第一発見者も消失する
池袋駅東口の正面に「KEEP OUT」と書かれた黄色い電子テープが張り巡らされていた。触れると、静電気レベルの微量の電流が走る。電子テープは5年前に導入された。
当初は、警察権力の横暴の象徴として週刊誌などに叩かれていたが、制服警官の人員削減につながることや、繁華街での事件で、酔っ払いがテープを突破しようとするのを防いだなどの効用が認められにしたがって、いつのまにか、とやかくいうものはいなくなった。
通行人たちが足を止める。テープのすぐ後ろに立つ制服警官越しになかのようすをうかがう。
「ちょいとごめんよ」
鯨岡は、彼らを押しのけ、制服警官に「ご苦労様です」と一声かけて、テープをくぐる。
凄惨な光景だった。女子高生の死体は顔だけ横に向けたままうつぶせに倒れている。足が奇妙な形にねじれており、ブラウスの胸の辺りが血で染まっていた。
眼は大きく見開かれたまま、機能を停止していた。
鯨岡は、そのまえに立ち、目を閉じる。そのまま10秒間、黙祷を捧げる。
捜査一課にいると、人間の死体など見慣れてしまい、すぐになんとも思わなくなるというが、鯨岡にはその気持ちが理解できなかった。
将来ある若者の命を理不尽に奪ってしまう悪行に、まっとうな怒りを覚えていた。
かならずつかまえる。あらためて誓った。
目を開き、
「よし」
とつぶやく。
制服警官2名と鑑識がすでに現場を検分していた。
近年では、証拠の確保という観点から、制服警官にも捜査の権限が与えられている。現場保存だけが彼らの仕事というわけではないのだ。そもそも現場保存だけならば、情報端末だけあれば事足りる。立体保存しておけば、いつでもどこでも現場の状況を三次元的に再現することが可能なのだ。
「ご苦労さんです」
鯨岡は彼らに声をかけた。
「うん? あ、ご苦労様です」
死体のそばに立っていたほうの警官が、気づいて、いう。
大学をでたばかりのような幼い顔立ちをしていた。丁寧な物腰だが、やや落ち着かない様子。殺人事件の現場に立ち会うのは、はじめてなのかもしれない。
「お早いですね」
死体のそばにしゃがみ込んでいた年かさのほうの警官が立ちあがっていう。
こちらは、ベテランらしく相応の場数を踏んでいるのか、いたって落ち着いた様子だ。
「たまたま近くにいたもので。それより、ようすはどうですか?」
「被害者は、豊島区内の公立高校に通う支倉 (はせくら)いずなさん。2年生。死因は、背中をなんどもナイフでめった刺しにされたことによる大量出血。犯行現場はここ、池袋東口正面。犯行時刻は13時20分。目撃者はいまのところ現れておりません。犯行方法などから都内でつづく一連の殺人事件との関連性が高いと考えております」
年かさのほうの警官が手帳もみずに手際よく事件を要約する。
鯨岡が「だが」と疑問を口にしようとすると、
「わかっております。こんな時間に、こんな場所で人をぶっ刺しといて、だれにも目撃されないなんて不可能です。よしんば瞬間をみていなくとも、被害者はなにかしらのリアクションをとるはずだから注目も集まる。いくら混乱していたとしても、逃亡する犯人はだれかに目撃されているはずです」
やや関西弁交じりのイントネーションで年かさの警官はいう。
「しかも、これまで通りならやつの格好は――」
いや、それはおかしい、と言葉を切る。
真っ白い仮面に黒のマント。これまでの事件では、犯行時刻の前後に現場周辺でそんな人物が目撃されてきた。どうみても怪しく、目立つので、いままでの事件ではかならず目撃証言があがっていたが、果たして今回は。
「私たちも、そのことには頭を悩ませていて。かかわり合いを恐れて、名のりでていないのではないかと考えております」
若いほうの警官が、補足する。
「かかわり合い?」
「ええ、ええ。背中からめった刺しする白黒の殺人鬼を知らぬ人は、都内にはそう多くないはずです」
白いのといえば最近の新聞の主役ですからなあ、とのんきな口調で年かさの警官はいう。そして、ロープに沿って現場を囲む野次馬たちを見回す。
「お上に告げ口したことば犯人にバレて、巻き込まれたら洒落になりませんから」
と、皮肉っぽい笑み。
どこかで事件をおもしろがっているように、鯨岡にはみえた。
「――第一発見者は」
気を取り直して、若い警官に尋ねる。
「それが――」
警官が言い淀む。
「だれかわかりませんねや」
「わからない?」
「ええ。エマージェンシーコールは、女子高生のタブレットから発信されているようで」
と、若い警官。
「ワシらが駆けつけたころには、親切なだれかさんはもうどっか行ってもうててな。野次馬どもがおずおずとホトケさんを取り囲んでいただけでしたわ」
相変わらずにやにや笑っている。いったいなにがそんなに楽しいのか。鯨岡は、反発を感じながら、ベテラン警官に質問をぶつける。
「声は男性か、女性、どちらだったのです」
「正式に声紋鑑定にかけてみんことにはわかりませんが、オペレーターは男性の声だったと証言してます」
若い警官がハキハキと答える。
「声」という単語が強調されていた。
「変声器を使った可能性は?」
「それはないでしょうなあ。もとより――大して意味がない」
その通りだろう。いまどき、声を変えることなど、ちょっと機械を使えば造作もない。だれにだってできる。ヘリウムガスを吸う必要すらない。
「どちらにせよ、鑑定結果を待てば、はっきりします」
ぐるぐると思考が堂々巡りしていたら、若い警官が勢い込んで断言した。
そうなのだ。下手に声をいじっても鑑定にかけられてしまえば、意味はない。ひと昔まえならいざしらず、いまの技術なら1秒もあれば、男性か女性かくらいは調べることができる。ならば、いっそそのままの声で。いや、だが――。
「下手な小細工、休むに似たり。というやつですな」
悟ったようないい方に、堂々巡りの思考が打ち切られる。
「とにかく、鑑定結果がでればまっさきに報告してください」
「了解しました」
若い警官が勢いよく、敬礼のポーズをとる。
ベテラン警官は、先ほどからの笑みのままで、
「そう気張らんでも、わかっとりますがな」
と、余裕綽々のようす。不可思議な事件にも、まったく動ずる気配もない。
その態度が鼻についた。と、同時に底知れなさも感じさせた。
「あなた、名前は」
鯨岡は、嫌悪半分興味半分で問う。
「本官ですか! 本官の名前は――」
「すまん。君じゃない」
目をむけずにさえぎる。
若い警官はしゅんとして、失礼しました、とわびた。申し訳ない気持ちになった。
(名前くらい聞いてやればよかったか)
「ってことは、ワシですかいな。もの好きですなあ」
「よくいわれます」
「――押見忍巡査と申します」
鯨岡は、わずかな違和感を覚えたが、その正体がなにかはわからなかった。