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溺れる魚たち  作者: 夏目カガリ
Drowning Fishes
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第十一話 - 『特別ではない穏やかな夜』



 達朗の日常は決まった。

 昼間は学校へ行き、火曜の夕方と週末はユーフォリアでウェイターとして働き、 水曜の夜には垂火との授業を受ける。 その合間合間に道場へ顔を出したり、三浦純平らクラスメイトと遊んだりする。高校生らしい、なんとも安定した日々。

 時子はユーフォリアのすぐ近くに住んでいるらしく、 頻繁にふらっとやって来てはアイスラテを注文する(そして達郎の淹れ方に茶々をいれてくる)。 混んでいるときは店の奥のソファで本を読んでいるが、大抵はカウンターの席に座って世間話をする。 一度小夜が風邪で休んだときには手伝いに入ってくれたこともあった。


 二週間くらいの時間が経って達郎が知ったことは、煙草の銘柄がころころ変わるということ、チョコレートが好きだということ。よく文庫本を手にしているということ。つまり、ほとんど何も知らないに等しい。

 今や時子はすっかり達朗の告白を忘れてしまったかのように振舞う。大人の強かさと狡猾さについて、最近の達朗は考えている。





 その日の閉店間際、カウベルの暢気な音に達郎が振り返ると、垂火恭平がドアを半分開けた状態で盛大に顔をしかめていた。 その斜め後ろには、にやにやした笑みを浮かべた時子がいる。


「いらっしゃいませー」

「いやいやいや…」

 垂火は、達朗を頭から爪先まで見た。

「バイト? いつの間に?」

「一名様ですねー」

 サービス用の笑顔を浮かべて、達郎は垂火にカウンター席を促す。

「なんで教えてくんないの。ここ教えてやったの俺なのに」

「聞かれなかったし」

「小学生か」


 垂火は悪態をついたが、厨房から顔を出した小夜を見ると相好を崩した。


「小夜さん、久しぶり」

「あら恭ちゃん!」

「きょ、きょうちゃん……?」

 達郎は驚愕の声をあげ、次にからかいの言葉を浴びせようとしたが、 生憎ながら他の客に呼ばれたのでしぶしぶその場を去った。

「本当に久しぶり。なんで顔を出してくれなかったの?」

「最近ほんと忙しくて」

「そう。忙しいなら仕方ないわよね」


 にっこり笑ってはいるが、長い付き合いなので小夜が拗ねているのは分かる。 最終奥義の出番と思い垂火は、つまらないものですが、と小夜お気に入りの中華料理店の肉まんを差し出した。 隣で時子が、「ホストか」と呟いたが、機嫌は直ったので良しとした。


「ところで、なんで時子も教えてくんなかったの。あいつがここでバイトしてるってこと」

 と、垂火は会計を済ませている達郎を指差した。

「え? だって聞かれなかったし」

「小学生が二人……」

「それに垂火だって勝手にこのお店のこと、あの子に教えたじゃない。おあいこでしょ」

 小声で囁いた時子に、垂火もまた小声で囁く。

「しつこく頼まれて、仕方なかったんだよ」


 あっさりと垂火が嘘を吐くと、時子は無言で眉を片方あげた。


「なあに? 内緒話して。二人とも何にする?」

「えっと、じゃあカプチーノ二つ」

「せっかくだから、ビールにしなさいな」

「でも車がなあ」

「いいじゃない。このまま私の家に置いてけば?」

 時子の提案に少し考えて垂火は頷いた。 すると小夜が嬉々として、じゃあ私も、などといったので垂火は笑った。

「いや、まだ営業中でしょ」

「今日はもう閉店。ちょうど最後のお客さんも帰られたしね」


 表の看板をCLOSEDに変え、照明を少し落としてから乾杯と四人はグラスを合わせた。 もちろん、達朗はジュースだったが。


「達朗も飲めばいいのに」

「未成年ですから」

 極めて常識的に答えると、時子はふと思案気な顔で垂火を見た。

「最初にお酒飲んだのっていつだっけ」

「さあ。たぶん高校じゃね?」

「私、中学だったかも」

「あんたらの学生生活が容易に想像できて泣けるよ」

「二人とも、誘惑はやめなさい。達朗くんはうちの大事な従業員なんですからね」


 チーズやクラッカー、そして垂火が持ってきた肉まんをつまみにして飲む。 一人だけカウンターの奥に座っている小夜が、ふっと微笑を浮かべた。


「そうやって並んでカウンターにいるのをこっちから見てると、制服を着てた頃を想い出すわね」

「そう? 俺たちは変わったでしょ?」

「見かけはね。中身は同じよ」

「高校生の頃の二人って、どんな感じだったんですか?」

 達朗が尋ねると、小夜はくすぐったそうに忍び笑いを溢した。

「可愛いかったわ。野良猫みたいに警戒心が強くて、いつも二人でワンセット。 大人が嫌いみたいで、私にも懐いてくれるまで時間がかかったわね」

「……それ、可愛いんですか」

「そりゃもう」

「可愛いって。よかったねー垂火くん」

「そうだねー時子ちゃん」


 とふざけて返しながら垂火は時子の煙草を横から拝借すると、一口吸った。 そのさり気ない仕草を見て達朗は、そういえばこの二人が一緒にいるところを見たのは初めてだと気づいた。 もう少し何か感じるもの――つまり嫉妬心とか――があると予想していたが。


「そうそう、時ちゃん、この間ミチルちゃんがお店に来たわよ。赤ちゃん連れて」

「本当? あ、でもそういえば小夜さんに赤ちゃんの顔見せに行くっていってたような」

「ちょっと待った。ミチルちゃん、赤ちゃん産んだのか?」

「その前に俺もちょっと待った。誰なんですか?」

「時ちゃんの大学時代のお友だちよ。彫刻科だったかしら」

「陶芸科。でも今はモデルしてる」

「モデル?!」

「おい、俺の質問はどこいったんだよ。 ミチルちゃん、いつの間に赤ちゃん……あれ、つーか結婚は? 未婚の母?」

「なにいってんの、去年したよ。いってなかったっけ」

「一言もいってない。お前って何でいつもそうなんだよ。お祝いしたかったのに」

「垂火って変なところで義理堅いよね。 っていうか、ミチルは垂火の友達ってわけじゃないじゃない。私の友達だもん」

「そうだけど。 そうなんだけど何か釈然としない。達朗のバイトのことだってさー」

「恭ちゃんはのけ者にされて拗ねてるのよ」

「そうそう。さすが小夜さん」

「いや……小学生かよ」


 といってから、そのとき達朗は気づいた。 なんで嫉妬心が沸かないのか。単純な理由だ、恋人同士の雰囲気がないからだ。 あの夜、あんなにも焦がれた声で垂火の名を呼んだ時子も今はすっかり恋情を隠している。


「私さ、昔からずっと気になってたんだけど、ここってちゃんと儲け出てるの?」

「あ、それは俺も微妙に気になってた」


 いつの間にか違う話題に移った彼らを見ながら、達郎はぼんやりと思索にふけっていた。

 垂火と時子の間に密な、何か互いにしか分からないような濃い空気が流れているのは容易に見て取れる。 だがそれはまるで、恋人同士というよりはまるで双子のように達朗の目には映った。もしくは同種の鳥が二羽、翼を寄せ合っているように。


「いいのよ。お客様の数は少なくてもずっと通っていただける店を、と思ってこのお店を開いたんだから。それに道楽だしねえ」

「あ、でも達朗ってオバサマ受けいいよ。もっと愛想よくしたら店も繁盛するんじゃない?」

「嘘だろ? だってこいつ、目つき悪いじゃん。……おーい、お前の話だよ」

 話を振られて達朗は我に返る。

「え? ああ、何が?」

「悪かったよ、謝るからそんなに睨むなよ…」

「睨んでねえよ! ……これが標準だっつの、」

 ちょっと傷ついて達朗が口を尖らせると、小夜が人差し指で達朗の目元に軽く触れた。

「私ね、初めて会ったとき、とてもいい目をしてるなって思ったの。 凛としててシャープだし、男の子らしいわ」

「いやいや、俺はたれ目の方が断然いいと思うね! 話題の草食男子ってやつ」

「垂火、たれ目だもんね…」


 可哀相なものを見るような目で時子がぼそっと呟く。そして垂火の口から煙草を取り返すと、ごく当たり前に口に咥えた。 そのやり取りは大人っぽくて、気取ってなくて、まるで外国映画のワンシーンのようだった。 いいな、とてらいなく達朗は思った。






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