番外 最初の肉
焼肉屋、である。
牛角や叙々苑のようなチェーン店ではなく地元の個人店だ。
値段は高め、店内は少し暗めのお店で、温かい色のフットライトがなんとも言えない高級感を醸し出している。
今日は、後輩のユウキと共にそこに来ている。先輩としての威厳をマイナスからゼロに戻す為なので、もちろん自分の奢りだ。
「飲み物はお決まりですか?」
席に座ったと同時にウェイトレスが聞いてきたので、とりあえずビールとキムチを注文すると、代わりに渡されたおしぼりで手を拭きながら二人でメニューを眺める。
「先輩どうします?」
「ここはカルビが美味しいんだ」
「よく来るんですか」
「たまにな。ナギさんに奢ってもらう時だけだけど」
適当にそんな話をしながら僕たちが頼んだのは、タン塩、豚トロ、カルビの3種類のお肉と野菜。定番といえば定番だろう。
「あれ、先輩。カルビから焼くんですか?」
彼女がそう訊ねてきたのは、僕がトングでカルビを掴んだ時だ。
「え、なんで?」
「普通タン塩じゃないですか」
なるほど。ここは先輩として、彼女に教育しなければならないだろう。
「ユウキ。何故、最初にタン塩を食べようと思った?」
僕の逆質問に彼女は目を点にした。
「いや、普通はそうじゃないですか?あっさり系から食べるのとか」
「ふっふっふ。甘い、甘い。旬の野菜くらい甘い」
「ほのかですね」
「いいか。僕たちは今、めちゃくちゃ腹が減っている状態だ。
しかも、この手にしたビールには食欲増進作用が含まれている」
「それは分かります。だから早く食べたいんですが」
彼女は眉を垂らしたが、残念ながら今トングを持っているのは僕だ。それはつまり、彼女の胃袋の生殺与奪権を手にしていると言っても過言ではない。
「待て。だからこそ、最初に食べるべきは脂がのった肉々しいカルビだと思うんだ。
口内に満ちた肉の旨味を、キンキンビールで流し込む……コレこそ、腹を空かせた僕たちの胃袋が、今一番望んでいるものじゃないか?」
僕の理路整然とした焼肉論に、彼女は生唾を飲み込んだ。もしかしたら、腹が空いているだけかもしれない。
しかし、彼女は納得がいっていない様子で、刺々しい言葉で反論をしてきた。
「確かに一理あるかもしれません。しかし、さっぱり味のタン塩は、後ろに回すと味の濃い肉に旨味が負けてしまうという意見もあります。
それに、やはり最初は焼き時間の短いタン塩のほうが……」
「愚論だ。単にタン塩の力を過小評価しているに過ぎない。そもそもタン塩の魅力とは、その食感と噛むほどに滲み出る旨味だ。それが活きてくるのは、空腹で余裕のない序盤よりも、むしろ中盤なのだ。
ちなみに焼き時間など、炭火の火力の前にはさほど変わらん」
「なるほど……ってもうカルビ焼いてる!」
そう。僕は「愚論だ」の時点で既にカルビを網に置き始めていた。こうすることで、肉の焼き時間の体感を少なくする作戦である。
「焼き肉はスピードが命なのだよ、ユウキ君」
「というか焼肉奉行なんですか?それはそれでラクだからいいですけど」
「いや、カルビ食べたいだけ。けど、考えなしに世間の風潮に従うのも嫌なんだ」
そう言いながら、僕は網の上からカルビを双方の皿に取り分ける。
僕たちは、いただきますと言ってこんがりと焼けた肉をそれぞれ口へ運ぶ。
うまい。
旨みたっぷりの肉汁が口いっぱいに広がって、脳が「幸福」の感情一色で染められてしまう。
こうなれば反射的にビールジョッキを傾けてしまうのが、社会人の本能である。
しっかり麦の味、それでいて後味さっぱりのビールを、肉の旨味とともに胃に流し込む。
やはり焼肉とビールは正義なのである。
ぷはぁ、と空になったジョッキを卓の上に置くと、ユウキと偶然目があった。
彼女のジョッキにはまだ半分以上ビールが残っているが、既に少し酔っているようだ。顔が赤い。
「……なんかクサいですね、先輩」
「え、マジ?」
彼女がいきなりそんな事を言うので、僕は口に手を当てて息を確認してみる。確かにキムチ臭いが、そもそも食事中に対処するのは不可能なのでは?
「いえ、さっきのセリフです。中学生かなって思いました」
「マジか。“スピードが命”ってのはガキっぽかった?」
「そっちでもねぇよ」