01話 異世界九年史 その1
十月も半ばに差し掛かり、そろそろ夏の暑さを忘れそうになったある日。
一組の男女が町外れにある丘の上へとやって来ていた。
「賭けは私の勝ちかな」
「……おめでとうございます。何を、誰と、お賭けになられたのですか?」
「どういう賭けだったか、詳しく覚えてはないんだけどね。
二年で孤児院が建てれるかどうか、確か……そんな内容だった。
負けて忘れるのはダメだけど、勝って忘れるのは問題ないんじゃない?」
「さようでございますか」
丁寧ではあるが、素っ気無い対応をされた男だったが、想定内という様子で、
丘の下にある完成したばかりの建物を見つめ、感慨にふけっている様子である。
それは、横にしたドーナツを地面に置いた形をしていて、
真ん中の穴の部分が中庭になっていた。
建物部分は三階建てで、
中庭に沿う形で各階に廊下が円を描いて設置されている。
廊下の奥には等分にわけられた部屋が、一階につき二十部屋あり、
建物全体では結構な人数が住むことが可能。
外壁部分は通常の建物よりも相当しっかり作られており、
出入り口は南北に二つだけで、その扉は頑丈な鉄製のもので出来ていた。
見下ろす建物が賭けの対象なのであれば、これは孤児院であるはずだった。
――異世界生活も既に九年。一つの目標を成し遂げた今、この九年間を一度簡単に振り返ってみようと思う――
私の名前は高房和喜。当時二十六歳。
ここに来る前は、日本でサラリーマンをしていた。
出張先へ向かう途中で列車事故に遭い、気が付いたらこの世界。
スタートは最悪に近い状態だった。
意識が戻ると、そこは山の中だった。
目に映る景色はどこか懐かしいような……それでいて初めて見るような……
不思議な景色。
列車事故があったところまでは覚えているが、
それ以上のことは何も分からなかった。
とりあえず体に異常がないかの確認をしてみる……怪我などはないようだ。
次に持ち物の確認をしてみると事故にあった時、
膝に抱えて持っていたはずのカバンがない。
どうやら、身に着けていたもの以外は全てなくなっているようだ。
携帯電話を取り出して、とりあえず電話がかかるかどうかの確認をする。
待ち受け画面のアンテナが表示される部分には、
無常にも圏外の文字が映し出されていた。
遭難した時の基本である―その場で動かず救助を待つ―を守り半日過ごしてみたが、来る気配を微塵も感じなかったので自力での下山を決意した。
下山決意から三日後。
疲労と空腹でヘロヘロになりながら、やっとの思いで山の麓までたどり着くが、
そこで意識を失い倒れてしまった。
どれくらい時間がたったのだろう?耳元でなにか聞こえる気がする。
意識が少しずつ戻ってくると、その声は次第に大きくなってきた。
それにつれて、体が揺さぶられたり、
顔をはたかれたりしている感覚がもどってきた。
――これは生存確認をされているのか?――
正解だった。
意識がしっかり戻ると、目の前にはコップに入った水とパンが差し出された。
助けてくれた人物は、背はそれほど高くない、恰幅のいい中年男性。
ただ、問題はどこから見ても日本人には見えないということだった。
丸三日何も食べていなかったので、
礼も言わず無心にパンにかじりついてしまった。
その間、よくわからない言語で話かけらる。
聞いた語感だと、スペイン語かポルトガル語のような気もするが、
そもそもどちらも話せない。
お礼だけでも言わねばと思い、
グラシアスとかオブリガードとか言ってみるが伝わっていない様子。
とりあえず相手の名前を聞こうと、
まず自分を指差してカ・ズ・キとなるべく聞きやすいように発音して、
次に相手を指差して、首を少し傾げてみた。
これを二回繰り返した時、男性が自分を指差しながらオ・ル・ロとわかりやすい発音で言ってくれ、次に私を指差してカ・ズ・キと続けた。
名前を聞けて嬉しくなった。
なんだかんだあって、このオルロという男性と馬車で旅をすることになった。
素性もしれない、言葉も話せない、着ている服はスーツに革靴。
こんな怪しさの塊とも言える私を連れて旅しようなんて、この人絶対……変だ。
約二週間、色々なところをまわった。
見たこともないような美しい滝や大きな川、
死海を思わせる塩分濃度の濃い湖など。
しかし、色々な場所を見れば見るほど、突きつけられる現実もあった。
――ああ……これは異世界に飛ばされてきたらしい……――
もっと驚くかと思ったけど、なんとなく受け入れてしまった。
多分、泣いても喚いてもどうしようもないとわかっていたからだと思う。
楽しかった馬車の旅も、そろそろ終わりが近いように感じていた。
旅で廻ったどの街よりも、大きく華やかな街へ着く。
馬車が大きな屋敷の前で止まり、
普段は降ろさないような荷物までも降ろしていた。
ああ、ここが終点なのだと直感したが、とりあえずに荷降ろしを手伝う。
これが終わったら、この旅で覚えた感謝の言葉と別れの言葉の両方を伝え、
そのまま去ろうと決意した。
別れの言葉を言ったあと、振り返って去ろうとする私の二の腕を、
オルロさんがすごい力で掴む。
そして私を自分の方へ振り向かせ、屋敷を指で差し、
次に荷物を上げ下げするような動きをした。
なるほど、荷物を屋敷へ運び入れろ、という意思表示かと思っていたら、
それにはまだ続きがあった。
寝る姿を真似る仕草をしたあとに、満面の笑みを浮かべた。
私はそこで理解する。
ここで働いてもいいぞ、という意味だったことに。
何度も何度も感謝の言葉を言いながら、彼に抱きつき、泣いた。
私はお屋敷の離れに住みながら、力のいる雑用を主にこなしていた。
つまり―オルロさんに下男として雇われた―ということだ。
言葉も話せず、文字も読めないという状況では、これ以上ない仕事だった。
住むところに三度の食事も提供され、
貨幣価値はわからないがお給料までもらえた。
下男としての仕事を日々こなすうち、お屋敷のことも少しわかった。
オルロさんは奥さんと娘さんの三人家族で、
お屋敷には身の回りのお世話をするハウスメイドのような人が数人いる。
仕事の合間や仕事が終わった後に、その人たちを相手に身振り手振りを使って、
できるだけ会話するようにした。
一刻も早くこの世界の言語を習得する必要があると感じ出したからで、
それからはかなり本腰を入れて勉強を始めた。
大学受験の時の五倍くらい必死にやっただろうか……。
日常会話に一年、読み書きもあわせると計二年を費す。
なんとか日常生活に不自由のない程度までにはなることができた。
話せるようになるにつれて、自分のことを聞かれることが多くなり戸惑う。
海を隔てて東にある大陸の国が多民族国家らしいので、
その中の少数民族出身だということにした。
旅行中に海難事故が起きてこの国へ流れ着き、
肉親もおらず天涯孤独の身なのでここに留まっている、という設定に決めた。
疑われることなくすんなり信じてもらえたので、
なんとも言えない罪悪感を味わうことになった。
会話ができるようになって、命の恩人であるオルロさんの事もわかった。
フルネームはオルロ・バルトスで、出合ったのは、四十五歳の時。
ここリィンダイム王国王都クレインで、
バルトス商会という三軒の商家を所有している、やり手の経営者。
下男として働くようになった後も、
一緒に旅をしていた頃のように接してくれたのは嬉しかった。
オルロさん本人に呼び方を変えた方がいいか、尋ねたことがある。
雇われてる立場なのだから、
『旦那様』か『オルロ様』と呼んだほうがいいのではないのか?と聞くと、
「そう呼びたいなら止めないが、このままの方が嬉しい」
と、言われたので変えないことにした。
一人旅は趣味で旅で知り合った人間を連れ帰って店で働かせることも、
今回が初めてではないようだった。
この人絶対……変だ、と感じたのは間違っていなかったのかもしれない。
――思い出の旅は、まだまだ終わらない。