていたら、いつの間にか季節は変わり、少し肌寒い。気がつけば、外は金色の銀杏並木。「銀杏ってね。火事に強いんだって。だから、道路に植えられて、都市を守ってくれているんだって」と、初めて会った時、明菜が教えてくれた。道成寺で愛の炎で焼き殺された安珍にはなれなかったけれど、清姫ほど豊のことを明菜は愛してくれていたのだろうか?体を重ねた日から、快楽に身を委ね、情念に捕らわれた明菜はまるで別人格だった。
幼い頃の父親からの暴力とか、預けられた親戚の叔父や従弟たちからの性的ないたずらとか。全ては、豹変した明菜から聞いたことだったが。普段の純情そうな明菜に聞いても知らないと答えるところをみると多重人格なのかも知れないと豊は感じていた。それでも、その全ての人格を豊は愛していた。面白いとも感じていた。その辛い体験を話す時、明菜は悲し気で途中何度も唇を噛んで涙を我慢しているように見えた。そんな時の明菜は狂おしいほど豊を求めて来た。汚い過去を消し去りたいかのように。毎晩攻め立てられ、精魂尽き果たした豊には、明菜の精神状態にまで思いを馳せる余裕が無かった。
半年以上、豊のアプローチをかわしていた明菜は、自分の中にいる別人格の存在を知っていたのではないだろうか?そして、女の悦びを知った時、封じられた過去のトラウマが淫乱で醜悪な修羅のような別人格に支配されてしまうことを知っていたのではないのか?白くて柔らかな肌。しかし、煙草を押し付けられたかのような跡が、あったことを豊は鮮明に思い出していた。
その傷跡に指を這わした時、明菜の目から光が消えた。体は無気力になって、人形のように精気が無くなっていたことがあった。ドS の明菜。執拗に絡みついて来る悲し気な明菜。純情そうに顔を赤らめる明菜。一体、自分が愛したのは、どの人格だったのだろうか?それとも、愛していると思っていたのは、あの体と美しい容姿だったのかも?体が元気になると、明菜と過ごした日々が懐かしく、あの甘美な時が思い出されて体の芯までジンジン響いて眠れなくなる。何度も何度も携帯電話に電話をかけてみる。空しい電子音しか聞こえないのがわかっていながら。
しかし、いつか明菜は自分の元に現れて「あなたの子よ」と、あの時出来たという子供の養育費を請求するかも知れない。どこかに自分が死ぬほど愛した、女がいることを。もしかしたら、その時の愛の結晶が今も成長しているかも知れないという甘美な想像が拡がる。
金色の銀杏の葉が豊の前に落ちて来た。それを拾い上げて大事そうに手帳に挟む。この銀杏の葉の色が褪せてしまっても、きっと忘れない。燃え上がる情念の炎の中で、愛の快楽に身を溺れさせた恐ろしくも甘美な日々のことを。晴れ渡る冷たい秋の風に首をすくめながら、学生たちの快活な笑顔の間を、孤独な気持ちで通り抜ける。そして、ふと胸のポケットから携帯電話を取り出して、住所録の画面を開く。そこにあった、もうつながることのない田中明菜の連絡先を少しためらいながらもデリートした。逃げた鳥は、もう帰って来ない。どんなに思いを馳せても、この手を振り切って別れた女は今までだって、二度とは戻って来なかったのだから。男と女の違いはそこにある。
男は一度体を重ねた女は、いつまでたっても自分の大切な持ち物のように、助けを求められたらどうにかしようと思うものだが。女は一度別れたら、二度と顔も見たくないのだと言われたことがある。過去に囚われ、振り向いてばかりいるのは男ばかり。ふと、大学に入って、付き合った女の数を数えてみる。肉体関係があった女は22人?食事に行ったり、旅行をしたり、キスまでした女は余裕で50人は超えているだろう。会えば、わかるだろうか?しばらく会っていないと女は化ける。別れて満たされた女は見違えるほど綺麗になっていたり。あるいは不孝な恋愛を繰り返し、容姿も輝きを失い目を背けたくなる子もいた。明菜はお腹の子供を抱え、今どこで何をしているのだろう?もう一度抱きしめたい。でも?また、何も手がつかなくなる程、肉体の快楽を貪る日々を続けるワケにはいかない。明菜との健全な未来を予想することは難しい。
豊には将来大病院を支えるために、大手医療メーカーのお嬢様との結婚が求められている。卒業したら、お見合い相手の誰かと結婚させられてしまう。それを拒むことなどできない。尾崎家の豊かな経済力が無ければ、自分なんて何の力も持っていないことはよく知っているから。だから、どれだけ好きな子が出来ても、所詮いつかは別れなければならない運命にある。明菜のような凜とした芯の強い女を振り切れる自信など無い。あのまま続いていたら体も未来もボロボロになっていたとも予想できる。二度と明菜と連絡もつかないことは、ある意味良かったことのように思われて、どこかで、ほっと安堵しているのに気付いて、苦笑していた。「銀杏は、火事の時に町を守るために植えられたんだって」と言う明菜の声が、ふと聞こえた気がした。明菜の激しい愛憎の炎から守ってくれたかのように、金色に輝く銀杏並木が何事も無かったかのようにきらきら輝いていた。