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どうしてこんなことになってしまったのだろう。自ら閉ざした扉を睨みつけながら、そんな自問自答を何度も繰り返す。
私は上手くやってきたはずだ。そうだ。兄弟たちの中でも最も賢く、あの尊敬できる父から家督を譲渡されたのはこの私だ。
けれどついに私の代にして、あってはならないことが起きている。薄汚い平民の浮浪児、それも白髪頭ごときにこの屋敷が蹂躙されるなど——
(あっては……ならぬはずだ……!)
幾重にも掛けた錠と執務机で作ったバリケードは、とても子供一人の腕で何とか出来るようには思えない。……それでも、たかが子供一人に、私が生命の危機を感じるほどに怯えているのは確かだった。
「主……。いつまでこうしておられるつもりですか」
家臣で、側近であるシルバート・グレイが口を開いた。もう何度も問われた問いだ。だが私はその言葉に答えない。彼の望む回答を、私は既に選べない。
二日前。ラグラシアタ伯爵家から送られてきた書面には、私のみならず我が家——ベータ子爵家の除籍、死刑宣告の旨が記されていた。……だがグレイがそう望んだとて、彼にそれを伝えるわけにはいかない。彼の目に、耳にそれが届かない間は、未だ私は彼にとっては貴族であり主足りうる。
この忠臣のふりをした狐は有能だ。彼を共にこの部屋に留めていなければ、素早く私が除籍されたという証拠を掴み、すぐさま私を見限り、離れるだろう。……あるいはあの“少女”の味方に付いていたかもしれない。
彼が私の状況を知るまでは、私は彼に殺されることはない。……何よりも恐ろしいのは、彼に殺されること。……嬲り殺されることだった。
「…………はぁ」
溜息を吐く彼……彼の家の者から我が家は憎まれている。それは私自身が彼にしていた仕打ちもあるが、私よりも前の代に遡る因縁だった。……彼が私を敬うべき主……貴族として見ることを止めた瞬間、私は彼の家の者共に私刑となるだろう。
私だけではなく——子爵家の全ての人間が。
「……………」
この騒ぎの原因である少女を止めたとて、再び閉じ込めたとして、ラグラシアタ家から届いた決定は覆らない。王家と繋がりが深い彼らの裁量に間違いはない。
ただ分からない。あんな、平民の浮浪児ごときが何故、どうやってラグラシアタ伯爵家と王家を動かした?
騒ぎが起こってから三日目に書状は届いた。だがそれまで屋敷の門から人が出ていないことはグレイが確認している。そもそもこの領地から伯爵家まで歩けば丸一日は掛かる。……もしも協力者がいたとして、その距離を辿り着いたとして、たかが平民、それも他領の貴族への告発など、逆に不敬罪に問われかねない。それらを全てクリアしたとしても、真偽を確かめ書状を送るには早すぎる。
(……否、そもそも)
平民であり浮浪児であり保護者も教師も存在しないただの7歳児が——どうして臆さずに貴族に喧嘩を売れた?
高位の貴族への伝手がある?……それならばこの部屋の前まで来た際それを言えば良かった。その方が余程身の安全は確保される。
無知ゆえの特効?……有り得ない。何も知り得ない小娘が、ここまで綿密な計画性を以って我が屋敷を蹂躙するなど。
(それならば、あの少女は)
——その時ふと、背筋に嫌な気配を感じ取った。
同時に巨大な爆発音と、同時に硝子が砕け、窓に背を向けていた私たちの背に破片が突き刺さり——何かが現れた気配と予感が襲った。
「何者だ!」
グレイの言葉が響く。……だがその目はそこに突然現れた少女と——見覚えのある奴隷の姿を確認して、固まった。
「何者とはご挨拶ですね。わざわざ此方から出向いて差し上げましたのに」
極めて楽しそうに、少女は嗤う。我々を嘲笑うように。自分よりも弱いものを、甚振っているかのように。
(何故——そうまで堂々としていられる?)
少女の身体は明らかにボロボロだった。白い髪は荒れ、身に着けた服もスカートも汚れ、解れ、破け、血に染まり。その細い肢体は擦り傷や切り傷、打ち身だらけだった。
彼女は拷問を受ける前に逃げ出したはずだ。それなのに、まるで受けたような傷跡と——何故か左手の爪が全て剥がれていた。
爪の残った方の腕に握られた巨大な鎚を、彼女は無造作に窓の外へ放り投げた。
「重過ぎです……。こんなの子供に振り下ろしたら、最早処刑ですよ?」
そう言われ、それが拷問部屋にあったものだということに気付く。そして彼女たちの後ろを見ると、確かにあの部屋に置かれていたロープが窓の向こうにぶら下がっていた。
だがおかしい。最上階はこの部屋だ。最上階である三階には私のこの部屋しか存在しない。……考えられる可能性は、二階から壁を伝って……屋根へ上った?こんな、体の成熟していない小さな子供たちが?
「単刀直入に言います。……降伏しなさい。既に書状は届いているはずです」
「こう、ふく……?」
気付けば、間抜けな声が喉の奥から洩れていた。
駄目だ。それはいけない。誇り高き貴族が。父から受け継いだこの家を——こんな、こんな子供に壊されるなど。
「あっては……ならない……!」
「……けれど伯爵さまの決定だそうですから。書面で記されている以上、既に陛下の耳にも届いているでしょう」
陛下——。
青ざめているのが自分でも分かった。そんな私を、くすくすと不気味に少女は嗤い続ける。そのあまりに整いすぎた顔に不思議な悪寒——奇妙な嫌悪と恐怖を感じた私は思わず、その真横に佇む己の所有物に怒鳴った。
「いつまで突っ立っている!このガキを殺せ!」
そうしたところでどうなるというものでもない。私の刑も変わらないしこの家自体への断罪も免れないだろう。——だがそれでも、目の前にいる得体のしれない何かを消し去らなければという焦燥感がした。……だが、
「………」
だが私の奴隷は——主である私の声が聞こえてすらいないとでもいうような空虚な目で、ぼんやりと少女の方に首を向けただけだった。
それはまるで、少女に決定権があるとでもいうように。
「……おい。私の命令に従えこの玩具が!お前は!私の奴隷だぞ⁉」
これまでこれが私に逆らったことなどなかったはずだ。父も母も奴隷の身分であるこれは、生まれた瞬間から我が家の家具でありペットであり所有物なのだから。
この奴隷には逆らう、という選択肢すらないはずだ。……そう厳しく教育してきた。
何度も怒鳴る私を、しかし少女は一瞥すらせず、奴隷の顔を興味深げに覗き込む。
「ふぅん成程……。もう貴方の中で主は変わっているのですね。ねえそれって貴方の意思?それとも生存本能?……でもまだ後者でしょうか。何にせよ賢い選択ですね。偉い偉い」
「私の奴隷に何をしたのだ!コレが今まで私に逆らうなど……!」
「………まだ分からないのですか?貴方は……ああいえ、彼の前では言えませんでしょうか?」
絶句した。少女が口にした彼とは間違いなくグレイのことだ。楽し気に細められた赤い目に映ったグレイの顔は、やはりというように疑惑を持って私の背を睨みつけている。
「………子爵」
感情のないその声にゾッとする。だが彼の殺気を一瞬で打ち消す不気味に明るい声が再び少女の口から繰り出された。
「でも黙っていたところで意味など有りませんね。シルバート・グレイ男爵」
「——何故私の名を」
「知っていますとも。三十年前、グレイ男爵領そのものが、当時隣接していたベータ子爵領に半ば騙される形で乗っ取られ、現在グレイ家の人間の多くが、実質的に子爵家の従者扱いだということを。……シルバート・グレイ男爵。貴方が現在家督を継ぎ名ばかりの男爵だということも」
信じがたいことだった。少女の語るそのどれもがグレイと私の知る事実であり、また、市井の平民……どころか多くの貴族ですら知らない秘すべき出来事だった。
信じがたい。あまりにも馬鹿馬鹿しい。有り得ない。……だがそれでも認めざるを得ない。この少女は何もかも知っている。目の前の少女に——私は命を握られている。
だが理解した。この少女はグレイに私を殺させる気はない。彼の復讐を実行させる気がない。その赤い目に、既にグレイは映ってもいなかった。
それを理解していないグレイは、未だ追いすがるように少女を睨みつけ、
「貴様……何者なんだ?伯爵家の諜報員か?それとも他の」
「私の正体がどうであったとして、貴方には既に関係のない話です。結局は、貴方も死刑ですから」
「………は、死、刑?」
と、面食らった。
己は免れると思い込んでいたのだろう。私も先程まではそう考えていた。子爵家と違い売買を行っているわけではない、それによって利益を上げているわけでもない。だが、本当に全てを少女は知っていた。
「当然でしょう?貴方も随分奴隷を虐めてくれたようですし、ね。ご存じありませんでしたか?この無法地帯のような国でさえ、謂れなき監禁凌辱暴行致死傷は禁止しているのです」
そしてきっと平民、それも浮浪児故失うものがない少女には、王家への信頼も名誉も部下も失った貴族に喧嘩を売るなどということすら恐ろしくはないのだろう。
だが、それでも分からない。私の疑問を、慌てたように目を回したグレイが少女に再び詰め寄る。
「有り得ない!」
胸倉をつかみ上げ、首を絞めるようにグレイは少女の身体を持ち上げる。……そんな体制でも、少女の顔は驚きすらなくただ微笑み続けていた。
我を忘れたように、少女の身体を揺さぶりグレイは怒鳴る。……私も彼も既に子供相手だとは思っていない。
「貴様は何処で私たちの情報を得たのだ⁉子爵が……私が死刑になるなど!公的書面を貴様が盗み見る隙など無かったはずだ!私の仕事は完璧だった!そうだ、子爵にあの書状を渡し、彼が見るまで封蝋は破られてなどいなかった!封筒に切れ目などすらなかったはずだ!」
それは私も確認した。希望的観測とはいえ悪戯の可能性を疑った。だがその封蝋印の紋様は紛れもなく、それだけでなく封筒自体の紙の質に至ってさえ本物であることは間違いがなかった。
この部屋に食事を運んでくるメイドから屋敷の状況は少なからず報告を受けていた。この少女はこの五日間、屋敷の外に一歩たりとも出ていない。
(……否……何故だ?……何故外へ出なかった?何故逃げ出さなかった?)
グレイが私と共に閉じこもった後の屋敷は、まともな警備態勢でなかったということは予想が付く。ここまで屋敷を蹂躙してきた彼女ならば逃げ出すくらいのことは容易だったはずだ。
私はそこでようやく、少女があえて、何らかの目的を以ってここにいるという可能性に気が付く。
頭を揺さぶられ、少女は苦しそうに目を回すが……それでも、口元は穏やかに笑っていた。
——まるで
「愚かですね」
嘲笑って——憐れんでいるように。
「そもそも伯爵家から書状が届いたのは、他でもない——私が貴方がたの所業の証拠を送ったから。それだけに他なりません」
「……しょう……こ?送った……?誰に、いつ」
「いるでしょう?貴方がたの所有している奴隷の中に一人、ご自慢の怪物が」
怪物——その言葉に、まさかと思った。書状が届いた三日目まで、門からは誰一人外に出てはいない。だが傾いたあの塀を上ることは不可能だ。二階にまで届くあの塀を越えたとするのなら、
「彼は三階から落ちて——逃げて、無事伯爵領に辿り着いたようです。男爵、貴方が書状を受け取ったのを、私も見ていましたから」
「——!なら証拠は⁉用意できるはずがない!あの怪物が奴隷紋を見せたとして、外国から逃げてきたと一蹴されるに決まっている!」
当然、顧客情報や手紙のやり取りなど、残しているはずもない。
そもそも書類などという幾らでも偽装が効く証拠に、あのラグラシアタ家が奴隷の話を聞き入れるなど——
「……爪……?——そうか、貴様は」
「ええ。……言ったでしょう?“お嬢さまを解放しろ”、と」
右手に残った、妙に綺麗に整えられた爪を見る。……平民にしては綺麗すぎる爪だった。高級感のある爪紅が塗られたそれを見てようやく私たちは、彼女がしたかった——彼女の行動の意図を理解する。
「さて」と、少女は言う。
「見たのではありません。……いえ、失礼しました。貴方の死刑は正確には確定ではありません。そうですね。貴方の死刑は……これから私が、聞かれたこと全てに正直に回答を行えばそうなる、という結論です」
体を吊るされている少女は、淡々と答える。
「……あるいは私を殺せば、貴方は何も変わらずのうのうと生きられるかもしれませんね?」
挑発している?
既に己の倍以上の体格の男に首を掴まれて——何故笑っていられる?
まさか、と考えた時には遅かった。……否、私は始めから何もかもが遅かった。
階下の騒がしい音と声。銃声と人の叫び声。そして統率の取れた足音——それらは意識を向けるよりも先にこの部屋の扉が叩かれた。
「………残念」
扉の向こうの男が名乗った名前に、私も、グレイさえも蒼白になり——けれど胸倉を離された少女だけはただ一人、
「失敗です」
と、誰に向けるでもなく呟いた。