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溺れる魚たち  作者: 夏目カガリ
Drowning Fishes
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第六話 - 『理屈で割り切れたら』


 ちょうど時子がパニーニの最初の一口をかじった頃、達朗は友人のアパートで掃除に精を出していた。その友人は連日のアルバイト疲れと称して、昼過ぎだというのにまだ布団のなかで惰眠を貪っている。


 さて、何で自分の部屋の掃除も滅多にしない達朗が他人の部屋を掃除をしているかというと、昨晩は気づかなかったが朝日にさらされた部屋がひどい有様だったからだ。いくら一人暮らしの男の部屋といっても、ここまで汚くて平気で住める神経が信じられない。

 昨夜、急に訪れたのに何もいわずに泊めてもらったことには感謝しているが、 ゴミ箱の中が得体の知れないキノコの苗床になっているのには閉口した。

 埃が苔のようにこびり付いた炊飯器と格闘しながら、達朗はクソっと毒づいた。

 なかなか落ちない汚れのせいではない。脳裏にさっきからずっと点滅している昨夜の事のせいだ。



 仄かに染まった肌。しっとりと汗ばんだ鎖骨のくぼみ、反らした咽喉の青白さ。

 小ぶりな耳。 密やかに、左耳の軟骨に空けられたピアス。

 そして、声。 行為も終わり間近になった頃に初めて発せられた声。

 快楽に喘ぐ声とは程遠い、溺れそうな人間が酸素を求めるように掠れ漏れた声が呼んだのは――。



 達朗は衝動的に、小さな流しを両手で打ちつけた。思いがけず大きな音が出て、寝ている友人がうるさそうにブランケットのなかで寝返りを打った。苛つきを無理やりに抑えて茶しぶの固まったマグカップに取り掛かる。

 しかし耳には、さっき思い返した時子の声が反響したままだ。


 あのとき。頭から冷や水を浴びせられたかのように固まった達朗を、時子は不思議そうな目で見ていた。今、自分がなにを口走ったのか分かっていない様子だった。

 こんな最悪の状況で知るくらいなら、と顔を背けて達朗は思った。なんで二時間前レストランで俺が尋ねたときに答えてくれなかったんだ? 


 この時点で選択肢は大きく二つあったが、達郎はそのまま突っ走ることを選んだ。半分は怒りで、もう半分は急には止まれない生理現象だった。つまり総合していうと、禄でもないということだ。

 帰り道、家の近くまで送ろうかと申し出た時子を振り切り、 達朗はちょうど近くに住んでいた一人暮らしの友人宅へと転がり込んだ。 これ以上、時子の顔を見ていて平静でいられる自信がなかったのだ。

 どろどろしたどす黒い感情が、いまだかつて一度も体験したことのない感情が、今にも心臓から血管をつたって全身を支配するような予感がしていた。


 つまり、強烈な嫉妬と自己嫌悪が。





「……朝からガチャガチャ何やってんの? うるさいんだけど」

 食器類を制覇したところで、 友人の三浦純平がとうとう文句をいってきた。まだ半分夢の中といった様子だが、盛大に眉をしかめている。

「掃除してんだよ。お前、 今までよく病気にならなかったな」

「またまたァ」

「腐海の一歩手前だよ!」

「そりゃ困る。俺はナウシカより宅急便の方が好きなんだ」

「聞いてねー」


 さっくりと三浦の主張を切り捨てて、達朗はゴミ箱の中身をゴミ袋へと逆さにした。途端に胞子の煙が立ちのぼり、瞬時に息をとめて顔をそむける。次に、テーブルの上にところ狭しと散らばるコンビニ弁当のパックやら食べ残しやらを一気にゴミ袋につめこみ、ふきんで拭いた。


「捨てていいかわかんねーヤツはそこの隅に積み上げてるから」

「ありがとう。ありがた迷惑ともいうけど……。そういえば、何だかんだでうち来るの初めてだっけか」

「そうだな。まさかキノコと同棲してるとは知らなかったけどな」

「キノコにも雄とか雌とかあんのかなあ」

「知らねー」

「今日はご機嫌ナナメだなー草薙くんは」

 邪気のない声で指摘され、 達朗はバツが悪くなる。

「……泊めてくれたことは感謝してるよ」

「そういう意味でいったんじゃないけど、どういたしまして」


 三浦はあくび混じりに笑って、布団から這い出た。 それに伴って舞い上がった埃が宙を舞う。

 それらと、雨脚の強くなった窓の外を交互に見て、 達朗はいっそう暗澹な気持ちに包まれた。




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 昼過ぎのファミリーレストランは混んでいて、平和を具現化したような活気に満ちていた。赤ん坊がぐずる声、女子高生の笑い声。雨音が聞こえないほどだ。

 寝起きだというのにハンバーグセットを注文する三浦を横目に、達朗はねぎとろ丼を注文した。


「で、何かあったの」

 さっきまで、注文を取りにきたウェイトレスがアイドルの誰それに似ていると一人で盛り上がっていた三浦が、 さり気ない物言いで切り出してきた。

「別に? なにも」

「ふうん? お前がうちに来たときの顔、見せてやりたかったよ。俺はてっきり、ひき逃げでもしてきたのかと思ったね」

「免許もってねーし」

「例えよ、例え。 それくらいひどかったってこと。失恋でもしたか?」


 赤いストローを口に咥えたまま、 ひょこひょこと上下に揺らして三浦は笑う。失恋? と達朗は考えた。

 そうかもしれない。あのときベッドの中で、俺は彼女の全てを手にしたように思っていた。女の子と付き合ったことはある。セックスをしたことも。 だが抱いている最中に、相手が自分と他の誰かを重ねていると気づかされた経験はなかったし、 それがこんなにもショックなことだとは予想もしていなかった。


 たぶん、俺はあの人を好きになりかけていたんだ。そう考えてみたら、今のこのどうしようもない遣る瀬無さも説明できる。

 しかし同時に、厄介だということにも気づいた。詳しい年は知らないが五歳以上は年上で、しかも愚かな衝動にかられて寝てしまった。 そのうえ自分と一ノ瀬時子には何の接点もない。 携帯番号も聞いていなければ、どこに住んでいるのかすら知らない。唯一の接点は垂火の存在だが頼れるとも思えないし、頼りたくはない。


 けど一番厄介なのは、 そんなことじゃない。そんなことじゃないんだ。

 問題は俺に抱かれながら彼女が、垂火の名前を呼んだことだ。


 恋を自覚するまえに失恋したも同じこと。あの二人は付き合っているんだろうか。少なくとも時子は垂火に惚れているんだろう。そして、その恋は時子にとって幸せなことではないのだ。じゃなきゃ誰が愛する人間の名前を、あんな声で呼ぶだろう?




 黙りこくった達朗を見ながら三浦は、こりゃ本当に傷害事件でも起こしてきたのか?  と内心で首をひねっていた。

 それにしても、無駄に目つきが鋭いこの友人は、 こうして俯きがちに黙っていると三割増しで人相が悪くなる。おかげでさっきは愛想のよかったウェイトレスの女の子も、 今回は料理を置くとそそくさと立ち去ってしまった。違う意味で男の敵だなコイツ、と三浦は思う。


「あのさー、いいたくなかったら無理にとはいわないよ。 むしろ聞かない方がいいかなって気がしないでも、」

「三浦さ……、古文の矢島が好きだっていってたよな」

「え?」


 急な話題の変換に、三浦は不思議そうに口をあけた。

 古文教師の矢島千佳は、三浦にとって高校生活を送る上で重要な楽しみのひとつだ。顔や性格のかわいさはもちろんのこと、身長が低いわりに出るところはしっかり出ているところや、怒るときでも何だかシマリスが頬をふくらましているようにしか見えないところなど、体内でマイナスイオンを製造しているとしか思えない癒し効果だ。学年問わず、ファンは多い。


「あれ、なんかマジっぽかったけど」

「そりゃマジだよ。だってかわいいだろチカちゃん」

「そうじゃなくて本気かってこと。 だって矢島、二十三だろ?」

「二十四な。つまり、 恋愛感情ってことか?」

 達朗がねぎとろ丼を突つきながら頷くと、 三浦は難しい顔で斜め上に視線をやった。

「まあ、チカちゃんが彼女になってくれたら天国だけど、 普通に考えて無理じゃね? 教師と生徒だし、彼氏いるらしいし。 高校生に本気になってくれるわけないし? 結局、グラドルとか女優に対するのと変わんねーのかも」


 けどさあ、と三浦はハンバーグをナイフで切り取って笑った。


「そういう理屈で割り切れたら、誰も恋愛なんてしないだろ」





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