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「……あら意外に足速いですね。潰されていなくて助かりました」
「腕は使えねえから、しっかり捕まらないと落ちるぞ」
「あら、だったら切り落とせば速度が上がるかもしれませんね」
「……真顔で言うなよ」
冗談だったのに冷や汗をかいている彼が面白くて、思わずくすくすと笑う。
「……やっぱり正気じゃねぇよお前。この状況で涼しい顔しやがって」
「正気を失っていたのは、先程までの貴方がたでしょう?」
褐色の肌、濃い緑色の目を持つ彼は、その綺麗な赤茶色の髪をぼさぼさにして走り回る。私という荷物を抱えている割に足はかなり速い。
「本当……凄い体ですね。あんなに酷い状態だったのに」
初対面の惨状を思い出す。死んでいるのではないかと思うほどだった、痛々しい彼の姿を。
数刻前。気絶した私は、屋敷の私兵に連れていかれた部屋で、再び四肢を拘束されて、吊るされたその自重で目を覚ました。
そこは最初に入れられた監禁部屋ではなく、歪な刺々しい武器や石や鞭などが置かれた拷問部屋だった。おそらく私の発言の真偽を確かめる意図で運ばれたのだろうが、しかし肝心の拷問をする人間が見当たらない。
監禁部屋よりも厚い扉の向こうから、人々の慌てたような声と足音が響いていた。
「………!……、………⁉」
それは屋敷の主たる子爵のものではなく、彼に仕えている私兵や使用人たち。彼に忠誠心など欠片もない、与えられる給料の為に働き、己の保身を第一に考える一般市民たちのものだった。
仕えている主が己より高位の貴族に喧嘩を売る——その行為は、この国においては最も低い身分の彼らにとって、身の振り方を考えさせるに足る重罪だ。
もしも子爵やその忠実な部下が、私の発言全てが嘘だと語り主張しても、その言葉は言い訳をしているようにしか見えないだろう。事実嘘であっても、日々の生活が何よりも代えがたい中、少しでもその猜疑のある者に仕えることは出来ない。“奴隷禁止”の法は、この国では死罪、極刑に値する重罪であるからだ。
それが貴族だからと今までは見逃してきた国であっても、同じ貴族を奴隷にするなどという不祥事は、絶対にあってはならない。
あっても見過ごすことは出来ない。それは今この国が抱えている闇の一つでもあるのだから。
「……さて」
学習能力がないのか見張りの所為にされたか、先刻と構造の変わらない枷を外す。廊下の混乱具合ならばこの部屋に私を拷問する人間が入ってくるのはまだ先になるだろう。
それでも私がすぐに拷問をされることがなく、ただこの部屋で放置されていたのは、この屋敷の人間が私の仕掛けた罠にかかってくれたという証拠だ。今彼らは自分たちの仲間を抑えるのに忙しい。
雑多に拷問用の器具が散りばめられた部屋の中には、取り上げられたナイフの代わりになる武器も、部屋の錠を破壊できそうな武器も沢山置かれていた。本来は人間を壊すためにあるそれらは、錆びついた血の跡の上に更に真新しい血が固まって変色している。この部屋にもやはり、閉じ込められ拷問を受けている子供たちが拘束されていた。
5人の少年少女たちの体は痛々しく、肉が捲れ上がり大量に出血し、それでも、彼らはその痛みによって、眠ることを、逃げることを許されていない。
見目麗しい彼らは、おそらく私のように出荷目的で誘拐されたわけではない。商品にここまでの癒えぬ傷をつけることは、金目的の人間には有り得ないからだ。
「……失礼」
彼らの体を近くで観察する。そうすると、やはり奴隷の証である入れ墨——首輪のような模様が首に描かれていた。
この屋敷の主——ベータ子爵は、奴隷の密売を行っていた時点で既に死罪は免れ得ない。けれど奴隷の買い取りまでを行っていたとなると、それよりも刑が更に重ねられる可能性がある。
そうなれば子爵のみならず子爵家、その血族、使用人にまで刑が及ぶ可能性が考えられてしまう——。
「成程……。使用人の方々は、気が気じゃありませんね」
命令に従っていたとはいえ、下手をすれば奴隷に食事を運んでいた者、部屋を掃除していた者、もしくは便乗して暴力をふるっていた者——全員が処罰される可能性すらある。
「………貴方がたは運がいいです」
傍らから血溜まりにあった針金を拾い、子供たちの枷を一つずつ解いていく。カチャカチャと金属同士のぶつかる音が鳴るが、この拷問部屋ならば問題はないだろう。
やがて子供たち全員が自由になって、私は安心させるようににっこり笑って言った。
「さあ、救って差し上げます。……私の味方になってくださいますか?」
枷を解いたものの、彼を含む子供たちに正気を取り戻させるのには時間がかかった。しかしそれでも半数の三人は時間がなく、辛うじて二足歩行が出来た一人に、屋敷の中でも兵が探しに来づらい比較的安全な場所へ連れて行ってもらっている。
その為の安全なルートを確立するために、私と最低もう一人必要だった。正気を取り戻した一人、ウィルと名乗った彼は、あの部屋にいた奴隷の中では両腕を除けば比較的軽傷で、囚われていた時間が短かったのか正気に戻るのも早かった。
「救ってやるって言われて、こんなに走らされるとは思わなかったわ!」
「……あらごめんなさい。私もあなたがこんなに体力があるとは思いませんでした。あ、左です」
目の前の廊下には誰もいない。先んじて屋敷中を回った為、既に構造も人員の配置も頭に入っている。物に隠れたり逆走したり部屋に入ったりを繰り返し、背後から追いかけてくる兵は誰も私たちに追いつくことが出来ない。
そして更に彼らは現在発砲を禁止されている。見るからに寄せ集めと思しき彼らでは連携など取れるはずもなく、また、主に対する忠誠心すら低い彼らに、本気になって私たちを捕まえる利は少ない。
「おい!目的地は何処なんだ!」
走らせ始めて一時間ほどが経過したころだろうか、痺れを切らしたようにウィルが叫んだ。
「囮はもう十分だろう!あいつらももう着いたはずだ。そろそろ目的地への道を教えてくれ!」
彼の身体は下半身がほぼ無傷だったとはいえ、その両腕は皮がほぼ剥き出しの重傷だ。そんな中よくここまで持ってくれたと感謝する。私は背後、視界の範囲に兵がいないことを確認した後、彼の耳元に向かって小さく言った。
「……次、右に角を曲がってすぐの扉に入ってください。そこの鍵は取り付けられていなかったはずです」
「分かった!掴まってろ‼」
「………っ」
一瞬、何処にそんな体力が残っていたのかと疑問になるほどの急加速をして。数秒後には二人、指示した部屋の前に辿り着いた。両腕の使えない彼に代わり、背中から飛び降りた私が彼を連れて音の出ないように侵入する。
幸い無人だったその部屋には簡素なベッドとランプ、そして机だけが置かれている。
「……っ…、暫し、お待ちを。内鍵を掛けます」
「……アンタ鍵なんか持ってたのか?」
「持っていません。ですが貴方の枷を外したのと同じ要領でいけるはずです」
「………、凄ぇなアンタ」
「もし出来なかったら机を移動させれば暫くは持つでしょうが……、あ、出来ました良かった」
「……さては行き当たりばったりだな?」
「失敬な……。部屋に重りがあるかないかくらい、事前に確認していないわけがないじゃないですか」
ここは恐らく客室、もしくは警備員の宿舎だ。生活感のない部屋はしかし掃除が行われている気配はなく、長く捨て置かれた場所だということを、空に舞う埃と錆びついた窓枠が教えてくれる。
間取りは最初に閉じ込められたあの部屋によく似ていた。あの黒い部屋ももしかしたら元は客室だったのかもしれない、と今となってはどうでもいいことをふと考えた。
「……で、こんな何もない部屋で何をするつもりなんだ?」
焦れたように問いかけるウィルは、しかし既に満身創痍と言っても差し支えない状況だった。ひとまずベッドに座らせ、破いたシーツで腕を覆ってはみる。だがもう彼の足に頼るのは無茶だろう。
「どうせ殆ど感覚なんかないんだ。意味ねえよ」
「それはどうでしょう。しかし無駄とは思いませんよ。少なくとも痛々しい赤は隠れました」
「………」
「さて。……何をするのか、でしたね。説明の前に状況をお教えしておきましょうか」
言い、窓際の、埃をかぶった机に腰を掛ける。カーテンは閉められてはいないが、朝焼けが見え始めた外からは、明かりのないこの部屋を見ることは出来ないだろう。
汚れた窓硝子の向こう、屋敷の入り口の門を見下ろす。三階のこの位置からやっと、門や外壁の向こう側が一望できるようだ。
「状況?俺らは脱出しようとしているんじゃないのか」
「いいえ。……救う、と言ったでしょう?ただの脱出では、逃げた後も逃亡生活に悩まされることとなります」
私は語る。
今現在、この屋敷は大きな混乱に包まれている。それは私が蒔いた種、私がもたらした波乱だが、彼らこの屋敷の人間に私の言葉の真偽を図ることは、例え私自身を捕まえ拷問にかけたとしても不可能である。
私の、「貴族令嬢が奴隷になりかかっている」という旨の虚言によって、屋敷の主——子爵にとって起きている問題、そして私たちの利は共に二つ。
第一は、その保身。裏切り国に報告する部下がいないかの監視、そしてその場合自らに下される刑に、彼は完全に怯えている。
第二は、「出荷」が行えないということ——子供たちの身元は誘拐してくる時点で調べ済みの筈だ。しかしどこかでミスがあった可能性を、そのリスクを彼らは何より恐れている。
「……けれどまだ一つ、足りない」
「……つまり、ここから逃げ出した後……逃亡生活にならないで済む一手か」
「理解がよろしいようで助かります」
「だが無理だ。……無茶だ。それは……」
言い淀むウィル。……だが言いたいことは分かっている。
それを求めるということは、この貴族社会に、時代に、国に——喧嘩を吹っ掛けるということだ。
だがここからただ逃げ出したとして、私たちが平穏無事に過ごせる未来は訪れない。だから、
「出来ますよ」
立ち上がり、はっきりと告げる。
私は勝利を、成功を確信している。疑いの余地もなく、己が正しく強者だと知っているからだ。
だからそれが分からない彼にも理解が出来るように、私は優しく、微笑む。だが本当は大声で高笑いでもしたい気分だった。でもそれはこの時代の女性には合わないだろう。
それほど愉快な心持だった。見下ろしながら、私はウィルに近付いていく。私の目をまっすぐ見つめる彼に既に迷いはないようだった。
「……だから何をしても、何をされても……私を信じてくださいね?」
拷問部屋には本当に色んなものが揃っていた。私は錆びたペンチを裾から取り出し、彼の隣へ座った。
彼を信じている。彼が私を信じ切れるとは思わないけれど、せめて騙されていてほしい。
「——私に助けられた貴方は、私のモノなのですから」