8
橙色の太陽が山を越えてはっきりと地全体を照らす頃、オフィーリアはようやく二つ目の馬車を降りた。登山口として知られる場所で降りたことに、運転手は訝しみながらも心配している。
「おいおい嬢ちゃん本当に此処か? んな恰好で山に入る訳でもねぇだろーに」
雑な喋り方が嬉しくて満面の笑みを返す。
「大丈夫です。知人が登山を終えた後に此方で合流する予定なので。ご心配ありがとうございます」
緑と土の匂いと見知らぬ人の優しさとで上がり切った機嫌で答えると、馬車の手綱ひきたる運転手は固まった後何故か降りようとしてきた。
「い、いや~流石においらも男として若い嬢ちゃんをこんなとこに置いて行けねぇよなぁ。他の客もいねぇし、一緒にいてやるよ」
「え? あ、いえそれには及びま――」
「おい、そこのオッサン。俺のリアになにしてんだ」
いきなり親切のベクトルが変わった運転手の申し出を断ろうとしていたところで、オフィーリアの声に被さるようにしてまだ年若い青年の低い声が聞こえてきた。
声のした方へ目を向けると、そこにはオフィーリアよりも頭一つ以上余裕で大きい背丈を持つ、淡い緑の瞳を持つ青年。
――と認識したときには遅かった。ハッと後ろを振り向くと、運転手は呆然とし、言葉を無くしている。対し青年は冷めた瞳のままオフィーリアの手を取り「行くぞ」と道なき山へと入り組んでいった。
ザクザクと五分ほど草木を掻き分けながら進んだところで、辺りにふわりと水球がいくつも漂い始めた。その一つを青年が手に取り、オフィーリアも習う。
仄かな熱が体を駆け抜けた次の瞬間には、花畑の中心にいた。紫、青、黄、橙、赤、白――六つの色が、濃淡をつけて境目を無くし、一つの色となっている。
噎せ返るような花の濃さに、何故か泣きたくなる。此処に来たのは今日が初めてだというのに。
胸いっぱいに空と花の香りを吸い込むと、花畑の中にポツンと一つ建っている一般家庭ほどの大きさの掘立小屋から誰かが出てきた。
太陽の光を受けて尚輝く蜂蜜色の髪。深く隅々まで呑み込まれそうなほどの紫水晶の瞳。
「イシュ……!」
会いたくて仕方なかった父親代わりの胸に飛び込むと、森の匂いがした。ギュッと力いっぱい抱き締めるが、イシュメルは穏やかに微笑んでいる。僅かに上がった口角の隙間から低く澄んだ声が出される。
「熱烈な挨拶をありがとよ。十日かそこいらぶりだろうに」
「だって……」
確かにそれだけと言ってしまえばそうだが、イシュメルとこんなにも離れるなど生まれて初めてだ。なにをするにもイシュメルを探してしまって落ち着かないと同時に、隠しようがない寂しさを感じていた。
胸に満ちるものを感じていると、ふるふるとイシュメルの体が揺れた。どうしたのかと顔を覗き込むと、呆れを隠そうともせずに笑っていた。そしてオフィーリアの後ろ――イシュメルにとっては正面にいる青年を宥める。
「不貞腐れんなって。お前はまだリアのなんでもねーだろうが」
「別に不貞腐れてなんかない! リアがあまりにも無防備だから危ないと怒っていただけで!」
無防備?
なにか怒られるようなことをしたかと、オフィーリアも淡い緑の瞳を持つ青年――人を模しているオビディオを見た。だが対して、オフィーリアの頭の中で浮かんだ筈の言葉がイシュメルの口から「無防備……?」と気持ち低くなった声で出てきた。
「どういうことだ」
明らかに機嫌を損ねたことがわかる声音に焦りを覚えるが、オビディオは不貞腐れたままペラペラと喋りだした。
「あんなところにこんな時間にリア以外の人間がいるからおかしいと思ったら、腹の出た脂っこい禿が馬車を降りようとしてたんだよ。確かに他に客はいなかったけど、仕事中のくせに! 親子ほども年の離れているリアにニタニタ下卑た笑い浮かべやがって……!」
我慢しないで土に還せば善かった、と物騒なことを吐き捨てたオビディオに呆れる。
なんだ、下卑た笑みって。そして確かにお腹も出ていたし気持ち脂性っぽくも禿でもあったが、それは関係あるのだろうか。
オビディオがお怒りの理由を訊いてもわからなかったが、イシュメルにはわかったらしい。固く口を引き結び、目は据わっている。漂う寒さだけで、一般人の一人や二人殺してしまえそうだ。
数秒の筈の沈黙が、一時間にも感じられながら「リア」とイシュメルのものとは思えない低い声が吐き出される。
「な、なぁに?」
片頬を引き攣らせながら答えると、イシュメルの怒りがフッと寂しげな笑みに変わった。
なにを言えばいいのかわからず、それでも無言ではいられない筈なのに言葉が出ないでいるとぽんぽんと頭を優しく叩かれた。まるで、撫でるように。
「イシュ?」
「いや……中に入るか」
その逃げである答えが示す意味はわからず、イシュメルの言葉に従って花畑の中を動き始めた。




