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汚くて、卑怯で、ずる賢くて、悪辣で、意地悪で、冷たくて、一言で言うと、ただただ醜悪なもの。
それが私。
パンッと破裂音が響く。
「※※※!」
顔を平手打ちされた音、平手打ちは気を付けないと鼓膜が破れるから、なるべく頬を出すようにしてる。
母が何かを喚いているいつもより煩い。
見上げて目を合わせると、さらに激昂するので早めに泣き真似をして母の嗜虐性と優越感を満足させてやる。
今日はよっぽど嫌な事があったらしい、跡が残る場所でもかまわず叩いてくる。
鬱陶しい。
今日の切っ掛けは何だろうと考える。考えてから出た結論は、理由なんてないって事だった。
学校にはなんとか通ってる、あまり行きたくはないけど家よりはまし、帰ってきていきなり叩かれて喚かれた。
自分のストレス発散で、子供をサンドバッグにしたいから理由なんて後づけなのだ。
母の怒りのスイッチは、突然入るから、空気を読んだり、顔色を見たり、母の言って欲しい言葉を考えたりが私の毎日だ。
私をサンドバッグにして、母の気がはれた後は、猫なで声で私の機嫌をとってくる。
ほんと、気持ち悪い。
今までは、私が悪いから殴られて怒られると思ってた。だけど、ある時気がついた。
何も悪い事なんてしていないって。
毎日理不尽な事で怒られてると、怒られる嫌な出来事や言葉を忘れようとする脳みそになるのと、悪い事をしたのは私じゃないって気持ちが強いから、物事すべてに責任を持ちたく無くなる。
無意識に自分の事なのに他人事のように話すようになった私。
だって責任をもったら今よりも怒られるもの。
これしか知らないから、これが普通だと思っていたのに、私の日常が異常だと突きつけた、優しいあの人。あの瞬間までは、私は普通だったのに、優しいあの人に同情され憐れまれて私は絶望した。
だからなのかな、私は大人になる前に死んでしまった。
毎日、毎日、怒られて、殴られて、頭がぼんやりしていたら、頭の奥に激しい痛みが襲って、うずくまったら動かなくなった私の体。
吸い込まれるように、天高く舞い上がって私は時空の歪みから黒い塊が出てくるのをぼんやり眺めてた。黒い塊は、とても強くてとても歪んでいて私の魂は歓喜に震えた。
だって、ちっぽけな人間全て消してくれそう。
目も鼻も口もない、全部黒い色で塗りつぶされている。ちっぽけな私なんか気にもかけない、私のまわりには、私と同じような魂の存在が固まって震えてた。
目が無いのに、それから視線を感じた。
圧倒的な支配者に、吸い寄せられるように近寄るのは私だけ、辺りにいた魂は逃げまどって震えている。次の瞬間、私は黒い塊に握り潰された。
グシャ。
握り潰された時に、黒い塊の意識が少しだけ流れ込む。それは、憐れみだった。
次に意識が浮上したのは、自分の泣き声の煩さで。私を産み落とした者から憎悪に満ちた目を向けられ、汗と涙と血の中、私はこの世界に生まれた。母は私を産み落とすと、抱きもしないで私を遠ざける。
生まれて早々に、また今世の母にも疎まれるのかとうんざりした。
どうもあの黒い塊に握り潰された時、少しだけ黒い塊の力が私の魂に混じったようで、私は前世の記憶と、飛び抜けて強い魔力を持って生まれてきた。
「…マリー…」
「ローズマリー」
パチッと意識が覚醒する。兄がすぐ側に立っていた。
「はい、お兄様」
「ここにいたのか。あのね、急は話なんだけれど、明日お客様が来るからそのつもりでいてね」
「…お客様ですか。わたくしが会う必要も無いと思いますが?」
「ちょっと身分が高い人でね。家族総出でお出迎えしないとね」
「承知致しました」
兄はそのまま図書室から出ていく。兄の後ろ姿を見ながら思う。
あぁ、今回はここからなのかと。
私、ローズマリー・ステンシルは理由もわからないまま人生を繰り返している。実を言うと、今回で4回目だ。
1度目はよくわからないうちに全てが終わって絶望した。2度目はやり直すチャンスだと足掻いたが無駄に終わった。3度目は優秀であることが死の引き金になった。
ため息をついて考える、今回はどうしようか。ふと思いつく事があり、とても良い案に思えた。駄目でもまた繰り返すだけだろう。
明日お客様がくるという事は、兄は今年13歳のはず。今は同じ歳の第2王子の側仕えとして侍り、将来は王子の側近だ。ふわふわとした金の巻き毛にスカイブルーの瞳は垂れ目で優しそうに見えるが、中身は野心家で執念深く目的の為には手段は選ばない人だ。
そんな兄は妹の私だけは母にそっくりなので溺愛している。兄はマザコンでシスコンだ。
そんな兄も、今回の顔合わせの目的は近い将来父親を侯爵当主から追い落とす為の布石としてだ。今回の兄も、絶対に父を許さないだろうなとぼんやりと思った。
明日のお客様は王子様だ。兄が顔合わせの機会を作ったのだ。年齢も私は今年10歳で丁度良い。
「僕はアルバート・デフローレンスだ。宜しくローズマリー仲良くして欲しい」
「ローズマリー・ステンシルでございます。こちらこそ宜しくお願い致します。アルバート殿下」
「しかしヒューの妹は思っていた以上に可愛らしい」
「恐れ入ります」
絹糸のようなプラチナの髪と見るものを惹き付けるスカイブルーの美しい瞳、絶世の美女と謳われた今は亡き母にそっくりの私に王子も驚いていた。
兄ヒュスノフは満面の笑みで王子をもてなす。上手くいったようで兄はご機嫌だ。我が家自慢のサンルームでお茶をしている。父は王宮で仕事だ。
そう言えば、今のような兄になったのは2度目からだった。
1度目の時の兄は領地に引き篭もり、たまに顔を合わせるとその時の気分次第で優しくしたり殴ってきたりと情緒不安定な人だった。
そんな事を考えていたら、それが入り込むのを誰も気が付かなかった。そして、これは今までに無かった出来事になる。
「キャーおうじさまだー!」
「リリアナ?!」
今年6歳になる異母妹のリリアナが王子に突進して行った。やっぱり来たか、内心ニンマリするが困惑するふりをしておく。
「リリアナ?!」
「まあ!リリー!」
「ヒュー妹御か?」
「はい、末の妹のリリアナでございます。リリアナ部屋へ行っていなさい。アシュレイあの人は何をしてる」
「申し訳ごさいません!奥様は伏せっておいでで…」
「連れてゆけ」
兄は後妻のテレーゼ様が大嫌いなのだ。家令のアシュレイは慌ててリリアナを連れて行こうとするが、リリアナが泣き出した。
「いやーリリもここにいるー!」
ピンクゴールドの髪に薄紫のクリっとした瞳、普段から甘やかされているリリアナは王子にへばりついて離れない。リリアナに今日王子様がくるのよと、それとなく言っておいて正解だった。
リリアナは絵本の王子様が大好きだ。絶対に部屋を抜け出して来ると思った。今回は思いついた事をする為に兄には申し訳ないが、兄の駒でいることはできない。
案の定、兄の機嫌は氷点下だ。
それもこれも全部父と前陛下のせいだけど。
私が母に憎まれ遠ざけられたのも、母があんなにも早くこの世を去ったのも、兄が復讐の鬼になったのも。全部、父と前陛下のせい。
もしかして私が巻き戻ってるのも彼らのせいかも。
私だって、1度くらい好きに生きてみたい。
「まぁヒューそう怒るな。小さなお姫様、落ち着くまでいたら良いぞ」
「ほんと?」
「殿下…」
「やったぁ!おにいさまリリいてもいいって!」
兄の顔に滅多に見ない青筋がでた。うわ、兄が完全にキレた。
その茶会の翌日、婚約者として発表されたのは妹のリリアナだった。お兄さまの顔ったらなかったわ。
悪いけど笑いが込み上げる、これからリリアナは王妃教育で籠の鳥だろう。いままでの私の様に。
私は侯爵令嬢としての知識とマナーを身につけるだけで良い。とは言っても過去に王妃教育を徹底的にしていれば既に完璧。
「ふふっ」
あの恐ろしい日まで残り5年。今回は今まで殺された私の復讐をする事にする。
その為にも、私は自由な時間がほしかった、だから身代わりはリリアナだ。リリアナを殿下の婚約者にする事には成功したけど、まだまだ油断は禁物だ。
リリアナは甘やかされて育てられていた為、王妃教育は全く進まず、不出来な娘の親として父と義母は周りの高位貴族から中傷され嘲笑られるようになった。
まぁ高位貴族達の娘が殿下の婚約者になれなかった嫉妬や逆恨みが大半だったけれど。
そんなリリアナを選んだ第2王子も軽んじられる傾向となってゆく。
半月も経つとリリアナは王宮に召された。侯爵邸から王宮までの移動する時間すら勉強に回す為に。朝早くから夜遅くまで、分刻みのスケジュールだ。
思いの外、父と義母にダメージを与える事が出来たせいか兄の機嫌が良くなった。
目障りな異母妹が扱かれているのを横目でみて溜飲が下がるのだろう。
私はといえば、今までの中で1番心安らかに生活して、全てにおいて平均的な侯爵令嬢を演じている。
3度目の時は評価を高くしてしまい目をつけられてしまった。今回はそんな事はしない。
リリアナが王宮に召されてから半年、私は11歳になった。亀の様に遅いリリアナの王妃教育で父と義母の心労は限界にきているようだ。
今までも放置されていたが、今はリリアナに掛かりきりで父の顔を見るのも2ヶ月ぶりだ。
まぁ父と義母も嫌いだからそれはそれで構わない。
「お父様」
「どうした?ローズマリー」
「領地のサウザナードに行きたいのですが。宜しいでしょうか?」
「急にどうしたのだ」
「リリアナが落ち着くまで、私は領地にいたほうが、お父様もお義母様も余計な事を考えずにリリアナに専念できると思いましたので」
「…ローズマリー」
「領地でも淑女教育はできますし、遅くとも私のデビュタントまでに王都に戻れば問題ないかと」
「ふむ、そうだな。領地でしっかり勉強するように」
「ありがとうございます。お父様」
デビュタントは15歳。これで4年間は自由時間を手に入れた。自分を普通に偽っておいて良かった。元々、父は私を見るのも嫌だと思っているので丁度良かっただろう。
夜になると兄が部屋に入ってきた。
「ローズマリー領地へ行くんだって?」
「はい、お兄さま」
「そうか…ローズマリー。おまえリリアナに何か言っただろう?」
探る兄をしっかりと見つめる。
「お兄さま、もし仮に私がリリアナに何か言ったとしても選んだのは殿下ですよ?」
「そうだな」
「それに、今の現状はお兄さまには好都合だと思います」
「ローズマリーお前は…」
「大丈夫です、お兄さまの邪魔することは致しません。それに私やりたい事が出来たのです」
「…分かった。ローズマリーのやりたい事を後で教えてくれ」
「はい、お兄さま」
お兄さまは私を引き寄せると、そっと抱きしめる。
「ローズマリー向こうは寒い所だ、体に気をつけるんだよ。あとお祖父様にも宜しくと」
「はい、お兄さま。お兄さまもお元気で」
私は、翌々日にはサウザナードに向けて出発した。兄は私には激甘だ、護衛だなんだと大騒ぎだった。そんな兄は人間らしくて羨ましい。
私がデビュタントで戻る時にはどうなっているのか予想はつかないけど。私がやりたい事をしてしまえば4度目の人生はとてつもなく変わる気がする。
なんとなくだけど。