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(僕らの思いやりが届かなかったみたいで残念だよ。折角君を仲間にしてあげようと思ったのにさ)
振り返ったカイムが見たものは、二人の少年霊が青白く細い腕でガリーナと巫女の頸を押さえている場面だった。彼らは口の端に刃のような薄い笑みを浮かべ、人ならざる妖気をもって改めてカイムを見つめる。
少女たちは喉を締め付けられる苦しみに喘いだ。
「止せよ」
カイムが静かに言う。
「それ以上やるなら、もう一度死んでもらう。屋敷ごと壊す。お前らが俺の何をどこまで知っているのかなんて関係無い。俺にはそれが出来る」
(出来ないでしょ。この子達も死んじゃうもん)
殺意をこめた睥睨を霊に投げると、カイムは歯噛みした。こうしている間にも、彼女達の体温が精気と共に彼らに奪われてゆく様がカイムには分かる。青い顔でぐったりと目を閉じるガリーナは、嘘のように静かだ。
このままでは、死んでしまう。
彼女と巫女が死ぬよりマシなことを、瞬時に脳裏に浮かべてみた。
「……分かった。お前ら剛毛の言うとおりにしよう」
(ご、剛毛言うな!! ……ふん、最初からそう言ってくれれば良いのに。毎度毎度冥府からこっちに来る手間がはぶけたものをさ。まあいいや、これで君も死んで晴れて少年合障団シニア部の団員だ! まずは会報の特集組んで写真会と握手会、衣装合わせに歌とダンスの特訓! 今年のツアーに間に合わせるよ!)
カイムは歯を食いしばって俯いた。
「ぐ……。妙に大手ネットワーク持ちやがって、最初に屋敷をふっ飛ばしとけばよかった……」
反対に少年達は嬉々として飛び回り、彼の無念の言葉など聞いてはいない。
(当然ジャケットの下はマッパか、またはシースルーね。場合によっては膝下も出して貰うよ、ちゃんと剃ってね。あとは、クール系は間に合ってるからヨゴレ系に回ってもらおうかな。金ダライとか熱湯風呂とか、メンバーとの絡みも含めてこれで婦女子霊のハートをがっちり掴む! 最初が肝心だよ!)
――やっぱり二人には死んで貰おうかな……。
ちらりとまだ頸を掴まれているガリーナと巫女を見て、そんな迷いが生まれた。
この歳になって成仏できない冥府の霊相手に星だの夏だの渚だの夢だの歌いながら踊り狂いつつ肌を露出させるなんて、ご先祖様に顔向けが出来ないどころか誰とも目を合わせられない。マジで。
けれども、比較してみた。
あの能天気で馬鹿なまでに純粋なガリーナが冷たく固くなることと、どちらが悲惨なことなのか。
「……まあ、結構人並には生きたしな。人生の罰ゲームってことで良いや。さっさと殺せ」
顔を上げて目の前の少年を真っ直ぐ射抜く。
霊は嬉しそうに笑って、カイムの眼前まで手を上げた。
青白い光が視界いっぱいに広がり、頭の先まで突き抜けるような冷気が浸透し、彼は目を伏せた。
その時――。
「駄目です……」
体を弛緩させていたガリーナが、うわ言の様に言葉を発した。カイムは思わず目を見開き、彼女の姿を探す。暗がりの中でも、座り込んだ少女の翡翠色の瞳は全てを吸い寄せるような輝きを放っていた。
「そんなの、カイムさんじゃない。踊って歌って女の人に追いかけられるなんて駄目。カイムさんは、この村で生きるんです。美味しい料理を作って、みんなを喜ばせるんです! 貴方達のお遊戯は死人のものでしょう、なら帰りなさい生足!!」
ばちん、と音がした。
ガリーナを掴んでいた少年が、頬を押さえて唖然とした表情で彼女を凝視している。周りの霊達も自失したように動かない。
何が起こったのかをカイムが理解するには、数瞬かかった。
霊の頬を張ったのだ。
ガリーナは、渾身の力を込めて手を振り回し、頸を押さえつけていた霊を思い切り張り倒したのだ。
「霊に――触れた?」
蹲って咳き込んでいるガリーナを見つめ、ぽつりと呟く。人にとって霊は気体で、霊にとって人は固体だ。彼らに触れられることはあっても、人が彼らに触れることは出来ない。それが出来ないからカイムは諦めたのだ。
それなのに、この聖女は――。
その時、巫女を押さえていた霊が唐突に悲鳴を上げ飛び退った。
(痛いッ! め、目に沁みる!)
(痛い痛い痛い! 何だよこの女子――)
(……あ!)
唐突に苦しみから解放されて、べそをかいて尻餅をついている少女の体中に付着している白いものを見つけ、霊達は慄いた様に引いた。よく見るとその白い粉は頭から胴から足から、彼女の体を覆うように吹き付けられている。暗がりだから、目を凝らさないとほとんど気付かない。
(塩だ、こいつ塩かぶってる!)
一人が甲高い声を上げると、残りの少年達が一斉に絹を引き裂くような悲鳴を上げた。
「え、」と当の本人はきょとんとした顔で自分の手や髪に触れ、付着している塩を舐めて驚いたような顔をする。隣のガリーナも一転して興味津々で少女の頬に付いていた白い粒を取って舐め、不思議そうに首をかしげた。「なんでお塩なんかかぶってるんですか?」
泣き笑いの相貌で首を横に振ったのは、少女自身がその理由を誰よりも一番知らなかったからだろう。
(いやだ、塩分はいやだ、お肌が荒れる! 溶ける!)
(いやあっ、僕の玉のお肌が! ニキビが、ニキビが)
声変わりもしていない霊達の二十人強がきゃあきゃあと上げる悲鳴は、風よりも強く空気を震わせて反響した。カイムは憎しみを覚える程に機嫌が悪くなった。
すぐに二人の元に走り寄り、守るように立つ。
もう彼らの仲間入りをするなんて事は考えられない。ガリーナの一声で、全てが明瞭に導き出された。
「二人とも、目を閉じていろ。すぐに終わるから」
据わった目でそう言い放つと、カイムは目を閉じて意識を集中させる。
空気が瞬時に入れ替わった。冷風は突如として空の匂いと変貌し、見えない力がカイムに集まる。
いや――外ではなく、内側から生まれる。
ぎゃあぎゃあ騒いでいた霊達もその魔力の発生にぴたりと動きを止め、目尻を吊り上げて牙を剥いた。
(屋敷を壊すつもりだね、させないよ自棄っぱち系! ここは折角見つけた僕らの家なんだ! セット! ポジション『ドンゴロス』!)
一瞬にして整然と並んだ少年達は、赤、青、金に光る煌びやかな服に身を包んで三人を見据えた。勿論太股から下は露出している。
カイムはその様子を眼前に焦り、思わず冥魔術の発生を中断させてしまった。
――間に合わない……!
その隙を逃すはずもなく、合障団は冷酷な笑みと共に高らかに宣言する。
(さあ僕らの偉大さ可愛さアイドル性に恐れ慄き後悔し仲魔にしてくださいと地に頭を擦り付けるが良い! ファン垂涎のデビューナンバー、『仮面武闘会〜世界に一つだけの墓〜』を聞けえ!!)
「ほ、本気かお前ら!? ガリーナ、しょぼん玉、耳を塞げ!!」
咄嗟に耳を塞ぐカイムを見て、後ろの二人も取り敢えずそれに倣うのだが。
その――
その歌は、凄まじかった。
部屋は揺れ埃は落ち屋敷は鳴動し、冷風は嵐となって荒れ狂う。
今までに無い衝撃が人間達を襲い、膝からは力が抜け、危うく倒れそうになるところをなんとか踏ん張る力も出ず、結局地面に膝を落とす事になった。
「ゆ、許せない……! 半オクターブずれてるんだよ! なんで気付かないんだよ! 新手の兵器だこれはッ!」
「何この感情……殺意と憐憫と哀愁が深淵より湧き上がるこの独特の……! 痛い痛い痛い痛い、お願いもうやめてぇ!」
こうなっては反撃など出来はしない。
音痴の中の音痴を極めた世界新記録の周波数の中では、例え伝説の聖騎士といえども丘に上がったおたまじゃくしのように干上がるばかりだろう。
冷や汗を流しながら、カイムは己の無力さを呪った。少し前の自分なら、こんな醜態は犯さなかったのに。アルプー領主の件にだって、万事滞りなく進む出来たはずなのに。今頃はこんな場所で霊の壊滅的な歌声に身を捩らず、領主の館で料理人として安寧とした生活を送っていたはずなのに。
そうだ、全ての元凶はあの聖女だ。
彼女に出会ってしまってから、全てが変貌した。
彼女にさえ逢わなければ、自分は――。
反射的にカイムは後ろを振り返った。音の凶器が乱舞する中、ガリーナだけがただ一人耳に手も当てず真剣な面持ちで宙を乱舞する鬱陶しい少年どもを凝視している。
そしてぽつりと呟いた。
「私、この歌好きです」
「え」
絶望とも驚愕ともとれない表情でカイムが呻いた、その時だった。
遠いどこかで、鐘の音が響いた。
長く透き通るような韻は空気を揺らし、凝った風を押し流すように響く。割れた吹奏楽器のような歌もぴたりと止み、辺りには異常な静けさと美しい鐘の音色だけが広がる。
ガリーナはぽかんとしてその音を聞いていたが、やがて眉を上げた。
「私の家の鐘です。誰が鳴らしているんでしょう……というか勝手に私の家に入った人がいるんですね!? 机の上に日記を出しっ放しにしてました、どうしましょう! カイムさん、どうしましょう!」
「うん、今度からは日記にも鍵をかけるべきだね」
意味不明の遣り取りにいよいよ気力を削がれたカイムは、自分が自棄っぱち系に分類される理由が解った気がした。
(こ、この軽妙なエイトビートは……まさか伝説の……!!)
(ああ、体が……消え……)
空中に舞う青白い体が徐々に薄くなってゆく。その苦悶の様を目の当たりにし、カイムは思い直したようにぎらりと目を光らせた。
「あ、もしかして……お塩振りかけたの、ひつじさん?」
鐘のリズムに合わせてふんふんと顎を揺らしていた巫女の襟首を掴み上げると、
「永遠に死ね耽美野郎! 初めて会った時から嫌いでした!!」
「うぴええああああ――!?」
塩まみれの彼女を合障団に向かって投げつける。
塩嫌いの彼らにこれは堪らない。まるでトーマスボール(注釈:トーマスおじさんが提案した酒瓶を並べて樽を転がしいくつ瓶を割るかを競った遊び)の瓶の如く、短い絶叫と共に激しく弾かれある者は霧散しある者は大気に溶ける。
当の彼女は月面宙返りをした際に足を天井にぶつけ垂直落下しごろごろ転がり上手い具合に正座した所が壁際の棚の前で降ってきた埃とがらくたの洗礼を受けて沈黙した。
(折角歓迎してあげてたのに)
(君はあの人達の……なのに)
(ずっと遊……かったの……に)
反響する囁き声は徐々に掠れ、深い穴へと沈むように消えていく。最後に微かに聞こえた言葉に眉を顰めたカイムは、「いいや、もう来るな」と吐き捨てるように返す。
……終わった。
何もかも終わった。
大きく溜息をつくと、カイムはその場に座り込む。
しかし次に、死ねって言った、とガリーナが慄くように呟いた声と、静かになった天井がびしりと鋭い音を鳴らせるのはほぼ同時だった。
びしり、ばしり、と音は徐々に間隙を縮め、はらはらと埃も落ちてくる。
「何ですかこの音」
「ああ、屋敷の木造の部分が崩れる音じゃないかな。なんせ七十年も放置してたからね、あの歌で止めを刺されたんだろう。はは」
「ははって。どこですか木造の部分って」
「ここ」
「……どこ?」
「だから、ここら辺りの一棟」
ぴしぴしぱきぱきと遥か頭上から不吉な音がする。ガリーナが口元を痙攣させて目の前の青年を見つめている間に、瓦解は始まった。落ちてくる屋根のシャワーの中、聖女の悲鳴が響いた。
執事は望遠鏡で瓦解した屋根の下から中にいた者が這いずり出てきたのを確認すると、小さく笑う。
「悪霊には塩か鐘か親父の説教と相場は決まっております。勉強不足ですな」
満足げに独り言ち、最後に一発、満身の力を込めて鐘を打ち鳴らした。
それは今迄で一番美しい音色で啼き、風にその声を乗せ、ついでに彼女自身も風に乗り――ズドーン、と大地に厳めしく降臨した。
執事は木槌を構えたまま無表情で微動だにしなかったが、やがて眼鏡を押し上げる。誤魔化すようにもう一度小さく口の端を上げると、疾風のような俊敏さで鐘楼から姿を消した。
+
「――はっ。あ、あ、わたしのご飯! 腐ってるけどまだ食べられます! いやああ返してえええ!!」
「君、どんな生活してるんだ」
がば、と飛び起きた巫女が見たものは、青い空に緑の森。そして目の前で呆れた顔をしている黒髪の青年と、埃だらけのスカートを叩いている聖女の姿だった。
背後を振り返ると、一部瓦解して土埃を上げている屋敷が静かに鎮座している。
「あ、ああ……。なんだかとても悪い夢をみていたみたい。巫女仲間に苛められて、聖女と勝負をしに田舎に行って、悪魔のようなひつじさんに幽霊屋敷に放り込まれる夢。良かった……全部わたしの脳内だったんだ……」
「貴女、苛められてたんですか?」
「な、なんで知ってるの!?」
カイムはもう何度吐いたかも分からない溜息を漏らした。
ガリーナが自宅の鐘を毎日鳴らしてくれるのならば、ゴキブリのようなあの連中ももう姿を現すことは無いだろう。
「アイドルさん達が言ってた、『あの人』って何のことでしょう?」
不意に話題を振られ、カイムは小さく笑った。
「ん? ……さあ。幽霊の言う事だから当てにならないよ」
「そうですか。何かカイムさんが物騒なことを言っていた気もするんですけど、さっき頭をぶつけちゃってあんまり覚えてなくて……。あ、でも、カイムさんが私を嫌ってないことは覚えてます!」
心底嬉しそうににこにこ笑うガリーナの頬は、黒い煤のような汚れが付いている。
「嫌ってはいないけど、」とそれを服の袖で擦りながら、カイムは軽い調子で続けた。
「ちょっとだけ憎んでるかも」
「ぅえ゛」
その時、道の向こうから執事とキリア、マーブルらの姿が現れ、カイムは立ち上がってそちらへと向かう。
「カ、カイムさん、私なにかしましたか? もしかして日記に悪口書いたの知ってるんですか? あ、それともタダでご飯をご馳走になろうと思ってるのがバレた? あとほんとは少しだけ歌って踊るカイムさんが見たいと思ったことが」
面白いくらいに一人でどんどん墓穴を掘る少女の足音を背後に聞きながら、思わず口の端を上げる。額の絆創膏を剥がして捨て、こちらに駆けて来る少年に手を振った。
「さて、どうしようかな。バーバババ亭は給料未払いで、九里金豚はゴキブリ入りのスープ出してたんだっけ。迷うところだね」
いつも通りの穏やかな相貌に小さな微笑を浮かべつつ、青空を仰ぐ。
雲ひとつ無い麗かな陽気は、初夏の訪れを告げていた。
「待ってください、カイムさんー! ご飯は諦めますから、許してくださああい!」
泣きべそをかきながら追いかけてくるガリーナの言葉も、耳触り良く風に乗った。
+
そっと遠くから彼らの姿を見つめていた巫女は、ふうと息を吐くと誰にも気付かれぬように踵を返した。
王都までの長い長い草原街道を一人で歩き、時折すれ違う兎や燕や旋風に目を細め、やがて傾き始めた太陽の光を一身に浴びる
聖女と勝負して勝ったら認めてやる、そんな苛めっ子の売り言葉買い言葉を本気にして、こんな田舎の村までやって来た。その愚かで幼稚な行動も、今となっては無為であるとは思わない。
「わたしの負けです、ガリーナ。貴女は戦う前からわたしに勝ってた。でも、いつか」
――いつか、貴女の様に底なしの笑顔で笑う事が出来たなら。
その時こそ、自分は誰よりも強くなるのだと思う。
そして巫女は、この村に来る以前よりは強くなった。恐ろしいものと戦うという経験をしたし、人に助けられるという経験をしたし、見知らぬ村の友達を作るという経験もした。
経験は、何にも変えがたい宝に違いない。
「また遊びに行こうっと」
輝くような笑顔で夕暮れの空を仰ぎ、ふと少女は足を止めた。
草原を見回し、背後を振り返り、行く先を見て――
「……どっちが王都だっけ?」
かあ、と鴉がやる気の無い声で啼いた。
数日後、王都とは全く違う方向にある町の近辺で大泣きしているいい歳の迷子がその地方の領主に保護されたことは、特に話題にはならなかった。