הבל
私は李駿との話を無理やり切り上げ、彼の前から姿を消した。と言ったところで、誰が耳を傾けてくれるのか。どうせ私には話し相手なんていないのだから。
実は――と語りだすのもおこがましいが、私には不思議な力がある。あいつがそっぽを向いて私を無視した瞬間、私は教室の外、学校の校門前に移動していた。どうやってかは秘密。いや、教えてあげたところで普通の人間には分かってもらえることではないんだから。
すぐに周りを見た。幸いにも人の姿は見えない。もし誰かが目撃していたら、きっと多分面倒なことになるし。どう面倒なのかは知らん。
なぜ、私はあの時あいつをあそこに誘ったのだろう。あんな展開になるのは分かっていたはず。私にとって奴はもっともかみ合わない型の人間、決してあいいれることはないってのに!
私は、少し恥のような感情を覚えた。この記憶は、人生のこれからも何度も思いかえすのだろう。そして、身をかきむしられるような感覚に襲われるのだ。
今はまだこの記憶が定着してはいない。時間が経つにつれ、出来事が脚色されたり誇張されたりはしてない。
菅ありさ、あんたはこんな思い出をいくつ作ってきた。こんな記憶、いずれ流れ去っていくに違いないですぅよ。
中途半端な半月が、おぼろげに空を漂っている。
私は暗がりが陽光を飲みこむ頃、家に帰りついた。
あの時からずっと――本当はこの日中だったのかもしれないが――私は虚無に浸っていた。
家の内部は真っ暗だった。キッチンに入り、照明をつけて明るくすると、テーブルの上に一つの書置きがあった。姉からの物だ。
『冷蔵庫にサラダがあるので食べてください』
……今日も遅いか。いつものこととはいえ。
虚しい一日だった。それこそが率直な感想である。つーか、他に響きの好い言葉を選んで飾りたてろとでもいうのか。
いちいち教室の生徒たちのとるにたらない言葉の一つ一つを拾い上げ、今日という時代の価値を確認するには、俺の頭は小さすぎる。
私は冷蔵庫の中からサラダを取りだした。少し大きな皿に、キャベツとかトマトとかが一面に巻き散らされている。
私はその上に塩をまぶして、食おうとはしたが、まだその心の用意はできていなかった。
それにしても、李駿のことだ。ぱっと思い出すことを、なぜ止められない?
あいつは、私のことを嫌っている。
いつも他の生徒たちにはやけに明るくて、たまに芝居ぶって見えるほどなのだが、私にだけは軽蔑を隠そうとしない。
李駿。姓が李で名が駿。
あまり短い名前なのでわざわざ下の名前だけで呼ぶ必要がない。だからたいていの生徒はフルネームで呼んでいる。
私が机に座って一人でいると、必ず李駿はこっちをちらちら見てひやかすような視線を注ぐ。奴が他の連中と一緒にいるときには、奴は決して私に視線を向けようとはしないし、また戸邊麻理香や青山小雪とかが私に話しかけてきた時には遠くから警戒するかのように眺めている。
まるで私を何かのかたきのように扱っているかのよう。
だがそれでいて、誰も取り巻いてくれない時には全く活力がなく、あるいは助けを求めているようにきょろきょろあたりを見回すが、動物で例えれば狐みたいにその態度は裏表が一致しない。だからといってシャーデンフロイデに浸ってもいられない――あの弱弱しい姿が私にどこか似ているのだ。通じている所がある。
……私はあいつとは違う。いつも一人ぼっちだ。たまに無邪気な奴らが絡んでくれることもあるよ。けど、それも表向きだけのこと。誰も、私のことなんて分かってくれやしない。ぶっちゃけ、あんな奴らに偽りの笑顔を向けるくらいなら、俺は頑としてそっぽを向くことを選ぶよ。確かに、あいつらに対して媚びることはあるさ。俺だって寂しいんだから。だが……それにはやはり、耐えられない。
ご飯もよそおう……お茶づけにするか。
不思議だ。悩みを、無理やりにでも頭に押し付けようとするなんて。
今日、あいつを放課後教室に呼び出して、言ってやろうとした。お前は俺の同類なんだよ。お前が俺を嫌うのは同族嫌悪以外の何物でもないんだぞって。
奴は納得しなかった。見事に納得しなかったよ!
あいつは、私が言おうとしたことを、決して飲みこまなかった。理性の方では分かっていたくせに。
私は、彼との対話が圧倒的に何の意味のないことをあらためて思い知らされた。
まずいぞ、このままでは何も自体が進展しないじゃないか。
「とりあえず、今は――」
箸をつかむと、物憂い気分を晴らすつもりでで食い始めた。ああ芋がおいしい。マヨネーズをつけて食べるともっと味がでる。胡椒もつけなきゃ。
サラダを食べ終わった時には、私はしばらく身の上のことを忘れていた。やはり食事はストレスの軽減には欠かせないもんだ。
私はキッチンの外に出て、玄関の階段を駆け足でのぼり、私室にはいりこんだ。
宿題をしなけりゃならない。それは分かっている。しかし、サラダを食べた後だ。何かする気力なんて湧くか。
「テレビ視よ……」
そう言って、前方にあるテレビの側に寄って、ボタンを押した。
「……は?」
その時、私が貯めに貯めたルサンチマンが爆発した。
運の女神の悪だくみだったのだろう。
私が体で反応することはなかった。体が反応する前に、空間が。
テレビが一瞬、おおきく乱れた。白い線が走り、画面が分裂する。
何が放送されたかなんて思い出したくもない。
また画面が乱れた。下の方に何回かすべりこんで、ノイズが左右にちらつく。
こんな嫉ましい気持ちになるのは、これで何度目だ。
世界は私みたいな奴を、完全に置き去りにしている。
私みたいなのは、片隅に押しこまれ、変な奴と思われ、勝手に哀憫をかけられて……結局何になる?
どうせ、自分が世の中の何たるかを誰かに示すこともできずに、消えていくだけじゃねえの?
画面が一面砂嵐になった。灰と黒と白の不毛なコントラストが雑音を伴奏として踊り狂っている。
「くっそ――」
私が舌打ちをしたのと同時に、照明が消えた。たちまち、あたりは急に薄暗く。
ヒーヒッヒ、これも運のなせるわざか。なかなか性悪な性格ですぅね。こんなことは珍しいことでもないが、あの気持ちを新鮮なまま引きずっているだけに、苦しみはますます増徴しちまう。
もう一度下に降りて、テーブル上のカバンからある黒いものを取りだす。私は素早い動きで再び私室に殴り入って、ベッドに横たわって黒いものを顔に向ける。
これが、私の秘密道具。そう、スマホだ。
現実では友達も理解者もいないぼっちの私だが、インターネットなる仮想世界の中では違う。
私はネットではちょっとした有名人なのだ。絵を描いたり、ゲームの実況をやったりして、ある程度のファンがいる。
もちろん、匿名で。多分教室の中にいる奴にこのことは知られてない。ネット上での私を、応援しているのはいるだろうが。
ある情報共有サイトにアクセスすると、色々な人から通知を受け取る。
「カタリナさん、次の動画はいつ来るんですか?」
「カタリナさんの絵でイラストを勉強してます」
そういう書き込みを見るたびに私の心は高揚する――好きでいてくれる人がここにいる。
本当はあまりに醜悪すぎて見向きもされないこの私を。
ここが私の王国なのだ。このネット世界には私を好きな人間が大勢いる。
その時だけ、世界がまるで明るくなったような錯覚を覚えるのだ。
そう、錯覚。
虚しい。あまりにも虚しい。
ネットでどんなに有名になっても、現実はそうそう変わる物じゃない。
私の家は貧しい。
姉は大学に行くかたわら、日々の生活費を稼ぐために一生懸命に働いている。そして、限られた金でなんとか暮らせるように、どう節約すれば負担を小さくできるか、試行錯誤を重ねている。
私も、一応あまり無駄な電気や水を使わないように努力してはいるのだ。それから自分がかいた絵をネットやイベントで売ったりして、金を稼いでいるつもりなのだ。
それでも、私の心にかかる負担は決して消えることはない。
貧乏な環境だからか? それもある。他の連中が持参してきた弁当がやけに豪華だったり、ある生徒が数十万円を自分の趣味につぎこんでいると聞いた時、嫉妬がなぜわかないのだ。
もっと大きな理由が他にあるだろう。
自分の心にのしかかっている重荷をごまかしているだけなんだ。もっともらしい褒め言葉を、姿形も分からない赤の他人からもらっただけなのに、それをまるでこの自分自身に与えられた栄誉であるかのように思いこんでいるだけ。
それが自分が生きるに値する証拠なのか。全ては無意味だというのに。
私はこの日、アカウントで一つ報告しておかなければならないことがあった。以前、あるコンテストに絵を応募したのだが――剣や槍を手にしたさまざまな美少女が一人の少年を取り囲んでいるという、アニメ調の絵だった――、それがどう評価されたか告げておかねばならないのだ。
惜しくも、これは入選せず、賞金はもらえなかったのだが、あれは二週間くらいかかって造り上げた大作であったし、あれの結果を公表してファンの人々に評価してもらうのも悪いことではなかった。
きっと、アンチからの嘲笑を受けるのだろうな。それは別に構わないが、ネットという空間が心地いいばかりの場所ではないというのをこんな時に思い知らされるのは味気ない。
その時、響きのいい効果音とともに、別のアカウントの方からメールが届いた。これは一般のユーザーには見えないものだ。
「カタリナさん、以前の企画ではご協力ありがとうございました! 反応も上々でしたよ」
という内容。送り主は、私が日ごろからよく交流している絵師。
私はすぐ返信する。
「別に、あれくらい大した手柄じゃないし。学校が忙しくて、なかなか時間足んないのよね」
私にとって、この文字を打つ時がもっとも心地いい。画面を通り越した所にいる人間に、意思を伝える。生身の人間に対してはどうしても口下手なのだが、この仮想空間では違う。
緊張と期待を胸に抱きつつ待つと、また先ほどの音。
「カタリナさんって確か高校生でしたっけ。まさに青春ですよね」
ああ、相手はこのまま会話に応じてくれるのか。それが実にうれしいことでならない。
「青春か。そういうのは年取ってから形成されるもんなんじゃないの?」
私はごく率直に意見を述べる。
「現実には言うほどのもんじゃないと思うな。ただでさえネット上の記録なんてのは嫌なものが濾過されきった後のうわずみで、みんなそういうものしか載せないんじゃね」
「でも、カタリナさんはそういう年齢です」
どういうつもりだこいつ?
無論、自分の立場はわきまえているつもりなのだ。カタリナという名前で活動しているネット上の人格は、あくまでもネットだけの存在。現実の菅ありさとは何の関係もない。
「だからさ、高校生全員が同じような時間を過ごしてるわけじゃねえんだよ。楽しい奴もいるだろうし楽しくない奴もいるだろうし」
「カタリナさんは楽しい方じゃないんですか?」
困ったな。やはりこんな話題には答えるべきじゃなかった。
「カタリナは楽しいだろうけど、カタリナの中の人はどうかな」
そもそも青春って何だよ。あんな幻想を俺に押し付けて何になると思ってやがる?
再び通知の効果音が鳴って、メッセージが表示される。
「あなたがカタリナさんじゃないんですか? カタリナさんじゃないなら、誰なんですか?」
やり取りを始めようとする時あったスリルや好奇心は消え去っていた。
どうつなげればいいんだ。このままじゃ不毛な会話に退行するのは目に見えてんぞ?
このまま俺の主張を押し通したところで、理解できる筋合いがあるか?
「私は、カタリナというユーザーを演じている人間ではあるが」
そこまででしばらくスマホを動かす手が停まっていた。まだ……書き続けるつもりか?
何で、ネット上の存在相手に迷っている? しょせん、アカウントを消せば断絶する程度の関係なのに? 一体、どれくらいこいつが私を理解――
画面が、黄色く濁った。ついで、白く。
スマホの電源を落とした時、私の世界は文字通り灰色に染まった。
結局、その程度の薄い理解しかない奴だったわけか。
いや、それじゃあ酷な話だ。元からそんな風に振る舞っていたわけじゃなかった。あまりに気持ちが別の所を向いているせいで、つい本性を表してしまったのだ。
これは、私が悪い。
私は自分の孤独を、ネット上のつながりでごまかそうとしているに過ぎない。そんなことをしても――時間はどんどん経っていく。なぜ、時間は経つのだ。もう少し、感傷にひたらせてくれよ。そう願っても、やはり時間が経ち、この現実は変わらないというもどかしさ。
あのコヘレト記の一節が強烈に脳裏に反芻する。
《なんという虚しさ
なんという虚しさ、すべては空しい。
太陽の下、人は労苦するが
すべての労苦も何になろう。》
翌日もやはり同じような一日があった。
違いと言えば、青山小雪が、瀬原勝を壁際に押しかけていたことだ。窓から落ちかねないほどの勢いで、クラス中が恐怖の雰囲気に包まれていた。
この日は、佐藤大貴、小雪がいつも慕ってやまないあの野郎が欠席していた。たったその一人がいないというだけで、小雪の奴はまるでひからびた花みてえになって、気力を喪失していた。遠目で視ると、片腕で頬杖をついた顔の目は細く、どこを向いているか分からないし、四肢の状態からして今すぐにでもがりがりになりそうな弱弱しい力しか入っていないのは明らか。
そこに瀬原勝が目を付けた。あいつはいつもは隠している嗜虐的な性格をむき出しにして、大貴のいない小雪をからかった。実はその情景に、私はまたもやシャーデンフロイデを感じ始めていた。もし瀬原が単にでかくてがっちりした奴だったら不快感しか催さなかっただろうが、あいつは細身で背が高くて、眼鏡をかけているし、何より弁舌爽やかな奴なのだ。典型のできそうな奴なのである。そんな奴がこんなfeminineな女の子を言葉ぜめにしている様子は逆に痛快だったし、そういう一見人のよさそうな性格の奴がこんな悪いことをしでかすなんて、一種のギャップがあるじゃないか。
だが俺が小雪の様子をニタニタして眺めていた時、いきなり事態が一転した。
ついにキレた小雪が立ち上がって猛然と勝につっかかっていったのである。きゃしゃで背が低くて、顔も丸くて小さいあの小雪がだ――さすがに見くびり過ぎていたか。
小雪はそれまでとは別の人間みたいになって、腕にも力がこもり、顔も引き締まって険しいものになっている。小声で何かをつぶやきながら、勝を押しつぶさんばかりの勢いでその胸倉をつかみ、脚を踏み鳴らし、獣みたいにうめいてやがる。
普段は臆病で、気弱で、何かがあるとすぐ泣きだすほど繊細な少女の面影はあの時のあいつにはほとんどなかった。
優しい奴ほど怒らせると恐いというが、大貴のことをからかわれたのだ。小雪は自分が侮られる以上の憤慨をなしたに相違あるまい。
ここまで来ると、勝の相方である里見景輔――幼げな容貌、色白で遠くからは男女と区別のつかない美少年――や李駿も驚いてこの事態を鎮めようとしたが、らちがあかない。
最終的にこれを留めたのは、小雪の友人で、対照的にすらりと、大人びた姿の竹内文子という生徒だった。
彼女は小雪を後ろから襟をつかんで引き倒したのだ。どれくらいの力がかかったのか、ちょいと予想しかねる。
ようやくここでこの事件も終わりを告げた。となると、なぜ文子の奴が小雪に手を出したんだ、という質問が来るに決まっているが、やはりあいつも大貴にぞっこんなところがある。もしかしたら小雪の役割を彼女が代わりにになったとしても何の違和感もない。
だが、小雪に比べると彼女は理知的な面があったし、忍耐強いし、何より日ごろからの態度が洗練されている。
不思議だ。人間とは言う奴はここまで怪物になっちまえるのか。あんな、一見危険さとは無縁に見えるあんな女の子が。
複雑な動機? もしかしたら、小雪は日ごろから何らかの鬱屈を抱えていて、それを瀬原相手に爆発させたのかもしれない。いや、やっぱり単に、大貴を辱める奴を恕せない正義感から?
多分後者の方が合ってるかもな。人類の営みは、複雑なように見えて実は単純、ということがままある。
人間の営みは、虚しい。
満ち足りてなどいないし、むしろ満たされていないことの方が大きい。
見方を変えさえすれば、あまりにも分かりやすくて、面白みがない。
そういう存在のまま、大きく形を変えてしまうこともない。
《かつてあったことは、これからもあり
かつて起こったことは、これからも起こる。
太陽の下、新しいものは何一つない。》
私は誰の姿も見えない道路の脇を、美架姉貴と帰路を歩いていた。
美架姉貴と知りあったのは、もう一年くらい前のことだと思う。
姉貴は一応高校生という身分ではあるが、年齢ではずっと年上だ。
ちなみに、苗字が十島。
多分、偽名には違いないとは思う。いくらなんでも、十字架を普通に連想されることからして、できすぎた名前だ。私たちの数人はその来歴を訊こうとしたが、姉貴は何一つ教えてはくれなかった。
だが姉貴はいつも静かで穏やかな表情をしており、母親みたいな風格がある。私は姉貴の姿を一目で察て、他の人間が持っていないようなものを、この人は持っているんじゃないか、と期待してしまった。それで、あの人がやって来て間もない頃は、よくその顔を遠目からちらちらと。
するとだんだん、美架姉貴の方でも、私が自分のことを気にかけていることに気づいたらしく、あっちから声をかけてくれたのだった。
「あなた――名前は?」
夕暮れが灰色の空に覆われかけたころ、一目のつかない花壇のそばで私たち二人はしゃべりあった。
「菅ありさですぅ……」
一度こうして顔を合わせると、すごく恥ずかしいような、情けないような気分に陥りかける。
「おうちは……どこから?」
「遠くないところですぅ。毎日自転車で行けるところからですぅよ」
なんで語末をこうも伸ばすのかと言うと、もし素の言葉遣いでしゃべってしまえば、心の闇が漏れるんじゃないかと危惧するからですぅ。おまいらに対して本音で語れるほどの心の余裕なぞありますぅか。
「家族は?」
「姉と二人暮らし」
「あら、両親は?」
「いない。昔はいたけど……」
それからは、身の上とかを細々とその人に語る。私が家でのきりつめた生活を大体話すと、
「大変な苦労をして生活してるのね」と姉貴はなぐさめる。
まだ姉貴のことを信用してはいなかった。
何しろ月日が経ってはいなかったし、お互いのことをまだ何も知らなかった。その時は、ちょっと浮世離れした人だなとばかりに見ていた。
だがある事件で、その見方は大きく変更を迫られることに。
初めて姉貴と話をした数週間後、ある昼休みの時に二人の男子が教室の隅でひそひそと話をしているのを発見した。姉貴がその変な様子を見咎めて、その間に割って入ると話の内容を問いただし始めた。
そいつらはどうやら他のクラスの面々に対する陰口を言っていたようだ。後から事情を知ったので、その内容が正しいかも分からず、そんなものを確認したいとも思わないのだが――
「そもそも、美架さんって大人なのになんで高校通いなんですか?」
これははっきりと聴いていた。奴ら、ついに姉貴自身に矛先を転じやがった。
「大体それなら別に言い選択もあるんじゃ……」
「他に理由があるのよ。話せば長くなるんだけど」
やはり敬意も示さずに
「この姉さん、前ありさと話してるのを観たぞ。あいつ、かなりこの人に夢中だった」
「え、まじで?」
この時まで、姉貴は冷静だがどこか澄ました顔だった。
「そうだ、ありさはみんなから一人ぼっちだし自分からは何もできないでく人形だからな!」
この言葉が出た直後、失言を犯した野郎は地面に叩きつけられる。
美架姉貴はそれから顔を近くして、すっげえどすの効いた調子の言葉で叱り飛ばす。
「ん? そういうお前らも目の前に人間がいると何も口にできないんだろ?」
これには誰もが目を美架姉貴に向けた。あまりに鋭い目つきで、私の悪口を言った人間をにらみつけている。
もう一人の奴は顔面蒼白となったまま硬直し、姉貴の形相に釘付けになって何もできない。
姉貴はそいつに対しても容赦なかった。
「てめえも何もしないで突っ立ってる暇があったら今犯した恥じな!」
あまりに声が大きかったので、隣の教室からも廊下から様子を見る人がぞろぞろといる。
日ごろからいる席で、私はさっきの野郎の悪口で腹が立つというより、姉貴の豹変ぶりの方でおびえていた。
床から立ち上がって、私たちの戸惑っている姿に向き直った時、あの恐ろしげな様子はもう消えていた。
「みんな、この二人の罪を赦してあげなさい」
ここまで二つの態度を切り替えられることからして、やはりこの人はただものじゃない――と感じた瞬間だった。
「生きている限り、罪を犯さないでいられるなんてありえないだから。そうすれば自分の罪が赦されることも、きっとあるはず」
実際、美架姉貴はそういう人なのだ。彼女は、神を信じているのである。
美架姉貴からそのことを告げられた時、私はさほど驚かなかった。
雰囲気から、なんとなくそういう人間であるとは分かっていたのである。
姉貴は、そのことをはっきりとは言わなかったが、姉貴が自分について初めて語り始めた時、まず持ちだしたのがキリスト教の信仰だったのである。
私は、最初、あまりそういうのを知ることについてためらいがあった。一度人間を詳しく知り始めると必ず、どこか手を出すのに後ろめたさが発生するもの。
神を信じる? いやいや、そんな酔狂な人間と付き合うつもりは俺にはない。
だが別に神様のことについて語り合うとか、そんなことを姉貴の方から積極的に持ち出すなんてことはなかった。どうやらそういうものへ関心を持たせるのは、自分ではなく神の方にある、と信じ切っているらしい。
つまり、姉貴は私に対し、一種の伝道的行為をとったわけだ。
「ありさって、聖書って読んだことある?」
「ちょっと内容知ってるけど、読んだことはないですぅね」
私は別に、ほしいわけでもなんでもなかった。
姉貴が相手なだけに、断れないだけだ。なんで真実かどうかも分からない幻想めいた書物に、私が興味を抱くものか。
「そう。じゃあ、自宅に一冊予備があるから、それをあげる」
「いや、別にいいですぅ」 この時ばかりの姉貴がおかしすぎて、私はどう答えればいいのか分からない。
むしろ、軽蔑する感情さえわいていたのである。これほどの人間が、神を信じているなんてそんな変な話があるのか――なんの根拠もなく、そう。
だが、姉貴の人間性も、多分、そこから来ているのだろうと。であるなら、私が彼女を否定していい理由にはならない。
だが私は、結局姉貴から聖書を受け取ることにしたのである。美架姉貴がどんな人間か、詮索したい気持ちがないわけでもなかったし、こっちからもあえて誘いに乗ってみることで関係の距離を縮めたい願望もあった。
それから私が経験したこととは、その一書、コヘレト記というものの存在を知ったことである。
「まさか、小雪にあんな一面があったなんてね」
姉貴はさほど驚いてもいないような表情で私に告げる。
「いや、おかしなことでもないですぅよ」
心の中、あの日の出来事と重ね合わせながら、私は応える。
「小雪にとって大貴をいじくられるのは絶対に耐えられないんですぅね。自分自身が馬鹿にされるよりも」
「ええ、自分よりも他人の為に怒れるその態度、見習いたいものね」
姉貴はそう言って笑った。
「小雪はただ自分のメンツを守りたかっただけで、他人の為に何かをしてあげたってつもりはないと思いますぅ」
「メンツ?」
私は小雪のあの振る舞い、その理由に考えを巡らせ、その結果感じた虚しさを口調に反映させる。
「小雪だって勝手な奴なんですぅよ。大貴をまるで自分だけの持ち物に扱ってるんだから。あいつが忙しい時だって構わない」
「彼にとってはいい迷惑だわ」 姉貴はやはり澄ました顔のままに。
家に帰りつくとまりさ姉さんがもう台所にいて、机の上に大きくかさばった袋を置いていた。
「大体あいつは大貴以外の誰かが馬鹿にされているのを耳にしても全く反応しないんですぅよ。無頓着すぎるんですぅ。自分には直接かかわったりしない人間に対しては」
「あの子は多分、頼りになる友達が少ないってこと。まわりとのつながりが限られているから、その中で余計その内容が濃くなるのかも」
私は、その言葉にぎょっとした。頼りにできる奴がいない、というのは私が一番考え、悩んでいることではないか。
ましてや、つながりが濃くなるだと。私なんてますます薄い!
「わ、私は別にそんなこと気にしてはいないですぅよ。そんな態度見せたらますます見くびられますぅ」
口を少々開いて、少し意地の悪い笑顔に姉貴はなった。だが、むしろそのような表情こそが私を安心させてくれる。
「ってことは、あなたはやっぱり濃い友達関係とか好きじゃないんだ」
なかなか言うことが鋭いじゃねえか。
「それを言いたいわけじゃ……全然」
いいぞ、ならこっちからもその手で押し返してやる。
「じゃあ、やっぱりありさは自発的に友達を探そうとしたことはないの?」
「ないですぅ。どうせまわりにいる奴みんな、自分とはそりの合わない人間ばかりなんですぅ」
ひょっとして、そんなの思いこみじゃないのか?
ただ私の主観だってのに?
「なら、やっぱり話し相手を見つけるってのはなかなか難しいわね」
間隙を縫うように小さな疑念が通り過ぎていった。
「それどころか、欲しくないってことも思うこともあるくらいですぅ。でも……」
「でも……?」
お前はそれを、本気で言ってるんだな?
「やっぱり、自分が孤独でたまらなくなった時、なぜか友達がそういう奴が無性にほしくなるんですぅ。だから、結局自分がどっちにしたいのか、分からない……」
「あなたの気持ちは分からないでもないわ。私は……、ずっとそうだったし」
姉貴の顔は陰りを帯びていた。
それが何を意味するか想像しては見たいが、やってしまえば姉貴のことを詮索しそうで嫌。
あの制裁の時だってそうだった。姉貴は単に優しいだけの人間ではないのだ。その奥に軽々しくのぞいてはならない何かを秘めている。以前も、私は姉貴のこうした物ありげな雰囲気に出くわすことが何度かあった。
「美架姉貴はあっちに仲間がいるんだから、いいですぅよ」
私はあの人たちのことを、どう言えばいいか分からない。
その時、石垣の上に一人の少女が腰かけているのを目にする。死んだように垂れ下がって、何かの像みたいに動かない。
「小雪、おまい」
もしありさに声をかけたらどうなるかやってみろよ。ふざけんな、こんないじらしい女に俺がなれなれしい口たたけるかくそが。
「こんな所にいたのか。いや、何も見なかったことにしよっと」
「ええ、私も彼女を見なかった」
ざまあ見ろ、大貴がいないさみしさを十全にかみしめな。
「あれ、早いですぅね」
「何とか休暇をもらえたの」
まりさ姉さんには、暇がほとんどない。勉強に追われ仕事に追われ、常にせわしなく動き回っている。
仕事場から出た後、スーパーマーケットに直行して食品選びに奔走して帰ってきたのだろう。まあ御苦労なこと。
「手伝ってあげよっか」
「うん、ありがと」
家にお金があまりない中で、日々の料理というのはとても質素な感じにならざるを得ない。
「えっとこれは……」
一つの箱がある。辛口の……レトルトではない。おっ、まさかこれは。
「今日はカレー。私たち姉妹のご褒美として、ね」
「やったぜ」
私はその箱を手に取って、お前らに向ける。
「誰に向けてるの?」
「第四の壁を突き破るのはフィクションの世界に生きる俺たちの特権だろ?」
まりさ姉さんは肩をすくめてため息。
「ここは現実よ。どんなに頑張っても都合のいいように報われたりなんかしない。素敵なものなんて望むべくもない」
「あっそっかあ……」
のんきなふりをして私はつぶやく。
「少し気分が高揚したんだから、これ見よがしに演技してみただけなんだよなぁ」
「多分、うれしすぎて頭が少しおかしくなったと思うんだけど?」
というのが姉の名推理。
もう気が狂う。
だが、実を言うと、こんなことに私は気を取られるべきじゃない。今日はゲームの実況をしなければならない。
勉強の方が重要? そりゃそうだ。だが私は、今これを強くしたいと思う。これは学校に対する一種に抵抗――とは言えないが。
いや、しばらく宿題はやっておいた方が良いか。迷いを抱いたまま、私は二階に上がる。
テレビにゲーム機をつなぎ、電源を入れる。たちまち、テレビの画面いっぱいに白い光が満ちあふれ、また闇に帰っていくと同時に、水面から浮き上がるように金色のロゴが表示される。
「あー、めんどくせ……」
不意につぶやいた。このゲームは意外と難しい――と少し前から意いはじめていたのだ。やはり俺にはこのジャンルのゲームは……。
だが、視聴者に対する期待に応えるため、私は何としてでもこのゲームを実況しなければならない。ネット世界で活躍するものとしてそれくらいの意欲は持たねばならない。
たとえ誰かに邪魔されたとしても。私がこんなことを望まない奴がいたとしても。
止めるわけにはいかない。
もう、撮影は始まっているのだ。
「皆さん、こんにちは! カタリナです! 早速ゲームプレイを始めたいと思いまーす!」
私はやや声を高めに、のどと舌を整えてあいさつを発する。俗に言うアニメ声だ。元から私は声が二次元らしさを帯びている、とよく言われるのだが。
空しい。みんなの反応を視る楽しみの前に、こんな空しさを噛みしめなきゃならないのか。
無論、その楽しみが、実生活には何の救いももたらさないことも空しい。
空しいというか、ヘベルだ。いくらなんでも、この不条理に対するどうしようもない感情は、空しいというよりヘベルというヘブライ語で表す方がよかろう。コヘレトの抱いたその気持ちが痛いほど私を刺激する。
「ありさ」
まりさ姉やんの顔は暗い。せっかく、あんな時間に帰って来てくれたのに。
もちろん、私のせいだ。
「何だよ、姉やん」
カレーを食べている途中、照明は少し暗めに設定されている。明るいはずなのに、空間一面が闇を帯びている。広くて浅い闇を。
「これはずっと前から意い続けたんだけどさ……」
まりさ姉さんは目を細めて、スプーンを置く。
嫌な予感がする。
無論、的中。
「……もう、あの活動、やめてくれない?」
「は?」
私は、強いて頭脳にその意味を理解させない。
「どれくらいネットで人気になっても、あなたの現実は変わらないの。ずっと、一人ぼっちのままなの」
やけに闇が近くなっているように見える。
隣の廊下や階段には何の明かりもついていないので、暗闇がすぐそこにあるのは分かるが。
「現実を直視しなさいよ。ゲームと撮影機材を買うのにお金がかかってると思う? あとパソコンも! 電気代がどれくらいかかってるか知ってる?」
「知るか、そんなの」
まりさ姉さんは深い憤りをこめた雨で私を見つめている。
「それだけじゃない。将来のことについても考えなくちゃならない。あなたも、大学に行くの? 働くの?」
頭を前に出して、私に問い詰める。
「そんなの、その時に考えればいいじゃんかよ」
分かってる。分かってんだよ。それが、私の生死にかかってるなんてことは。
俺がはぐらかそうとすると、姉さんはますます私を憎たらしい奴だとでも思うような目つきに変わっていった。
「その時!? その時に今だんだん近づいているのよ! どっちを選択するか悠長に考えてる暇なんてない。どっちを選ぶにしろ、あんな現実逃避でごまかしてる場合じゃないの!」
「私だって努力してるんだよ。イラストの懸賞でお金を得てるし、動画で金をかせぐことも考えてる。別に時間を浪費してるわけじゃないんだ」
すると、闇が私たち二人にだんだん近づいていっているのではないかという錯覚が起こり始めた。それまで立ち止まっていたが、もう時間だとばかりに、襲いかかるような。
「それが何の役に立つって言うの? 私なんてあんたの数倍も働いてる。自由な時間も惜しんで、必死に生活費をかせいでるのよ。あなたより数倍格上なの」
「ふざけんな!」
猛然と立ち上がって私は大音声を。
「てめえのがみがみいうたわごとに付き合うのももうごめんだ! それ以上きーきーわめくようなら、こんな所出てってやるぜ」
頭の中に闖入しようと、残忍な感情が入り口を求めてぐるぐるしている。
このままでは、まりさ姉さんの頭蓋を粉砕しかねない。
「ありさ、何を言い出すの!?」
日ごろためにためていた鬱憤を、姉さんの顔にぶちまけた。
「俺はどうせお前のお荷物なんだよ! 俺がいなくなったらてめえの生活もよくなんだ。そうなんだろ?」
「違う! そんなこと何も言ってないじゃない!!」
「もう、何だってどうだっていいんだよ!!」
私はそう言うと、玄関へ飛び込み、靴下だけで外に出ようとした。
そして、戸をひっつかんで、もうあの糞女の顔なんぞ視るまい、と息巻いた瞬間――
「朽ち果てろ」
背後から、恐ろしげな声が響いた。静かだが、ずしりとくる声だ。
「そのまま出ていって、朽ち果てるがいい。お前がそれでもいいというなら」
冷や汗が横からにじみ出て、いきなりしたたり落ちる。
私は、振り向いた。脇腹に手をついて、姉が立っている。
確かに、姉だった。だが、姉ではない。
瞳のあたりが虚ろで、空っぽに見える。口元は、無理やりねじまげたくらい何の感情も含んではいない。
「どうした? さっき出るっていっただろ? なら、出ろよ」
姉はまるで私が長年の仇であるかのような態度をとる。
もう、私には、何の覇気もない。
「ち、違う、私は――」
「まだ、覚悟が足らないというの? いいわよ、来なさいよ! 突っかかってみなさいよ!」
姉の背後に、何かが見える。はっきりとした輪郭を持たない、何かが。
翼のように、闇のように黒いものが広がっている。
私の体から、急激に力が抜けていった。あとはもう、立つことしか。
姉はすると、ぐにゃっと、口を弧状に曲げ始めた。
「なあんだ、おびえていることしかできないの? じゃあ、私があなたを」
逃げ出していた。声にもならない叫びをあげて、扉を開け、外へ。
思いきり、走った。脚があまりの酷使ぶりに悲鳴を上げる。このままでは体ごと崩れてしまいそうなほどに。
走って、走って、走って、気づいたらもうどこにいるか分からなかった。もうあたりは暗闇ばかり。電灯は位置を特定することに、何の役にも立たない。
すると、冷たい風が私の感覚を痛いくらい刺激してくる。ゴミとか草とかに足がひりひりした感触を送りこんでくる。
一体、私はどこにいるんだ。
ふと、疑問を感じた。私は、どこにいるべきなんだ。
すると、あたり一面の暗闇が私の方に収束していった。広かった暗闇の世界が、急に距離を縮めて私を掃除箱のような狭い場所に閉じ込めようとし出した。
そして、体の中へも自分を侵食させようと息巻いている。
このままじゃ、闇に襲われる!
疲れ切った体が脳髄の理性に抗議するが、理性の方では、それを無理やり抑えこみ、元来た道へと私を走らせる。
もう、力がない。目をとじると、闇がまたいきなり目の前に回りこんで襲いかかろうと。額にしわが寄るくらい、まゆを上げて見開いた。でないなら、本当に闇と私は一体になりかねない。
「ありさ! ありさ!」
どこかから、慌てるような口ぶりの叫び声が聞こえる。
「どこに行ったの!? 行かないで!」
闇が左から右から押し寄せる中で、小さな方形の光が見えてきた。声はそこから発せられているらしかった。
あっちに、出口がある。あそこに、向かわなくちゃ。
だが、風がどんどん強くなり、闇がもう、間近に迫ってくる。あまりにもどろどろした体をふるって、輪郭の分からないほどの巨体をちらつかせ。
私は逃げようとしたが、何かにつまずいた。
次の瞬間、腕をつかまれた。闇が、私を食いちぎろうとしている。そして――
「ありさ! どこに行っていたの!?」
私は、姉さんに抱きしめられていた。そこは戸口の前だった。
姉さんの涙が、頭にかかる。声はあまりにか細く、うまく聴き取れない。
「どうしてそうやって、私からいなくなろうとするの? 私には、あなただけが頼りなのに?」
戸惑って、何もできなかった。先ほどの姉の面影はもうどこにもない。もう、いつもの弱々しくて、繊細な姉さんに過ぎなかった。
「なんで、すぐにケンカになったら、自分から逃げようとするの……?」
ヘベルだった。
姉さんがたまにあんな冷酷な姉に変じることを、私があれほどおそれているのに、姉さんはそれを露ほども気づいていないということに。
「大丈夫だって~、瀬原は悪くないもん」
高校生というには、いささかあどけなさが抜けきらない声だった。
「小雪が怒り出したのはさすがに僕も予想外だったけどさ、でもだからって暴力に訴えるのはよくないでしょ」
その声の主を見ると、年頃の男の子と言うにはあまりに背が低く、肌は日焼けしているがつやがあって玉を載せればはずむように新鮮だ。
だが、単にかわいらしいという感じでもない。
「里見の言う通りだぞ勝。小雪の心がやわすぎたんだ」
李駿がいかにも自信ありげに断定する。あいつ、瀬原とはやけにくっついているのだ。
「文子がいないとあいつ、どうしてたか分かんなかったし、ただでさえ怖すぎだろあいつ」
ただちに付和雷同する里見。
「うんうん、李駿の言う通り!」
ここまで来ると、瀬原は面倒臭そうに手を振る。
「いや、もうそう言うのは聴き飽きたからさ……」
「なあ、俺たちでまたどっかに食いに行かねえか?」
「えっ、またどっか行くの?」
「またって、ありゃ五週間前のことだろ。十分時間は経った」
廊下を通り、階段を下りながら、他の生徒たちがあてもなく行き交う間、例の三人はたわいもないおしゃべりにふけっていた。
奴らはいつもたがいにからんでやがる。
「で二人とも、何か別にうまい場所知らないか?」
とここで李駿がこんなことを言った。
「最近このへんにできたトルコ料理店がすごくうまいんだ」
この時一緒にいた里見が問う。
「へえ、安いのそこって?」
もう、彼らは一階にまで駆け下りていた。
「いや、安くはないな……だが高い金を払って食うだけの価値はある!」
李駿は、こういう時だけは本当に生き生きしている。
自分の他に誰かがいる、という錯覚を感じることほど心地いいことはないのだろう。
「そっか、なら俺たち三人で食いに行くか!」
もう靴を収めている所に彼らは位置している。
瀬原は豪胆な声で提案した。
「おっ、そりゃいいね!」 里見のほほえみには、可憐なあどけなささえある。アルジェリア人(ベルベル系)の母親から受け継いだ乳色の肌と、均整の取れた純真さのある顔だち。口元は赤子のように鮮やかで、瞳は水玉のように澄んでいる。
「よし、じゃあ今度の土曜日に待ち合わせな」
「うぃーっす」
李駿と里見がさよならと言って、瀬原から去っていく。
「さて、と……ありさ」
その時、瀬原は私の方に振り向いて尋ねる。
私は、三人を間近にまでついてきていたのだ。
「分かってたですぅか、私のこと」
瀬原は苦笑いを浮かべながら語りかけてくる。
「あのさぁ、いくら気配を隠すことができるからって、俺の勘をなめんじゃねえぞ」
意味深な言葉を含めて、そう言う。
「気配を隠すって、私はそんなこと得意なつもりはないですぅよ」
「ん? 案外そういうこと、自分では気づいていないらしいな」
首をかしげながら、ロッカーから靴を取りだし、建物の外、校庭の方へ歩いていく。
生徒たちが集まっている場所から遠ざかり、校舎の壁際へと一人近づいて。
「待ちやがれ。あんた、何が言いたいんだ?」
私は、瀬原の不審な言動に何もせずにはいられない。
いぶかる声で奴に。
「ちょっと気になってたんだけどさ。お前あの時、李駿になんて言ったんだ?」
砂利を踏む音ともに、静かで重い言葉が瀬原の口から飛び出す。
「あの時って……いつ?」
「分かってるだろ? 昨日の放課後、李駿とひそかに会ってたって話よ」
瀬原の口調があまりにも堂々としていたので、私はあせりを感じる。
この野郎、何が言いたい? なんで、それを知っている?
どうして、私に訊こうとする?
「どこから知りやがった?」
「当然じゃねえか。李駿が教えてくれたよ。あいつは俺に対してはどんなことだって隠し立てしないからな」
「知られたら不都合なことでもか?」
「論を待たない。あいつは俺の片腕なんだから」
まるで、李駿を自分より格下に見ているような物言いだった。
その時の瀬原の表情も、一種の非人間的な冷たさが。
「あいつはメールですぐ教えてくれたよ。ありさとの会話に好きでもないのに付き合わされたって。あの文面からして、大部お前にメンツつぶされたらしいな。一体何があった?」
まるで無邪気にその問題に触れているようにも聞こえる。いや、だからこそ不気味だった。
「おい……お前……」
「もしかして、金のことか? 確かお前の家って貧乏だったよな。何かあいつにしてあげるって約束して、お金せびりとろうとしたのかな?」
瀬原の意味するところに、私ははらわたがにえくりかえる思いになる。
「へ、変なこと言うな!」
不意に大声を上げてしまった。すると瀬原は私の口を押さえて、人差し指を自分の口にあてる。
「しーっ、冗談、冗談だよ。それこそ社会生命を失う元だからな。お前だってそれが危険なことくらいわかってるはずだしよ。何せ体がおいしくなさそうだし」
私はこいつにガツンと言ってやりたい気持ちだった。こいつの自尊心を破壊するだけの罵倒を浴びせなくては。だが、それを見つけられないまま私が立ち往生していると、
「だが、あんたが何を言ったかはなんとなくわかるさ。あいつが白々しいまでに自分を殺して、みんなの友達であるかのように振る舞ってることをな。あんなのは一目で分かる。実にお粗末な演技さ」
すでに私の彼に対する怒りはあきれに変わっていた。
お粗末なのはてめえの陰口ですぅ。それじゃ、あいつの友達のふりして、本当は馬鹿にしてるってことじゃないですぅか。
「李駿はあんたと仲良いように見えたけどな」
「仲がいい? 冗談言ってくれるな。あいつはみんなの友達であろうとはりきりすぎてるから気づいていないだけなんだ。現にお前だってそれを理解してんだろ? なら俺と同類ってわけだ」
気に入らねえ。こんな奴にそれを言われても、一向にうれしくない。
「勝手にひとくくりにすんじゃねえ。俺はあいつの友達ごっこを空しいとは思ってるが、てめえみたいに馬鹿にしてはいない。あいつみたいになるのは人間として当然だろ? それを白々しいとかお粗末とか、他人が言ってもそれは酷な話なんだよ。何の意味もないし薬にもなんねえんだ」
息を吐いて肩を下し、やけになれなれしそうな笑顔を奴は浮かべる。
「いや、ありさ、俺はあんたのことを気に入ってるんだ。そうやって自分が信じてることを、こういう時に限って包み隠さずいう。度胸あるよ、お前。李駿だったら勝手にキレちまうことでごまかしちまう」
瀬原勝は、ふふふと鼻で笑った。
「ありさ、もっとお前はそういう態度とった方が良いと思うぞ。お前の場合いつもの姿は不思議ちゃんな性格でごまかすからな。率直になれよ。お前がより真面目でまっすぐな性格になるの、応援してるからな」
あの野郎……。
私は、立ち去っていく瀬原の姿から目を背けた。目を向け続ければよからぬことでも起こりそうだった。
こんな気分を引きずったまま帰りつくのはごめんだ。そう心の中抗議しても、やはり晴れない気分はその倦怠感に満ちた意識にねばって離れない。
私はすっかりどうにもならない気持ちを抱えて、家路に急ぐにも物憂い感情に浸り切っていた。
「おーい、ありさー!」
その時、大声を上げて一人の女の子が駆け寄ってくる。
ただでさえ人と話をしたくないってのに、何様のつもりなんだ――
「よかった、そんな所にいたんだね」
運の悪いことだ。麻里香じゃないか。
茶髪で鼻が高く、その風貌には貴族的な高尚さがある。
「実はあなたに特別に話したいことがあるの!」
この時、私は苦しんだ。ここであれを演じなくちゃならないなんて。
しかも、あの糞まみれのざれごとをたっぷり聴かされた後で!
「麻里香たんですぅか? やけにうれしそうですぅね」
先ほど背負いこまされた重々しい荷物を放り投げるように、私はかわいげに言って見せる。どうか気づいてくれなきゃいいが。
「カタリナっていうネットで活動してる人って知ってるよね?」
麻里香は先ほどのやりとりを知らないから、無邪気な様子でいられるのだ。それがまた、空しい。
「私知ってるですぅよ。ゲームを実況したり絵を描いたりかなり多彩な奴らしいですぅね」
自分の正体を隠すことは慣れっこだ。
「うん、うん、実はそうなんだけど、あの人から、まさか返信もらっちゃったの!」
数日前に寄せられたあのリプライ、あいつだったのか。
「いや、実は私も絵とか描いてるんだけど、なかなか感想が来なくてさ。それをカタリナさんのアカウントにダメ元で質問したら、まさか昨日の夜帰ってきたの!」
この興奮ぶりからすると、あのカタリナ――こいつを自分だとは思っていない――が好きらしい。
「どんな答えが返ってきたんですぅか?」 恥ずかしさを耐えながら。
「まず、色々な人とつながって、自分の方から積極的に感想送れだって。それから、自分の作風を確立するために色々なジャンルに手を出せだってさ」
そんなことをしても、有名になれない奴はなれない。
それに、感想が来すぎても、逆に迷惑だしな。
「私もあいつみたいになりたいですぅよ。なにしろ、たくさん仲間がいそうだし、リアルとかも充実してるように見える」
「うん、私もあの人みたいになりたいなあってずっと憧れてるんだけど」
見事に、麻里香は私の言葉を理解しなかった。
この日もどれほどの虚無を感じたか知れなかった。
一人でベッドに寝そべり、何もする気がないまま体を横たえている。
瀬原と麻里香に味わわされた、身のねじれるような不条理をどうやって克服することなどできようか。瀬原はまだいい。あいつの腹黒さにはむっとするだけで終わる。だが、麻里香のあの無理解は、怒ることも受け入れることもできない。
私は終生、この虚無を感じ続けるのだろうか。
だが、その末にはどうなる?
私はやおら起き上がり、本棚に突っ走って聖書を取りだした。以前美架姉貴からもらったものだ。
あのコヘレトは結局何と言ってたっけ。最初、あれを読んだときは「世の中みんな虚しい! 虚しい!」とわめいている部分ばかりが目に入って、彼の言おうとしたことの全体的な意図がはっきりとは分からなかったのだ。だが、ただ悲観的な見方ばかりをこの古代人はとっていたわけではない。
今、私は自分の身に降りかかるわざわいを恨んでいる。一体私に何の罪があって、このような不条理や理不尽な事柄を受け止めなければならないのだ。
今私は、それを受け止めて、苦しんでいる。誰がそうした?
神か?
美架姉貴なら、それを認めるだろう。どんな苦しみに遭っても、それを自分に対する神の干渉ととらえて、喜ぶことすらするだろう。
私には、まだそんなことはできない。つーか、人間に対して苦しみを与える神って何だよ? 悪魔かよ? そんな神を受け入れることが、なんで可能なんだ? できない相談だろ、そんなもん。
しかし、姉貴を馬鹿にすることは、やはり私にはできなかった。私は、あの人に対して個人的に恩があるし、ある程度彼女を尊敬もしている。何より、私よりはるかに精神的には鍛えられているように見える。そんな人を、ただの異常者として片づけるのはあまりに心苦しい――時々そうしたくなることもあるが。
逆に、こういう風に言い分けもする。
私は、そういう心の苦しみと同居しているからこそ、同じような悩みを持っている人を理解することができる。心の苦しみを理解できるからこそ、理解できない人間に比べて強みを持っている。
苦しい言い訳だ、と自嘲する。
《わたしは知った
人間にとって最も幸福なのは
喜び楽しんで一生を送ることだ、と
人だれもが飲み食いし
その労苦によって満足するのは
神の賜物だ、と。》
こんな惨めな気持ちで生きている人生を楽しめ、だと? 満足しろ、だ?
俺は不満たらたらだよ。
だが、よりよい自分などというものが想像するのか?
確かに、より育ちのいい家庭には生まれたかったし、あんなわけの分からない態度をたまにあらわす姉なんていらなかった。
だが、今の私以外に、ありうべき私が存在するのだろうか。そんなものがあったとして、私はそいつを理想の私と認められるか。
今までの無数の出来事の末に、今の私が存在している。その経験一つ一つが、今ある私を否定する私を形成してきた。
それが、私のこの世にある原因であり、なければ、今ここにある私は存在していない。もし現実が違っていたら――小雪や、麻里香や、その他大勢のような思考回路を持っていたら――私は、確実に存在すると言える私はこの世にいなかったんだ。
むしろ、今となっては、『その他大勢』の奴らがあまりに異常で、うっとうしくて、嫌らしいと感じられるようになってしまった。それがいいことだとは受け入れていない。
だが、もう以前の私に戻る道も残されてはいないのだろう。
結局、自分はこのような命運を受け入れるしかないのかもしれない。
「もしもし、姉貴ですぅか?」
私は電話をかけた。
「ありさ?」
私はいつの間にか、口に弧を描かせていた。やはり、姉貴の声を聞くと何ともない安心感。
「やっぱり私は――このままなんですぅか?」
「どういうことかしら?」
「私は、やっぱりこんな孤独で、難しくて、変な性格を引き継ぐしかないんじゃないかって」
ふと私は、申し訳なさを感じていた。よく考えたりしないで、姉貴に電話をかけてしまった。あっちにはあっちの事情があるってのに。
姉貴はしばらく黙ってから言った。
「……別にあなたは、変な人間じゃないわ」
「変な人間じゃない……?」
「誰が正しい生き方とか間違った生き方なんてのを決めたの? それを決めるのは人間じゃない。誰もが、正しいのかもしれないし、あるいは間違っているのかもしれない」
なんだろう。納得できない。この人の言葉なら、腑に落ちる気分になれると思ったのに。
「……姉貴、私は、何が正しいのか知りたいんですぅよ」
だだをこねるような口調で、すがりつく。
「まだあなたは若いんだし、色々な経験とかした方がいい。学校なんて狭い空間にとらわれて、狭い見方しかできないんじゃだめ」
色々な見方をしろって、そういうほかの奴らのやり方を理解するのが苦痛つってんだ。
姉貴は、私にほとんど生気がないことを感じ取ったらしく、
「元気がある内は、自分ができる限りの中で楽しみなさいな。悩むのは、それからにしなさい」
そういえば、あれにこんな記述があったな――
《若者よ、お前の若さを喜ぶがよい。
青年時代を楽しく過ごせ。
心にかなう道を、目に映るところに従って行け。》
その意味を要するに、人生を楽しめ、と。
だが、それだけでは終わっていない。
「あなたが何を考え、何をするにしても、その判断をするのは私じゃない」
ああ、出た。この言葉。それが意味することは。
「いつか、あなたも歳をとった頃には、自分が物事をどう考えてきたか、みずから問いただすこともあるでしょう。それでさえも、正しいとか間違っているとかの最終的な答えにすることはできないのかもしれない。何せ、人間の考え方ほど、頼りにならないものなんてないから」
笑い声が受話器の向こうから漏れ出る。
「ごめんね。なんだか愚痴っぽくなっちゃって」
「別に、姉貴と一対一で話ができることほど嬉しいことはないですぅから」
「私も、ありさと話せると色々とためになることが多くてさ」
美架姉貴がまたも笑った。
「私も姉貴からよく学ぶですぅよ……」 よいことで悪いことであれ。
「ええと、ちょうどしておきたい話があったんだけど」
「あー……なんですぅか?」
「あなたも、受洗のこと、考えてない? 断続的だけど、もう何回か礼拝に来てるわけだし」
この話題が来るたびに、私は何を感じればよいかわからない気分になる。
そのことか。
安心感が薄れ、怠惰な気分がまたもや現れる。ヘベルだ。
「私は、そんなに信じる心とかあるわけじゃないですぅよ」
「別に、今すぐにそうしてって話ではないけど。でも、どことなく望んでいることなの」
「いや、その気持ちは分かるんですぅよ。けど、まだその時じゃないんですぅ」
美架姉貴がそういう人間であるというのは元から分かっているつもりなのだ。だが、どうしても心に障るものが生じてしまう。
拒否することは、私にとって必然に近かろう。しかし、それを美架姉貴に対して示すことも、やはり心苦しいのだ。
「……そう。いいよ、別に人がそれを決めるわけじゃないんだから」
その時期を与えるか与えないか、与えるとして、いつ与えるのか――それはみんな、神が決めている。
「でも。きっと、ありさが……道を選んでくれるなら」
人生を幸せに送れ、とああ言った後で、コヘレトは続けている。
《知っておくがよい
神はそれらすべてについて
お前を裁きの座に連れて行かれると。》
そうだ、人間は死んでそれっきりじゃないんだ。必ず、神の元に送り込まれることになる。人間の正しさとか間違いというのはみんな神の裁定なんだ。
姉貴とはいえ、やはり人間の一匹なのだ。立場の違う、他人なんだなって。
姉貴がああ言ったのは、結局あいつも神を信じているからだ。きっと私に、善意でそれを誘った。もしかしたら、あるかもしれない結末に、私が陥らぬようにと。
決して悪意があるわけではないからこそ、どう感じればいいのか分からず、ヘベルに突き落とされるのだ。そもそも私は神なんて信じていないし、神を信じている人間は頭が湧いている、とさえ考える。
だが、私とは正反対の考え方をする姉貴が、どうしても馬鹿だとはできなかった。
空しい。一体、私は何に空しさを感じているのだ。
美架姉貴のことで? それともこの生全体に? 両方?
分からない。いや、分かってしまったら怖い。全く、私はなぜこのヘベルを感じ続けているのだ。いっそ、美架姉貴のように、信じることで迷いを断ち切るか? けど、そうした所で、どうなる? 結局、何もかも塵になってしまうのに?
今でさえ、人間の多くはこんな悩みにつかれることもなくのうのうと生きているのに。
こう迷っていることに、どれほどの意味がある? 悩み続けること自体が、一種の道楽じゃないのか?
なら結局、悩むこと自体を振り捨てる他ないんじゃ? この人生を悩むのがヘベルなら、結局、この言葉に行き着くしかない。
《心から悩みを去り、肉体から苦しみを除け。
若さも青春も空しい。》