4
「ああ本当に何してるんだろ、わたし。ほんともう馬鹿。ゴミ。屑」
先に立って歩く執事の後ろを、足を引き摺るようにして着いて行きながら、少女は幽鬼のような顔をしてぶつぶつと呟いた。執事は、時折振り向いては肩越しに少女の様子を見、彼女の被っているものに視線を送っては前を向く。
指摘された通り、少女は聖教会の巫女だった。それは本当。それだけが本当。
幽霊屋敷の話なんてこれっぽっちも存じ上げなかった上に、巫女だから除霊が出来るなんてそんな短絡的な話は無いと思う。率直に言えば、幽霊なんて死ぬほど嫌いだ。勿論、除霊など出来るはずもない。
少女がこの村に来たのは、全く別の理由からなのだ。
「でも今更言えない……いつもいつもそう、気が付くと周りが勝手に……ううん、わたしが流されるんだわ。流木じゃあるまいし。ほんともう阿呆。優柔不断」
真下を向いてぶつぶつぶつぶつととりとめなく独り言を続ける少女は、いつしか突然立ち止まった執事の背中に思い切りぶつかってもんどりうって転んだ拍子に三回転して上手い具合に正座して止まった。背後を振り返った執事は、何故かきちんと手を揃えてこちらに向かい正座した鍋を被った巫女に眉を上げながらも、何も言わずに道の先を指し示した。
「どうやらアレが噂の屋敷のようです。なかなか厳しい建物ですな」
鬱蒼とした両脇を固める木々の合間に見える、強固な作りの石の建物。
この村にしては華美な装飾のそれは、一体何年放置されてきたのかと眉を顰める程に汚れていた。
「これはまたなかなか」
執事がそう呟くが、少女は何も言えずにただ震えてフライパンを握り締めるだけだった。先程までの麗かな天気はどこへやら、乾いた冷たい風と俄かに溢れ出す曇天が屋敷を覆いつくし、不吉な鳥の叫び声が辺りに響き渡る。
ごくりと喉を鳴らし、軽い足取りで進む執事の後をつかず離れずついて行く。
執事は正面玄関を通り過ぎ、庭に向かった。
「うひゃっ」
見えない誰かに髪をひっぱられ、少女は涙を堪えながら前を行く人間の腕にしがみつく。体中を嫌な汗がつきまとい、それでも身体の芯から冷えるような空気。しかし執事は平然と、屋敷の裏にあった井戸に目を付けて歩み寄った。
「ひ、ひつじ《・・・》さん、ここに何か?」
「いえ、もしかしたらカイムスターン殿は空腹か寝不足か何かその辺の理由で倒れているんじゃないかと思いまして。杞憂でした」
腹が減って井戸に落ちる人間も珍しいんじゃないか、と巫女は思ったが、すぐに思考が凍結した。
ぽっかりと空いた井戸の中から、おびただしい数の青白い手が現れたのだ。
手はゆらゆらと藻のように揺らめき、二人においでおいでをしながらゆっくりと這い出してくる。
「うきゃああああああ」
絶叫して尻餅を付く。逃げようにも足が動かない。
こんな恐怖は、いじめっこに路地裏まで追い掛け回された時以来だった。恐るべき冷気が足元に纏わりつき、しゃくりあげる。
手は肘の辺りまで露出させて這いずり出てきた。
その刹那、
「趨走氷鎧!!」
凛と響いた声と共に、冷風と空気の軋む音が聞こえた。
執事の放った冥魔術が、手共々井戸を完全に氷で包み込んだのだ。手は完全に凝固し、琥珀の中の虫よろしく氷漬けになる。
執事はその様子をまざまざと眺め、腰の抜けている少女を振り返った。
「こう、細かくて気味の悪いものほどつい注視してしまいませんか? ボウフラとか毛虫の死体とか蛙の卵とか」
「し、し、し、しません……」
「そうですか、残念です。ところで矢張りこの屋敷は相当なもののようです。気合を入れて行かないと、我々もこの手の仲間入りをしてしまいかねませんな。ははは」
全く変わらない表情のままそう言い切ると、執事は未だ座り込んでいる少女の襟元を掴み上げて玄関へと向かった。引き摺られながらも、凝固した手の群れから目を放すことが出来ず、(あ、やっぱり注視しちゃう)と妙に冷静な頭で納得したが、それは混乱の極みの逃避であることは彼女自身よく解っていた。
「あの、なんで平気なんですか。手ですよ、手。ゆらゆらしてるんですよ。幽霊ですよ」
掠れ声で尋ねると、執事はもう一度抑揚無く笑う。
「毛深い男の筋肉質な足が何十本もゆらゆら出てくるよりはマシかと」
それはそうだ、と少女はかくかく首を振って納得した。
玄関前に戻ってくると、腐った大きな木の扉が眼前に現れた。二人は暫く無言でその扉を眺めていたが、やがてそっと取っ手に手をかけ引く。勿論それを実行したのは執事で、少女はその背中に隠れるようにして目を見開いて中を覗き込んだ。
中は外よりも冷たく、埃だか霧だか分からないような白い靄がかすかに沈殿している。
「ひ、ひ、ひつじさん、絶対離れないでくださいね、絶対ですよ」
執事は凍らせた表情のままに廊下の最奥を見据え、部屋の窓から差し込む光すら殆ど届かない暗闇の中をすうと半透明の膝から下が歩いて通り過ぎるのを認めると、大きく頷いた。そして取っ手にかけた手に力を入れ、
「わたくしは、後方支援ということで」
言い置くや否や、少女を中へ蹴っ倒して風のように扉を閉めた。
「ふぎゃああ!? ひつじさんひつじさんひつじさーん! 無理です無理です無理ああ駄目駄目ほんと駄目ですってば失禁しますよあああぎゃああああ」
唐突に訪れた闇に動転し、頑なに閉ざされた扉に縋りついて泣き喚きながら叩きまくるが、相手はうんともすんとも言わない。どうやらあっさりこの場を去ってしまったようだ。
「やだああああもう死ぬうううう」
少女は涙と鼻水で顔をくしゃくしゃに歪め、暗闇と冷気に包まれたままその場に座り込んだ。
ひとしきり恐怖に任せて顔から水分を放出した後、呼んでもいない冷静がすり足でやって来た。
暗い家の廊下の影はおぼろげながらその輪郭を彼女の眼前に現し始め、地の底から聞こえるような子供の軽い笑い声と獣の唸り声が彼方から聞こえた時、少女はフライパンを抱きしめたまま意識を深淵へと突き落とした。
失禁じゃなくて失神でよかった、と何やら妙に塩辛い涙を味わいつつ幼女のように小さく微笑みながら。
それから時は少し前に遡る。
朱色の聖服を着た聖女は、屋敷を前にして佇んでいた。否、動けずにいた。
相当古い物件よろしく、石造りの建物には苔や蔦がびっしりと繁茂し、木戸は腐って落ちていた。外はこんなにも明るい春の陽光に輝くと言うのに、屋敷の周囲だけ暗澹たる空気が纏わりついている。うっすらと霧がかかっているようにすら見えた。
ごくりと喉を鳴らすと、口を開ける。
何を言おうか、考える前に行動に移したので、そのまま暫く硬直して思考を巡らせる。そして思い切りよく、ただし声は小さく、呼びかけた。
「カーイムさーん、あーそびーましょー」
余程混乱しているらしい事が自分でも解る。
十年近く退行してしまった。
「いやいやいや違います。幼き日の幻影に惑わされてはいけません、私はもう十七のおしりの小さなきゅーとな大人のナオンなんですから。遊びましょう、じゃなくて遊んでかない?とかが良いんじゃないかと。聖騎士さんも五巻でこの手の女性に好意を抱いていましたし」
ぶつぶつ言いながらその場でぐるぐる歩き回っていると、館の奥から咆哮が聞こえた。
ぴたりと足を止め硬直してその声を聞くと、それは悪霊の声とも獣の声ともつかない、敵意をあらわにした恐ろしい響きを持っていることが嫌でも解った。
顔面蒼白で館を凝視していると、暫くの間の後に再び咆哮が響く。
その瞬間、幼い頃の怖ろしい思い出がありありと蘇ってきた。何の為かは解らない、誰かと遊びに来たのかもしれない。かくれんぼをしようとしたのか、単なる肝試しか――とにかくここに来た。
黒くて大きくて怖いのが物陰から自分を見ていた。
動く事も出来なくなってしゃがみ込んでいると、沢山の白い手が現れて、波の様な哄笑が響いて。
気が付くと月明かりの下を大人の手を引かれて歩いていた。振り返り、黒い館は遥か彼方で小さく佇んでいたのを見て、その時に初めて自分はあの幽霊屋敷から逃げ出せたのだと気付いたのだ。
と、いうことを、今の今になって素晴らしいタイミングで思い出してみた。まるで無くしたパズルのピースを肥溜めの中で見つけた気分だ。
「……ああ……普段は必要な事すら忘れる癖に、どうしてこう……どうでもいいことを……」
背を這い上がる根源的な慄きに眉を顰めつつ、腰の引けた体を震わせる。薄い霧が朱色のスカートに纏わりつき、まるで生き物のようにうねっては溶け揺れては消える。体の芯から凍るような冷たさも益々強くなってきた。
しかし、それでもガリーナは退かなかった。
恐怖のために半ば自暴自棄になっていた所為でもあるが、カイムに会って話をする事が現在の彼女の人生最大の目標になっていたからである。最大限努力して嫌われるならまだマシだ。努力無くして諦めるのは絶対に嫌だった。
「ええい、死んで花実が咲くものか! 従ってしぼんでる貴方がたは怖くありません、お邪魔しますよこんにちは!」
二階の窓から顔を覗かせている黒い影のような顔に力強く手を振って、鼻息荒く扉へと突進する。より強くなる冷気が足元を這いずり上がり、その冷たさに紛れて足首を掴もうとする見えない誰かの手を蹴り上げながら館の内部へ踏み込んだ。
暗い。
「あ、蝋燭忘れた」
そう呟いた瞬間、背後の扉が勢い良く閉まる。
夜のような闇が訪れ、暫くガリーナは立ったまま微動だにしなかった。腰が抜けたのである。
長い間の後、そろそろと後ろ手に扉の取っ手を持ってがたがたと動かし、
「やっぱりねー」
軽い声で乾いた笑いを上げながら何時までも開かない扉をがたがたがたがた鳴らしていた。
やがて目が闇に慣れてくると、荒れた玄関の様子が明らかになる。戸板から漏れる僅かな外の光のお陰で、完全な暗闇にはならなかったのだ。屋敷は矢張り大きく、アルプー領主の壮大で華美な作りとまでは行かずとも、ホールが存在する上に螺旋状のステアケースが上階へと導いている。床も大理石で菱形の模様を描いていた。
この屋敷を本気で修築したらとんでもなく美しく無駄なものになるだろう、と考えながら、ガリーナは取り敢えず前に進む事にした。後ろに退けないのだから仕方が無い。
吹き抜ける隙間風に身を震わせ、小さな声で言う。
「カイムさん、いますか」
「なあに」
頭のすぐ後ろで声がした。思わず立ち止まり、振り返らずに目を強く閉じる。
「わ、私の知ってるカイムさんは、そんな繊細な少年合唱団みたいな声をしていません」
小さな含み笑いへと姿を変え、背後の声は廊下の奥へと消えて行った。
耳に痛い程の沈黙の中を、体を凝固させて目を閉じている。こんな恐怖はかつて無い。怖さを通り越してどこか達観してしまうほどの混乱に心を奪われないように、ガリーナは胸の前で強く両手を握り締めた。
帰りたい、と心底思う。もうカイムなんかどうでもいいじゃないか。嫌われたままでも構わないだろう。この恐怖に勝る恐ろしさを、全体彼がもたらしてくれるとでも言うのだろうか?
「……違います、それは違います」
カイムがくれるのは、きっと恐怖ではない。
安堵だ。
安堵を求めるからこそ、ガリーナは今ここに居るのだ。この幽霊屋敷に。
ざわざわと遠い声が聞こえた。咄嗟に目を開けると、廊下の曲がり角の向こうから、青白い波のようなものが這い出してきている。声は何かを呟き、笑い、さざめき、波と同調して揺れる。
思わず身を引いたその瞬間、津波となって襲い掛かった。
「うひゃああ!」
我ながらもう少し可愛らしい悲鳴が出ないものかと青い炎に揉みくちゃにされながら思う。笑う波は彼女の手や足や髪を掴み、廊下を風のような速さで押し流れてゆく。
「ちょ、ちょ、ま、待っ」
余りの冷たさと衝撃に目を回しながらも、ガリーナの怖ろしい速度で移動する視界はある一点を捉えていた。ぽっかりと穴の開いた書斎らしき部屋。たった一瞬だけであったはずなのに、眼窩の奥に焼きついて離れない。
あそこの古い机の下で、幼い聖女は座り込んでいたのだ。
黒くて大きい、怖い何かから隠れる為に――。
悲鳴が口から漏れる直前、獣の唸り声がした。
青白い波が怯むのが気配で伝わり、次の瞬間、突然どこからか現れた黒い獣が彼女目掛けて咆哮を上げながら突進して来る。
その大きな音響だけを脳裏に残し、ガリーナは自分の体が深い闇へ沈んで行く感覚を味わっていた。