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第三話 末路からの呼び声

 夜の冷えた空気に呼気を混ぜる。荒野程ではないが植物域でも夜は気温ががくりと落ちる。白い靄が浮かんで、それから消えていった。ラクリマはその一連を眺め、ゆっくりと足を踏み出した。しんしんと身体を冷やす外気を外套で遮り前だけを見据える。

 何が見えるわけでもない。人工的な明かりなどどこにもない。それでもわずかな月明かりの下に黒々とうずくまる建築物の影は判別できる。彼はそれに向かって真っ直ぐ歩いていた。

 人気はない。場所が場所のため衛兵がいないはずもないが、エルネストに人払いするよう言っていた。そして了承は得た。了承した以上は完璧にやってのける。それがあの相棒である。

 恐ろしい程の手並みだった。あのバジル・カジーニをして化け物と言わせしめるだけはある。

 そうだ。苦々しく認めた。化け物め。

 毒づき歩き続けながら右手の手袋をはずす。闇夜で見えるはずもないが掌には異形使いの証がある。それはささやかに光を発してラクリマの存在を変換する。異形となった瞬間、冷気を感じなくなった。

 異形は世界と彼を断絶するのか。いや、と彼は思う。世界と彼を限りなく近づけ、混ぜ合わせ、その境を曖昧にするのだ。

 建物の影が目の前に迫ってきた。堅牢なそれは全ての進入を阻む。エルネストですらこれを越えるのは苦労するだろう。

 決して越えられないわけではないだろうが。

 ともかく、ここからは自分の領分だ。ラクリマはそう呟き、異形の身体の分解を始めた。異形、"断片"はすぐに散り散りに分かれると、その場から姿を消した。


……


 次第に近付くその町には、スピーガという名の他に"教区"という呼び名があった。

 この国には国教は明確に定められていないが、事実上そうみなされているものはある。聖教と呼ばれるのがそれで、国に十数ある信教の内最も多くの信者を獲得している。このスピーガは聖教会の総本山だ。当然規模は大きく、国における発言力も大きい。人口は王都に次いで二番目である。

 だが、そんな情報にはあまり意味がない。とティナは思う。自分にとって重要なのは、この町が異形使いにとって動きづらい町であるということだ。異形使いがそうでない人々に畏怖され嫌われているのはもう繰り返すまでもないが、教区ではその度合いがさらに強い。聖教会が異形使いという人種を異端と認定しているためだ。

 異形使いにまつわる伝説がある。彼らの発生について綴ったものだ。その昔、この世の全ての知識を求め神に挑んだ男がいた。彼に知らぬことなど存在せず、知の極致に達したとまで言われていた。

 ある時彼はその頭脳で神に相対し、不遜にも打ち負かすことを試みる。勝負は七日七晩に及んだ。その間世界は凍りつき、全ての事象は停止したと伝えられている。

 知恵比べの末、男は負けた。その際神に挑んだ罰として彼は化け物に身を落とす。彼は人を襲い、殺し、犯し、壊しつくした。その結果、異形となった彼の血は人々の間に潜み、後世に異形使いという形で現れるようになったとか。世界に荒野が広がったのも同時期と言われている。

 所詮は根拠のない言い伝えだ。だが、聖教会の信者はそれを過去実際に起きた事実と信じているのだ。


 町に入って馬車から下りると人々の視線が強く刺さってきた。畏怖だけの視線ではない。明確な敵意と害意に満ちた視線だ。先の事情があるため、ここでの異形部隊の活動は厳しく制限される。公舎も必要最低限のものしか置かれていない。そこへと逃げるように移動する。

「異形使いに頼らぬ生活などないと分かっている癖にの」

 バジルが言う。

「嫌っていても依存せざるを得ない。皮肉じゃ」

 ティナも強くはいさめなかった。

 事実、制限があるにしろここで異形部隊が活動できるのは、異形部隊なしには解決できない事柄もあるからだ。教区であろうと異形部隊への依存は変わらない。例えば――

「聖教会に侵入者?」

 ティナが問うとその町のメッセンジャーは頷いた。

「異形使いによるものと思われます」

 異形使いの犯罪は異形使いにしか対応できないことが多い。今回もそのケースのようだった。

「一体どういうことだ?」

「聖教会の私兵数人が何者かに殺されました。盗み出されたものもあるそうです」

「盗み出されたもの?」

「なにやら極秘指定の代物だそうで。具体的な話は聞けませんでした」

 ふむ、とティナは腕を組む。

「やったのが異形使いであるという根拠は?」

「明確な証拠はないそうです。しかし状況的に見て確かに異形使いの仕業かと」

 目で促すとメッセンジャーはさらに続けた。

「私兵の交代はかなり頻繁に行なわれていたようです。

 その短い時間に私兵の殺害、聖教会への進入、窃盗を行うとなると常人には不可能です」

 つまり異形の力を使う必要があるというわけだ。

「今分かっていることは?」

「何も。犯人が本当に異形使いかも判然としませんし、もし異形使いであったとしてもその異形がどんなものかもわかりません」

 なるほど。ということはだ。

「あなたたちにも協力を要請します」


「というわけ」

 部屋に戻り一連のやりとりを説明すると、椅子をもたれたバジルは渋い顔をした。

「引き受けたんか?」

「ええ」

「なんで奴のことを聞きに行って見当違いの仕事をもらってくるかの」

「そうでもないわ」

 ことさらに嫌そうな顔をする老人に説明を加える。

「聖教会の総本山、その建物は昔砦として機能していたことは知っているでしょ」

 信教の権力を保ち、発言力を高めるには武力が必要、そんな時代もあった。そのための拠点として使われたこともある。

「老朽化し、改修工事が重ねられたとはいえその防御力と密閉性は健在。外から余所者が侵入するのは困難」

「だから異形使いが疑われとるんじゃったな」

「ええ。ヴィルフレードの可能性がある」

 奴の異形は自らを分解する。細かく細かく分割して移動することが可能のようだった。あの特性を使えば侵入は困難ではないだろう。なにしろどんな堅固な要塞にも空気の通り道ぐらいはあるからだ。

「奴が? なんのために?」

「さあ……そこまでは。盗まれたものが分かればもっと強く断定できたんだけれど」

 大きな権力を持つ信教の総本山とあって価値あるものは多い。しかしそれだけに守りも厳重で、盗みに入るにはとてもリスクに見合う手取りがあるはずもない。ヴィルフレードの性格について詳しくは知っているわけではないが、金品目当てに入るような輩ではないとも思う。

 では一体。

 ふとフェルモ・ボナの言葉を思い出した。理由は分からないが、ヴィルフレードはラウロ・マグリーの情報を追っている。

(教区にあの人に関する何かが?)

 ラウロはかつて各地を転々としていたと自ら語っていた。詳しくは聞けなかったが、研究のためだったらしい。ここでも何かしら研究を行っていた可能性はある。彼の生前、そういったことについて聞く機会はいくらでもあったはずだが、当時は彼女もそれほど興味を持ってはいなかった。一緒にいられればそれだけでよかった。

(今になってそれを後悔するなんてね)

 あの人について知らないことが多いことに気づく。どこで生まれ、どんなふうに育ち、何を目指していたのか。

 一番大事なことだったろうに、もう語り合うこともできない。

 と、沈黙が長引いたことに気づいた。バジルが訝しげにこちらを見ていた。

「……とにかく」

 何かを払う手振りをして、ティナは続ける。

「情報が必要よ。町に出ましょう」

 バジルは何か言いたそうではあったが、とりあえずはこちらに頷いて見せた。


 服装を変えて町に出る。それだけで途端に居心地が変わる。視線の力を思い知るということだ。こちらに集まる目がないだけでこうも違うものか。

「そりゃそうじゃろ」

 バジルは言う。

「見る・見られるは重要なことじゃ。ナニを見られることで興奮する輩もいるからして――」

 肘で小突いて黙らせた。

 さて、この町では情報を得られる場所はだいたい決まっている。聖教会の教徒が集まる集会所がそのひとつ。人が多く集まり異形使いが近付くにはリスクが大きいが、その分有用な情報が手に入る可能性も高い。ただ、異形使いの情報となるとやはり難しくはなる。

 だから狙うのは見返りさえ差し出せば何でも話す類の人間だ。つまりは貧民層である。

 誇り高き聖教徒には身分の違いはなく、皆誇り高き神の民。と、対外的にはそのように示してはいる。が、どうしたって人には違いが出る。階層ができる。

 聖教会の各施設では貧困層に対して施しと称して衣食住を提供している。全員がその恩恵にあずかれるわけではないが、朝と正午、そして夕暮れ時に彼らは聖教会の前に集まる。

「けしからんことだ」

 聖教会襲撃の件について貧民の一人に問うと、彼は顔をしかめて応じた。

「まったく恐れ多いことだよ」

 彼は食料の配給待ちで退屈していたらしい。こちらが銅貨をちらつかせたのもあるだろう、口調は滑らかだった。

「異形使いが絡んでいるとも聞くが」

 ティナが言うと、男は魔除けの仕草をする。

「そういう噂もあるな。異端の輩が神に弓引く。大いなる裁きが下るだろう」

「詳しいことはわかるか?」

「いいや。だが、神官兵たちが南区の方を調べているらしい。じきに罪人も見つかるはずだ」


 南区は整然と区画された北半分と異なり、必要に応じて雑然と継ぎ足されてきた経緯を持つ区画である。確かに罪人が隠れるとすれば、どうしても目立ってしまう北区よりも南だろう。

「つっても、広すぎていかんわい」

 バジルがぼやく。

 その言葉通り、南区は北区よりも面積では広い。迷路のように入り組んでいるのもあって、探索には向かない。

「それでも地道に探すしかないだろう」

 ティナは言うが、自分の声にもうんざりとした響きが混じっているのが分かる。

「他に方法もないんだから」

 しらみつぶしに怪しいところを当たる。貧民街だけあってそんなところは無数にあるが、それでも気力と体力に任せて踏破していく。時間は刻々と過ぎていき、日は次第に傾いていった。

 それから夕刻。そろそろ公舎へ戻ることを検討しはじめていた時のことだった。背後から騒音、続いて罵声が聞こえた。

 振り向くと、通り過ぎた脇道の一つから男が飛び出してくるのが見える。続いて白い長衣を纏った三、四人程の神官兵がそれを追って出てくる。集団は向かいの路地に走りこんで姿を消した。

 バジルを見ると、彼は既に追跡を開始していた。慌ててそれに続く。

 集団の背中を追い、角を二つほど曲がってすぐに追いつく。というのも彼らが立ち止まっていたからだ。神官兵たちが男一人を手荒く組み伏せ警棒で殴打を加えていた。男は暴れ、抵抗していたが、殴打のたびにそれがみるみる弱っていく。

 力なく地面に伏したその前腕に、傷跡にも似た文様。

「そこまでだ!」

 ティナは制止の声を上げた。こちらに気づいた神官兵の数人がこちらを向く。

「その男の身柄は異形部隊が預かる!」

 その声で、ようやく全員の注意がこちらを向いた。

「……異形部隊」

 神官兵の誰かのものだろう、声が上がる。彼らは視線を交わし合い、ぐったりと倒れる男を残して立ち上がる。

「異端の者が何の用だ」

「言った通りだ。その男の身柄はこちらが預かる」

 舌打ちが聞こえた。

「それは承服しかねる。この罪人には罰を与えねばならん」

 神官兵の声には険悪なものが混じっていた。が、ティナはひるまず返す。

「こちらの方が権限は上だ。従え」

 神官兵たちは無言でもう一度視線を交わした。それから警棒をその手にぶら下げたままゆっくりと近づいてくる。ティナは一歩を引いて身構えた。

「やめといた方がいいと思うがの」

 バジルの声だ。

 彼はいつの間にか、倒れた男のそばにかがみこんでいた。神官兵たちが明らかに動揺した気配を見せる。バジルはそんな彼らに構わず男の傷の様子を見ると、「問題なし」と頷いた。

「気絶しているだけじゃ。運ぶぞ」

 言って、男を肩に担ぎあげた。

 神官兵の一人が動いた。鋭く踏み込み警棒を振り下ろす。老人の頭を狙ったそれは、外れるはずのない軌道を通っていた。のだが。

 警棒が空を切った後には、何事もなくバジルが立っていた。わずかの体捌きなのだろうが、目には見えなかった。同時に、いつの間にか抜いたナイフを神官兵の喉に突きつけている。神官兵がうめいて一歩を退いた。

「我々としても面倒事は避けたい」

 彼らの勢いも一歩退いた気配を察してティナは声を上げた。

「こちらの取り調べが済んだら、その男はそちらに引き渡す。それで問題はないだろう?」

 実際には、何かしら冤罪によって男が私刑にかけられる恐れがあるため、おいそれとは渡せないが。

「上には、その男が異形を使おうとしたから我々に任せたとでもいえばいい」

 その言葉で、神官兵たちは静かに引いていった。


 公舎に運んで一時間ほど。

 目を覚ました男はベッドから転がり落ちた。

「うあ……!」

 床に落ちてもなお暴れ続ける。即座に飛び出したバジルがそれを押さえつけた。

「ぐ……!」

「落ちつけ」

 ティナはゆっくりと男に話しかけた。

「安心しろ。ここに神官兵はいない」

 男はしばらくもがいた。が、体力の限界だったのだろう、ぶり返してきたらしい痛みにうめくだけになった。だが目だけはせわしなくあちこち動き回っている。バジルに組み伏せられたその姿は肉食獣に捕まった哀れな獲物のようだ。

「ここは」

「公舎だ。異形部隊のな」

 解放するように手振りで指示する。バジルの手がゆっくりと離れて、男は思い出したように深く息を吐いた。

 それから身体を起こして座り込む。

「あの。俺は」

「我々が保護した」

「……異形部隊が?」

「心当たりがないわけじゃないだろう」

 言って男の右腕を指さす。

 彼ははっとして、それを隠そうとしたようだった。が、ティナは構わず続けた。

「お前が異形使いならばその義務があるからな」

「まあこやつはそうでなくとも助けたろうが」

 口をはさむバジルを視線で刺す。老人は素知らぬ顔でそっぽを向いた。

「とにかく、もう安全だ。怖がる必要はない」

 男は腕を握ったまましばらく固まっていた。

 その心境は一応分かる。異形使いにとって正教会の総本山でその素性が暴露するというのは、死ぬよりも恐ろしい目に遭うことも覚悟しなければならないということだからだ。延々小突きまわされたりずたぼろに引きずりまわされたりといったような。死んだ方がいくらかマシかもしれないという点では荒野の方がまだ安全だ。

 異形使いが教区にいるのは珍しい。ただ、絶対にないことでもない。異形使いの発生は不規則で、教区だろうがそのほかの場所だろうが関係なく誰かが異形使いとして生まれる。

 事情は分からないが、異形使いとして生まれてそれを隠したまま育てられたのだろう。ただ、やはり正気の沙汰とは思えない。よく今まで生きてこれたものね、とティナは思った。

 ようやく落ちついてきたのか、男は腕から手を離した。そこにあるのは異形使いの証、引っかき傷のような文様だ。

 ただ、それは傷とは違って消えることはない。一生付きまとい、剥がれはしない。

「いくつか質問する。答えろ」

 男はいまだ立ち直りきっていない様子だったが、ティナは構わず問いただした。

「まず、聖教会で起きた事件については知っているか」

 男は床に視線を落としたまま首肯した。

「ならば率直に聞く。お前がやったのか?」

「違う」

 返事は短く、そして早かった。

「俺は無実だ」

「だが異形使いではあるな」

「だからなんだっていうんだ、俺はやっていない」

 割り込む老人に、男は口調を荒げた。

「確かに俺の中には異形がいる。でもあれはそんな便利なものじゃないんだ」

「盗みは無理だと?」

「そうだ」

「……どう思う?」

 これは老人に向けた声だ。老人は肩をすくめてみせた。

「どうもこうも。否定しとるんだから違うんじゃないかの」

 老人の適当な返答は置いておくとして。

 嘘を見抜くのを得手とするティナの勘も、確かにこの男は犯人ではないと告げていた。

「信じてくれ。俺は、やっていない」

「信じる根拠がない」

 男の顔がこわばった。

 ティナが自分の勘に反してそう突き離したのにはいくつか理由がある。まず、信じるための事実が本当にないこと。これは詳しく聞いていないのだから当たり前だ。次に、異形部隊としての立場上そう言うしかないこと。下手に甘い顔をして、異形部隊は同胞には寛容であると見なされれば、すなわち異形使い全ての地位が危うい。

 異形使いは国に人権を保障されたという、ただそれだけの事実に守られている。ぎりぎりの信頼――もしくは油断だ――を失えばそれは異形使い狩りの再来につながるだろう。

「それでも、お前が冤罪を主張するなら異形部隊には保護義務が生じる」

「え?」

「詳しく話も聞かなければならないから、そのための拘留措置もとる必要があるな」

「どういう、ことだ?」

 事情を呑み込めていない様子の男にそっけなく告げる。

「しばらくは安全ということだよ」

 ああやっぱりそうくるんじゃの、と。

 視界の隅で呆れる老人を、ティナはわざと無視した。


……


 そもそもあの時男を助けるために先に走り出したのはバジルではないか。そう言うと老人はすっとぼけてみせた。

「儂ゃボケちまってよう覚えとらんわい」

 だからまだ初老でしょうに。要するにティナもバジルも、同じくらい世話焼きということだ。

「いやいや、どうせお前さんが助けるなら要らぬ手間を省こうと思っての」

「はいはい」

 適当に流して通りを進む。南区の路地だ。人気はない。朝日の下にあってもどこか湿り気と陰りを感じさせる。気分的にも治安の不安としても正直踏みたくはない場所だが、再びここを訪れたのには理由があった。

「俺はその晩、教区の外郭付近にいた」

 男は名をドナートといった。事件のあった夜の行動について問うと、先のように答えた。

「誰かが俺を目撃している可能性はある」

「なぜそんな場所に?」

 不審に思って聞くとドナートは言葉を濁した。

「それは聞かないでくれ」

 そういうわけにはいかないと言っても彼は何も答えなかった。しかたない、とりあえずは裏付けをとろうということになり、ティナたちは南区に戻ってきたのだった。

「あれは何か隠しているな」

「なーにを分かり切ったことを」

 ティナの言葉にバジルが呆れる。

「もしやと思うがお前さん、いちいち口に出さんと理解できんのか?」

「そんなことはない。ただ、問題は何を隠しているかだ」

「それは聞いて答えんのだから調べるしかないじゃろ。尋問するわけにもいかんしの」

 確かにその通りだ。ばつが悪くなって、ティナは口をつぐんだ。

(異形部隊相手にも明かせないこと、か)

 とはいえ異形使いにとって異形部隊は必ずしも全幅の信頼を寄せられる拠り所ではない。部隊が最優先すべきは異形使い全体の安全であって、そのために一部を切り捨てた例も確かにある。

 つまり、ドナートが話せないとするならばそれはきっと。

「まあ、愉快な話ではないだろうな」

「そうじゃの」

 肩をすくめてバジルが同意の声を上げた。

 入り組んだ道をずうっと進む。が、人影はまばらだ。人の数に比して南区は広い。とはいえ前日歩きまわった時より明らかに閑散としている。こちらをうかがう視線をかすかに感じた。

「警戒されているわね」

 囁くと横を歩くバジルがうなずいた。

「後ろからつけてくる奴もおるの」

 ぎょっとして振り向こうとするティナをバジルが鋭く制した。

「そのまま歩け」

「……神官兵?」

「多分な」

 緊張に身体をこわばらせるティナとは反対に、老人は明らかにつまらなそうな様子だった。

「はやるな。どうせ何もしてこんじゃろ」

「どうして言い切れる」

「何かしてくるのなら奴ら、とうにそのタイミングを逃しておるよ」

 それもそうか、と恐る恐る身体から力を抜いた。ここには既に異形部隊や軍の影響力は及ばない。何があっても関知せず。神官兵たちが何かしら手を出してくるつもりだったならば、確かに今さら警戒しても遅い。

「じゃあ監視が目的?」

「儂らは獲物を横取りしとるからの。そうでなくともよそ者は監視するじゃろ」

 通りに人気がないのも昨日の騒ぎが原因だろう。ここは昨日の区画とは距離があるが、口伝えは時に予想を上回って情報を広げる。

「困ったわね」

「じゃの。これでは情報集めどころではねえやな」

「どうする?」

「このまま帰って綺麗な姉ちゃんといちゃつくのが最善じゃ」

「あなたね」

 脱力の後、苛立ちに歯ぎしりする。奥歯で老人をすりつぶす妄想をした。

「ふざけてる場合じゃないでしょ。真面目に考えてよ」

「儂は至って真面目じゃが……」

 肩をすぼめてバジルがうそぶく。

「となるとあれじゃの。プランその一、奴らをぶちのめしてからゆっくり情報収集」

「却下。また荒事なんてごめんだわ」

「プランその二、奴らが諦めるまで待って情報収集」

「駄目。そんなに待てない」

「プランその三、帰って綺麗な姉ちゃんと」

 無言で蹴り足を放ってやった。

「割と悪くない案だと思うがの」

 ひょいとかわしてバジルが言う。

「変にあがくよりは英気を養う方が理にかなっとる」

「却下!」

「困ったやつじゃのう」

「よりによってあなたが言う?」

 険悪に顔をしかめながらティナは返した。

「今度こそ真面目に考えないと――」

「プランその四」

 前を向いたまま唐突に老人が呟いた。同時にとん、と押されて脇の道に身体が流れた。

「ちょっと……!?」

 たたらを踏んで振り返ると、彼は既に走る体勢に入っていた。

「適当に撒くぞ。また後でな」

 言い残してそのまま姿を消した。入れ違いに足音が近づいてくる。神官兵だ。

 一瞬考えて理解する。つまり二手に分かれて神官兵の追跡を撒こう、ということらしい。妥当ではある。少なくとも他のプランよりははるかに上等だ。

 だが。

(いくらなんでもいきなりすぎるでしょ!)

 悪態をついて、ティナも走り出した。


……


 かなりの時間を走りまわり、神官兵を撒くことにはどうやら成功したようだが、どこで落ち合うのかはそういえば聞いてなかった。

 というより聞く暇もなかったのだが。だから南区でバジルと再合流することはできなかった。

 仕方ないので公舎に戻り、とりあえずドナートの部屋に向かおうとしたところで後ろから声がした。

「よう、お帰り」

 バジルだ。

 振り返った先の彼は、ちょっとした散歩から帰ってきたかのような様子で立っていたので、ティナはため息をついた。

「あなたねえ。何かするならまずきちんと言ってくれないと」

「まあ言うな。とりあえずあの若造の目撃証言は取れたぞ」

 呑みこみが遅れて瞬きする。

「まさか、聞き込みまで終わらせてきたの?」

「そうじゃが、何かまずかったかの」

 バジルは意地悪く笑う。

 神官兵の追跡を撒いた後それほど間をおかずに戻ってきたティナだが、老人にとってはそれでも十分な時間だったらしい。

 まったく、敵わないわね。再びのため息のあと、ティナは両手を上げて降参のポーズをとった。


 歩きながら話そう、とバジルは促した。

「あの晩、確かにあの若造は外郭付近にいたようじゃ。数人がそれらしき人物を目撃しとる」

「もしそれがドナートなら、じゃあ、やっぱり彼には犯行は不可能?」

「じゃろうな。さすがに聖教会本部とは距離がありすぎる」

 とりあえずは彼の無実はほぼ確定ということでいいだろう。証明には時間がかかるだろうが、彼の潔白を示すことはできるはずだ。

 ただ。

「それで異形使いであることが見逃されるわけじゃないわよね」

「そうじゃの。ここの者は異端者に厳しい」

 ここではつまり、異形使いであること自体が罪だ。

 異端者と認定されれば、生きる資格を剥奪されるに等しい。そのことを考えると気分が暗くなるのを感じた。

「面倒事は終わらない、か」

 憂鬱にティナは呟く。ドナートの安全を本当に保証するには、もう少し手を尽くす必要があるということだ。

「面倒ならほっぽり出しときゃいい。違うか?」

 ティナを一瞥してバジルが言う。事実を淡々と告げる口調だ。確かにそれは事実であって残酷であろうとも正論だ。

 とはいえ。

「わたしが首を突っ込んだことよ。中途半端に放り出せば夢見が悪いわ」

「そうか」

 所詮は彼女の自己満足に過ぎない。それでもバジルは軽く肩をすくめる程度で済ませてくれた。


 部屋の中、ドナートは静かに窓の外を見ていたようだった。ティナたちが入室してもしばらくは視線を動かさなかった。考え事でもしていたのだろうか。それに水をさすような後ろめたさを感じながら、ティナは咳払いした。

「ドナート。とりあえずお前のアリバイは証明されたよ。潔白は証明できそうだ」

「そうか」

 こちらを振り返ってドナートが頷いた。あれだけ必死だった割に、落ちついたということなのか、随分と淡白な反応だった。

 そして嫌な目だなと、ティナは思った。底冷えのする目。しかしどこか熱の塊がうごめくような不気味さもある。何を考えているのか測り損ね、一瞬だけ次に言うことを忘れた。

「……だが、お前は異形使いと知れてしまっている。教区に残るのは難しいと思った方がいい」

「ああ」

「そこで、我々はお前を異形部隊隊員候補として別所に護送しようと思う」

 ドナートはそれにはすぐに答えなかった。

 彼がここで今までのように暮らしていくのは不可能だ。ここを出ていく必要がある。だが、他の地に移住することは同じくらい難しい。なぜなら植物域は限られており、当然そこに住める人数にも制限があるからだ。となるとドナートに残された道は一つしかない。異形部隊への入隊だ。

「すぐには決められないだろう。時間を与える。明日返事を聞かせろ」

 だが最初から他の選択肢などあってないようなものだ。黙ったまま目を伏せるドナートを残して、部屋を出た。

「この件は、まあこれでひと段落ね」

「そうじゃな」

 人気のない廊下を歩きながらバジルと話す。

「彼には大きな負担になるだろうけれど、迫害されるよりは……」

「だといいんじゃが」

 バジルは頷いたが、どこか気になることがあるような言い方だった。

「なにか?」

「いや……」

 考えるような間をおいて、バジルは続けた。

「聞き込みで得た情報の中に気になるのがあっての」

「どんな?」

「あの若造に妹がいる……いや、いた、だったか? まあそんな話じゃよ」

「何それ?」

 よくわからず顔をしかめて聞き返す。妹?

「いや、詳しくは聞けなかったんじゃがの。若造の身内についても一応探って、その時に妹がいる、と」

「もしくは、いた?」

「そうじゃ」

 少し聞いただけなら特に気になる話でもなかった。が、考えてみれば奇妙なことではある。

「彼、そんなこと言ってた?」

「いいや」

 もし彼に家族がいるならば、そちらも何かしら害を被っている恐れはあった。迫害は想像を超えた距離と度合いで異形使いとその身内に降りかかる。彼がそのことについて心配し、ティナたちに保護を求めるのは十分考えられることだった。

「どういうことかしら」

「儂らのことを信用しとらんのかもな」

 確かにあり得る。繰り返しだが、異形部隊は全幅の信頼を寄せられる対象ではない。

「それでも家族の安全を天秤にかけるなら部隊を頼るはずでしょ」

「儂に言われてもな」

 腕を組んでバジルはうめいた。

 先ほどのドナートの不審な様子といい、何か引っかかった。バジルはひとしきり首をかしげた後、お手上げのジェスチャーをした。

「若いもんの考えることは分からんの」

 ふとティナは思い出す。

「そういえば、彼があんな時間に外郭付近にいた理由って何なのかしら」

「確かなことは言えん。だが逃げ出そうとしていたのかもな」

 意味がよく呑み込めずにバジルに目で問いかけた。

「いや。夜遅く、町の境界付近。そんな状況から想像できるのは密入出ぐらいでの」

 老人はティナをちらりと見て指を一本立てて振った。

「植物域の外郭には大抵抜け道があるもんじゃ。そこからの出入りを手引きする輩もな」

「なるほど」

 ドナートがひそかに町を脱出しようとしていたという話はそれなりに納得できる。異形使いであることを隠してこの町で長生きするのは不可能だからだ。

「だから逃げ出そうとした?」

「さて」

 バジルは言って、それから顎に手をやった。眉間にしわが寄っている。怪訝に思って声をかけた。

「どうしたの?」

 それに対し、老人は一言だけ、ぽつりとつぶやいた。

「もう死んどるのかもしれんな」

 何の話? 聞いてもバジルは、いや、と言葉を濁した。そうこうしているうちにもうティナの部屋の前だった。軽く挨拶を投げ、バジルと別れた。老人は考え事をしたまま廊下を歩いていった。

 その後は部屋で軽く雑務をこなして、ベッドに入った。次に目が覚めたのは真夜中だ。


……


 静かな夜だった。自然に目が覚めるには穏やか過ぎるほどだ。だからティナは自然に目が覚めたわけではなかった。揺さぶられて起きた。

「な、なに……?」

 窓から月明かりが射しこんでいる。その光にぼんやり照らされてベッド脇に人影があった。緊張が身体を走る。反射的に右手を構えた。

 だが。

「儂じゃ」

「……バジル?」

 右手を持ち上げかけたままティナは動きを止めた。

「何の用?」

 まさか、と口のなかで呟く。

「何度も言うとる気がするが、お前さんに欲情するのは無理じゃ」

「どういう意味よ」

 複雑な気分で口を尖らせた。

「それより早く準備せい。何やら怪しい」

「怪しい?」

「あの若造が公舎を抜けだしたようじゃ。窓の開閉音がしたから外を覗いたら、あやつが出ていくところじゃったよ」

 なんで窓の開閉音に気づけるのか。

 呆れるような心地で聞いたが、意味のない嘘をつくような人間ではない。ティナは急いで準備をすると、部屋のドアを開けるバジルの背を追って、駆けだした。


「なんでドナートは公舎を?」

 夜の道を小走りに走りながら呟く。

「わからん」

 先を行くバジルが首を振る。

 彼が走っていく先は南区の方向だ。迷いのない足取りで、ドナートは間違いなくこの先を進んでいるらしい。

 月の光が細い道を薄く照らしている。足下がおぼつかないため、ティナはついていくのに苦労していた。

 ドナートは聖教会本部襲撃の容疑で神官兵から暴行を受けていた。それを保護したのがティナたちだ。一応容疑は晴らせる見通しで、しかしここでは今までと同じようには暮らしていけないとの見通しのため、ティナは異形部隊への入隊を勧めた。

 だからきっかけがあるとすれば。

「やっぱりわたしの言葉かしら」

 明日、彼をここから移送する手はずだった。

「可能性はあるな」

「けど……」

「ああ、何故かはわからん」

 そのまま走り続ける。どうやら方向としては南区の外郭に向かっているようだ。

 ふと思い出すことがあった。密入出。そして、妹。もう死んでいるのかもしれない、というバジルの言葉。

 と、月明かりに照らされた道の上に、立ちつくす若者の背中を見つけた。

「ドナート!」

 彼はわずかながら驚いたように見えた。半身振り向いてこちらを見た。

「なぜ公舎を出た。早く戻れ。神官兵に見つかるのはまずい」

 言いながら、ティナは不穏なものを感じ取っていた。ドナートはわずかな間をはさんで口を開いた。

「止めないでほしい。立ち去ってくれ」

「……?」

 訳が分からない。ティナは怪訝な心持ちで彼を見返した。

「俺にはやらなきゃいけないことがあるから……」

 言って、ドナートは再びこちらに背を向ける。

「どういうことだ」

「死んだ妹のことか」

 ティナの声に答えるようにバジルが呟いた。ドナートは黙ったままだった。

 老人は続ける。

「この付近には密入出を手引きしている輩がいるはずじゃ。恐らくお前さん方は、かつてそいつを頼って教区を脱出しようとしたんじゃろ」

「……そうだ」

 ドナートが言う。

「ここは、俺たちが暮らすには、厳しい場所だったから」

 ドナートは天を仰いだ。

「脱出には随分と苦労した。手引きしている奴と接触するのも、金を用意するのも大変だった」

 その目に映るのは、夜空の星か、それとももっと別のものか。

「それでもなんとか脱出の手前までは行ったんだ」

「なら、なぜ?」

「なぜ、まだここにいるか、か? 脱出の直前になって、手引きしているあの男が気を変えたんだよ」

 平坦だった声に、濁りが生じる。怒りか、もしくは憎しみだ。

「あの野郎、妹を差し出せとほざきやがった」

 ドナートの声は、憎悪を混ぜながらもあくまで静かだった。静かに積もった砂を思わせた。

「俺は当然断ったよ。だが、殴られて気を失った。目を覚ました時には妹はいなかった。……殺された」

 ドナートの背中が震える。俯いて、拳を固めている。

「あいつ、悔しかったろうな。痛かったろうな」

 震える腕に、異形使いの印がある。

「俺はあいつの仇をとらなきゃならない」

 彼の震えが、その瞬間止まった。声には怒気がなかった。むしろとても静かな声だった。ただ、殺意の衝動というのはそういうものなのかもしれなかった。

「待て!」

 察して、ティナは声を上げた。バジルは既に飛び出している。だが、間に合わないこともまた察していた。

「殺す」

 ドナートの声が遠くに聞こえた。その腕の文様が、かすかに光を放った。


 最初にあったのは夜を貫く轟音だった。次に頬をかすめるいくつもの細かい疾風。風だけではない。鋭い痛みを伴い皮膚を裂く。

(な、なに!?)

 とっさに手で顔を庇い、目を閉じてしまっていた。何も見えない。ただ、瞼の暗闇の向こうから殺人的な気配が大量に迫ってくるのは分かった。避けようがない。

 死んだ。根拠もなく確信した。が。衝撃を受けて吹き飛ばされた。一瞬上下すら分からなくなり状況を見失う。

 目を開いて最初に見えたのは星空だ。仰向けに倒れているらしい。起き上がろうとする彼女に怒鳴り声が飛ぶ。

「動くな!」

 バジルの声だった。鼻先を鋭い何かがかすっていった。夜の闇にまぎれる黒い何か。

「なん――」

「奴の異形じゃ! でかいぞ!」

 バジルが彼女をつきとばして助けてくれたようだ。視線だけをめぐらすと、さほど離れていないところで彼がはいつくばるように伏せていた。こちらを見ていない。険しい目である方向を睨んでいる。

 その視線の先。そちらからまた何かが飛んできた。切り裂くのはティナからいくらか離れた空間だが、その恐るべき速度は肌を粟立たせる。

 棘だ。

 いくつもの棘が高速で四方に伸びているのだ、とティナは気づいた。あまり太くも見えないのだが、刺さった建物があまりに簡単に崩壊していく。悲鳴がいくつか聞こえた気もした。

 その悲鳴の主の中に、ドナートの仇もいたのだろうか。

 再び轟音。一際大きな建物が崩壊した音。粉塵が舞い上がる。その向こうに、うずくまるように鎮座する大きな影。

 棘の放射が緩んだのを見て取り、ティナとバジルは身を起こした。跪くような体勢でうかがう。

「バジル。あれは」

「ああ。とてつもない」

「まさか」

「恐らく、根幹異形じゃ」

 純粋な破壊。その主たちの呼び名だ。

「化ける前に昏倒させたかったんじゃが」

 それについては責められない。こんな強力な異形を持っていることなど予想の外だ。

「どうする?」

 珍しく険しい表情でバジルが問う。

 ティナは頭の中でいくつかの事を素早く確認した。

(あの異形を撃破できるだけの力はこちらにはない――いや、ある。でも)

 使えるわけがない。論外だ。

(ならなんとか説得してやめさせるしかない。あれだけ強力な異形なら変身の時間的限界もわずかのはず)

 ドナートが危ない。ティナは叫んだ。

「ここはわたしがなんとかする。あなたは隠れていて!」

 右の手袋をむしり取る。手の甲の文様が光を放った。

 変身が終わると闇に沈んだ町の様子が手に取るように分かるようになる。御使いは目がいい。ティナはかがんでいた体勢から身を起こすと、前方に向かって走り出した。

 棘は先ほどより勢いをおさめていたが、まだいくつかは勢いよく射出されている。自分に向かってきた棘のいくつかを、翼で防いだ。

「ドナート!」

 そして叫ぶ。そびえるように大きな異形に向かって。

「やめるんだ、ドナート!」

 声に反応してか、棘の噴出がやんだ。こちらをうかがう沈黙の気配があった。

 ティナはある程度の距離を空けて彼と対峙する。

「今すぐ変身を解くんだ」

 しばらく待ったが返事はなかった。代わりに再び棘が飛んできた。でたらめだった先ほどと違い、今度は明確にティナを狙ったものだ。

 舌打ちして横に跳ぶ。間合いをはかるなどという器用なことはできない。大きく距離を取っての跳躍だ。距離をあけるとドナートはそれ以上追ってこなかった。

 再び辺りの建物の破壊を始める。

『あいつ、悔しかったろうな。痛かったろうな』

 つい先ほど聞いたドナートの言葉が頭に響いた。

『俺はあいつの仇をとらなきゃならない』

「ドナート!」

 再び近付き、声を張り上げる。

「もうやめろ、変身を解け! でないと消えるぞ!」

 異形でいられる時間は無限ではない。各人によって差はあれど、その事実だけは共通している。理由は定かでないが、一定時間以上異形の姿のままでいると、その異形使いは消失する。この世界から消えてなくなってしまうのだ。

 異形使いは、変身から時間が経つにつれ現実の認識能力を失っていく。知能も次第に欠如していき、最後には暴走を始める。さらに先にあるのが消失である。強い異形ほど、限界がくるのが早い。根幹異形ともなれば、恐らくその時間は極めて短い。

「分かってるのか! ドナート!」

「知ったことか!」

 巨大な棘の塊と化したドナートの声は、意外なほど人間の頃のままだった。怒りにたぎる声で呪詛を吐く。

「あいつは殺す! 絶対に、殺す!」

 その声に導かれるように棘が爆発的に広がる。残っていた最後の建物が、音を立てて崩壊した。

 ティナはたまらず地を蹴り、翼を広げた。身体がふわりと浮かび上がった。そのまま上空に自らを持ち上げる。異形の肌では感じることはできないが、吸い込む空気で夜の空の冷たさを知る。上方には棘は飛んでこなかった。

 そのまま上昇を続ける。夜に沈む町が眼下に広がる。ある程度の高さに達したところで。ティナは翼をたたんだ。

 上昇が急激に落下に転じた。重力に従って、その速度はみるみる増加した。地面が急速に迫ってくる。

 落下の勢いそのままに、彼女は標的に爪をつきたてた。


 肉を抉る感触。とはいえ異形の大きさからすれば大した傷を与えたわけではない。

 それでもドナートの動きは止まった。

「俺に従え、ドナート」

 爪を引き抜きながらティナは言う。

「変身を解くんだ」

「……あんたは大事な人を殺されたことはあるか?」

 一拍置いて聞こえてきたドナートの返答は、命令への恭順でも反抗でもなかった。

「何?」

 聞き返すティナにドナートは言葉を重ねる。

「あんたに俺を止める権利があるかどうかを訊ねているんだ」

「……」

 ティナは言葉に詰まる。頭にラウロの笑顔がよぎった。

 動きを止めたティナに、ドナートは怒号を放つ。

「分からないか。なら俺を止められると思うな!」

「!」

 声と共に棘の嵐がティナを襲った。

 翼で防ぐのが遅れていれば恐らくその時点で死んでいた。身体に巻きつけたそれが、なんとか棘の猛攻を防いでくれるよう祈る。幸い防御ごと身体を貫かれるようなことはなかったが、果てしなく小突きまわされ転がっていく。残骸として残った建物の壁にぶつかってうめき声が漏れた。

 苦悶の声を噛みしめた歯の間から絞り出しながら、しかし考えていたことはそれとは全く別のことだった。

(あれはわたしだ)

 大切な人を奪われ、号泣し、怨嗟の声を上げる。

 あれが自分でなくて何だというのか。

 失くしたものは取り戻せない場所に持ち去られ、捨てられて。取り残された自分は打ちひしがれることしかできない。もしくは怒り、拳を辺りかまわず叩きつけることしかできない。

 あれはわたしだ。

 棘がやんだところを見計らって、ティナは変身を解いた。だが諦めたわけではない。こんなところで諦められる訳がない。

 ティナは"左手の"革手袋を外した。そこには右手と同じく、傷跡のような文様がある。

(ドナート!)

 胸中で叫んで立ち上がる。彼を、そして自分を救うために。

「あああああああ!」

 左手を掲げたところで悲鳴が聞こえた。はっとして見やる。

「ドナート!?」

 苦痛の叫びと共に無数の棘で構成された異形の巨体が崩壊していく。棘の一本が、砕け、分解して虚空に消えた。

「まさか……」

「限界じゃな」

 ぼそりと声がする。いつの間にかバジルがそばに立っていた。あの惨状の中を生きのびていたのは驚きだった。が、それどころではない。

 ティナはドナートに駆け寄った。

 棘は全て分解してしまい、残るは小山のような本体だけだった。それも次第に姿を薄れさせていく。消えていく異形の後には燐光を放つ男の身体だけが残った。

「おい!」

 ドナートの肩を掴み、叫ぶ。

 燐光は徐々に弱くなって、消えた。まるで命の灯が消えるかの如く。

 ドナートは何事か呟いたかのように見えた。死んだ妹の名だったかもしれない。仇への呪いの言葉だったかもしれない。何にしろ聞き取ることはできなかった。

 聞き取ることができないまま、ドナートは消失した。

 まるで世界から切りとられたかのごとく、ティナの手にはぽっかりと空白だけが残った。


……


 二日後。ティナとバジルはスピーガを出た。部隊への報告など、煩雑な仕事はあったものの、終わってしまえばそれまでだった。

 町を去る前に、あの夜の現場を一度だけ確認しに行った。

 崩壊した町並み。うす暗い箇所が多い地区だが、その一帯だけは光が目一杯降り注いでいた。

 聞いたところによると、死者は十六人。夜の惨事ということもあって多く死人が出たようだ。

 死傷者のリストを見た。密入出の手引きを隠れて行なっていた男もその中にいたようだ。それがドナートの仇であったかどうかは知らない。

 もし違うならば彼の望みは果たされなかったことになる。

(いや……)

 ティナは考える。どちらにしろ意味のないことだ。意味を持たせるには生き残らねばならない。死んでしまっては、何も残らない。


 馬車に揺られながら彼女はさらに考える。

「あれが末路なのかも知れないな」

 仇を追ってさまよう者の。殺意に追いたてられ逃げ惑う少女の。

 バジルもその呟きを聞いていたはずだった。が、何も言ってこなかった。

 彷徨の果てに待つのは何なのか。

 ティナはドナートの姿に、それを見つけたような気がした。

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