私のモノだ、奪うな
この春から教師になった。四年ほど商社に務めてから教員採用試験に合格した運びである。
その学校は定年を迎えた教師に代わる教員を探しているようだった。学校長と教頭による事前の説明で、僕の受けもつクラスは六年二組となった。
一念発起して教師になった僕だったが、新任にして小学校の最終学年の担任にされるというのは些か疑問の残る采配に思えた。僕は彼らに、PTAなどが不満を漏らすのではと訊いてみた。しかしその点は全会一致で理解していただいている、とのことだった。
その小学校も多くの学校の例に漏れず、偶数年のクラスはクラス替えを行なわなう仕組みをとっている。僕は先任の教師はどのような方だったのかと問うてみた。
すると彼らは互いに視線を交わすと、熱心で優しく素晴らしい教師だったと絶賛した。それが示し合わせた回答であることを、僕はぼんやりと感じていた。訝る僕の目を気にかけたのか、教頭はまだ働いていて欲しかったのですがなどとくぐもった声を漏らした。
その日の説明はそれで終わり、次に学校を訪れたのは四月の始業式だった。早朝の職員室では、大学を卒業したばかりの活力人間を演じるのではなく、笑顔は絶やさず落ち着いた口調で自己紹介を述べた。拍手で迎えられた僕の経歴を教頭が軽く説明し、僕はあるデスクに誘われた。
向かい合った二台のデスクが四つほど横に連なっている、その端の席、職員室で言えば左上、教頭席と扉に近いデスクだ。デスクの上は綺麗に片付いていたが、天板にシミのようなものが付いていた。それはカーブを描いていた。
僕は与えられた資料を棚や引き出しに収めて、席に着いた。
「その席なんだ」
教頭による始業式の流れや明日からのスケジュールが説明される中、そんな声が僕の耳朶に触れた。僕は顔を上げた。真向かいに座る、僕よりもいくらか年上の女性教師がそう言ったようだった。彼女は僕と目が合うと、一度目を逸らし、再び合わせ、「頑張ろうね、センセイ♪」と小声で言った。
綺麗な女性による応援と、先生と呼ばれる無条件の感動に、僕の心は容易に舞い上がってしまっていた。
長い一日が終わって、帰路に着いた。電車に揺られる僕の意識は白河夜船に乗せられて、記念すべき今日という日を振り返っていた。
始業式、学生時代から一人で壇上に上がるのは卒業証書を受け取る時だけだった僕にとって、豆粒のように可愛らしい全校生徒の前で挨拶をするのにもひどく緊張してしまった。あのあどけない瞳が、僕という人間を純粋な感性で見定めているのだと思うと、余計に、そう余計なことを喋ってしまうほど余計にナーバスになっていった。
そんな僕の心を解してくれるのは教頭をはじめ、教員の方々だった。頑張ろうと仰ってくださった六年一組の担任である女性教師S先生はやはり美人で優しいし、六年三組の担任で生徒指導も任されているコワモテの男性教師A先生はとても頼り甲斐があるように思えた。
しかし一人だけ、副担任を務める女性、E先生だけは暗い面持ちで僕を見ていた。挨拶をしても素っ気なく、何か気に障ることをしただろうかと心配になった。
いよいよ教頭の指示もあって彼女に連れられて、担当する六年二組の教室にやってきた。生徒達は全員着席し、静かに僕に注目していた。見定めていた、というべきだろうか。
それにしても騒がず大人の話を聞いていられるのは、流石は上級生だと思わざるを得なかった。四月の行事予定の説明で、一番盛り上がりそうな遠足の話をしたときも、彼らは深く頷くばかりだった。僕の小学生時代だったなら、誰かを皮切りに立ち上がって猿のようにはしゃいでは担任に窘められたものだったが。
気負っているのは僕だけではないのか。それともこの校区の特色か。はたまた、よく学園ドラマである、実は裏の顔はおそろしく、裏掲示板などを利用して僕に暴言を吐き、生徒間ではスクール・カーストなどと呼ばれる残酷な階級制度が採用されているのだろうか。
僕はぶるりと震え、まどろみから意識を取り戻した。そんな僕の挙動を女子高生のグループがほくそ笑んでいた。僕は逃げ出すように自宅の最寄り駅で降りた。
始まった。どんなに不安を抱えていても、僕の心は有頂天に舞い上がっていた。
予定されていた遠足を初めとした様々な行事、カリキュラムを、副担任のE先生の協力を得ながら次々にこなしていった。三カ月ほど経ったある日、僕は彼女に訊いてみた。何故アナタは未だに素っ気ないのかと。
すると彼女は言った。
「まだ、なのね?」
「何がでしょう」
「アナタほど明るければ大丈夫なのかしら。この仕事を愛している私としてはその方がいいし、アナタが正気を保っていられるためなら協力は惜しまないわ」
「何の話です」
「いいの、分からなくて。あの子達もきっとそれを望んでいるだろうし」
彼女は僕の返事を待たずに、一人足早に職員室へ戻っていった。
それからの僕は、教室の隅の椅子にかける彼女の様子を気にしながら仕事をするようになっていた。彼女が言う“正気”というフレーズが頭の中を旋回して止まらなかった。
そうこうしていると予てから不安で仕方なかった授業参観の日がやってきた。僕はストレスではち切れそうな胃を抱えながら授業した。生徒はいつものように静かに座り、教室の最後部に並ぶ父兄を気に留める素振りもなかった。私立のお坊ちゃんお嬢ちゃんでも、何かしら親にアピールすると思ったのだが、六年生にもなるとそんなことがなくなるのだろうか。
僕は不意に教卓に手を付いた。瞬間、教卓が音を立てて倒れ、僕の身体は教壇に叩きつけられた。E先生が口を覆って立ち尽くしていた。父兄も突然のことで騒然となっていた。僕は動転していたが、自分のかいた恥を何としても雪ごうと、如才ない笑みで頭を掻いて、「ごめんなさい、新人なもので緊張してしまって」などと場を和ませようとした。
直後、女子生徒の一人が突然大声で泣き始めた。彼女は僕の方を指差すと、机に突っ伏して泣きじゃくった。彼女の母親が周囲の父兄に会釈しながら彼女に近付き、どうしたのと問いかけていた。そんな彼女の動揺を鎮めたのは、前の席に座る彼女の親友と見られる女子生徒だ。彼女らは手を取り合うと、くぐもりながらも確かに言った。
「あと八ヶ月だから。頑張ろう」
「……うん、耐える」
僕はこの“頑張ろう”という聞き覚えのあるフレーズと、泣きじゃくっていた生徒が涙を拭きながら言った“耐える”という返事に衝撃を覚えた。
今から八ヶ月後と言えば、年度末だ。年末と言えば、彼女たちにとっては卒業式がある。つまり彼女達は、“卒業式まで頑張ろう”、そう言っているのだろうか。しかしでは、耐えるというのは何に、“この環境――学生生活”に?
今でも彼女達の鋭くも怯えた眼光をはっきりと覚えている。
全てを知った今では、嘆息しか漏れない。
無事とは言えないまでも、何とか一学期を乗り越えた。夏休みに入り、校舎は特有の静けさに包まれていた。僕は校長の許可を得て、二学期の授業の資料を纏めるために、誰もいない職員室を使わせていただくことになった。校長は渋い顔をされていて、教頭にいたっては眉間を揉んでいた。
一つ提示されたのは、“作業中は冷房を点けず、窓とドアは開けておきなさい”という珍妙にして季節を鑑みれば過酷といわざるを得ない悪条件だった。問うと、節電云々と言葉を濁された。代わりに、室内の扇風機をいくら回してもいいし、冷蔵庫の飲料も好きにしていいとのことだった。
僕は自分のデスクにノートパソコンを置き、脇に職員室の棚から拝借した資料を置いて、授業のスケジュールや各教科の内容、小テストの答案などの作成を行なった。どれだけ懸命に取り組んでも、そんなものを一朝一夕でやりきれるわけがない。だからしばらく連日、職員室を使わせてもらった。
その間、少し不思議なことがあった。土の粒と、瓦礫の小さな欠片のような物が僕のデスクの足下に転がっていたのだ。いくら掃除しても毎朝来るとそれはあった。僕の靴が何処からか運んでいるのかもしれないということで、あまり気にしなかった。
昼食が終わり、腹ごなしに席を立った。窓からはグラウンドが一望でき、サッカー部が切頂二十面体のボールを追いかけていた。部員には僕のクラスの生徒がいて、偶然彼と目が合ったので手を振った。しかし彼は返事をくれず、それどころか腰を引いて、そうかと思えば何やら顧問の教師のところまで駆けていき、何かを説明していた。教師はそれを黙って聞き、彼の肩に手を置くと選手らに指示を出した。その間に男子生徒は自分の用具をエナメルバッグに詰め込んでそれを担ぎ、足早にグラウンドを後にした。僕には目もくれず。
その日の作業はキリがよくなるのに夜までかかった。辺りは真っ暗で、おそらく光源はこの職員室だけだと思った。
柔い風はアスファルトの熱を吸って生温かった。僕はデスクの上を片付け、窓を閉めるために席を立った。簡易なクレセント錠を一つ一つかけていき、最後の一つに手をかけたとき、背後でガシャンと音が鳴った。
僕はすぐさま振り返った。それだけでは何の異変も感じ取れず、少し歩いてみた。すると教頭のデスクの椅子が少し回っていることに気付いた。何だろうと覗いてみると、足下で僕のノートパソコンがひっくり返っていた。コンセントのコードは息絶えた蛇のようにだらりと伸びきって、プラグは無理に押し広げられたように大きく曲がっていた。
どういうことだと理解に苦しみ、やおら顔を擡げた。視線の先、僕のデスク、そこには髪の短い女性が腰かけていた。
僕は少し呻いた。瞬き一つできず、彼女を注視した。
女性の衣服は清楚なもので、その気遣いは教師のそれに通じていると思った。しかし僕はこの女性を知らない。もしかすると生徒の父兄だろうかと思った。
「ど、ちら様でしょうか」
返事は無く、しかし俯く彼女の口元は何やら動いていた。
僕は身なりを正し、同じ問いをしながら近付いた。
「私の席です」
「あの、え?」
「こ、の、せ、きぃっ、わあっ!!」
女がヒステリックに、尚も俯きながら叫んだ。否や、バチンバチンとあちらこちらの空間で音が鳴り、室内の蛍光灯が明滅しはじめた。
途端、僕は首を絞められたような感覚に襲われた。女はまだぶつぶつと喋りながら椅子に座っていて、両手は膝の上で固く拳を握っていた。僕は仰向けに倒れ、あまりの苦しさにもがき、喘ぎ、両足でもって腰を浮かせた。自然、頭頂部が床につき、涙まじりの双眸はグランドを一望できる窓のほうに向いた。
明滅を繰り返し、ストロボ映像のように周囲の動きがスローに見えた。
僕は見てしまった。窓の外で、上の階から落ちる人影を。その背格好が、僕の席に居座る女のものだと解ってしまった。
椅子に掛けていた女が立ち上がった。彼女の顔面、いや前面は土やらアスファルトやら花壇のレンガやらでぐちゃぐちゃに潰れてしまっていた。口元はいやに綺麗で、早口で何かを伝えているようだった。
僕はあらん限りの力を振り絞って苦しみから脱し、着の身着のまま職員室から逃げ出した。生徒指導のA先生が見たら何と思うだろう、一目散に廊下を駆け、ドアを押し破るようにして校舎から飛び出した。
まるで抜け殻のようになった僕は家に帰ってからすぐさま校長を固定電話から呼び出した。スマートフォンはあの恐ろしい女のデスクに置き忘れてきた。
そう、あの席はあの女の物なのだろう。そのことを僕は常軌を逸した様子でまくし立てた。対して校長の声音は、この事態を予期したように冷静を保っていた。彼は観念したように全てを語ってくれた。
曰く、五年生次のあのクラスは今とは打って変わって問題児の集まりだったそうだ。そのクラスを担当したのは、教員生活十年程と脂の乗ってきた女性教師だった。彼女はいつものように努力を重ねて生徒達と向き合っていたが、次第に一人の男子生徒から殴る蹴るの暴力を振るわれるようになった。一人がそれを戯れに始めると、その友人も面白半分でそれに参加し、いつしかそこには女子生徒も混ざるようになった。
彼らは子供ながらに感じる憤懣とそのガス抜きの仕方を知らないだけだ。彼女はそう思い、捌け口として受け入れていた。副担任だったE先生はそれを間近に見ていたが、保身のために救いの手を差し伸べることができなかった。
悪魔のような生徒達を受け持って二ヶ月、女性教師の精神は壊れ始めた。教師としての誇り、生徒への愛、そんなものを心身を犠牲にして享受してきた彼女だったが、ついにその線が切れてしまった。はじめに暴行を加えた男子生徒に耳元で囁かれたのだ、「教師に向いてねぇよ」と。
彼女はその日の夜、教室から飛び降りた。それはグラウンドを一望できる職員室の窓の目の前、アスファルトと花壇の瓦礫の狭間だった。
彼女の訃報を学校で聞いた彼女のクラスの生徒らは高らかに笑っていた。まるで成果のように自分の行ないを語り合っていた。
しばらくして、彼女のクラスの男子生徒が変死体として発見された。学校から少し離れた川べりに倒れていたようだ。彼は女性教師へ最初に暴行を加えた生徒だった。続けて彼の親友が車に跳ねられて即死した。ひき逃げで、未だに捕まっていない。最後に女子生徒が失明する事故が起きた。彼女もまた、主犯格の一人だった。彼女曰く、先生の幽霊に両目を押し潰されたという。彼女の担当医は確かに人の親指でそうされた痕跡が見受けられると言っていたそうだ。
それから臨時で二人ほど教師を雇ったが、どちらも僕と同じような体験をして逃げ出したらしい。
まだ校長は語ろうとしたが、僕はもう充分ですと言って電話を切った。
僕は解ってしまった。美人のS先生による、「その席なんだ」という発言。異様なまでに物静かな生徒達。副担任のE先生の、「正気」という文言。卒業式を待ち望む生徒達の怯えた目と表情――。
翌日、僕が校長の自宅まで伺って退職願を出したのは言を俟たないだろう。校長には引き止められたが、僕が教員免許すらつき返す覚悟だということを察したのか、嘆息まじりに応じてくれた。
生徒を見捨て、一人逃げ出した僕は教師失格だろう。
それでも僕にとってこの命は誰よりも大事なのだ。解ってほしい。
不合理や隠し事でできた歪みに、主人公の足が絡み取られてしまう。
そんなイメージで書いてみました。
教師の世界については学園ドラマで知るところが多く、それが正しいのかどうかを判断するのに苦労しました。
結論で言えば生の現場のことなんて分からないので、ドラマの延長として捉えていただければと思います。