2
「——おい止まれ!何者だ⁉」
「……っ……!……はっ」
止まっている暇はない。駆け抜けねばならない。そうでなければ殺されてしまうだけだ。私は全力で足と腕を回転させる。
何者だなんてご挨拶ね。……そんな嫌味も今は口に出せない。発声器官に回す余力はない。
「………っふ」
ただ警備兵から逃げ、走り、躱し、応戦は一度もせずに、私は屋敷の中を掛けていく。構造と警備の位置を把握していく。眼球と脳を休めてはいけない。
広すぎる屋敷の中先回りをされては捕まる。だから何度も方向転換する。奪った銃で何度も足止めをする。剣を薙ぎ払いながらひたすら走っていく。
そうして走り続けて、半日が経過し——辿り着いた目的地の前で、私はこの屋敷の主の家紋……百合の紋様が描かれた扉を見上げる。
中に入れなくても構わない。中と、外にいる警備兵たちに届けばそれでいい。子供の癇癪のように、自制心を取り払った獣のように、しかし気高く、叫ばなくてはならない。
「お嬢様を開放しろ!」
喉が痛い。突然の大声で肺と呼吸器が悲鳴を上げている。それでも尚、戯言を叫ぶ。まるで意味があるかのように、出鱈目な台詞を。
「ベータ子爵!貴様お嬢様を奴隷にするなどふざけたことを!許さないぞ!伯爵家が黙ってはいないからな‼」
全部、嘘だ。
「——⁉おい!貴様何者だ!」
「兵共、狙撃は中止だ!殺すな!一刻も早く捕まえろ!生け捕りにして自白させろ‼」
私を追いかけてきた大人たちは動揺を隠せないように叫ぶ。部屋の中の様子は分からないが私の予想から外れてはいないだろう。例え中の人間が不在でも構いはしない。
私の発言は。私の真偽不明の発言は。私が走り回って集めてきた配下の兵士共、ひいては使用人たちの耳に確かに入ったのだから。
私に手を伸ばしてくる男たちの腕を——今度は躱すことが出来ない。この場所に一同に会したように集められた彼らを、私を取り囲んでしまった彼らを今更振りほどくことは出来ない。もう、逃げられない。
「…………っ」
体力の備わっていない体で無茶をした代償は、一気に訪れた。それは眩暈と、急激な身体機能の低下という形で私を襲い——そして大勢の大人たちに取り囲まれながら、私は意識を失った。
予定も予測も計画も全て十全だ。何も不安に思うことも、心配することも何一つない。
最も心配なのは——この体が、どれだけ持ってくれるかという点だけだった。
*
灰色の目をした少年は、ただ虚ろに黒い天井を眺めていた。
縛られた足と鎖の付いた腕、口枷を嵌められた彼に出来ることはただ目線を動かすことだけだった。
それでも少年は同じくこの部屋に拘束されている子供たちを一瞥することもなく、自由になっている指先一つすら動かさず、生命活動に必要な動作だけを繰り返している。
そんな己を、彼は省みることはない。彼は命令されなければ動けない人形のように、自分の思考を停止させ続けて生きてきた。
彼の両親も奴隷だった。貴族の趣向により見目麗しい二人の下に、愛なく生まれた彼は胎から出る前から商品であることが決定された奴隷だった。
彼は何一つとして理解していない。そうすることを、精神が拒絶した。
ただ命じられたことを命じられたまま、彼はこの部屋の子供たちを脅し、嬲り、殺し、監視し続けてきた。子供たちが何処から連れられてきたのか、彼は考えもしていない。
命じられたことを命じられたままに行わなくては、自分が同じ目に合うということは、体だけが理解していた。
これまで従順だった彼が命令に違反したのは、先刻が初めてのことだった。
『——貴方に私は殺せません』
そう、妖しく笑った笑みを少年は思い出す。これまで殺してきた子供たちのどの顔とも違う、自信と気高さに満ち溢れた表情を。
彼に手加減をしたつもりも、油断したつもりもない。ただいつも通りいつものように命令を実行しようとしただけだった。
しかし結果として、少女はこの部屋から逃げてしまった。それも少年が身に着けていたナイフという、客観的に彼が逃がしたとしか思えない証拠を携えながら。
少年は思考を停止させている。否、思考を巡らすまでもなく知っている。
彼はこのままでは殺される。嬲られ犯され砕かれ壊され——今まで自分がしてきたように、惨たらしく殺される。
それを知っていても、彼は叫びも嘆きも逃げ出すこともしない。その首が今まさに切り落とされようとも、彼はその表情を変えはしないし——その時まで、理解を拒絶するのだ。
静寂と絶望。微かな呼吸音と鎖の揺れる音のみがその部屋に満ちていた。少女が破壊した扉は未だ修繕されず、微かに廊下の明かりが入り込んでいる。ただ見た目には壊れていない時と変わらない状態で、扉は再び閉じられていた。
——空気を割るような喧騒が彼らの耳に飛び込んできたのは、あの少女が出て行ってから半刻後のことだった。
「ガキどもはどこ行きやがった⁉探せ!他のガキはどうせすぐにくたばる、あの白髪頭を見つけ出せ!」
少年が表情を変えたのは、数年ぶりのことだった。
(——ししゃく)
殆ど反射のように、彼は胸の中で呟く。少年にとっては、何度も何度も聞いた声だ。彼という玩具を気に入っているこの屋敷の主は、取り分け彼を痛めつける回数が多かった。
だが横柄で傲慢な、尊大な態度をした記憶の中の彼とはあまりにも違う。その声からはこれまでにないほどに狼狽え、怒り、焦っているのが伝わってくる。
これまで扉の外の音が中に届くことはなかった。それはこの部屋が来訪する貴族、客人に隠されているが故。この部屋の前まで人が訪れる時には、決まって子供たちの餌や躾、もしくは出入荷という理由があったからだ。
けれど聞こえてくる音は、それとは別の緊張感をもって耳に飛び込んできた。
「いいか、必ず二日以内に探しだせ!あの発言は嘘でしたと拷問してでも喋らせろ!子爵様の命令だ‼」
少年にはこの声も覚えがあった。命令に忠実な、主の手下のまとめ役。確かグレイと呼ばれていた。鎖も枷も付いていない彼は、しかし主のどんな要求にも従う忠実な配下のようで、何度もその主の為少年を呼び出した。
その言葉に呼応するように聞こえた「はい!」という声の後、何人もの重い足音が通り過ぎていく。何度も銃声が、悲鳴が、扉の向こうから聞こえてくる。
「……どう……なって……」
そんな声を漏らしたのは、拘束されたままの子供の中にいた一人の少女だった。しかし声を漏らしてしまったことに自らすら驚いたように、一瞬で顔を曇らせ目線を下げる。しかしこれまで声を上げる子供たちを咎めてきた少年は今、動くことが出来ない。
外から洩れる音を子供たちが聞いたのは初めてのことだった。音は少女がナイフで壊した隙間から漏れ出している。それはつまり、今ならば中の声も外に届いてしまうということだが、少女の声は慌てている大人たちの耳には入らなかった。
「いいか!あの子供の戯言を信じ、主に背信する者は俺自ら殺してやる!あれは戯言だ!虚言だ!いいか外へ漏らすなよ、その時点で貴様ら平民など不敬罪によって処罰してくれる!」
彼らにとって最早中の子供たちに対する躾や体裁など二の次だ。扉は壊されたまま。脱走者が現れたにも関わらず、誰も扉の確認にも修繕にも、中の子供たちの確認にも訪れない。——子供たちはこの屋敷へ誘拐されて初めて、大人たちの焦った声を聞いた。
「一刻も早くあの白髪頭の子供を捕えろ!貴族に喧嘩を売った罪を分からせてやれ!」
逃げたい、助かりたいと思考を止めなかった子供たちですら、すぐに立ち去ってしまった彼らの言葉の意を理解するのはとても難しかった。けれど「白髪頭」という単語が、つい先程まで同じく吊るされていた彼女のことだと遅れて理解する。明かりの下で一瞬見た彼女の髪は確かに白だった。
『——大丈夫です』
それでも理解は出来ない。意味が分からない。何故、ここから出ることのできた彼女が今大人たちを翻弄し——この屋敷から逃げていないのだろうか?
一人逃げるのならここまで騒ぎを起こさなくてもいいはずだ。事実、ナイフを持って行った彼女なら、窓を破壊して外へ逃げることくらいなら容易い。半日も廊下中を走り回らなくとも済んだはずだ。
『——必ず救って差し上げます』
子供たちは、そんな言葉を信じたわけではなかった。
彼らは、そんな期待なんてしていなかったのに——。