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第四話 老兵の傷跡

 その老人の右手には二本しか指がない。人差し指と中指。それ以外はすっぱりと、おおむね綺麗に欠損している。切断面は滑らか。まるでそのためにあつらえた器具で切りとったかのようだ。元からそうであったように、違和感なく欠けている。

 ただ無論、綺麗にそれがなされたからといって粗雑にもぎとられたよりも痛みが軽かったわけではない。当時老人は痛みの大きさに身体を折って悪態を吐き、失血の多さに顔を蒼白にした。物理的な痛みにしたって老人をのたうちまわらせるだけの威力はあった。

 しかし。

 それよりも老人を苦しめたのは莫大な喪失感だった。失ったという自覚は遅れて老人にのしかかってきた。握力を根こそぎ失いナイフを握れない右手に、彼は自分の終わりを悟らざるを得なかった。

 あの日、老人は確かに一度、戦士としては死を迎えたのだ。

 老人は忘れていない。これから先、忘れることなどない。その損失の埋め合わせを、老人は未来永劫探し続ける。


……


(探し続けるからといって見つかる道理もないがの)

 胸中で呟いて、どこかうす暗い路地を踏みしめながら進む。奥まって行くにつれて暗く、細くなる通り道だ。

 当然のごとく人気はない。そもそも使える道でもない。なにしろこの先はただの行き止まりなのだから。

 ……そうだ、探しているからと言って見つかる保証などどこにもない。胸中で再び呟く。求めよ、されば与えられん。これは嘘だ。なせばなる。これも嘘。やればできる。大嘘。長い戦いの人生で学んだことは一つ。意志は現実をはねのけることもあるが、稀なことであってかつ意志の強さは関係ない。

 探そうが見つからない。恨もうが殺せない。そして、進もうが通れない。この路地のように。行きつく先はただの壁だ。暗く冷たい行き止まり。

 奥歯を噛みしめる。形ない物をぎちりとかみつぶす。所詮はただの憂さ晴らしに過ぎないのかもしれない。悪あがきだ。見苦しい。その上他人を巻き込んでもいるのだからたちが悪い。自覚はある。罪悪感もある。

 とはいえ、止まることはできない。ゆっくりとでも足は進む。徐々に徐々に光量が落ちていき視界は暗くなる。ふと思う。これは暗示か。この小さく干からびた老人の行く末か。

「待たせたの」

 感傷にかさつく声を投げると、つきあたりのその男は、寄りかかっていた壁から背中を剥がした。

 ちょうど太陽が真上を過ぎた辺りにある。両側の建屋で切りとられた細い空。そこから降り注ぐ日光は、しかしかえって濃い影を作る。

 その男はその暗がりで身じろぎしたようだった。組んでいた腕を解いたに過ぎない。だが、老人は軽く拳を握った。決して油断していい相手ではない。

「この町にいるそうだ」

 その男が発した声には特に変わったところはなかった。格好もただの平服。暗がりに沈む顔かたちにも目を凝らせば特に険の気配など感じられない。だからこそこんな汚れた場所には不似合いで、逆に怪しくも思える。

 とはいえ、怪しいも何も正体は知っている。異形部隊のメッセンジャーだ。ただし、事務雑務を担当し基本的に公舎を出ない表向きのメッセンジャーではない。

 裏のメッセンジャー……というと大袈裟すぎてバジルは好まない。単にイヌ、と呼んでいる。日向のイヌか日陰のイヌかの違いだ。とにかく日陰イヌの役割は異形使いには"知られぬよう"情報の伝達を行うことである。

 特別不思議なことではない。なぜならば国は異形使いの力に大きな信頼を置いている一方、大きな不安も抱いているのだから。

 異形使い同士では基本的にチームを組まない。一人の異形使いにサポートの非異形使いが数人つく。これは異形使いの能力的個性が強いためだと"表向きには"説明されている。

 嘘ではない。が、それで全てでもない。異形使いが不穏な行動を取った場合――例えばクーデターのために集結するとかいった――、始末をつけるのはサポート役についた非異形使いの仕事だ。

 大抵は殺すことになる。異形使い相手に手加減はできない。

 つまりサポートたちは分散させた異形使いの監視役というわけだが、彼らを統括するため"日陰のイヌ"がいるわけだ。

 異形使いは彼らの存在を知らない。知っている者もいるかもしれないが、表だって何かを言いはしない。異形使いは結局のところ国に依存しなければ生きていくことはできないからだ。

 異形使いの人権を保障しているのは権利章典の一文のみ。曰く、異形をその身に宿す者の生命を国は保証するものである、と。それに実際的な効力を持たせているのは国の威光だ。

「確かなんじゃろうな」

 一語ずつ、慎重に言葉を練り出す。何かあれば躊躇なくこのイヌを叩きのめすつもりだった。機嫌が悪いのもあった。今日の目覚めは良くなかったし、そもそも犬は嫌いだ。

「目撃証言は取れている」

「信憑性は」

「目撃者の誠意次第じゃないか。あれ以上試せば死んでいたとは思うが」

 運の悪いごろつきでもいたのだろう。まあどうでもよかった。欲しいのは確度の高い情報であってそれに伴うエピソードは必要ない。

「それだけ聞ければ十分じゃ。じゃあの」

 さっさと踵を返して足を踏み出す。だがメッセンジャーの声がそれをとどめた。

「アルベルトについて」

「あ?」

「何か変わったことはないか?」

 老人は肩越しに振り返ってしばし沈黙した。ティナを異形部隊に引き込む際に、軍に明かした情報は多くない。ある小さな村で彼を見つけたということ。彼に家族はいなかったということ。それぐらいだ。コルツァ壊滅事件での生き残りであることも、恐らくは事件の原因であることも、そして"彼"ではなく"彼女"であることも明かしていない。

「別にないのう」

「スピーガで根幹異形による破壊があったそうだな」

「それが?」

「お前たちが関わったと報告書にはあったが」

「そうじゃが、駆けつけたときには既におわっとったよ。報告書を読んだのなら分かる通り、わしらがやったのは後始末ぐらいじゃ」

 ふん、とメッセンジャーは鼻息を漏らした。細く尖らせた目でこちらをにらみ、それから歩み寄ってくる。

 思わず身体に力が入るのを自覚する。男は目前までバジルに迫り――

「それでは働きに期待する」

 そのまま通り過ぎていった。軽くバジルの肩を叩きながら。

 すっと抜けていく肩の力を感じながら、バジルはその背中を見送った。

 見えなくなったところで視線を持ちあげる。切りとられた細い空。先ほど聞いたことを反芻する。奴はこの町にいる。


……


 そのあまり広くもない通りの両側には、隙間を丹念に埋めるようにみっしりと露店が並んでいた。午後の明るい日差しを浴びて多くの人々が行き交い、露天商たちがその流れに威勢のいい声を投げている。何人かがその声に立ち止まり、そのたびに流れが鈍るといったありさまで、ごった返すというほどではなくともなかなか歩きづらい。肩がぶつかることも多々あるが、気にする人間はいないようだ。

 大きな都市いくつかの中継点に当たる町。多くの物がここを流れるため、必然的に人も多くなる。

 一人一人がどこへ向かうのかは掴みようがないし調べる必要もない。だがそれぞれに目的地はあるのだろう。行く場所があるならば帰る場所もあるはずだ。行く者と帰る者、それらが入り混じり一つの流れとなっている。

 ティナはその流れの中で一人、どこへ向かうでもなく歩いていた。

 一週間だ、と胸中で呟く。この町に来てからもう一週間。スピーガで見失ったヴィルフレードの足取りを追って、最も近いこの町に目星をつけたのだが、情報はいっこうに入ってこない。無能なメッセンジャーたちはそれらしい噂すら掴んでいない。

 完全にロストした、ということも大いに考えられた。頭を重くするあまり認めたくなかった事実を、ティナはそろそろ受け入れる覚悟ができてきていた。

 足は止めないままため息をつく。異形使いの正装ではなく、フード付きの外套だ。口を覆う黒布はなく、だからため息は問題なく流れていった。

 改めて確認する。見失った。つまり、やり直しだ。半年前に逆戻り。手がかりも何もない状態からやり直さねばならないということ。オリーヴァで接触できたのは偶然とはいえ、いや、だからこそ逃してしまったのは惜しい。再度追いつくには同じくらいの時間がかかるだろう。

(違うわね)

 ティナは絶望的に思いなおす。奴は慎重だ。また遭遇できる保証などどこにもない。同じくらい時間がかかる、ではなく、もう発見は不可能かもしれない。

 うめいてティナは歩みを鈍らせた。舌打ちと共に誰かが肩にぶつかって追い越していく。それに軽く足をもつれさせながら、ティナはさらに思いを暗くした。

 ラウロ。わたし、諦めはしない。心は折らない。

(でも……)

 ずんと重いものが胸の中に沈んでいく。深く深く水に似たなにかをかきわけ、奥の方を押し潰す。

(ラウロ……)

 と、何かが聞こえた気がした。遠くからではない。かなり近く。というより鼓膜を震わす音ではない。

『ティナ』

 記憶の靄の向こうからの声だ。心安らぐ愛しい声。

『いいかいティナ。もし胸の奥が重くて仕方ない時はね、こうしなさい』

 彼はそう言って腕を目一杯に広げて息を吸い込んでみせた。すううぅ……と吸い込んで、一気にだはっと吐き出す。実に子供のような仕草だが、なんとなく似合ってはいた。

 ティナは昔、しばしば気分がふさいで部屋にこもっていた。胸が妙にざわざわして、そのくせからからに乾いていて、はっきりとしない不安感。どうしようもなくていつも持て余した。

 ラウロは基本それを放っておいてくれるのだが、あまりにひどくて食事もとらない時、彼は部屋を訪ねてきていうのだった。

『悩みはね。どうしようもないね』

 そう言って深呼吸を勧めてくる。馬鹿馬鹿しいと思いながらも彼と一緒に深く呼吸を繰り返していると、少しずつ落ちついてくる。それから彼の胸に飛び込む。ティナが洗ってあげた服の匂いと、彼自身のほのかな香り。

 たまに一緒に外出することもあった。今目の前に広がっているのと同じような露店街を、並んで歩いた。欲しくもないものを買ってくれと彼にねだり、そんなお金ないよと苦笑する彼に心にもない文句を言う。そんな日々がたまらなく懐かしい。

 町の喧騒が耳に戻ってきた。露天商が客を寄せるがなりたてる声。どこかで言い争う騒がしいやりとり。あの日も聞いたようなざわめきの中、彼の声だけがない。

 いつの間にか止まりそうになっていた足を踏み出す。ポケットに手を突っ込む。がさりとした手触り。店で扱っているのだろうか、鼻をくすぐる油のにおい。

(がさり?)

 ふと気づいてティナはポケットからそれを取り出した。

 しわくちゃの紙だった。古い、というわけではない。特に新しくもないが。ただ丸められて、なぜかポケットに入っていた。さっきまではなかったと断言できる。

 ティナは首を傾げた。


……


 問題はだ。老人は一人呟いた。奴がこの町にいるという情報だけではどうにもならないことだ。

 大事なのはどこにいるかであるし、見つけたら見つけたでもう一つ問題がある。すなわち、

(どうやって仕留めるかじゃが)

 先ほどの路地を逆方向に歩いている。まばらに散らばったゴミを踏み散らかしながら逆戻りしていた。向かう先は表通りに通じる出入り口で、光がさしてきているが道を照らすよりむしろ路地の暗さを強調する。

 ふと足を止めた。右手を持ち上げる。人差し指と中指。他の欠損してなくなった指は、錯覚でしか感じることはできない。

 今もある。欠けた三本の指の感覚が。かゆみに似た痺れを伝えてきている。

 指二本ではまともにナイフを握ることはできない。ひっかけるタイプの格闘ナイフならば扱えないこともない。扱えないこともない程度には使って、戦える。

 自分では道具にも手段にも単純な力にもこだわらない性質だと思っていた。が、白状してしまえばずいぶんと頼りなくなった自分の能力に失望したし絶望もした。そして当然募るのが、憤怒や憎悪というものだ。

 ドロドロと粘り、そのくせ鋭く脳幹を突く熱を、ずっと持て余してきた。

 ゆっくりと右手を下ろす。目じりがひきつるようにつり上がるのを感じる。

「落とし前はかならずつけさせるぞ……我が弟子よ」

 音もなく足を踏み出す。光の差す路地の出口へと。

 探し出し、必ず仕留める。手段はまだ見つからない。それでも、どんな手を使おうと殺す。


……


 しわだらけの紙には、大雑把な線で書かれた字と地図である場所が示されていた。

 その場所自体はどうということもない。町の一角、そこに何があるわけでもない中途半端な通路の途中。しいて特徴を挙げるとすればその先に何もないので、人が寄りつきにくいということか。

 紙自体もどこででも手に入りそうなものでこれといって妙なところはない。

(問題は……)

 いつの間に、誰が、何のつもりでこれをティナによこしてきたかということだが。

 公舎の一室。デスクに着いて、ティナは口元に手を添えながら考えた。

 いつの間に、誰が、ということなら分からないでもない。先ほど外出していた通り。そこで人にぶつかられたのは覚えている。ポケットに紙を放りこまれたのは恐らくその時。それ以外には考えにくい。

 後は、誰が、何のつもりで、だ。

 これをよこした何者かは、ティナをティナだと分かった上でこれを渡してきたのだろうか。選ばず無差別にポケットに放りこんでいるというなら話は別だが、全く気づかせない手際というのを考えるに意図的なものを感じずにはいられない。

 そしてその何者かがティナと認識してわざわざよこしてきたというのならば。

 と、その時部屋のドアが開いた。振り向くとバジルがそこにいる。

「よう」

「……ノックぐらいするべきだと思うけど」

 顔をしかめて言うのだが、老人は気にもしなかったようだった。

「何か用?」

「いや、別に。戻ってきたついでに何か変わった事がなかったか訊こうと思っての」

 ティナはその一瞬だけ躊躇した。だが迷うほどの間はなかった。平静を装って答える。

「別に」

「そうか。邪魔したの」

 バジルは特に不審に思うこともなかったらしくドアを閉めて去っていった。聞こえるはずもないその足音に耳を澄ませて、後ろ手に隠した紙を握り締めた。

 紙には地図と、それから一文。

『夜。一人で来ること』

 それだけが書かれていた。


 夜の街路に人気はなかった。

 表通りから少し逸れた道。星や月の明かりもあまり差していないので足元がおぼつかない。自分の不器用な足音だけが狭い道にこだましていた。

 募る緊張感を押さえつけて歩く。

 地図に示されていた地点まであと少し。もちろんそこに具体的な印があるでもないが。

 と、そこでティナは一旦立ち止まった。

 息を吸う。吐く。黒布越しに滑りこんできた冷たい空気が肺の内側を撫でて去った。それが意識を鋭敏にする。もしくは鋭敏にしてくれることを願う。

 それからティナは慎重に思索をめぐらした。地図をティナによこした何者かがいる。それが誰であれ、一つだけ間違いないことがある。

 手練だ、ということ。

 ゆっくりと右手の革手袋を外した。手の甲を冷気が撫でる。戦いを予感して昂ぶる神経をなだめる。口の中がゆっくりと乾いていくのを感じた。

(相手はわたしを認識している)

 わざわざ狙ってポケットに紙を放りこんだのだ。まさか人違いということはあるまい。そして狙ったのならば、相手の素性もある程度分かる。

 異形使いとしてのティナに用があるのならば、恐らくは反異形使い的活動を行っている者。そして、仇を追う者としてのティナに用があるのならば……

 そのどちらにしても、ティナにとっては危険な人物に違いはない。

(必要ならば……潰す)

 心を決めて、踏み出した。

 そしてその場所を踏みしめて。

 思うのはやはりこれといった特徴もないなということだった。そこで夜の闇が一層濃くなるでもなし、何者かの視線を感じるでもなし。慎重に周囲をうかがうのだが、何もない。

 夜の闇の微妙なグラデーション。ささやかに吹く風。眠りに着いた人々の奏でる聞こえもしない衣擦れの音。

 何者かが現れることやもっと単純に攻撃が飛んでくることを予想していたのだが、何も起こらないまま数分が過ぎた。

 既に捕捉はされているのか? 思うが、いい加減緊張が持たない。いつでも異形になれるよう、それだけを注意して肩の力を抜く。悪戯。そんな単語も頭をよぎる。

「もしくは嫌がらせ、とかね」

 聞こえてきた声に、心臓が跳ねた。

 ぞっと寒気が背筋をかけ下りる。今、このタイミングで、例えば何かしら殺傷力のあるアクションを起こされていたら、反応できなかったと言い切れる。呼吸を読まれていた、と察して、振り返った。

 小柄な人影がある。

 目を凝らして、再び意表を突かれた。そこにいたのはどうということもない、ただの男だった。

 同じくどうということもないこの場所にはむしろふさわしかったかもしれない。年は、見た目だけで判断すれば十八、九といったところか。男というよりは少年という方が適切なように思える。昼間ならあえて注視することもなかっただろう。コートを着こみ、口元を軽く緩ませてこちらを眺めていた。

「いい夜だね」

 ティナは答えずに睨みつけた。右手に意識を移して口を固く引き結ぶ。

 返答がなかったことに対しては頓着しないらしい。少年は、それにしても久しぶり、と続けた。ティナは怪訝に思って眉を寄せた。

「あれ? 覚えてない?」

 心底驚いた顔で彼は言う。

「ショックだなあ」

 記憶の端に。引っかかるものがあった。

「彼と一緒にいたよ。覚えてない? ほら、オリーヴァで」

 視界が白く弾けた。少なくともそう錯覚した。

「お前、は!」

 右手が力んで震える。それを自分の冷静な部分が見下ろす。

 喉の奥に熱い塊がせり上がってきて、そのまま飛び出る。

「ヴィルフレードの!」

「ああ、だめだめ。今はラクリマって名前なんだって。間違えないであげないと――おっと」

 最後の一言はティナの投擲したナイフを避けながら発したものだ。力の調節を忘れたまま投げ放ち、確かにこの暗闇、狙いはでたらめだったが、相手は正確にさばいてみせた。

 格闘用ナイフを抜き放ち、地を蹴る。技術も何も関係ない。怒りそのままに突き出した。

「ふっ」

 聞こえたのはその吐息のみ。右手に軽い衝撃。だがそれだけで格闘ナイフは地に落ち、軽い音を立てた。暗がりに転がってもう見つからない。

 信じられずに目を見張る。

「まあ落ちついてよ。ごたごたさせる気はないんだ」

 落ちつくどころかかっと頭に血がのぼる。

 右手を掲げる。その甲に意識を伸ばす。そして命じる。いや、命じようとした。

 とどめたのは先ほどのような小さな衝撃ですらなく、ただの冷たい一言だった。

「異形使いは町の中においてその力を制限されるものとする」

 掲げた手が震える。身体が硬直する。意識が冷える。

 理不尽だった。

(なんで……)

 なんでそんな一言に止められなくてはならない?

「異形使いは莫大な力を持っている。代わりに足枷もある。制御の義務だ」

 淡々と声がする。先ほどの人好きがするそれとはうってかわって底冷えする音の連なり。

「異形使いに対して普通の人々が抱くのは単純な不安と恐怖。下手に力を使えば恐怖はそのまま暴力となって異形使いを襲う」

 ふらふらと右手が胸元に下りてくる。その手を左手で包むようにして聞く。

「だから使いどころはきちんと考えろ」

 ぐっ……と喉の奥が詰まるのを、確かに感じた。

「……とまあ、ラクリマならそう言うだろうけどね」

 声の調子を急に緩めて少年は言った。

「ぼくはまあどうでもいいかな。君がどうなろうと。でも用事があるからそれは果たさないとならない」

 ティナは懐に残っている武器を数え上げた。投げナイフが二本。格闘用ナイフはもうないが、短剣が腰にある。相手との距離は三歩ほど。たったそれだけだ。

 自問する。その距離を詰めて、かつ相手に手傷を負わせられるか? 捕えられるか?

「ぼくを捕まえようと思ってるならそれは無理だよ」

「……お前はなんのつもりで?」

 認めるのは癪だったが相手の言う通りだろう。先の攻防でそれは理解した。手練ということだ。

 懐に伸ばした意識はそのままに、ティナは質問を重ねた。

「俺に何の用だ?」

「ラクリマから伝言」

 ぴっ、と彼は懐から一枚の紙を取り出す。手のひらほどのサイズ。大きくはない。ここに置くよ、と言って彼は地面にそれを伏せた。無駄のない動作で。飛びかかる好機だったにも関わらずティナはなにもできなかった。

「どう言うつもりだ? ヴィルフレードは――」

「ぼくにも分からないよ。ただ、渡せって言われただけだし」

 言って、少年は一歩後ずさった。

「ちゃんと渡したからね。今は暗くて見えないかもだけど」

「おい、お前!」

「あ、そうそう」

 もう一歩遠ざかって彼は言う。

「お前、じゃなくてエルネスト。覚えといて。一応」

 限界だった。

 懐の投げナイフ、二本を抜いて勢いのまま投擲しようと――

「……」

 しようとして、暗闇にもう姿が見えないことに気づく。気配もない。そこにいたことすら疑いたくなるくらい、さっぱりと消え失せていた。

(くそっ!)

 声に出さずに毒づいて脇の壁を殴る。

 胸に残るこのうずき。敗北感。続けて二三度壁に拳を打ちつけてから奥歯をギリギリと噛みしめて前に出る。

 暗がりに沈む紙一枚。拾い上げて、確認する。月明かりの下、よくは見えないが、几帳面な字で何か書きつけられているのは分かる。何かの名前であるように思えた。今は読みとれないが、朝になればそれもはっきりとわかるだろう。

 だが、と煮えたぎる頭で考える。ヴィルフレードは一体何のつもりでこれを渡してきた?

 夜の静寂の中、ティナは紙を握り締めたまま立ちつくした。喉の奥に棘が刺さったようなどうしようもない異物感を持て余しながら。


……


 暗闇の中、標的は悠々と歩いていた。夜の帳の下にあって、何も恐れるものはないとばかりに鼻歌まで洩らしていた。

 バジルは音もなく一息に距離を詰めると、その背中にナイフを突き刺した。

「……」

 手応えはない。コートの生地一枚を突き通した感触はあったかもしれないが、革手袋越しには分からなかった。

 はらりと道に落ちるコート。その向こうに笑み。

 少年は、月明かりの下、まるで散歩の途中であったかのような体でこちらに半身を向けていた。

「あれ? 師匠だ」

 その軽い一言は、だがこちらの積もった恨みを弾けさせるのに十分な威力を持っていた。

 飛び出す。お前なぞに儂を師匠呼ばわりする資格が――

「あると思うな!」

 左手でナイフを投擲。同時に右手には格闘ナイフをひっかける。投擲したナイフに対処する隙をついて始末する、そういう算段。

 少年は、前に飛び出た。

(……!?)

 投げナイフがその胸元で弾き飛ばされるのが見えた。動揺で動きが鈍る。右手のナイフが相手を捉えきれずに懐への侵入を許した。

 とん、と少年の肩が胸元に触れた。

「が……っ!」

 後方に吹き飛ぶ。必死に受け身を取って起き上がったが、右手のナイフは取り落してしまっていた。

 顔をあげると、何事もなかったように少年が立っている。

「今ね、どうしようか考えてる」

「エルネスト!」

 鋭く囁く。相手は気にもしなかったようだが。

「師匠を――あ、師匠って呼んじゃ駄目っぽい? じゃああなたをどうしようかなって」

 彼の言う意味が分からず、目で問う。

「いや、ほんとに分からないんだよ」

 言って、少年は肩をすくめる。

「今始末すべきかどうかってことなんだけど」

「貴様……」

「怒らないでよ? 怒っても全然怖くないけど」

 言って、気づいたように少年は続ける。

「ああそうだね、あなたのことは全く怖くないんだ」

「これ以上儂を愚弄する気か?」

「事実を述べるって結構残酷だよね。あなたにはどうしたって負ける気がしない」

 エルネストは――かつてバジルの弟子だった少年はそう言って笑った。

「でも、ラクリマには特にあなたについては何も指示されてないんだ」

「何を迷う必要がある? ここで儂と戦え」

「それって楽しい?」

 うめくように言うバジルに対して、エルネストはあくまで軽い調子だった。

「あまり面白くなさそう」

「お前を楽しませる趣味などない。戦う気がないのならばなぜ目撃者など残した?」

 少年が本気になれば誰にも見つかることなくなにかしらの目的を達することができたはずだ。

 だが実際はこの少年を目撃した者がいて、その情報が日陰のイヌを通してバジルに伝わった。

 エルネストは一瞬きょとんとした後、ああ、とうなずいた。

「特に意味はないよ」

 どうやら、とバジルは思った。この少年は確かに自分を怖がっていないらしい。ほんの少しもだ。そのことだけは明確に理解した。憎悪と共に。

 理解したところで怒りが収まるわけでもないが、わずかに躊躇が生まれたらしい。少年が一歩を下がるのを見逃した。

「逃げる気か!」

「逃げる? それって怖い相手に背を向けることでしょ?」

 じゃあ違うよ、と少年は言う。

「見逃してあげる、って感じかな」

 瞬間、少年は跳躍し、老人はその姿を見失った。残像を追う心地で駆け出す。

 闇の中、エルネストの声が響いた。

「まあせいぜい知恵を絞ってよ」

 少しずつ遠ざかっていきながら響いた。

「少しは楽しめるかもしれないからさ」

「エルネスト!」

 諦めてバジルは足を止めた。叫ぶ。

「儂の三本の指、儂の力を奪ったこと、必ず償わせる!」

 少年の笑い声が聞こえる。それに叩きつけるように繰り返す。

「必ずだ!」

 必ず。

「必ず、殺す!」

 絶叫は闇の中にむなしく――バジルはそれを認めた――、残響を残して、それから消えた。

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