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 ——痛い。

 しかし立ち止まり堪えている暇はない。一刻も早く、俺は、彼女の示した場所に向かわなくてはならない。

 三階のあの部屋から落ちた時、間一髪超えた塀に当たった膝が、受け身を取れずに強打した腰が、下半身全般が猛烈な痛みを訴えている。

 それでも生きていて良かったと、その強烈な痛みを以って安堵する。既に感覚のなくなった両腕はもう動かないかもしれない。だからこそ痛みがあってよかったと、今の俺は安堵している。

 普通の人間が落ちたら死ぬ高さだ。当然抵抗するに決まっている。だが両腕の使えない俺にまともな抵抗は出来るはずもない。

騒ぎにならないよう口枷をされ突き落とされた結果、俺は最大級の恐怖を味わいはしたが——しかし死ぬことはなかった。……あの少女に確信があったのかは定かではない。どうして生きているのか、俺にも完全に理解できたわけではない。……ただこうして生き延びている結果として、あの少女の言葉が妄言でなく正しかったということが証明されてしまった。

『貴方はおそらく回復力が強い——ええ、それだけの亜人です。良かったですね。貴方自身が奴隷にされた理由も分かったのではないですか?』

 千年を超える昔々の、お伽噺のような史実の物語。この世界を支配した“魔王”に創られた魔物、彼らの末裔。魔物と人間が交わった——人ではない、人に近しい亜人。

 亜人は亜人同士の子として生まれる場合もあれば、何世代も前に交わった亜人の血が突然人間だらけの家庭に生まれる場合もある。……俺は後者らしい。

 彼らは祖先とされる魔物に近い形、特徴を有して生まれる。それは主に外見に現れるが——俺はそうでない亜人だったらしい。だから人間だった俺の家族は、俺の正体に気が付くのが遅れた。

「……俺は……“亜人”だったのか……」

 少女からその言葉を聞く前、奴隷にされる以前に聞いたことはあった。見たことはなかったが、偏見や差別をしたことはない。しかしそれがまさか自分だとは考えてこともなかった。

 いや良くはないだろ、とその時の彼女の言葉に突っ込みたい。けれど語られた言葉よりも、同時に彼女が行った唐突な自傷行為によって俺は混乱していたのだ。

 それは本当に突然。俺の両腕に布を巻き終えた直後、彼女は息をするような自然さで、スカートに隠し持っていたペンチを持ち、その右手の爪を剥がし始めた。

 何をしてる、と止めようにも腕は動かない。声を出せば捕えられる。それは彼女も分かっているだろう。……だから何も言わないのだ。

 それでも。口元が例え微笑んでいても、痛がっているのは目に見えて分かっていた。流れていく血よりも赤いその目の色が潤んで、滲んでいくのを、流れる髪の隙間から零れる汗を、ただ見つめ続けた。

『さて……無様を見せましたね』

無様なのは俺の方だった。結局俺は、彼女の右手から爪が全てなくなるまでその不可思議な光景の前で、何も出来ずに言葉を聞き続けることしかできなかった。

 剥がし終えた爪は今、俺の首にぶら下がった包みの中に入っている。

『あの大きな赤い屋根のある方角……北を目指していけば、隣の領へ辿り着きます。そこの領主の屋敷へ向かって、これを渡してください』

 渡せといっても、それだけでどうなるはずもない。彼女の言葉に何の確証もない。そもそもあの行為に、今俺がしていることに意味があるのかも分からない。

 それでも進み続けているのは。血だらけの手で俺を突き落とした、訳の分からない年下の少女の言葉を信じてしまうのは——きっと、

『お願い、どうか目を覚まして。……どうしても、貴方が必要なのです』

 そんなことを言ってくれるひとは初めてだった。死にかけた心でも、ほとんど見ていなかった目でも、彼女が自分を痛めつけに来た貴族さまでないことが分かった。

 部屋の中で最も軽傷だからこそ俺を選んだことは理解していた。亜人だと気が付いたのは俺の怪我の手当をしているときだと彼女は言っていた。この時の判断は、ただ単に足が欲しかっただけのものだ。

 きっとどうかしていた。頭がおかしくなっていた。俺は正気ではなかった。少し考えれば、貴族にしては古びた格好をした少女があの部屋にいる時点で、同じ境遇の人間に決まっている。手枷をされていないとしても、逃亡しようとしていることくらいすぐにわかるはずだった。

『助けて……くれ……!外に出してくれ……!』

 絞り出した声は酷く懇願しているものだった。年下の女の子に縋りついてみっともなく、出来るはずもないことを口に出し、涙を流していた。

「…………」

 朝日が昇る、もう二度と見上げることはないと思った空を見上げる。俺の好きな、赤色の空だった。

もうあの部屋から出ることは出来ないと、一年前首輪をつけられて甚振られた日から、毎日のように死んでいく奴隷仲間たちを見てそう覚悟していた。

 俺はあいつらのように殺されると。死んだとしても葬儀すらあげられない、敷地内にゴミとして処理される消耗品なのだ、と。

『——大丈夫。必ず救って差し上げます。……ですから』

「……はや、く」

 俺は兎に角それだけを考えて進み続けていた。

子爵とその側近が部屋に鍵を掛け籠城して既に丸一日経つ。彼らの姿がなく、命令系統も混乱している今、使用人や雇われていた兵たちの中で不信感を持った賢い者は、とっくにこの屋敷から抜け出している。残った者もいるが、それこそ愚か者に私が捕えられるはずもない。

 殆ど人がいなくなった廊下を、最早警戒も走りもせずに目的地へ辿り着く。

「ウィルはあの人に会えたかしら……でも、もう確実に接触はしている頃でしょう」

 ただの人間がこの場所から王都まで移動するのには、例え飲まず食わず歩き続けたとしても三日は掛かる。そして当然だが、そんなことをしては着く前に力尽きるだろう。だがウィルなら——ウィルの肉体はそれを可能にする。

 ウィルは間違いなく無事だ。彼の身体は三階から窓ガラスと共に背面から落ちたところで意識を失うような重体にすらなり得ない。そういう風に作られたモノの因子が彼の中にはある。

 貴族が飼っている奴隷たちの中にならば、当然存在するだろうと目星はつけていた。なにせよ彼らのような人間は非常に珍しく、奴隷として取引した場合その価値は計り知れない。比例して、人間としての価値が認められにくいことは皮肉というよりもむしろ哀れだが。

「…………私が哀れむことでもないわね」

 そして今私が気にかけるべきなのはむしろ、目の前の扉の向こうにいる子供たちだろう。

「………酷いにおい」

 私が連れて来られ拘束され、そして逃げ出してから既に四日が過ぎている。

 普通子供がその期間丸々拘束監禁されていれば、中の状態がどうなるかなど簡単に想像がつく。けれど子爵に不信感を持った、けれど子爵を裏切ることもできなかったのだろうメイドたちが、幾度かこの部屋に繋がる廊下へ入るのを見かけていた。

 その為生命活動に必要な世話や、排泄物の除去などは最低限行われているはずだ。……だがこの部屋、この屋敷の主は、そもそも長期間の監禁を想定していない。その為か、子供たちの体や部屋自体に染みついた悪臭は、私がこの部屋を出た時よりも増したように感じた。

「……さて」

 鼻をつまむことはせず、既に破壊した扉を、何の抵抗もなく開いた。

「……………」

 暫し無言で、中を観察する。

 四日前に出た時と、拘束された彼らのいる場所は変わっていない。あの時よりも増えた垢と悪臭。子供たちの顔は相変わらず絶望に汚染されていた。

ただそれどころではなかったらしい。床や壁に新しい血などの液体は付着してはいなかった。代わりにバケツで水を撒いたような、雑に清掃を行った形跡が残されていた。

 そしてその汚水で濡れた床に座り込んでいるだけの少年が、相も変わらず虚ろな目をこちらに向けていた。

「お久しぶりですね。ご機嫌いかがですか」

 などと冗談めかした台詞にも返事はない。口枷があるから当然ではあるのだが、おそらくメイドたちの手によって自由になったはずの四肢でも身振りの一つない。

 彼に既に武器はない。私を捕える意思も逃げる意思もなさそうだった彼のことが気になって、ふと、拷問部屋から出る際に持ってきていた開錠の為の針金のことを思い出した。

「少し、触れてもよろしいですか」

 だが抵抗はなかった。人形のように動かない彼の正面に立ち、顎にぶら下がった錠に、針金を通した。

「……どうして、逃げなかったのですか。鍵も枷もなかったのに」

 問う。きっと彼はそれに答えないだろうと理解しながら。

 逃げる、という選択肢がないことを理解している。あの拷問部屋にいたウィルたちと違い、生来ずっと奴隷だったのだろう彼にそういった思考が許されないことを。

 けれど私は言う。言葉にして、彼の耳に届くように。

「どうして……考えることを止めたのですか」

 彼の中に、疑問を植え付けるように。

「貴方が私に手を伸ばすのなら、貴方の中に浮かんだ望む全てのものを差し上げましょう」

 口枷が外れ、少年の素顔が露わになる。……まだ幼い、子供の顔だ。その少年の顔を見てからでは、虚ろだと思っていた目がまるで何も知らない赤子のようにすら思える。

「……………」

 やはり彼は無言で、けれど何処か戸惑ったような表情で、視線をあちこちへ動かした。唇が動いてはいるが、言葉が音になることはない。

 彼は分からないのだ。自分がしたいことも、望むものも。きっとそれはこの部屋の中では、この屋敷の中では得られない感情だろう。今彼に彼自身の言葉で答えてもらうのは無理難題だ。

「分からないのなら……とりあえず、私に従いなさい」

 そう言ってみたのは、単に彼への同情があったからだ。

 従うべき寄る辺が、枷がなくなった生来の奴隷がどうなるかを、私は知っていたから。

 私が救わなくてはと——思ってしまったからだ。

「……行きましょう。……っとその前に」

 そろそろ子供たちの手枷くらいは外してあげなければ、本当に腕や肩に後遺症が残りかねない。人数が多い為時間はかかるが、今の屋敷には咎めることのできる者などいない。

「子爵と……彼は、本当……愚かですね」

 それでもそろそろ限界だろう。彼らも、私も。私もここ五日ろくに眠っていないせいで脳の動きが鈍い。

 そろそろ王都の彼らも動き始めるころだろう——。


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