第一話 荒野と異形使い
風の音を貫いて警笛が鳴り響いた。急いで馬車を飛び出すと乾いた空気に目がひりつく。ティナは一度だけ瞼をこすり、それから駆け出した。
荒野の風が潤うことなど稀だ。雨が降らないわけではないがこの大地は水はけが良過ぎる。降り注いだ雨水はすぐに石や砂の間に吸い込まれ、消えてなくなるかのごとく地中深くへと姿をくらます。水分を保持する土壌や植物は植物域にしか存在しないため、それ以外の土地では空気はこうして乾燥し粘膜を傷つけた。
荒野で生きていける生物もまた多くない。極めて頑丈かしぶといか、とにかく人間の想像力で測れる程度では生き残れない。そして当然ながら想像の主体である人間はそこには含まれていない。荒野に出る時、彼女はそれを強く意識する。
だが人はそれゆえに知恵を身につけ工夫をし、生き延びてきたとも言える。使える土地が少ないのならば衣食住をそれに適応させ、文化もそれに応じて変化した。
ただ。ティナは走りながら自分の衣服をちらりと見下ろす。
異形部隊の証であるこの黒装束は、そういった方向の英知とはかけ離れたものであるのは間違いない。
頭部をすっぽりと包むフードが暑苦しい。口元を覆う黒布は走るための呼吸を邪魔している。
両方ともむしり取ってしまいたかったがそれはできない。顔を隠すことは重要だった。
警笛が再び鳴り響いた。しかしそれは途中で途切れる。植物域をつなぐ補給馬車の最後尾、七台目からだ。彼女が乗っていた馬車は四台目なので二台分の距離があった。
警護のためになるべく馬車の間隔は空けないよう指示しておいたのだが、それでも離れてしまうものらしい。七台目は大分離れて隆起している大岩の陰に見えなくなっていた。
声はその向こうから聞こえる。興奮した馬の嘶きもだ。
荒野は人が生きるのには適していない。しかし生きるために皮肉にも荒野に出ざるを得ない者もいる。訳あって植物域を追いだされ、賊に身を落とした者などはその最たる例だ。
ティナは走りながらダガーを一本抜いた。岩を素早く回り込み、最初に目に入った人影に向けてそれを放った。
悲鳴――というよりはただ単に驚いただけか、声が上がる。
相手に手傷を負わせることまでは期待していなかったが、それでも襲われている御者から注意をそらすだけの効果はあった。
今回御者を失うわけにはいかない。人員が足りていないのだ。賊に襲われて人数を減らすのは避けたかった。
「なんだ!?」
だみ声。馬車を取り囲んでいるどの賊が発したものかは分からない。砂に汚れた男たちの十数の視線がこちらを向く。
馬さえも静まり、半秒ほどの沈黙が落ちた。賊の一人が呆然と呟くのが聞こえた。
「異形使い……」
所属を一目で知らせる以外に、顔を隠す黒装束には一応の意味がある。
一つには個人としての異形部隊を知られるのを防ぐため。もう一つには、これが意外と重要なのだが、容貌を隠すことによって相手を威圧するためだ。
考案した者が意図したかどうかは別として、敵対する者から抵抗の意思を奪うのに今回もまた一役買っている。
加えてティナの個人的な事情として素性を隠す必要もあったのだが、これは別の話である。
ざわつく賊を無視し、御者に避難するよう手振りで伝えた。
這うように逃げる御者に、だが賊たちは見向きもしなかった。
「護衛はいないんじゃなかったのかよ!」
「こんなの聞いてない!」
仲間を押しのけてまず二人が逃げた。残る五人を見据え、ティナは右手の革手袋に左の指をかけた。
気配を察したのだろう、さらに二人が逃げた。
賢明な判断だと思う。世の中には逆らってもどうにもならないことがある。そのことを理解し、あえて屈することもまた人間の知恵だ。荒野に逆らわなかったからこそ人間は今もまだ繁栄を保っているという見方もある。
残るは三人。明らかにうろたえて抵抗の意思はないように見えた。ならばとっとと投降してほしいのが本音だったが、そううまくはいかないらしい。
「こいつ、まだガキじゃねえか?」
日焼けした額に汗を浮かべながら賊の一人が囁いた。他の二人は言われて初めて気づいたようにはっと表情を変えた。
こちらが意外に小柄で若いのを見て取ったようだ。何かを推しはかるように三人は一様に目を細め、鋭くした。
想像するに、ガキだから未熟と見るかガキとはいえ異形部隊と見るかで揺れているのだろう。あまりいい状況とは言えない。
使わなくていいなら正直あまり使いたくはないのだが、そうもいかなくなった。仕方なく革手袋を外して右手の甲を相手に向ける。相手からは傷跡にも似た文様が見えるはずだ。それが異形使いの証である。
「化けさせるな! やれ!」
首領だったらしい一人の合図で賊たちの得物がティナを向く。二人はボウガン、一人が短刀。
矢が放たれるよりもほんの少し早いタイミングで、ティナは気合を発した。
気が進まないとはいえ、異形の力の行使には快感が伴う。全細胞がくまなく発する激痛を乗り越えれば、その先にあるのは抗いがたい恍惚だった。
力の奔流に押し流されて目がくらむ。
右手の甲、そこにある文様が輝きを発していた。払うように手を振り下ろすと、もう変化は終わっている。
身体は既に黒装束姿ではなかった。鎧のような硬質で隆起した肌に覆われ、手からは爪が大きくせり出している。
見下ろして満足した。異形はこの身に確かに宿った。
「うわあっ!」
ほとんど悲鳴に変わった声を上げ、賊らが矢を放った。目には見えない速度で飛来するそれは、しかしティナに触れる前に何かに阻まれて逸れる。
それはティナの目には、左右から身体を包み込むように伸びた大きな腕に見えた。賊たちの目からは彼女の背後から伸びた"翼"が矢を防いだように見えただろう。
"御使い"――自らの身に宿る異形を、ティナはそう名付けた。
大きな翼と爪を持つ鎧の天使。
たとえ怪物のようではあってもあの人が美しいと言ってくれた姿だ。
「ば、化け物!」
ボウガンの二人が得物を放り出して逃走する。残りの一人がそうしなかったのは、その勇敢によるものというよりは単に飛び出す体勢になっていたために逃げ損ねただけだった。
前進の慣性を消すことに失敗し、彼は転倒した。短刀がその手から滑って地に落ちた。
必死にもがいて立ち上がろうとする賊に、ティナはゆっくりと近付いた。
「ひっ……」
腰を抜かして賊が這い逃げる。バタバタと動作だけは大きいが、歩くティナの方がまだ速い。
賊は岩にすがりつきようやく立ち上がった。そのまま逃げようとして、
「ほれ」
何者かに死角から足を払われて再び転倒した。
現れたのは軍服の老人だった。バタバタともがく賊を踏みつけて押さえ、こちらに快活な笑顔を向ける。
「終わったぞティナ」
あなたなにもやってないでしょう。それに遅すぎる。今までなにしてたの。
言いたいことは色々あったが、とりあえず肩をすくめてみせた。男に扮するための口調で言う。
「今はアルベルトだ」
……
全補給馬車の移動を一時止めて岩の陰に賊を引っ張りこむ。縛られて座り込んだ賊は、うなだれてすっかりしおらしくなっていた。
尋問はすんなりいくこともあれば相手によってはずいぶん難儀することもある。受ける者の意志の力の度合いによるのだが、その点においてこの賊に手こずることはなさそうに見えた。
「護衛がいるなんて聞いていない、と言っていたな」
しゃがみ込み、視線の高さを合わせて問うと、賊の肩がピクリと跳ねた。
「お前たちは事前にどんな情報を掴んでいた? 話せ」
賊は逡巡の気配を見せた。があまり長引くこともなく口を開く。
「ほ、補給馬車がここを通る、人手が足りてないから護衛はいない、と」
ティナは怪訝に思って眉をひそめた。
植物域という形で分断された人の居住区は、一応のところ自給自足を基本としている。自分たちに必要なものは自分たちで用意したほうが当然ながらてっとり早い。だがそれにも限界はあった。例えばある植物域では栽培できるものが別の植物域では難しいか不可能といったようなことがときたま起こる。そのため物資を融通し合うために補給馬車が植物域間を行き来した。高価な代物が載っていることも珍しくなく、強盗の危険は常に付きまとっている。
通常は軍が多人数でそれを護衛する。荒野のエキスパートらによって構成された護衛団は屈強で、今まで強奪にあったという話は聞いていない。というよりよほどの酔狂でない限り国を相手取ってまで襲撃しようとは思わないだろう。
加えて補給馬車の進行ルートは極秘事項として扱われていて、一般人が知る手段はない。荒野を渡る行路は数パターンに分かれ、その時々によっても通る道は違う。
秘密を守るために、補給馬車の御者の選定にも厳格な基準が設けられる。もし情報を漏洩させれば、それはそのまま漏洩させた者の命にかかわる。そのままの意味でだ。
つまり、まず第一に一介の賊ごときが補給馬車がここを通ることを知っているのは奇妙だった。人手が足りていないという情報についてもそうだ。半年前の事件の調査のために軍は多くの人員を割いている。それによって補給馬車護衛の従事者も削減されていた。だが、これもまた軍の関係者しか知りえない。
ティナはしばし思索を巡らした後、再び口を開いた。
「誰だ。誰から情報を得た」
「それは……」
賊はそこで言い淀んだ。
しばらく待ったが続ける様子はない。
「言え」
「さすがに情報の提供者まではバラさんじゃろ」
口をはさんだのはティナの背後に立っていた老人だった。ティナよりは背が高いが、それでも小柄な体躯。何が面白いのかにやにやと口元に笑みを浮かべ、楽しげにこちらを見下ろしている。
「バジル」
老人の名を呟く。呼ばれた老人は片眉を上げてみせた。
「おおかた提供者の名前を出せば命はないとでもいわれとるんだろな」
まあ当然か。言われて納得する。
「じゃあ話は簡単だ」
ため息をついてティナは言う。
「情報を提供してそのタレコミの主に殺されるのがいいか、今殺されるのがいいか選べ」
右の手袋に手をかけながら静かに凄む。賊は身体を震わせた。
「こいつは恐ろしいぞ。お前さんも早いところ吐いちまった方がいい」
老人は右手を賊に向ける。手袋に包まれた手は、しかし人差し指と中指以外が欠損している。
「儂もこないだこいつを怒らせちまってな、こうなった」
この嘘つき。それはずっと前の傷のくせに。
抗議の言葉が出かかったが、我慢した。脅して情報が得られるのならば何でもいい。
賊は老人の右手をまじまじと見つめ、顔を蒼白にした。
「ラクリマだ」
「ん?」
「ラクリマという男が俺たちにタレこんだんだよ……」
賊は俯いて声を震わせた。
「絶対に上手くいくからと言われて」
「何者だ?」
「知らねえ」
賊は視線をうつろに持ち上げて言った。
「でもアイツはただもんじゃねえよ」
機密を知っているんだからそれはそうだろう。
その言葉を呑みこんで、ティナは記憶に一つの名前を刻みこんだ。ラクリマ。
その男の身元を特定する必要がある。
仕事が増えたわね。
ティナは憂鬱にため息をついた。
◆◇◆◇◆
荒野よりはいくらか湿潤な薄暗闇の中。少し前にラクリマと名を変えた男は、目を閉じて座っていた。椅子の背に長身の身体を深く預けているが眠ってはいない。意識ははっきりとしている。
カーテンの隙間から入る一条の光を瞼越しに見つめていた。
屋内のため風はなかった。長髪も揺れることなく肩に落ちついている。追想に浸るにはちょうどいい空気だ。
(――ロレッタ)
胸中で名を呟く。
それによっていつでも彼は満たされる。その名と、名にまつわる記憶は彼の支えであり、指針であり、今まだ生きている理由でもある。
かつての名を捨てることには抵抗があった。たとえそれが彼女との再会のために必要なことであったとしてもだ。彼女がその声で呼んでくれた名前には、思っていたよりも執着があった。
(ロレッタ)
それは彼の全て。そのほかの何もかもを賭けるだけの価値があることだ。
と。物思いを遮って部屋のドアが開いた。
「やっほ」
瞼を持ち上げると、部屋に歩み入ってくる若い男が見えた。
「エルネスト」
視線を強くして陶酔を妨げたその男を見る。
「ん? ああ、邪魔して悪かったよ。ごめんね」
言葉とは裏腹に悪びれる様子もなく、エルネストと呼ばれた男は軽く手をひらひらさせて見せた。
ラクリマは鼻から短く息を吹いた。
椅子から立ち上がって窓に寄る。カーテンを薄く開けると、広がる町並みが一望できた。
限られた植物域に隙間なく詰め込まれた建物の数々。平穏そのものに見えるが、その水面下では常に居住権の取り合いが起きている。
定住の権利は流浪の者たちが涎を垂らしてほしがるものの一つだ。
半年前にその一人となった彼はしかし、定住権には興味がなかった。その意思が向くところはただ一つ。
「どうだった」
問われたエルネストは首肯の気配と共に答えた。
「うん、ヴィルフレードの言ったとおりだったよ」
肩越しに睨みをくれてやると、彼はへらりと笑って言いなおした。
「ラクリマの言うとおりだった。これでいい?」
返事は返さずに男は窓の外に視線を戻した。眼下には平穏な空気と共に人通りがある。
壊れた彼の世界とは別に回る、関係のない世界。
その事実を噛みしめ、ラクリマは告げた。
「出発だ」
「分かった」
相棒のエルネストは頷き、あ、でも待って、と言葉を継いだ。
「お土産買っていってもいい?」
無視して、ラクリマは旅の荷物をまとめ始めた。
◆◇◆◇◆
馬車の行く手に町の影が見えた。
荒れ果てた灰色の地平にぽっかりと浮かぶ緑色。
規模はまずまずといったところだ。自前の農場を持ち、自給自足のシステムはおおむね整っている。農業が主産業のその町に運ばれるのは、鋳造技術をはじめとする工業的手法で作られた製品だ。
「オリーヴァ」
それが町の名前である。
「やれやれ、やっと着いたんかい」
いかにもくたびれた風に隣に寝転がった老人が声を漏らす。
「あんたはただ寝てただけだろう」
「儂も結構働いたぞ」
「嘘つけ」
「あれでも儂の全力じゃよ」
「ああそうかい」
冷たくあしらうと老人はちらりとこちらに視線をくれた。
「なんじゃティナ、機嫌が悪いの。生理か」
無言で脇腹を殴ってやる。
まったく、御者に聞こえたらどうするというのか。少し離れた御者席を見やる。
今はあまり気にしすぎることはないが、ミスというのは思わぬ所に蓄積し、足場を崩してくるものだ。
老人は殴られた脇腹を気持ちよさそうにさすり、何事もなかったかのように話を変えた。
「ところで、あいつは連れてきてよかったのかの」
「賊のことか?」
捕まえた賊の首領は後ろを来る馬車にのせてある。無論拘束してだ。
「ほっぽり出してきてもよかったろうに」
「そういうわけにいくか。あいつは罪人だ。きちんと裁かれる必要がある」
「また心にもないことを」
「……」
「どうせまたお前さんのおせっかいだろうに」
賊はあの場所においてきても、仲間が戻ってくれば助かっただろう。
その可能性は低くはないはずだった。
それでもわざわざ連行したのは老人の言う通り、彼女のおせっかいだ。
ラクリマというのがどういった人間だかは知らないが、自分の情報をティナたちに引き渡した彼をそのままにしておく保証はない。危険な人物だった場合、賊が危なかった。
「まったく。そんなことじゃ先が思いやられるわい」
「なによ」
思わず口調が女のものに戻る。
「なにか文句でも?」
「小娘は自分の心配だけをしておけばいいということさ」
「でも」
「お前さんは想い人の仇を討つんじゃろ。なら余計なことは考えるな。思い上がりも大概にしとけ」
さらに反駁しかけるが、開いた口からは言葉が出ない。老人の言葉が正論だからだ。
そのまま口を閉じる。声を男の口調に戻した。
「……分かったよ」
視線を前方に戻すと、町が先ほどより近付いていた。
……
植物域の町に入ってまず感じるのは、足下の踏み心地の変化だ。荒野の粗い砂粒と違い、土がしっとりとした感触を足の裏に返してくる。そしてそれによって喉の渇きを思い出してしまった。
(水……)
喉の奥がガサガサになっているのが分かる。荒野では気づかなかったそれは今、鬱陶しいほどの痛みを訴えている。とはいえ、すぐに渇きを満たせるせるわけではない。
「異形使い……」
賊たちと相対した時と同じような声が聞こえてきた。大きくはない。ひそめられた囁きだ。横目でそちらを見やると、町の住人と思しき者たちが固まってこちらに視線を注いでいた。
「なんでこんな辺鄙なところに異形部隊が……」
「視察か?」
「お役人サマの示威活動ってやつだろう……」
聞こえてくる言葉の内容も友好的とは言えないが、それ以上にその口調は敵意に満ちている。ティナとしては心外なところであるが、その敵意も仕方ないと思えるところはある。
異形使い及び異形使いが所属する異形部隊はこの国における重要な軍事力だ。国はそれを切り札として位置付けており、異形使いはかなり厚遇されている。必要以上と言っていいほどにだ。
もちろんそれだけでも国民に嫌われる要因にはなりえた。ただ、それはあくまで副次的な要因にすぎず、根本的な嫌悪の理由は、やはり異形使いという存在の特異性にある。
異形使いはその身に異形を宿し、その力を借りて身体を変化させる。身体のどこかに現れる文様はその証で、それによって人間とはかけ離れた力を発揮し、通常は多くのものを破壊してしまう。
要するに、常人たちは異形使いが怖いのだ。その昔は異形狩りと呼ばれる迫害が頻発していたと聞いたことがある。国が異形使いの人権を明確に規定し、彼らを集めた異形部隊と呼ばれる組織の発足までそれは続いたとか。
異形使いは国によって保護されている。反対に、この荒れ果てた世界において、国は異形部隊という切り札によって存在をなんとか維持している。つまりはぎりぎりの共依存ということだ。
棘のある視線を浴びながらティナは軍の公舎に向けて通りをあるいた。姿勢は真っ直ぐに。ただ、視線はどうしても下がり気味になった。
「気にしてると身が持たんぞ」
横を行く老人が言う。
「もう半年じゃ。いい加減慣れとけ」
ティナは無言で足を進めた。
公舎にて。
賊を引き渡して、それから与えられた部屋に一旦入る。
旅の疲れを癒すためだ。
厚遇されているだけあって、部屋は広く、設えは豪華……と言えないまでもそれなりに整備は行き届いている。
大きなベッド、テーブル、その他家具はシンプルではあるが傷一つ見当たらない。
ドアを閉めて数秒。誰の気配もないことをしばし確かめ、ティナは息をついた。
柔らかく膨らんだベッドに寄って、一気に倒れ込む。ぐったりと重い倦怠感が身体の底から滲みでてきた。
(ああ……疲れた)
数分ほどそのままうつぶせでいたが、ふと喉が渇いていたことを思い出す。のろのろと起き上がって、テーブルの水差しに向かった。
水を喉に流し込んで、ふとテーブルの上にある資料の束に気づく。
さっと目を通すとそれが手配書であることが分かる。
細密な似顔絵と、それから罪状の羅列。ぺらぺらと見ていくといかつい男たちの顔が続く。しかししばらくして場違いに童顔な少女の顔が目に映った。
罪人の名はアルベルティーナ・フローリオ。
罪状は大量殺人。小さな町一つを壊滅させた、とある。根幹異形の使い手とも。
異形使いに宿る異形は人によってさまざまだ。一人に宿る異形は一体。強いものもあれば弱いものもある。
通常その強さは通常比較の問題に過ぎない。だが例外がいる。根幹異形だ。根幹異形は世界の異分子である異形の中でもさらに特異な異形だ。極めて強力で破壊に特化し、だが数は少ない。
大昔、一体の根幹異形が国が傾くほどの破壊行動を行ったという伝説もあるが定かではない。根幹異形自体がただの迷信にすぎないという者もいる。
ティナは無言でフードを外し、口元の黒布を下ろした。
部屋には小さいが姿見も掛かっている。ちょうど彼女の正面だ。手配書の似顔絵と瓜二つの顔がそこに映っていた。ただし、手配書の少女と違い、髪は短く切ってある。灰色に近い銀髪は、やはりあの人が好きだと言ってくれたので切るのは本当に嫌だった。
手配書との違いは髪の長さだけではない。あの頃と違い、たった半年で自分はずいぶん擦り切れた。手配書の快活な目をした少女は、姿見の中で暗く陰った視線をこちらにくれている。
目に見える変化だけではない。失ったものは多い。
その時ドアがノックされた。間髪いれず開く。
慌ててフードと黒布を直そうとして失敗するティナを見て、老人――バジルが笑った。
「お前さん、なにしとるんじゃ。顔芸の練習か?」
「……。別になんでもないわよ。出てって」
外れた黒布を乱暴に地面にたたきつけ、ぶっきらぼうに返す。と、老人は続けた。
「そうはいかんアルベルト、仕事じゃよ」
……
「ご苦労様でしたアルベルト殿。馬車の積荷は全て無事でした」
軍のメッセンジャーが言う。平坦な事務口調だ。
軍に所属してもう半年。まだこういった種の人間のこういった話し方には慣れない。ついでにいえばこういった殺風景な執務室にもだ。
机に着いたメッセンジャーは続けた。
「異形使いとはいえ、急の、しかも一人での護衛は大変だったと思います。本来ならばゆっくり休んでいただくところですが、次の仕事が入っています」
「ああ」
内心うんざりと頷く。人手が足りないのは分かっていたが。
「あなたの報告にあったラクリマという男。町の北区、宿の一つに滞在していたという確認が取れました」
さすがに調査が早いな、と思った。
「ですが宿自体はもう出てしまった後のようで身柄を取り押さえることはできませんでした」
「それで?」
先を促すが、なんとなく予想はできている。
「その男の拘束をあなたにお願いしようと思います」
「人使いが荒いのう」
大通りを歩きながらバジルが愚痴る。
「あんたに同調するのは心底嫌だが、同感だな」
ティナもため息交じりに呟いた。
「なんじゃい年寄りは大切にせんといかんのに」
「年寄りが本当に大切に扱われるのは死んだ後だよ」
くくっ、と老人が笑う。
「お前さんも言うようになったの。半年前なんぞ何も面白みのないガキだったくせに」
そうか。あしらって進む。
道はあまりきちんと舗装されておらず、土を固めた程度のものだ。脇には雑草がきままに生え散らかっている。
だが、そんな雑然とした緑も植物域の特権と言える。なぜだかは誰も知らない。しかし、植物はこの大地に点在する植物域にしか生えない。
「で、ラクリマとやらはどこにいるんかいの」
「俺の話を聞いてなかったのか」
声に嫌味を混ぜて睨む。
「まさか。聞いとったよ。覚えとらんだけで」
「そういうのを聞いてないって言うんだ」
いいか、と続ける。
「ラクリマという名はこの街の住民簿には載ってなかった。宿を利用していることを見ても流れ者で間違いない」
「ふむ」
「となれば宿を出れば行くところは限られる。賊に補給馬車の情報を流すなんてヤバいことをやった後の行動も予想は簡単だ」
「儂ならさっさととんずらこくの」
「俺もそう思った」
だから、と締めくくった。
「植物域間の乗合馬車を使うのは間違いない」
停留所の入口にいた組合員に声をかけると、その男はわずかに顔をしかめて見せた。
「……何の用でしょうか」
「ラクリマという男を探している。入るぞ」
一方的に告げ、組合員の返事を待たずに横を通り過ぎた。バジルも後ろに続く。
異形部隊は様々な権能を持っている。事前申請なしのこういった立ち入り捜査もその一つだ。
後ろから聞こえる露骨な舌打ちを無視し、居並ぶ馬車を見回す。
馬車や馬の手入れをしていた男たちと、馬車に乗ろうと集まっている客たちが、手を止めてこちらに視線を向ける。
特に目立って不審な人物はいない。
ただ。こちらに目もくれない人間がいるのは見えた。
そちらに足を向ける。荒野への出口にほど近い位置にある馬車に乗り込もうとしている男二人。
一人は革鎧を身につけ、短髪の頭にバンダナを巻いている。中肉中背。
そしてもう一人は。
もう一人は砂色のマントを身にまとい、黒い長髪を背中に流している。背は高く、筋肉質とまでは行かないが体格は悪くない。
記憶に引っかかるものがあった。わずかに、ではなく強烈に。
「おい」
ティナは声を上げた。
「そこのお前たち、止まれ」
例の二人は聞こえないようだった。それともわざと無視したのか。
自分の心臓の音が妙に大きく聞こえた。
「止まれ!」
ようやく二人のが足を止めた。
バンダナの方が振り向く。若いを通り越して幼い印象さえある童顔。無邪気な視線をこちらに注ぐ。
「お前もこちらを向け。ゆっくりとだ」
そう言った時には我知らず、右手袋を外していた。
長髪の男が振り向く。音がしそうなほどゆっくりと。
ティナは。ティナは不意に喉をさかのぼってくる何かを感じて、それをそのまま吐きだした。
「ヴィル、フレェェェェド!」
男の顔は知っていた。ああそうとも、あの日から片時も忘れたことなどない。忘れようとすると夢に出る。自分が失ったものは全てそいつが持っていった。持ち去って壊して、放り捨ててみせた。
だから忘れられる訳がない。
「探していた。探していたぞ、お前を!」
男は発せられた叫びにも動じることなくこちらを見ていた。
そしてぼそりと言う。
「人違いだろう。俺はラクリマだ」
「違う。忘れるものか。お前だ。名を変えていたんだな」
噴き出す怒りに体温が上がる。胸の奥が煮えくりかえっている。
「コルツァを覚えているか。お前が滅ぼした町だ」
男はぼんやりとこちらを見ていた。
「そしてお前は俺の最も大切な人をそこで殺した!」
一歩近づく。
「俺は――お前を追ってここまで来た!」
叩きつけるための力をイメージする。ぐずぐずの肉塊になる相手を夢想する。
「この日を待ちわびていたぞ」
右手を顔の前に掲げた。自然、手の甲が相手を向いた。
「想い人の仇――覚悟しろヴィルフレード!」
右手の甲の文様が光を放った。すぐに変化は終わる。翼を広げ、ティナは雄叫びを上げた。
危険を察して他の人間が避難を始めた。
それを尻目に、ティナはヴィルフレードに向けて突進した。
「アアアアアアッ!」
振り下ろす爪が確かに相手を捉える――はずだったのだが。
空を切る尖った先端。ティナはバランスを崩してたたらを踏んだ。
訳が分からず視線をめぐらすが、相手を捉える前に身体に衝撃が走る。一、二つ。死角からの打撃だと気づいて、大きく飛び退く。ようやく憎き仇が目に入った。
信じられない思いで瞬きする。確かに自分の異形は攻撃に特化しているとは言い難い。それでも異形に人間の身体能力で応じるなど正気の沙汰ではない。
その動揺が隙となった。ヴィルフレードがこちらにすっと右掌を向けた。そこにあるのは――傷跡にも似た文様。光を発して相手の存在が置き換わるのが分かる。
「くっ……」
目を凝らすと相手の姿が再び見えた。既に人間ではない。異形。
のっぺりとシンプルな人型だった。ティナの御使いと違って身を守る鎧も、相手を引き裂く爪もない。
じり、とこちらは構えたまま間合いを測る。
対して、相手は人間であった時と同じく棒立ちのままだった。まるでこちらを忘れているかのようだ。
ティナは右の翼を振るった。猛烈に風が巻き起こり、砂が舞い上がる。相手に向かっていくそれに乗じて、再び地を蹴った。
わずかに向かっていく軌道をずらして、撹乱して肉薄する。相手が反応できていないと確信し、爪を中心に突き込んだ。貫き、めり込む。
勝利を確信した。しかし同時に違和感にも気づく。
(なに?)
爪が刺さった部位がぼろりと崩れた。敵の腹に穴が開いた。
そして再び衝撃。頭部を殴り飛ばされた。よろめいて数歩退く。
(どういうことよ!)
理不尽だ。
揺れる視界を相手に向ける。相手はさらに崩壊を進めていた。
だが、どう見てもティナの攻撃によるダメージのせいではない。自壊している。
(まさか、そういう異形なの?)
自らを分解し、攻撃を回避する異形。
相手が完全に消失した。
(まずい……)
相手を見失った。次の攻撃は、恐らく自分の命を刈り取るだろう。
だが、敵に特性があるのと同様、こちらにも特長はある。翼を身体に巻き付けた。
ティナの御使いは、本来防御に特化した異形だ。
このように鎧と翼で身体を包むことでほとんどの威力を無効化してしまう。
つまり、これで敵の次の攻撃が最後の一手となるということだ。
(どこからでもきなさい!)
待ち受ける。一拍、二拍。
三拍目で馬の嘶きが聞こえた。
はっとして見やると荒野に向かって馬車が走っていくのが見えた。呆然として見送り、それから気づく。
しまった、逃げられた!
「間抜けじゃのう」
「うるさい!」
唐突に後ろから聞こえたバジルの声に怒鳴り返す。変身を解いて振り向く。
「あなたなにやってたのよ! 逃げられちゃったじゃない!」
「お前さんがしくじったんじゃろうが」
「あなたが協力してればこんなことにはならなかった!」
怒りを叩きつけるが、老人は笑みをおさめることはしなかった。
「どうかの。逃がさなかったところであいつを殺せたか」
もちろん。という声は出なかった。
「無理じゃよ」
「そんなことは」
「いや、無理じゃ。あいつが何者かは嫌というほど説明したろうに」
ティナは言葉に詰まった。
知っている。あの悪人と自分の実力の差は。だからこそ逃げられる前に殺せなかった。
ティナはしばしうつむき、それから荒野へ続く門を見た。
荒野の風が吹き込んで来ている。馬車は遠ざかって、もう見えなくなっていた。
……
全速力で走っていた馬車は、ようやく御者の操作によって速度を落とした。大きかった揺れが途端におさまる。
「いやあ、おもしろかったねえ」
バンダナの御者、エルネストがこちらを振り向いて言う。ラクリマは答えなかった。
「なんて言ってたっけ。コルツァ? 懐かしい名前だ」
「……」
「恨みを買っちゃったの?」
ヴィルフレードはそれも無視しようとしたが。
「恨まれる覚えならいくらでもある」
「うわ、ひっど」
エルネストはからからと笑った。
「でも変だね。ラクリマは女も殺したことあるの? ちょっと意外」
エルネストの言葉にあの異形部隊員が想い人の仇と言っていたのを思い出す。
だが正直なところそういった記憶はなかった。
「さあな」
だから適当に答えた。
「恨みならいくらでも買った。直接間接関わらずだ」
「じゃあその中の誰かだね」
「ああ。良くは分からないが」
「はは。やっぱりひどいね」
エルネストが笑うが、ヴィルフレードは目を鋭く細めた。お前には敵わんよ、と。
座席に深く身体をうずめた。日が傾いている。荒野の風が冷えてきた。
そして乾いている。荒野の風が潤うことなど稀だ。それに吹かれる人の心もまた、潤うことはない。