第六話 あなたを追って、ここまで来た
たわいもない話をしていた。相手の顔も見えないほどの暗闇の中だったが、そこにいることは疑いもしなかった。言葉を交わしているというのに不在を予感する必要はどこにもない。孤独に打ち震える必要もありはしない。
会話の内容は昔についてのことが多かった。最初に顔を合わせた日のこと、初めて彼に食べさせた料理のこと、心細さに泣いた夜のこと。彼女がした失敗の話になると顔が火照るような思いだったが、彼が楽しそうに笑い声を上げるのでそれはそれで悪くなかった。
話は尽きることなく続くように思われたが、それでもやがて沈黙が落ちた。
不意に落ちたそれは、さりとて居心地の悪いものでもなく。彼の考えていることはなんとなくわかる気がした。
「わたしはね、ラウロ」
沈黙を破ったのは彼女だ。
「あなたの仇を討つために旅していたの」
「うん、知ってる」
彼はゆったりと答えた。その中にほんの少しの寂しさに似た響きがあった。
「僕は君をいつも見ていたからね」
「それでね、わたし、失敗しちゃったみたいなの」
「うん」
「悔しくてね、本当に悔しくてね。でもそれ以上に申し訳なくてね」
この暗闇の中に自分の身体は存在しているのだろうか。手があったら拳を固めていたかもしれないが、感触はない。ただ言葉に苦いものを混ぜて、彼女は続けた。
「ごめんなさい、ラウロ。わたし、あなたの仇、とれなかった」
言った途端、何かが崩れた気がした。崩れて、どこまでも奈落に落ちるような気分に陥った。
彼のため息が聞こえた。優しく、微笑みを混ぜた吐息の音。
「僕は君に仇討ちを頼んだ覚えはないんだけどな」
「え?」
「僕は君が平穏に生きてくれればそれでよかった。君を危険な目になんか遭わせたくなかった」
この暗闇の向こうに彼はいるのだろうか。存在を疑ってはいない。だが、手を伸ばした先に、触れるものはあるのだろうか。ふとそんなことを思った。
「僕の方こそ謝らなければならない。君にはつらい思いをさせたね」
「そんなこと……」
声が詰まる。そんなことは、ない。
「わたしは、あなたを忘れたくなかっただけ。あの男を追っていたのもあなたを忘れたくなかったから、だから……」
その瞬間、死の恐怖に震えながらもどうしてか追跡をやめる気にならなかった理由が、どうしてか分かった。
「わたしは……わたしはきっと、あなたを追って――」
「ティナ」
「……ラウロ?」
「ティナ」
声がする。目の前の闇からではなく、彼のものでもない声。
闇のかなたから光が差した。小さいそれは急速に広がって、視界を埋め尽くした。
……
「ティナ」
強く囁きかけてくる声があった。多分に歳を重ねてなお意志の力を失わない、そういった声。
ティナは混濁した水の中から這い出るような心地で目を開けた。
「バジル……?」
うめき声をあげると小さく息をつく気配がした。
「目が覚めたか」
ティナは横たわったまま、重い頭をめぐらせた。ひたすらに暗い。そしてあまり広くもない。狭い空間だ。その硬い床に寝かされている。小さなろうそくが視界に入った。それがぼんやりとこちらにかがみ込む人影を照らしている。
「地下室じゃ。かつては倉庫だったようだがな」
どろりと粘る意識は老人の言葉の意味を上手く汲み取ってはくれない。ただ、ぼんやりと思い出すことはあった。
「わたし、なんで……生きてるの?」
覚えていることはほんの少し。ヴィルフレードに追いついたこと。そして交戦したこと。
……それから異形への変身の限界を迎えたこと。ぼんやりとする頭の中、消滅する感覚だけが妙に生々しい。
「儂にも分からんよ。お前さんを拾って逃げるので精一杯じゃったからの」
彼は疲れたようにため息をついた。
「大変じゃったぞ。他の奴らの目をくらますのはな」
ティナは起き上がろうとして、身体がピクリとも動かないことに気づいた。完全に脱力している。もっと言えばひどく消耗している。身体と意識が完全にずれ込んでいるかのように手応えがない。
そんな彼女の気配を察したのか、バジルは手で制してきた。
「無理はするな。消失はまぬがれたとはいえ、どんな影響が残っているかは分からん」
ティナはそれを聞いて、息を深く吸った。ゆっくりと吸って、吐いて、それから震える喉から声を絞り出した。
「夢を見たの」
「ん?」
「あの人の夢」
暗闇の中、顔すら見えなかったが、想い人と一緒にいた実感だけははっきりと覚えている。
「久しぶりだった。あの人の声を聞くのなんて」
「……」
「あれからもう半年以上たつのね……」
バジルは彼女のうわごとに近いそれをどう聞いただろうか。そのままうわごととして流しただろうか。あるいは――
「儂はもう行くよ」
老人はそう言うと床から腰を上げた。立ち上がった分、ティナから遠ざかった。
「え……?」
ティナが疑問の声を上げると、バジルは淡々と告げた。
「時間がない。手短に説明する。お前さんは根幹異形を使った。そのせいで他の異形使いが敵に回った」
言いながら脇にある荷物を手早くまとめていく。
「当然ではあるな。指名手配されている根幹異形。確実に無力化を狙ってくるじゃろう。生け捕りか殺害かは分からんが、いい待遇は期待はするな」
彼は荷物を二つに分けるとそれをティナの頭のすぐ脇に置いた。ティナに頷いて背を向ける。
「動けるようになったらお前さんは逃げろ。見つからずに行くのは厳しいじゃろうが、異形を上手く使えば不可能じゃあない」
相変わらず頭が働かない。そのことに苛立ちを覚え始めながらティナは一つだけ、かすれ声で訊ねた。
「あなたは?」
「儂は」
老人はそこで一旦言葉を切った。逡巡の気配があった。
「儂は、追いかける」
「誰を?」
「奴らをじゃよ。追いかけてとっちめてくる」
その言葉だけですぐに分かった。
「無茶よ」
異形使いではない人間が異形使いに挑むなど狂気の沙汰だ。ましてや相手はただの異形使いではない。
無茶だ。
「死ぬわ」
「そうじゃのう」
こちらに背を向けたまま、彼は天井を仰いだようだった。なにがしかのことを考え、吟味したようだった。
短い間だった。彼はこちらを振り向いてにやりと口をゆがめた。
「ま、老人は死んでからやっと感謝されるもんらしいからの」
馬鹿。ティナは毒づいた。この馬鹿。
「じゃあの」
短く言い残してバジルはその場を立ち去った。
彼女はそれをただ黙って見送ることしかできなかった。
馬鹿。
動けるようになったのはそれからしばらく後だ。
これからやらなければならないことは少ない。だが、同時に最も困難なことでもある。
それでも。やらなくてはならない。
……
彼女のことはいつでもはっきりと思い出せる。その冷たい瞳も引き結んだ口元も、その他すべてまではっきりと。
ロレッタは常に彼と共にあり、彼を突き動かしている。少なくとも彼はそう信じている。
(もうすぐだ、ロレッタ)
ラクリマは瞼の裏に浮かぶ彼女に語りかけた。
(もうすぐ君を取り戻す。必ず、取り戻す)
目を開けると山道が視界に戻ってきた。それなりに整備されてはいるが、長い間使われていなかったように見える。荒れ具合が目についた。目的地はこの先だ。
まだまだ距離はある。急ぐ必要はないが気は焦る。早く会いたい。
と。
「どうしたエルネスト」
ラクリマは振り向いて訊ねた。
後ろを歩いていた少年が立ち止まって後方を見やっていた。
「ん」
彼はそれだけを言って、こちらを向いた。
だが足は止めたままだ。
「追ってきてるね」
「誰だ?」
「さあ? まあ予想はつくよ」
言って、彼は荷物を下ろした。
迎撃するということか。ラクリマは特にそれを咎めはしなかった。
好きにさせておけばいい。興味はない。
「先に行く」
彼は前に向き直る。
ロレッタに会うために。遠く隔たれた時を越えて、彼女を取り戻すために。
……
アルジェントの町は山のふもとにある。その山から銀を採掘していたのだから当然ではある。
バジルは山道の先を見やって息をついた。とりあえずここまで来ることはできた。異形使いの包囲網をくぐってなので苦労はした。あの娘の逃げ道も確保しながらなので倍の苦労だ。
だが上手くはいった。そのはずだ。とりあえずはそれを満足すべきだと自分に言い聞かせる。少なくとも彼女は逃げることができる。
あとは。と目を凝らす。自分の目的を果たすまでだ。
山道はでこぼこと起伏に富み、歩きやすいとは決して言えない。ある程度整えられてそれが保たれているだけでもましな方だ。今まで歩き通した道の中には、道と呼べないようなものはいくらでもあった。
そう、今まで。今まで自分は戦い通し、すなわち歩き通してきた。歩くことは前に進むこと。たとえ真っ直ぐな前進でなくとも、自分はずっと前進を続けてきた。それを後悔することはない。これまでしなかったのだから、これからもするはずはない。それだけは断言できる。
乾いた砂を踏みしめ、強い風当たりをくらいながらも目は閉じない。
バジルは一心に足を前に運び続けた。
……
彼を失った時、自分は地下室にいた。そのことを彼女は思い出す。隠れて震えていることしかできなかった自分を、思い出す。
あれから何が変わったか。全てが変わったと言えるし根本は何も変わってないとも言える。
たとえ大きな変化があろうと、自分は小さな臆病者のままだ。大事な人が死んでいくのを黙って堪えるしかない力なき子供のままだ。
肝心な時になにもできない。たとえ人ならざる力を持とうと、それだけは変わらない。
それでも。彼女は奥歯を噛みしめる。やってやろうと奮起することはできる。変えようと立ち上がることはできる。
右の掌を、顔の前にかざした。
異形の姿で外に出て、ティナは視線をめぐらせた。同時に深く呼吸する。近くに彼女以外の気配はなかった。
どんな手を使ったのか知らないが、バジルが逃げ道を用意してくれたのは分かった。町から出るならば何事もなくすませることも可能だろう。このまま逃げて、何事もなかったように過ごすこともできるのだろう。
しかし。
(ごめん……)
ティナは山に続く道の方へと足を踏み出した。
アルジェントにあるのは山とその麓の町だけだ。ヴィルフレードが向かうとすれば町の外か山のどちらかしかない。だが相手はわざわざこの僻地を指定してきたのだ。この山に用がある可能性は高かった。何よりバジルが彼女を町の外に逃がそうとしている。ならばその逆方向に敵はいる。
と、そこまで考えて足を止めた。
敵。ヴィルフレードは確かに敵だ。
あの人を殺した罪を償わせなければ、いや、もっと正確に言えば"自分の憂さを晴らさなければ"おさまりがつかない。
そのはずだった。
だがあの夢を見た後でも果たしてそのままでいられるのか。
その意志を持ち続けられるのか。
「……」
だが、追いかけねばならない。仇討ちという目的は見失ったかもしれないがそれでも放っておいていいとは思えない。何よりバジルを死なせる訳にはいかないからだ。
物陰を縫うように再び歩き始めて十数歩。甲高い音ははるか頭上から聞こえてきた。はっと顔を上げると空に影が見える。翼を広げ、ゆったりと旋回していた。
呼び子の音はそれほど長くなかった。入れ替わるように足音が聞こえてくる。凄まじく速い。急速に近づいてくる。
その時にはティナも駆け出していた。
背後に轟音が響いた。何者かが脇の家屋を突き破った音だ。肩越しに振り返ると、大剣を手にした人影が見えた。
人影は止まらずに駆け寄ってくる。こちらよりはるかに速い。大剣が勢いよく振り下ろされる。しかしその時にはもうティナはそこにいなかった。
翼を広げ、宙に浮かぶ。地面とぶつかった大剣は大量の土くれを撒き散らす。至近距離で弾けた轟音に押し上げられるようにティナは高度を上げた。
見上げる先には翼を持つ先ほどの異形。既にこちらを目がけ、攻撃の体勢に入っている。高高度からの急降下だ。よけるのは不可能だった。
衝撃が二度、身体を揺さぶった。一つは敵の攻撃、もう一つは地面に叩きつけられた分。
ティナを押さえつけ、大型の鳥型異形は勝ち誇ったように雄たけびを上げた。
仕留めたと思い油断したのだろう。
彼女が身体に巻き付けていた翼を思い切り開くと、敵はよろめいて後退した。
起き上がる。ティナは二体の異形を見据えた。
一体は金属質の皮膚に包まれた人型。大剣を手にして、感情のうかがえない目でこちらを見返している。
もう一体は先ほどの鳥型異形だ。
敵対する異形使いは三人のはずだったが最後の一体は見当たらない。そのことは疑問ではあったが、まさか相手に訊ねる訳にもいかない。
何にしろ分かっていることは一つだ。これから自分はその全員を叩き伏せなければならない。限りなく不可能に近い。だが決めたのは彼女だ。
鳥型異形が翼を広げて地面を蹴る。それと同時、もう一方が飛び出してきた。
ティナは後ろに跳んで距離をあけるが大剣使いの速度の前には微々たるものに過ぎない。異常な身体能力を活かして敵は下方からティナの脇腹を狙ってきた。
避けられずにまともにくらった。
一撃で身体が浮き上がる。悲鳴が口から洩れ意識が飛びそうになるが、同時に彼女は地面を力強く蹴り離していた。翼を広げる。羽ばたく。
ほぼ吹き飛ばされた形ではあるが、ティナはなんとか空へと離脱することに成功した。地上にいれば相手は二人だが、空ならば一体を相手にするだけで済む。
大剣を受けた両腕がひどくしびれていた。鳥型異形は追ってくるとは思っていなかったらしく、攻撃の体勢が整っていないようだがそれほど時間があるわけでもない。
ティナは高度を稼ぐために翼を羽ばたかせた。
同じ目線の高さになったところで鳥型異形が襲いかかってきた。先ほどと同じく爪を使った攻撃。ただし勢いは先ほどに劣る。目前に迫る尖った一撃を、ティナは翼で打ちすえた。
敵は思わぬ反撃に体勢を崩した。よろめいたのはこちらも同じだが、敵との違いは手足がそろっていることだ。
ティナはしびれの残る右手で相手の身体を掴み、踏みつけるように蹴りとばした。
さらにバランスを失って鳥型異形が地面に墜落する。ティナは蹴りとばした分で身体を持ちあげ体勢を立て直した。下方から激突音が聞こえた。これで一体。
もう一体、大剣使いは地上からこちらをうかがっている。だがわざわざ危険を冒してまで相手をしてやる義理もない。ティナは山の方に顔を向けた。
と、ちょうどそちらの方で何かが光ったのが見えた。次の瞬間、ティナの身体が猛烈に揺さぶられた。
(……!?)
何者かの攻撃、と思い至るのにはしばらくかかった。ただバランスを崩したもののそれ以上の痛みはなかった。
必死に翼を操り墜落を免れようと踏ん張る。錯乱に落ちかける脳を必死でなだめる。
(何かが……かすめていった?)
突風がごく近いところを吹き抜けていった。そんな感触だった。
となれば、とようやく理解が追いつく。
(飛び道具を使う異形使い!)
山の方でさらに光が瞬いた。舌打ちして身を翻す。再び突風に煽られて体勢が崩れる。立て直そうとあがくが立て直したら立て直したで追撃が来る。
(一か八か……)
再び光。視界が閃光に包まれた。衝撃はそれと同時。音は遅れて聞こえた。
激しく身体を打たれてかすむ視界の中で地表がみるみる内に近付いてくる。
次の瞬間、ティナは地に激突した。
……
足早に山道を進みながら。老人が考えていたことは一つだった。彼女は無事に逃げおおせただろうか。そろそろ動けるようにはなってはいるはずだった。
願わくば無事に逃げのびてそれなりにでも平穏な生活を手に入れてほしいと思う。だが彼女の性格を鑑みるに、逃げないという選択肢をとることも十分あり得る。それは望むところではないが、もしそうなった場合老人自身に出来ることは少ない。
ここまで無事にたどり着けるよう道を整えてやることは無理だ。そこまで手は回らなかった。道は彼女自身で開かねばならない。
代わりに出来ることと言えば、この戦いを生き残り、無事を祝い合いながら帰ることだ。
彼は苦笑した。この先で待ち受けている化け物たちを殺し、かつ無事に生き残る?
馬鹿馬鹿しい。
自分に出来ることは、刺し違えてでも敵を全滅させるか、それが無理ならば少しでも減らすか。
それだけだ。
不思議なほどあの娘に入れ込んでいる自分がいることに老人は気づく。いや気づく、というほどの驚きはない。せいぜい確認するぐらいの重みだ。
あの娘に特別なところがあるわけではないと思う。どこにでもいそうな、思慮に欠ける少女だ。だから、彼女の天性に惹かれた訳ではないのだろう。
共に過ごした時間が長いだけ。だから強い思いというわけではない。単なる愛着程度に過ぎないはずだ。だがそれでも大切な人間である。
死なせたくない。それだけは疑いない。
山道の幅が広くなった。勾配が弱くなり、ほぼ平坦に近い地形になる。
バジルはそこで足を止めた。
少年が――といっても既に十代の終わりにさしかかっているはずだったが――道を遮って立っていた。
立ちはだかるといったような力んだ様子はない。ふらりと散歩に立ちよって、たまたまそこで立ち止まっていたというような風情だった。
しばらく眺めて、バジルは口を開いた。
「お前に指を奪われたのは、もう二年も前になるか」
左手で右の指を撫でる。二本だけ残った指。
「お前は任務中の事故だと主張し、上層部もそれを認めた」
手を止めた。声に力がこもる。
「だが儂は知っているぞ。あれは明確な害意あってのことだとな」
少年は黙っていた。穏やかな笑みだけを浮かべて、そこにたたずむだけだった。
「なぜだ。儂への恩を忘れたか。そこまで儂を憎んでおったか」
奥歯が軋る。身体に力が入り筋肉が震えた。
「恨むなんてとんでもない。師匠には感謝してるよ。いろいろ教えてもらったしね」
バジルの怒りに完全に水を差す口調で彼は言った。
「ただ、興味があっただけさ」
「興味?」
視線を鋭くするバジルにエルネストは頷いた。
「屈強なあなたがその力を失った時、どんな顔を見せてくれるのか知りたかったんだ」
そして小さな笑いを洩らす。
「その人にはその人の世界がある。その人だけの持つ世界がある。それを壊すのが、ぼくは楽しくて仕方ない」
「つまり……」
バジルは声を詰まらせた。
こいつは、怨恨でも反抗でもはたまた義務でもなく、"ただ面白そうだから"という理由だけで自分の指を奪っていったということか。
沈黙する老人に対してエルネストは肩をすくめた。
「ま、仕方ないよね。興味がわいちゃったなら試してみるしかない。好奇心って恐ろしいなくらいに思ってもらえれば」
「そうじゃな」
「……?」
その答えはいささか、というより完全に予想外だったということか。少年は訝しげにこちらを見た。
バジルは唐突に静まった心の奥から彼を見返した。
「好奇心ならば仕方がないな」
「……本気で言ってる?」
「ああ本気じゃ。本気でお前はその程度の奴だと確認できた」
「どういう意味?」
「どういう意味も何もないじゃろ。興味がわいて好奇心を抑えられないならばそこらのガキと同じだ」
少年は一旦言葉を止め、しげしげとこちらを眺めた。
「……何かあった?」
「何がだ?」
「いや、別に。大したことじゃないんだ」
それだけ言って彼は言葉を止めた。
何かあったか。老人はにやりと口をゆがめた。それはもういろいろとあった。あの少女をコルツァで拾ってからいろいろと。
最初は彼を傷つけ部隊を裏切った元弟子を殺すために利用するつもりだった。そのつもりで訓練し、協力もしてやった。そう遠くないうちに少女は彼の望みをかなえてくれるはずだった。その後彼女がどうなろうと知ったことではなかった。彼女はもう復讐者となっていて後戻りは出来ないと思っていた。
が、違った。
彼女はこの間の夜、間違いなく死の恐怖に怯えていたのだ。だから守る価値がある。そう思った。
「もう一つ訊く。なぜお前はヴィルフレードについた」
「知りたい? どうでもよくない?」
「聞いておく。どちらにせよこれが今生の別れじゃろうしな」
そっか、と笑って少年は頷いた。
「答えはさっきと同じ。興味がわいちゃったから試してみた。それだけ」
「部隊を裏切ってどうなるかは分からんでもあるまいに」
「違うさ」
バジルは顔をしかめる。何が違う?
「多分ヴィルフレードの目的は聞いてると思う。世界征服。あれね」
「ああ」
「なぜそんなくだらないことしたいか知ってる?」
「いや」
彼はそこで一旦言葉を止めた。もったいつけるように指を虚空に振って実はね、と続ける。
「想い人を取り戻すためなんだよ」
「想い人を、取り戻す?」
「死んだんだよ、彼女。ロレッタっていうんだけど」
「死んだ者を生き返らせると?」
「うん、そういうこと」
バジルは顔をしかめた。
「世界原理を掌握すればそんなこともできるのか?」
「さあ?」
答えはこの少年らしく無責任な響きだった。
「でも彼はそう信じてる。そう信じたいからね」
「くだらない。そんなことのためにティナを巻き込んだのか」
「そんなそんな。くだらないとか言わないでおいてあげなよ。傷ついちゃうかもしれないじゃない」
と、少年はわずかに身をかがめた。前の方に重心を移したらしい。
攻撃の予備動作かと思いバジルは警戒する。が、そうではないようだ。こちらに身を乗り出しただけだった。
「でさ、その想い人だけど、なんで死んだか知ってる?」
知るわけがない。
少年は嬉しそうに言葉を続ける。特別の宝物を取り出して見せびらかす子供のように。
「任務中の事故死だよ」
「事故?」
「異形制御失敗による消失。彼女は根幹異形使いだった。根幹異形そのものはヴィルに渡った」
「制御の失敗……そんなことがあるのか?」
異形使いは異形を制御する術を生来の感覚として身に着けている。確かに強大な異形ならば制御が難しいかもしれないがあまりあることではない。
「正確には感情の制御かもしれないね。ぼくが彼女の形見を壊しちゃったから」
「お前」
「あれは面白かったなあ。最強の異形使いの一人がああも簡単に消えちゃったんだから」
少年は笑う。
「最初の質問の答えに戻るよ。なぜぼくはヴィルフレードについたか。彼は最愛の想い人を失った。彼の世界は壊れた。でも彼はそれに抗って生きることを決めた」
エルネストはおもむろに懐からナイフを取り出した。
「だったらぼくは見届けなくちゃ。自分の好奇心の行きつく先がどうなるのか、見てみたい」
バジルは黙って立ち尽くした。
言葉を失った、わけではない。単に言うべきことが何もなかったにすぎない。黙したまま、ナイフを抜いた。
構える。
「……お前を育てたこと、後悔しているよ」
「だろうね」
少年の返事はそっけなかった。
……
目標を無事撃ち抜き、砲使いの異形は膝をついた格好のまま小さく息をついた。
敵は落下し、家屋の間に見えなくなっていた。後は地上にいるもう一人が無力化に向かうはずだった。
上手くいけばそれで終わりだ。
もちろん相手は根幹異形使いなのだから油断をするわけにはいかないが。それでも手応えは十分だったように思える。
問題は、と彼は考えた。次に控えるヴィルフレードへの対応だ。もともとそちらが本来の任務だったわけであるし、ここからが真に難しいところだろう。
計算外だったのは二点。部隊の同僚が指名手配中の根幹異形使いだったこと。それからヴィルフレードが同じく根幹異形使いだったこと。
一つの場所に二体以上の根幹異形使いが集まるなどめったにあることではない。それ以前に根幹異形使い自体が珍しいのだが。
舌打ちする。メッセンジャーがしっかりしていればこんな面倒は避けられたはずなのだ。目の前に指名手配犯がいて、それを見抜けない?なんのための監視係だ。
ひたすら胸中で毒づき、ふと気付く。
静かすぎる。
もうそろそろもう一人から合図があってもいいはずだった。
訝しく思ったその瞬間――
地面にわずかに開いた亀裂。その隙間から細い何かが飛びだし彼の喉に巻き付いた。
「!?」
慌ててそれを掴むが遅い。次々とわき出した触手は彼を包みこみ、強烈に締め上げた。
「ぐ……」
砲使いの意識はそこで途切れた。
「ふう……」
砲使いが倒れ伏してから数秒後。ティナはようやく警戒を解いて地中から姿を現した。蔦が絡みあって人型になったかのような姿。根幹異形だ。
砲に撃ち抜かれる直前、彼女は異形を御使いから根幹異形に切り替えた。衝撃から必死に身体を守って落ちた先にいた大剣使いを無力化した後、地中に潜って砲使いを狙ったのだった。
「……」
正直なところ上手くいくとは思っていなかった。だが結果として成功した。
「ラウロ」
もしかして、と愚にもつかないことを思う。
「あなたが守ってくれたの?」
馬鹿げたことだった。死者は現世に干渉しない。先ほどの夢にしたってそうだ。夢は夢に過ぎない。
だが。
「……ありがとう」
小さく呟いて、彼女は変身を解いた。
どっと疲れが襲い来るがそれに堪えて、見上げる。
山道はそこから続いている。
……
たん、と小さな音を立てて少年は踏み込んできた。
軽やかで、かつ隙はない。
あっという間にこちらの懐に飛び込むとナイフを閃かせる。
バジルは横に体捌きして避け、同時に相手の膝を狙って蹴りを放った。
当たることは想定していない。避けるために相手が動けばその隙を狙って追撃する。
「――!」
予想に反して手応えがあった。が、相手に痛撃を与えたわけではない。エルネストは蹴りを足の裏で受けとめていた。
そのまま押し返してくる。体勢が崩れ、逆にこちらが隙を見せる形になった。
必死で身体を捻る。ナイフの刃が肩を抉った。深くはないが浅くもない。
痛みに引っ張られそうになる意識を必死でとどめた。
既にエルネストはナイフは突き込もうとしている。たとえわずかであろうと気を散らす訳にはいかない。
心臓を狙って正確に飛んでくるナイフ。バジルはそれを保持する腕をつかみ取り、関節を極める。あとは少し力を込めるだけでその部位は破壊され、格段に有利になる。
しかしその刹那、バジルは気づいた。
関節を極めた相手の腕の先に、ナイフがない。
手を放して後ろに跳ぶのとナイフが踊るのとは同時だった。腹部に痛みが走った。
「くっ……」
押さえる手にべっとりと血がついた。
これもまだ致命傷ではない。が、先ほどよりは深い。時間がたつほどに不利になることは間違いない。
少年は持ち替えていたナイフを右手に戻すと、薄く笑った。
「不便だね。その手」
バジルは黙って手元を見下ろした。
二本の指で保持されたナイフがそこにある。ひどく不安定で、頼りない。相手の命を奪えるほどの強さはそこにはなかった。
「確かにな」
バジルは静かに認めた。
ただでさえ全盛期は過ぎ去り、老いが身体をむしばんでいる。身体は思うようには動かない上、この欠損である。
(ままならぬものじゃ)
小さくかぶりを振る。歳をとるたび思い通りにならないことばかりが増えていく。
恐らくこの少年を殺すことはできないだろう。諦観ではなく冷静な推測だ。
ティナもきっとこちらを追ってくるだろう。逃がすためのこちらの苦労も知らないで。
本当に思い通りにならない。
「でも大丈夫。もうすぐ終わるよ」
確かにその通りだろう。もうすぐ終わる。終わってしまえば全ては大したことなかったと思えるはずだった。
どこで思うのだ?
ふと気づいて笑う。あの世か?
(馬鹿馬鹿しい……)
あの世には何も持っていけない。あの世があるのかも分からない。少なくとも彼自身は死後の世界を信じていない。
もうすぐこの人生は終わる。そうだ、あの世には何も持っていけない。
だが代わりに何かを残すことはできるかもしれない。
バジルはゆっくりとナイフを構えた。
エルネストが笑いを引っ込める。無表情となった顔の下で何を思ったかは分からない。
そのまま彼は飛び込んできた。恐らくは最後の交錯となるだろう。
少年は踏み込む勢いを拳に乗せて突き込んできた。それを肘で叩き落とし、裏拳で反撃する。
だが少年は軽く身体をかがめる程度でそれをかわしてさらにもう半歩、踏み込んできた。
バジルは後ろに跳ぶ。が、それより早く足を払われて転倒した。少年がその胸部を踏みつけてくる。
「がッ!」
苦悶の声が口から洩れた。
ごうごうと耳元で風が吹いているような錯覚。
「じゃあね、師匠」
それでもその声だけははっきりと聞こえた。
ナイフが閃く。
喉を貫かれて身体が跳ねるのを感じながら。同時にバジルは最後の力でナイフを振るう。
失血による暗闇の奥で、少年の悲鳴が聞こえた。
……
山の中腹ほどまで登り、ティナは自分が間に合わなかったことを悟った。
広くなった道幅の真ん中。老人が仰向けに倒れ伏している。その身体を中心に、赤黒い血が辺りに飛び散っていた。
「バジル!」
駆け寄って抱き起こす。なおも呼びかけるが返事がない。
虚空を見つめて動かない目。半開きになった口。ぐったりと脱力した四肢。
全てが示すところは一つだった。
「馬鹿……!」
死んでからようやく感謝される?
そんなことがあるものか。あってたまるか。
誰かを置き去りにした者は、置き去りにされた誰かにどうしたところで恨まれるのだ。
喉に大きな傷があった。それが致命傷だろう。
ティナは懐から布を取り出すと、そっとその傷を覆った。
老人の遺体を横たえる。いまだ開いたままだったまぶたを閉じてやる。
そして自身もきつく目を閉じる。喉の奥が詰まって痛い。目の奥が熱くて仕方がない。
泣く資格はないことは理解している。
バジルは彼女のために敵を追っていた。死んだのは自分のせいだ。
それでもわき起こる感情に嗚咽が喉から漏れそうになる。
と。
「っは……」
乾いた笑い声がかすかに聞こえた。
ティナは立ち上がった。声のした方に猛然と駆け寄る。
油断していたわけではない。バジルを殺した敵がすぐそばにいる可能性は忘れていなかった。
向かう先には大きな岩がある。
ティナは回り込んでナイフを構えた。
そこにいたのは――
「やあ。久しぶり……」
ティナは絶句して立ちすくんだ。見覚えのある少年が血だまりの中に座り込んでいた。
「お前は……」
記憶を探る。少し前にヴィルフレードからの伝言を持ってきた彼は確か。
「エルネスト」
「まさか、覚えてくれてるとは、思わなかったよ」
こちらを横目で見上げて彼は笑う。だがその声にも表情にも力はない。顔面は蒼白で見るからに弱っている。
無言で見下ろす。エルネストの右手首に鮮血に染まった包帯が巻かれていた。まだ血は止まっていないらしい。
「ああ、これ?」
少年はふらふらと右手を掲げて見せる。
「師匠にやられたんだ」
ティナがなおも無言でいると、エルネストは勝手にしゃべりだした。
かすれた声だが話したくて仕方ないといった様子である。
「いやあ油断してた。まさか、最後の最後でこんな仕返しをくらうなんて」
傷のない左手で見えないナイフを握って突く動作をする。
「こう、喉をズブってやって、仕留めた、と思った瞬間これだもの。嫌になっちゃうよ」
右手はだらりと脱力している。動かせないようだ。
もう一生動かないだろう。
「あの世への土産ってことかな。持ってかれちゃった」
虚ろな笑みを顔に浮かべて、少年はふへへと笑った。
両手を下ろして空を見上げる。
「あーあ。どうしたもんかな」
叩きのめしたい。
ティナが思ったのはそれだけだった。バジルを殺したこいつを、異形の力を使ってただひたすらに痛めつけたい。
今ならそれができる。誰にも邪魔はされない。そして少年は力を失っている。妨げるものは何もない。
噛みしめた奥歯が音を立てる。握った拳が震える。
殺したい。
右手を顔の前に掲げた。
少年が空からこちらに視線を落とした。恐怖の色はその目になかった。ただ「やりたければやれば?」とだけ語っていた。
やれないとでも思っているのだろうか。
やらない理由などどこにあるというのか。
ティナは意志を込めて右手を振りおろした。
「そのまま惨めに生き続けなさい」
口元の黒布を取り去って静かに告げる。
数秒の間をはさんで、少年は視線を訝しげなものに変えた。
「力を失ってなお生き続けなければならない痛み。あなたにはそれを味わってもらうわよ」
そのまま背を向ける。山頂の方へと足を踏み出した。
どうせ少年を殺したところで彼女に得はない。そのために使うエネルギーももったいない。今はヴィルフレードを追うのが先決だ。
それに、これで十分だと思えた。少年にとっては一番堪えがたい罰だろう。
歩いていると後ろから笑い声が聞こえた。
弱弱しいそれは、泣いているように聞こえなくもなかった。
……
ティナは山道を黙々と進んだ。登っていくにつれて足元はさらに凹凸を激しくしていく。日は雲に隠れていてややうす暗い。風は乾いて冷たく、頬に当たって熱を奪う。
風に混じる自分の足音以外は何も聞こえない。当たり前だ。一人で進んでいるのだから。彼女の隣には誰もいないのだから。
だが、ティナはあるはずもない温かい気配が脇を歩いているのを感じた。
(ラウロ)
その名を胸中に呼ぶ。
(あなたを……あなたを追って、ここまで来た)
そうだ。彼女自身勘違いをしていた。
追っていたのはあの人殺しなどではない。あの人を追って、ここまで来たのだ。
あの人を忘れたくなかった。
忘れるのが怖かった。
憎んでさえいれば忘れないと思った。
仇討ちは本当のところ口実でしかなかった。
気づいてみればどうということはない。
ずいぶんと遠周りをしたものだ。
心配はない。彼はすぐそばにいる。
「ラウロ」
乾いた唇を動かす。
「見届けに行きましょう」
なおも前に進み続けた。
……
「ヴィルフレード!」
ティナの声を聞き、男は肩越しにこちらを振り返った。
相変わらずの黒ずくめ。山頂のやや開けたその場所に何をするでもなく立ち尽くしていた。
その口が動く。
「来たか」
ティナは無言で歩み寄る。七歩ほどの間合いを開けて立ち止まった。
それに合わせてヴィルフレードが身体をこちらに向けた。
彼の目には何の感情も浮かんでいない。平板な光だけがそこにある。
「エルネストは……負けたのか」
「ええ。わたしにではないけどね」
答えて後ろを示す。
「バジルは……死んだわ」
ヴィルフレードは、「そうか」とだけ呟いた。
そのことには不思議と怒りはわかなかった。
ただ気になって訊ねる。
「ここで何を?」
ヴィルフレードは周りを見回した。
「ここは異形誕生の地だ」
「え?」
再びこちらに目を戻したヴィルフレードが言葉を続ける。
「異形使い発生の発端となったのがここなんだ」
言ってることがよく分からずティナは顔をしかめた。それを気にした様子もなく彼はさらに続ける。
「異形使い発生にまつわる伝説を知っているな? 神に挑んだ男の話だ」
「……ええ」
「それ自体は伝説に過ぎないが、あれは現実に起こったことを核にして作られた話なんだよ」
彼は何を言おうとしているのか。やはり分からないが、彼女にも関係のあることに違いはなさそうだった。
「賢者エルメネジルド。知を極めた彼はある時山にこもり、さらなる知の高みへと登ろうとしていた。全知。神の域だ。それが本当に可能なのかどうかは知らない。だが確かなのは、彼がその過程で世界原理を見つけ出したことだ。彼は世界の根幹に触れた。混じり合い、一つとなった。その時、彼を媒介として人間全体に流れ込んだ世界原理が異形として現出した」
ティナを目を見て、彼は頷いた。
「そうだ。だから異形使いは世界原理の現出の形なんだ」
ヴィルフレードはマントの前から左の手を差し出して見せた。
手袋ははめていない。掌には異形使いの証。
「そして根幹異形はより世界根幹に近いものだ。異形誕生の地で、これを通して世界原理に干渉しようとしたが……上手くいかないな」
ため息をついて手を下ろす。
「根幹異形の出力が足りない。お前の根幹異形ももらうぞ」
ティナは黙って左右両方の手袋を外した。
手の甲に文様。
「一つ聞かせて」
顔を上げてヴィルフレードの目を見返す。
「あなたは世界を手に入れて何をするつもりなの」
「お前に教える義理はない」
ヴィルフレードはにべもなかった。
「じゃああなたに譲る理由もないわね」
ティナは敵を睨んだ。
「もう仇討ちにこだわっているわけではない。けど、あなたがあの人の知識をいいように利用しようとしているならわたしはそれをとめるわ」
懐からナイフを抜く。
世界を手に入れるなどということが可能かどうなのかは知らない。だが、ヴィルフレードは冗談で言っているわけではないことは見ればわかる。
ラウロの研究で好き勝手させるわけにはいかない。それが仇討ちを捨てた彼女がなおもヴィルフレードを追った理由だった。
ヴィルフレードはふん、と鼻を鳴らす。
「別に譲ってもらおうとは思っていない。勝手に奪っていく」
彼が言い終わるより少し早く。ティナは地を蹴り駆け出していた。
気合いの声を上げて踏み込む。ナイフを振るう。相手は軽く後ろに跳んでそれをかわした。が、既にティナは追撃の投げナイフを飛ばしていた。ヴィルフレードはマントでそれらを防いだが、足が止まる。
「ふッ!」
懐に飛び込みそのまま体当たりする。
手応えは十分。
倒れた敵を踏みつけてナイフを振り上げる。
が、相手を押さえていた足がガクンと沈んだ。
彼女が踏みつけていたのは、のっぺりとした人型の異形だった。
腹部を自ら分解している。
舌打ちして飛び退った。
虚空から現れた手が彼女を狙って手刀を放つ。
避けられないと見て、彼女は右手を掲げた。
堅い翼が攻撃を防いだ。ティナの異形、御使い。
彼女は受けとめたそれをはじき返す。
相手が倒れていた辺りを見やるが既にヴィルフレードはそこにいなかった。
空気が揺らぐ。
飛んできた追撃を右手で防ぐ。向き直るがそこに本体はいない。
同時に背後から衝撃をくらって彼女はよろめいた。
振り返ると敵はそこにいた。
既に半分ほど姿を崩してはいたが。
爪で切り裂くも手応えはなかった。
分が悪いと認める。翼を開いて地を蹴った。
宙に浮かびあがって見回す。
敵は先ほどまでティナがいた場所の死角に現れようとしているところだった。
「行け!」
飛びあがると共に根幹異形へと切り替えている。
ティナの声と共に触手が飛んだ。
蔦のようなそれはヴィルフレードを確かに捕えた。
が、それはすぐに崩れる。相手もまた根幹異形へと変貌していた。
崩壊が触手を伝ってティナへと伸びる。
ティナは触手をさらに伸ばしてそれに対抗した。
触手の生成と崩壊が拮抗する。
そして重力に従ってティナは落下を始める。
叫び声が喉からあふれた。
その声に意味などない。
だが怒りでも悲鳴でもない。純然たる意志の発露。
みるみる内に距離が詰まる。
敵の岩のような外殻が迫る。
ティナは再び御使いへと姿を変えた。
翼で身体を覆う。
だがそれだけで敵の攻撃を防げるわけもない。
翼はすぐにひび割れ崩れ始める。
激痛。翼が崩れ落ちる。
そして。その時にはもう敵はすぐ目の前にいた。
御使いの爪が相手の身体を貫いた。
敵の身体が震えた。一度ではなく二度、三度と。そのたびに震えは大きくなった。うめき声を上げながら、その姿は人間のものへと戻っていく。
爪を引き抜くと、ヴィルフレードは崩れ落ちるように倒れた。
「こんな……」
呟く彼のその目は既に焦点が合っていない。
痙攣するように激しく呼吸しているが、次第に弱くなっていく。
「ロ、レッタ……」
ティナも姿を人へと戻しながら呟く。
「それがあなたの"理由"なのね」
膝から力が抜ける。勝ったとはいえダメージが大きい。
だが言葉をとめることはできない。気づいてしまったからだ。
「あなたも大事な人を失ったのね……」
ヴィルフレードは反応しない。
口から苦悶の声を漏らして弱っていくのみだ。
ティナの目に涙が滲んだ。
激痛が身体を苛んでいたがそれが理由ではなかった。
本当に痛いのは胸の奥だ。
心の奥にヒビが入ってじくじくと悲鳴を上げている。
日の光は雲にさえぎられてここまで射し込まない。
どこかうす暗く、肌寒い。
そんな中、彼女はただただ涙をこぼすしかなかった。