兄と妹
六花が飛び出した病室は、エア・コンディショナーから送られてきた風の音が聞こえるくらい静まり返っていた。
三度ほど鼻を啜った頃だろうか、蔑んだ目で俺を見ていた母が口火を切った。
「賢二! 貴方本当にそんなこと思って──」
「思ってるわけないだろ!!」
「本当に!?」
「売り言葉に買い言葉だよ。あんな事言うつもりはなかった……」
ついムキになって、あることないこと言ってしまった。
「あなたからも言ってください」
「んっ」
母からの懇願に、だんまりを決め込んでいた父が応じた。
「お前にしては随分と短絡的だったな。子供の頃は、もう少し思慮深い奴だと思っていたが。それとも儂の見込み違いだったか?」
「……すいません」
いつもとは違った、淡々と話す父の言葉が胸に刺さる。再び黙り込む俺を見兼ねた母が、諭す様に話し出した。
「六花がどうしてあんなに怒っていたか分かる?」
「だらしない俺にだろ。あと暴言も吐いたし」
「それもあるけどね…… 貴方が例えに出てた専務の芳川さん、過労が祟って去年の暮れに倒れてしまったの」
「えっ!? ……大丈夫だったのか?」
「…………」
母が頭を振った。そうか…… 知らなかった。つくづく最低な奴だな、俺は。
芳川さん…… 思い出した、そんな名前だったな。実業団でバスケの選手をしていた人で、ガッチリとした体躯をしていた。だけど見た目とは裏腹に凄く腰が低くて優しい人だった。黒縁メガネがトレードマークで、子供の頃よく借りて遊んでいた気がする。兄妹揃って「よしかわのおじさん」なんて呼びながら、足元にまとわりついて……
じわりと涙が浮かんできた……
「なんて酷いことを言ってしまったんだ」
芳川専務と三好君、そして六花にも。
「もう過ぎたことだわ。貴方も芳川専務には可愛がってもらったでしょ。後で墓前に顔を見せに行ってあげて」
「わかった」
「賢二!」
「はい!?」
「お前にも色々背負っている物が有るのは重々承知だ。辛くて嫌な記憶に目を背けたくなるのも分かる。だが逃げてばかりでは解決しないのは、お前が一番よく分かってる筈だ」
「はい」
「それにな、お前勘違いしてるぞ。六花が遊んでる?
逆だ、あいつは文句一つ言わず家の手伝いや儂のサポートを買って出てくれた。 大学も休まず成績はトップクラスを維持していたそうだ。何故だか分かるか?」
そんなこと、六花は一言も言ってなかった。
「あいつの夢はな、かっこいい兄貴の傍らでサポートすることだ。兄妹で家業を盛り立てたい。その為に自分は最難関の国立大学に行った兄に近づきたいんだって頑張っていたんだよ」
知らなかった。熱すぎるだろ、六花!
「お兄さん……」
「三好君……」
「謝って…… もらえませんか」
「ああ、そうだった。三好君、酷いことを言って申し訳──」
「いえ、僕のことはいいです。謝ってもらいたいのは六花ちゃんにです」
「えっ!? あっ、君にもボンボンなんて舐めた事言っちゃったんだけど」
「それは事実ですし」
「認めるのかよ」
そんな事は良いんですと三好君は答える。
「六花ちゃんが言ってました。高二の文化祭迄は勉強が出来て人望もあって人気者だったお兄さんが大好きだったと。それが人が変わったように学業の成績のみにこだわるようになり、他人を寄せ付けなくなって悲しかったと。六花ちゃんは昔の優しいお兄さんに戻ってくれると信じて頑張ってきたんです。ですからッ!」
ゆっくりと彼は頭を下げた。
「……ですから、そろそろかっこいい兄ちゃんの姿、見せてあげてください」
「……」
身体を電撃が走った。六花と…… 六花とちゃんと話さなければ。俺と三好君は目を合わせると、無言で頷いた。
「三好君、六花は?」
「屋上…… だと思います」
「わかった」
俺は屋上に向かうため、足早に病室を後にした。