第五話 お前を追ってここまで来た
例の紙には、アルジェントで待つ、とだけ書きつけてあった。
アルジェント。町の名前だ。といっても、もうとうに滅びた町だが。国の北端近くに位置し、近接する山々から銀を採掘するためだけに人が集った場所。採算が合わなくなると自然に人口は減っていき、打ち捨てられてからもう長い。
あるのは無造作に建てられた納屋と表現する方が近い家々と、砂に汚れたツルハシの類。それから寂れたストリートだけ。植物域でもなかったので、荒野の風に直接さらされていたと聞く。
荒野は人を干からびさせる。人体は脆い。乾いた風の中で、住人は少しずつ水分を、潤いを失っていったのだろうか。
砂に覆われ埋もれかけいるであろうその町に、ヴィルフレードが待っているという。ティナたちはそこに向かっていた。
夜。馬車の陰。ティナは毛布を肩からかけて膝を抱え、焚き火にあたっていた。揺れる炎を凝視し、眼球が乾いた頃に思い出したように瞬きする。時々夜空を見上げ、すぐに焚き火に目を戻す。寒いくらいに冷たい空気に包まれてしかし汗ばむ掌を、ティナは黒衣の膝にすりつけた。
夜も更けてそろそろ睡魔がやってくる時間帯だった。いつもならばもうすでに就寝の支度をしているところだが。
「……」
どうにも心臓の音がうるさくて眠れそうにない。
どうしてかは知っていた。だから、身体の芯が震える。落ちつかない。火が大きく揺れた。眠れそうにない。
「いい夜じゃの」
声がしたのはティナが何度目かの深呼吸をした時だった。
気配もなく現れたのはバジルだ。肩越しに振り返ってティナは小さく呟いた。
「あんたから見ればどんな夜もいい夜になるんだろう?」
「そうとも限らんよ」
老人は珍しくにこりともせずに答えると、ティナの隣まで歩いてきて、距離をおいて腰を下ろした。あぐらをさらに崩したような適当な座り方で、先ほどのティナと同じように焚き火を見つめる。ティナも火に目を戻すと、ちょうど火花が弾けて音を立てた。
荒野には風が吹く。何かの遠吠えのように遠く風の音がする。それを聞きながらしばらくは両者ともに何も言わなかった。
口を開いたのはバジルだ。
「眠れんか?」
「……ああ」
頷いて、ティナは膝の辺りに拳を握って押し付けた。
「明日にはアルジェントに着く」
それの意味することはひどく明確だった。
「明日には、追いつく」
「だから気が高ぶって眠れんか」
「そうだな。そういうことだ」
バジルは視界の隅で頷いたようだった。なるほど、と。
「それでも眠るべきだと思うぞ。またみすみすとり逃がしたくなければな」
「分かってる」
また沈黙が落ちた。
バジルの言う通りだった。成功を望むならばコンディションは最高のものにしておいた方がいい。たとえ待ち望んだ日を前にして気が高ぶろうが、興奮に打ち震えようが、眠った方がいいのは理解していた。
しかしまだ眠れそうにはない。
「何を怯えている」
静かなその声は、しかしティナの肩を跳ねさせるには十分な威力を持っていた。
「怯えている? 誰が」
「お前さん以外に誰がいる」
「俺は怯えてなんかない」
言い返すが、その声に力がないのは誰よりもティナが理解していた。
「どうして、怯えなきゃならない?」
「さて。それはお前さんがよく知ってるんじゃないかの」
視界の端で老人は肩をすくめる。拳をさらに強く膝に押し付け、ティナは歯を食いしばった。
震えてない。怖がってなんかいない。そうだ、怯えてなどいない――たとえ奥歯がガチガチと音を立てているとしても。
「ヴィルフレードの狙いはなんだろう」
震える歯の間から同じく震える声を絞り出す。
「今までずっと隠れ逃げていたのになぜ今になって」
「詳しいことは分からんな。だが、大雑把にどういうつもりなのかは分かる」
老人の方を見やると、彼は自分の掌を見下ろしていた。二本しか指の残っていない、右の掌。
「儂らを始末するつもりじゃな」
それを聞いた瞬間、ティナの首筋に寒気が走った。
ヴィルフレードが逃げ隠れしながら何をしてきたのかは知らない。なぜ今になってこちらを待ち受けるつもりになったのかも不明だ。だが一つだけ分かることがある。ヴィルフレードはわざわざこちらと相対しようというのだ。まさか今更投降したいなどと言い出すはずもない。ならば敵の狙いはこちらを指定した場所で一掃することに違いなかった。
ティナの視界で拳が震える。必死に押さえつけてきた震えがどうにもならずに表出する。内心で悪態をついた。何を怯えることがある。これはチャンスだ。奴を仕留める好機だ。ここで怖がっていたら……奴を殺すことなんてできやしないじゃないか。
「気張っているところを悪いが、偽の情報の可能性もあるぞ。儂らを撹乱するつもりなのかもしれん」
それを聞いた瞬間安堵しそうになる自分を、ティナは心底憎んだ。苛立ちと共に呟く。
「それはない」
「なぜ言い切れる?」
「部隊がこれだけの人員を派遣してるんだ。ヴィルフレードがよこしたメッセージだけで動いたとは思えない」
ティナは周りの馬車を示した。数は多くないが、そのどれもに異形使いとその補佐たちが乗っている。
「異形使いは俺を含めて四人。異例の対応だ」
「上の気まぐれかもしれんよ」
「本気でそう思ってる訳じゃないだろう? 部隊は独自にヴィルフレードの情報を追って、掴んでたんだ」
「どうだかの」
「あんたはどうでもかもしれないけどな、俺にとっては重大事なんだよ!」
あくまで軽い調子の老人に、ついに押さえていたものがあふれた。身を乗り出すようにして語気を強める。
「俺は奴を追ってきた。半年だ。短いなんて言うなよ。俺にとってはとてつもない長さだった!」
「……」
「明日だ! ついに奴に追いつけるんだ!」
ティナが言い切った所で老人は短くため息をついてこちらに顔を向けた。冷たい目でこちらを見ていた。
「だから怖くて仕方ないか」
すっ……と怒りが引いた。
冷静になった訳ではない。頭に上った熱が別のもので塗り替えられただけだ。頭の芯に冷たさが戻ってくる。
「そうね……怖いわ」
乗り出していた上体をゆっくりと引っ込めて膝を抱え直す。顔をそこにうずめるようにして、ティナはうめいた。隠すこともない。女の声で。
「わたし、死にたくない」
認めまいとはしていた。殺すつもりなのだから、死を恐れる資格はない。死後の世界があるとすればラウロに会えもする。ならばなおさらだった。
それでも存在するものは仕方がない。死の恐怖。
「あなたは怖くないの?」
顔を上げて訊くと、老人は考えるような間を置いた後、ゆっくりと、呟くように答えてきた。
「そういえば、考えたことがなかったのう」
「なぜ?」
「憎くて憎くて仕方なかったから、ではないかな」
「憎む? 誰を?」
老人は答えなかった。
ティナはさらに言葉を重ねた。老人の言葉に思うところがあった。老人は憎しみで死ぬのが怖くないという。
「なら、わたしの憎しみは足りない?」
「そうはいっとらんよ」
「でも」
「死を恐れるのは正常なことだと思うが」
「だけど……」
自分は仇を打たねばならない。死を恐れてそれが成せるはずもない。だから、怯えてはならない。
と。老人が、何かに気づいたようにはっと息を呑んだ。軽く、それでも確かに。
「……どうしたの?」
「いや」
言って、バジルは黙り込む。短くない間を置いた後、彼は再び口を開いた。火に目を戻して言う。
「お前さんは、まだ……戻れるのかもしれんな」
「え?」
分からず聞き返す。が、バジルはそれ以上は続けず、一人頷くだけだった。
そして立ち上がる。
「もう遅い。無理矢理にでも寝ろ」
さらに問おうとするティナの機先を制して、彼は馬車に戻っていった。
困惑したまま焚き火を見る。火はずいぶん小さくなって、もう間もなく消えるだろうことは想像に難くなかった。
そういえば。ふと思った。老人の指を奪ったのは誰なのだろう、と。
アルジェントに着いて人員を配置し町の包囲が完成したのは、昼を少し過ぎた頃だった。日が雲の陰に隠れて光は弱まり空気はどこか重苦しい。風は朝方には強かったが、今は弱まっていた。
雲の中に丸く浮かんでいるぼんやりとした光を見上げ、ティナはゆっくりと拳を握った。前方に立つバジルが肩越しに振り向いて視線をこちらによこす。意識を上空からゆっくりと引きもどし地に下ろした。
もう恐怖に震えることもない。少なくとも表面には出てこない。覚悟が決まった自信はないが、もう引き返せないことはきちんと理解している。
バジルに頷いて見せるとティナは静かに足を踏み出し、町の門をくぐった。
門とはいってもそんな立派なものがあったわけではない。町を囲む朽ちた柵の間に粗末に開いている隙間、そこを通ったに過ぎない。わずかに原形をとどめてはいたが、それだけだ。
「静かね」
「ああ」
短く言葉を交わして見回す。
道の両側には倒壊した、もしくはしかけた家が並んでいる。そしてどれもそれほど大きくはない。例外もあるが、それは人家ではなく倉庫に見えた。
植物域ではないここでは農作物は栽培できない。国から補給される物資は頑丈な倉庫に保管されていたと聞く。その類の建屋は砂に沈みかけながらもまだしっかりと形を保っているようだ。
バジルに視線を向けると彼は道の先を示した。ティナは頷いて、歩きだす彼に続いた。
町に入ったのはティナとバジルだけだ。指揮権は二人にある。他の人員は全て町の包囲に回していた。
不安はもちろんあった。が、ヴィルフレードを仕留めるのは自分の悲願であったし、異形使い同士で連携はほとんど不可能だ。
周囲を警戒しながら歩き続ける。口元の黒布が呼吸を邪魔するのはいつものことだが、今は特に気になった。風が建屋の間を抜ける音、軋む家々、ぼんやりと頼りない陽光。雰囲気に呑まれることの恐ろしさは分かっている。が、だからといってどうしようもない。
と。じゃり、という足音にびくりと意識を跳ねさせた。音の方を見るが単にバジルが足を止めただけらしい。
「どうしたの?」
ティナの声に答えはしなかったが、彼が立ち止まった理由はすぐに知れた。あまり広くもない町、その中心。そこは小さな空き地になっていた。
そこだけ家々が身を引いたかのような空間だ。当時は貴重であったろう木材の残骸、採掘具、台車や大きめの布の切れ端。それらが隅の方にどけて置いてあった。そして見上げると山がそびえている。採掘場の入口までほんの少しといったところだ。
何があるわけでもない。採掘がおこなわれていた当時の名残以外は。だがバジルは動かない。広場の中心辺りを凝視したままゆっくりと懐に手を伸ばす。再び問いかけようとして、その直前にようやくティナも気づいた。
砂が風に運ばれるような音がする。さらさらと細かいもの同士がこすれあって出す音。かすかであっても間違いない、確かに聞こえる。胸にざわりと嫌なものが広がる。それをはっきりとつかめた訳ではなかったが直感した。奴が来る。
一際強い風が吹いた。
風に流され揺らめくようにそれは実体化した。目を凝らせばきらきらとした小さな砂粒のようなものが、バジルの視線の先に集まっていくのが見える。ゆっくりと滲むように影を濃くし、のっぺりとした人型の異形が立ち上がる。見覚えはある。ティナは小さくうめいた。
「ヴィルフレード」
異形はほのかに光を発すると、姿を人間のそれに変じた。
黒の長髪。黒い瞳。同じく黒いマントを身につけ、露出した顔だけが奇妙に白い。特に構えるでもなくぼうっと立ちつくすその姿は、まるでどこかから切りとってきて貼り付けたように現実味がない。
ヴィルフレード。胸中で再び呟く。お前を追ってここまで来た。右手の革手袋を、ティナはゆっくりとはずした。
甲高い音が響く。バジルが懐から取り出した呼び子を鳴らした音だ。あまり広くもないこの町の外まで届き、他の異形使いを呼び寄せるだろう。包囲を狭めながらなのでそう早くもない。だが時間がたつほど余裕がなくなる。そうなればヴィルフレードにも隙が生じるはずだった。
だが敵は動じた様子を微塵も見せない。棒立ちになったまま身じろぎすらしなかった。
「……随分余裕じゃの?」
呼び子を口から離し、軽く構えながらバジル。距離を測っているようだが、どうにも掴めないらしい。異形使い相手に常人ができることは限られる。まともに対抗できるのは異形使いだけだ。
「俺に余裕なんかない」
ヴィルフレードがぼそりと呟いた。
「余裕があったこともない」
「俺から逃げるのがそんなに骨だったか。そいつは嬉しいな」
言葉と裏腹に苦々しくティナは吐き捨てた。こちらはこれまで足取りすら掴めなていなかったのだから、冗談にしても意地が悪い。
「そうだな。多少目障りではあった。おかげで調査にかける手間が増えた」
「調査?」
訝りながら呟く。そういえば、と思い出した。ヴィルフレードはラウロの研究を追っていた。
「異形使いがなぜ発生したのか知っているか?」
「……?」
唐突な問いに困惑する。
「お前はなぜ自分が異形使いなのか考えたことはなかったか?」
まず考えたのは、この問いの意図は何かということだった。
最もあり得るのは時間稼ぎだが、時間の経過で有利になるのはこちらだ。何を考えているのか、図りかねた。
「ある男は一つの仮説をたてた。異形使いは世界原理の現出だと」
「世界原理?」
「世界を統べるシステムとでも考えればいい。それが目に見える形で表出したもの。それが異形使いだ」
言っていることがさっぱり分からない。バジルを見やると彼も面食らっているようだった。
「男は仮説をもとに異形使いのサンプルを集め続けた。そして確信を強める。異形使いは世界を握る可能性を持っていると」
ヴィルフレードはすっ、とマントの下から右手を差し伸べた。その掌には異形使いの印。
「世界原理の現出が異形使いということは、逆に異形使いから世界原理に干渉することができるということだな」
右手をマントの下に戻す彼にティナはうめく。
「さっきから何を言っている」
「世界原理への干渉。これが何を意味するか分かるか?」
問いを無視してヴィルフレードは続けた。
「世界掌握。つまりはそういうことだ」
次に口を開いたのは今まで沈黙を保っていたバジルだった。一拍置いてゆっくりと言う。
「とどのつまり」
慎重に、というよりは自分の考えたことが疑わしいといった口調だ。
「お前は、世界を支配するために動いていた、というわけか?」
「そうだ」
何の躊躇もなくヴィルフレードは頷いた。
ティナは呆気にとられ――それから顔をしかめて吐き捨てる。
「馬鹿馬鹿しい」
「その馬鹿馬鹿しい行動の根拠づけをしたのはラウロ・マグリーという男だがな」
はっと息を呑む。ヴィルフレードはさらに言葉を抉りこんできた。
「お前の想い人らしいな、アルベルティーナ・フローリオ」
頭の中が真っ白になった。
何も分からない。何も考えられない。
それは今までひた隠しにしてきた、ともすると自分でも忘れかけていた名前だった。
「な、なん……っ」
「なぜ知っているかということならば、エルネストに調べさせた。奴は有能だ」
つまらなそうに敵は言う。
「コルツァに存在した異形使いはお前だけだったらしいな」
いや、奴もか、とヴィルフレードが呟くが、それは頭には入ってこなかった。
何も言えないうちに敵は言葉を続けた。
「彼は各地でサンプルを集めていたというのは言ったな。お前もその一人だったということだ」
「……」
「お前のような面白みのない異形使いを飼うなどそれこそつまらない男だ。……ああそうだな、つまらない男だった。世界の真理に最も近いところにいながら、それを持て余していた」
わずかに彼の表情が変化する。ほんのわずかに。目を細め、薄い唇の端をつり上げる。それは間違いなく嘲笑い見下す顔だった。
「だから殺した。代わりに俺が世界を手に入れる」
ティナは無言で顔を上げて空を見上げた。目を見開き、それからゆっくりと視線を元の高さに戻した。耳に入ってきた言葉を整理し、理解する時間が必要だった。
許せない。歯を食いしばって、最初に頭に浮かんだ言葉がそれだった。
許せない。わたしを愚弄するのはいい。だが――
「あの人を嘲るなっ!」
言って、"左手の"革手袋をもぎ取った。
バジルがこちらを振り返り何かを言うのが見えた。口の開け閉めが見えた。それは制止の声だったのかもしれないが、意志の奔流に流されて聞こえなかった。
左手の甲。そこにも文様。傷のようにも見えるそれは、だが異形使いの印だ。ティナの二つ目の異形。あの人から受け継いだ根幹異形。彼女は煮えたぎる怒りを、そのままそれに注ぎ込んだ。
視界が白く弾けた。
……
あの日のことはまだ覚えている。故郷が壊れ、屋敷が潰れ、彼との生活が終わった日のことは、まだはっきりと覚えている。
その時ティナは地下室で崩壊の音を聞いていた。地面の下にありながら激しく揺さぶられ、床に手をついて震えていた。
上からパラパラと降りかかる塵。永遠にも近いその数十秒を、彼女はうずくまって堪えた。
外に出ると、光景は一変していた。屋敷は崩れて木材の残骸が辺りに散らばり、見渡す限り地面も建物も全てまんべんなくかき混ぜられたようなありさまだった。
瓦礫の中に彼を見つけた。仰向けに倒れて浅い呼吸をしていた。服がところどころ汚れてあちこちに擦り傷があったが無事に見えた。だが、それは外見だけのことであるのに気づくのにそうはかからなかった。
「ティナ」
泣きながらすがりつく彼女に、彼は微笑みかけた。
「今まで世話になったね」
「やめて」
ティナはかぶりを振って声を詰まらせた。世話になったのは自分の方だ。大きな借りがあるのは自分の方だ。
「泣かないで、ティナ。ぼくまで悲しくなってしまうよ」
彼女の頬に触れて、しかしその手はぼんやりと輪郭を失っていく。ティナは必死でその手を掴んだ。つなぎとめるために両手で強く握った。
いたた、と彼は苦笑いした。
「そんなに頑張らなくても大丈夫だよ。ぼくはどこにも行かない。すぐそばにいるから」
この世界と溶けあって、いつでも見守っているから。
意味は分からなかった。ティナはただただ涙を流し続けた。彼の眼差しを、彼の温かさを感じながら。
そして、彼は消失した。ティナの左手の甲に異形の文様を残して。今から半年前のことだ。
……
絶叫していた。力の限りに叫んでいた。ただ怒り狂っているだけではない。
声には実際の力が伴っていた。怒声と共にティナを中心として同心円状に破壊が広がっていく。
轟音。破壊し、ひっくり返し、かき混ぜる音。
連鎖する隆起と陥没はごうごうと波のように周囲を浸食していき、それから一点に殺到する。破壊の先には男が一人。ヴィルフレード。仇。
彼はマントの下から緩慢とも言える動きで右手を差し伸ばした。その掌の文様が光を放つ。異形に変じた敵はすぐさま分解し姿を消して破壊から逃れた。
ティナは瞬時に右方に視線を振る。そこに実体化しようとしていたヴィルフレードを、"大きな植物の葉"が切り裂いた。
痛撃にだろうか、敵がよろめいた。その腹部に大きく傷口が開いているのが見えた。ティナはすぐさま蔓のような触手でヴィルフレードを絡め取る。緑のそれはすぐさま敵の自由を奪い、締め上げた。
「くっ……」
敵は苦しげにうめいて、それから変身を解いた。先ほどの嘲笑は影を潜め、代わりに喉を締めつけられる苦痛に顔を歪めていた。その目に映るのはティナの姿。ティナの根幹異形。
植物が人の形により集まって固まったような身体だった。蔓がきつく結び付きあって五体を形作り、ところどころから大きな葉や花が飛びだしている。植物域以外にはないはずのそれらのものたち。それを身体とし、膨大な量の蔓状触手で破壊を行うのがこの異形だ。
ラウロが遺した思いの形。そして――敵にとっての死の形。敵はそれを目の前にしながら苦悶の声を上げる。
「やはりさすがだな……ラウロ・マグリーの遺した、根幹異形……」
「黙れ。お前があの人の名を口にするな」
ティナは冷たく吐き捨て蔓の締め付けを強くした。
「何か言い残すことは?」
「それは俺を殺すと……そういうことか?」
「それ以外に何がある。死ぬのが怖いか?」
「いや……随分と手ぬるいものだなと思っただけだ」
ティナは顔をしかめた。
「何が言いたい?」
「殺したいならさっさと殺せばよかった。それにも関わらずいちいち手間をかけるような輩は」
くい、と敵は左手を動かしたように見えた。
「結局しくじるんだ」
……
ティナが根幹異形に変じた瞬間バジルは全速全力でその場を離脱した。任務も敵の位置も一旦頭から追い出し、破壊領域から逃れること以外は何も考えなかった。
案の定背後からは猛烈な破壊音が聞こえてくる。家と家の間の細い道に滑りこんでなおも走った。
十分な距離を走って、轟音がおさまったことを確認した後手近な家屋の屋根に飛び乗る。振り向くと、家々がなぎ倒されてできた空間に、緑の異形とそれに捕えられたヴィルフレードが見えた。
(勝った……?)
ティナが根幹異形という奥の手を出し、相手はそれに対応する手段がない。ならば勝負は決した。はずなのだが……
どうにもそれを確信することができない。胸の奥がざわざわと落ちつかなかった。
と、その時。
ヴィルフレードの左手、ついで全身が、まばゆい光を放った。
……
その瞬間に起こったことは、ティナには全く理解できなかった。
光が閃き、意識が遠のいた。
必死で起き上がり――倒れていたらしい――、身構えて目を凝らす。
敵を巻き取っていた蔓は全て消失していた。そして、ぽっかりと空いた空間に立っていたのは、見たこともない異形。
荒野。頭に浮かんだのはそんな単語だった。植物を人型にした自分とは反対に、荒野という地形をそのまま人型にしたように見えた。粗い土くれや岩石を思わせる硬質な外殻を鎧のように身にまとい、頭部も兜のように角ばっている。目は落ちくぼんだように外からはうかがえなかった。
(そんな……)
訳が分からず混乱する。相手の異形は今まで把握していたものとは違う。ということは――
脳がようやく理解に辿りついた。
(わたしと同じ、二体目の異形!?)
「懐かしいな。あの時と同じだ」
敵は静かに呟いた。
「あの男も同じ異形で俺に向かってきた」
ラウロ。ちくりと胸の底が痛む。ヴィルフレードはそんなティナにかまわず続ける。
「俺はそれをこの異形で叩き伏せた。そしてまた叩き伏せる」
その言葉とほぼ同時、敵の身体からぶわりと不穏な気配が噴き出す。鋭くはないが険しく、明確な殺意。
敵との間に這っていた蔓状触手がみるみるうちに枯れ果て崩れ落ちる。
「……っ!」
すんでのところで展開した触手の障壁がそれを受け止めた。壁は瞬時に乾燥し、ひび割れていく。それでもなんとか耐えきったようだ。障壁を解くと、敵は先ほどと変わらずそこにいた。
「そうだ、所詮は繰り返しだ。お前を片付けるなど造作もない」
「……この!」
削がれた気勢が怒りによって息を吹き返す。ティナは最大威力を異形の身体に命じた。手加減などいらない。持てる力全てで敵を潰す。
ティナが叫ぶと同時に手から腕から胴から足から触手が噴き出した。嵐のように荒れ狂い、蔓がヴィルフレードに殺到する。
だがそれを眼前に、動じた様子もなく敵は立ちつくす。緑の波は、目標に到達する直前で見えない壁に阻まれるように次々と消失した。
根幹異形。極めて強力な異形たちの総称。数は少なく、目撃されることは稀だ。根幹異形同士がぶつかった例はさらに少ない。コルツァ事件の際には根幹異形同士の戦闘があったのではないかと言われていたが――
(奴も根幹異形使い……!)
予想してしかるべきではあった。
己の甘さに歯噛みする。一度は、確かに、奴の息の根を止める寸前までいったのに。
(今度こそ、殺す!)
互いの力は拮抗しているように見えた。ティナの放出する触手を敵は不可視の壁で防いでいる。ちょうど中間地点。純粋な、真っ向からの力の押し合い。技も小細工もそこにはない。
ごうごうと蔓が瓦礫をこする音。それに地響きが加わって、めちゃくちゃに轟音が響いている。蔓と音の奔流が敵を襲うが、攻撃が通らないまま時間だけが過ぎる。互いに出せる威力は同等。それでもティナが少しずつ押しこんではいる。
(……本当に?)
疑惑は水面に気泡が飛びだすように、唐突に生じた。
それと同時か少し早く、ヴィルフレードは右腕を掲げた。緑の波に深く裂け目が入った。
「!?」
猛烈な速さで裂け目はティナに突進する。声なき悲鳴を上げて、彼女は身をよじった。右腕に激痛が走った。
転倒する。
すぐさま起き上がろうとするが、できない。見ると右腕の肘から先がなかった。
倒れたまま敵の方を見やる。ヴィルフレードは一歩も動くことなくそこにいた。だが、不可視の攻撃が迫っているのが、これも気配でわかる。
「あ……」
ティナの脳裏に浮かんだのは死。その予感だった。身体が一瞬恐怖に波打つ。
しかしそれと共にわいてくるものがある。
(想い人を殺されて、その上自分の命ももぎ取られるっていうの?)
それは理不尽への反抗だった。
爆発的に生じた激怒だった。
「ああああああああああッ!」
右腕を相手に向ける。肘から先がすっぱりと枯れ落ちた右腕。
その断面から鋭い切っ先が噴き出した。
一直線にヴィルフレードへと向かう触手の刃。相手は動じることなくそれを防ごうとしたようだが、何重にもなったそれは消されても消されても次の刃が心臓を狙う。
敵がわずかにたじろいだ。その瞬間に目標に触手が――
猛烈に視界が揺れた。
見える景色が白く輝き、黒に沈み、それから空が見えた。
(な……)
何が、起きた?
状況を把握するために身を起こそうとする。
が、動かない。身体が全く動かない。何らかの攻撃を受けたようだが分からない。
根幹異形にこれだけの痛撃を与えることができるのは根幹異形だけだ。しかし、そうなるとこの場に自分を含めて三体もの根幹異形使いがいることになる。そんな馬鹿げた話はない。
と。冷静にそんなことが考えられるほどに頭が澄んでいることに気づいた。妙に思考が冴えている。
何だろうこれは。
変身の限界。空から声が降ってきたかのようにそれを思い出した。異形使いには変身していられる時間に限りがある。強い異形であるほどそれは短い。
頭のどこかがティナに告げる。限界だ。
そうか、とぼんやり考えた。自分はその限界を迎えてしまったのか。だからもう動けず、あの人と同じに消えてしまうのか。
(ラウロ……)
声に出したつもりだが、口からはうめき声しか出ない。
意識が徐々に薄れていく。
いや、正確には意識をまとめるたがが外れてどんどんこぼれ、拡散していくといった方が近い。溶けだして周り一面といっしょくたになってしまう感覚。自分というまとまりをなくして、風に還るような。
ああ、ラウロ。
(わたし、駄目だったみたい。あなたの仇、討てなかったみたい)
ごめんね。
まだかろうじて残っている意識の中で、ティナは、最後の言葉を紡いだ。
(愛して、る)
言葉は遠い空。そのさらに向こうにしみこんでいく。
そして、ティナは。言葉への返答を――優しい声を聞いた。