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なんとかファイと鐘を元通り鐘楼に吊るした後、少女は寺院の尖塔が見えなくなって呼吸困難に陥る一歩手前まで走り切り、傍の家の水桶の隣に座り込んだ。途中で何度も転んだので、膝当てに隠れた皮膚に渋い痛みがよぎる。
重い鐘を二人きりで持ち上げるには、彼女の筋力は脆弱だった。緊張から解けぬまま妙に硬直している腕の筋肉は、明日辺りに痛みを発しているだろうことが容易に予測出来た。
――何をしているのだろう、自分は。
「ああもう、わたしの馬鹿! いくじなし! のろま! ぐず! 虫けら! 何しに来たのよ、この村まで」
自分の桜色の頭をぽかぽこ殴りながら、体を縮めて青空を見上げる。
蒼穹の美しさが目に沁みて、涙がじんわりと滲んだ。慌ててそれを拭き取り、大きく肩を上下させて息を整えると、思い出が頭の中で閃光の様に閃いた。
のろま、ぐず、ぬけさく、うつけもの、うしちち。
何時も投げかけられる、冷たい視線。言葉は刃のように彼女を傷付け、追いやった。
誇り高い周囲の少女達は常に美しく高慢で、優れていた。そんな中に一人放り込まれた自分は、まるで孔雀の群れに紛れ込んだドブネズミ。いや芋虫。鋭い爪に踏み裂かれながら、啄ばまれないように無様に逃げ続ける。
今回だってこうやって逃げて来ている。
逃げる事から逃れる為に、この村までやって来た。
しかしそれでさえ、本来の目的を果たすには押しが一歩も二歩も足りず、周りに流されては遠い岸辺まで流される。意志と勇気というものが、決定的に足りないのだ。
「そうよ、頑張るの。わたしは絶対、変わってみせる……芋虫だって、いつかは蝶々になるの!」
そして拳を握り締めてからちょっと考え、蝶々は言い過ぎだなあ、蛾でいいや、と訂正してから立ち上がる。服に付いた土埃を払い、あの聖女の事を思い出した。
明るい色の服がとても良く似合う、可愛い女の子。今はまだ幼い面影が残っているけれども、あっという間に美しい孔雀の羽を広げるのだろう。じっとりと苔の生えた用水路が似合う自分と比べると、その愛に満ちた何一つ翳りの無い輝きは余りに強い。
「いいな……。わたしもあんな風に、皆に好かれる素敵な女の子に生まれたかったな」
それはとても、適わぬ願いだけれども。
水桶に寄り掛かりながら、少女はぼんやりと春の風に吹かれた。
「ごめんね、聖女さん。わたしは貴女を、必ず――」
そう口の中で呟いた時、異様な気配が家の反対側から伝わってきた。少女は怪訝に思い、水桶から離れて壁から顔を出し向こうを見る。そこは村の中央を走る路で、宿屋に行くにも村の最奥にある聖女の自宅に行くにも、ここを通ることになっていた。彼女はここに来て既に三日程経つので、一番馴染みのある路と言えるだろう。
その路の真ん中で、大人達と一人の子供がなにやら大騒ぎをしている。
少し首を傾げて様子を伺っていたが、少年が余りに派手な反応を返すのが面白くて、つい近くまで寄って行った。
「出たあああああ!!」
キリアの絶叫に顔を顰める事もなく、無遠慮に突き出された人差し指を流麗な動作で払いのけると、黒服の人間は僅かに目を細めた。黄橡色の瞳はキリアを見下ろして、品定めをするような光が宿る。
「相変わらずちびっこいですな。夜寝る前に暖めたミルクを飲むと良いでしょう。嫌と言う程伸びること請け合いですが伸びなくてもわたくしの所為ではありませんのでこの助言を逆恨みすることの無いようお願い申し上げます」
「意味わかんねえよ、ていうか失礼な奴だな! 何だよ何の用だよ、言っとくけど術合戦なんかしないからな!」
十二分に相手との距離を置き、裏返った声で叫ぶキリアに、マーブルが呆れたように諌める。
「こら坊主、領主さんとこの元執事様だぞ。失礼な事を言ってるのはお前の方だろうが」
「宜しいのです、副村長殿」
ばんばんとマーブルに頭を叩かれながら、キリアは眉を顰めた。「元?」
すると執事は儚げな薄い笑みを浮かべ、遠くを眺めて言う。
「所詮わたくしは主も持たぬ野良執事。暖かな食卓をドアの隙間から覗き見しては殺人事件の証人になった上に自伝を出すという高邁な夢は怪馬の咆哮と共に露と消えたのでございます」
ぎくりとキリアは肩を揺らした。目を泳がせて在らぬ方向を見るが、視界の端で執事が自分をあからさまに凝視し始めたが映り、頬を痙攣させる。
「まあ、そういう訳ですので、求職中です。如何でしょう、副村長殿」
いかがって言われてもなあ、とマーブルは困惑したように顎を掻いた。勿論、内心若い者が来るのは大歓迎であるが穀潰しでは困るのだ。
「領主の館が壊れたのはお気の毒だが、執事、なあ……。何か特技でも? 例えば畑仕事とか建築とか調理とか子作りとか」
「そ、そうだよこの村に文系も術系も必要無いんだよ。腕っぷしの弱い優男はとっとと帰れ――って子作りって何だよ!」
これぞ予定調和、とばかりにマーブルの胸に平手打ちをするキリアを無視し、執事は続ける。
「失敬な。わたくしは執事学校の中の執事学校、王立白薔薇執事学校を卒業したエリートですぞ。紅茶に掃除に諸外国語、数学理学文学政治学法学帝王学権謀術数馬術占術弓術武術冥魔術冠婚葬祭庭の手入れ人前で上がらない方法ラブレターの書き方に嫌な客の追い返し方、嫌な霊の追い払い方も一通り学んでおりますし資格もあります。ちなみに先日の国内執事番付では八番目にエントリーされました」
「なんて無駄な知識……」
キリアはぽかんと口を開け、その話が本当ならば英才教育ばりに知識技能を叩き込まれたであろう文武両道の人間を見つめた。しかし、とてもそうは見えない。細い体は武術など嗜んでいるには随分と華奢な上、背も平均的な男性よりもやや低い。背中に届く髪を後ろで一つに束ねている所も女々しくて厭だ。ただし顔は良い。温和な香りのカイムとは対照的な、鋭利な匂いのするハンサムっぷりだ。キリアは執事が一層嫌いになった。
「ちなみに都立赤薔薇執事学校というのもございまして、我が白薔薇校と共に執事界の竜虎と呼ばれております。五十年近くに渡る両者の軋轢は薔薇戦争と呼ばれ」
延々と薀蓄を垂れ始めた執事を無視し、副村長と通りすがりの羊飼いの男が相談を始めた。
「いくら氷の術が凄くても、ここじゃ役に立たねえ。畑仕事だっておれのほうがよっぽど上手いぜ」
鼻の穴を広げ、自慢げに言う少年の肩に下がった籠の中身を注視しながら、執事は口を噤んだ。ややあって、「いつでもどこでもかき氷を」と返す。キリアは口を引き攣らせた。
めちゃくちゃ便利だ。
更に、「冬でなくても池をスケート場に」と続けられ、彼の心は誘惑へと大きく揺り動かされる。駄目だ。これ以上、子供にとって魅力的な提案をされては、彼は許してしまう。執事を村の一員として受け入れる事を、マーブル達に笑顔で頼んでしまう。
(駄目だ、負けるな! こんな殺人未遂エセエリート、村に必要ない! ああでもかき氷かあ、砂糖とマカプの汁かけると美味いんだよなあ是非夏にも食べてみたいなあ、もういいや、ウェルカムかき氷)
一呼吸未満の懊悩の後、キリアはにこりと笑顔を作った。
そしてマーブルに向けて言葉を発さんとするその瞬間、騒がしい男が輪の中に飛び込んできた。ファイだ。入れ替わりに、羊飼いが去る。
キリアは我に返り、慌てて顔を引き締めて飛び退った。執事はそんな少年の様子を見て、小さく舌打ちをする。
(しまった罠だったか! 危ないところだったぜ!)
一筋の汗が頬を伝い、薄い笑みが浮かぶ。二人の視線が火花を散らす。そんな緊迫した戦場は、例の小でぶのうるさい声にも掻き乱されることなく展開された。
「何、また新キャラね? 料理出来る? なら早速ウチに」
「待ちな、ファイ。若手は村の共有財産だ。勝手に決めて貰っちゃ困る」
どれだけ鋭く嗜めても、赤や黄やの派手な格好をしている為に貫禄は半減する。それでも副村長のその言葉に、ファイは言葉を沈めて体温を下げた。
誰がどこでどんな労働に従事しているか、村内会は全て把握しなければならないという決まりがある。それを見て、村の機能として不都合が生じる場合は、マーブルらが勧告して異動させるのだ。先程の件のように、いくらバーバババ亭や九里金豚がカイムを勧誘しようとも、最終的な決定権は本人とマーブルにある。
ファイは慌てて、カイムの身元は自分にあるという事を先手を打って主張しようとした。
「勝手にじゃないよ、あのカイム君だってウチに来るって言ってくれるね。ガリーナを屋敷まで遣わしたから、より確実ね。若い娘に頼まれたら誰だってウンと言うよ、だから彼はウチのものね。そっちのお兄さんはどうか知らないけど」
大いに勘違いをしている。
しかしマーブルは彼の言葉の、別の話題に興味を示したようだった。
「そういや、カイムはどうしてる?」
「さあ。ここ数日外に出てないみたいよ。しかも最近、あの屋敷から不気味な唸り声が」
「……あー、うん、やっぱりな。……じゃ、日の高いうちに青年団に救出してもらうか。やっぱ捌けねえなあ、あの幽霊屋敷は」
途端、見えない刃で執事と殺陣を繰り広げていたキリアが顔を上げて眉を吊り上げた。
嫌な予感がする。
知っている、このパターンを。哀しい事に、彼は誰よりもよく知っている。
「なあ、もしかしてだけどさ。カイムの兄ちゃん、幽霊屋敷に住んでんのかな。そんでもしかしてだけどさ、ガリはそこに独りで行ったのかな。――いや、いい、何も言わないでくれ。ちょっと待ってくれ。殺しそうだ」
キリアは蹲ってこめかみを両手で押さえる。
何故こうも毎回同じパターンであのバカは簡単に虎の穴にスキップで飛び込むような事をするのだろう、ああそうかバカだからか、と痙攣が止まらない瞼を強く閉じて口を歪める。どこかの血管が切れる音がした。
「幽霊なんて噂ね。大丈夫、すぐ帰ってくるよ」
「おっさんのその言葉が如何に信頼出来ないか、おれはよおおく知ってるからな」
地の底から這い出る節足動物のような声に、流石のファイもその言葉の意味が理解出来ぬまま黙り込む。マーブルも、ばつが悪そうに手櫛で白髪を梳かした。
「分かった、分かった。すぐ青年団に連絡するから」
「あいやお待ちを」
涼やかな声が響く。
見ると、執事が片手を軽く挙げて三人を眺めていた。些細な動作も麗しげで、それがまたキリアの癪に障る。
「その役目、わたくしにお任せ頂けませんか。上手くいった暁には、わたくしを村の執事として雇ってくださるという条件で」
「あんたが? いや、事は一刻を争う感じっぽいからな、あんたを試す余裕は無い」
お忘れですか、と執事は眼鏡を押し上げ少し笑った。
「私が白薔薇出身の国内八位のエリートだということを。悪霊退治も嗜んでいると申し上げたはず――貴女も聞かれましたね? そこで立ち聞きしているお嬢さん」
え、と小さな驚愕を表す声がした。
三人は一斉に執事の指差す先を見た。
そこには、フライパンを大事そうに抱えて佇んでいる桜色の髪の少女がいた。相変わらず挙動不審で、全員の注目を一身に浴びた事に混乱を極めている様子だ。
「ああ、鐘を上げるの手伝ってくれた子ね。三四日前にこの村に来たって言ってたよ」
「ふ、ただの客人ではございませんな。体脂肪や原色やちびっこの目は誤魔化せても、このわたくしの目は誤魔化せません。――貴女のその花と星をあしらったレグレット、王都聖教会の巫のものですね」
青空に高らかに響く執事の声。
びくりと肩を震わせ、少女は柳眉を下げて言葉に詰まった。
その間隙に、大人達は怒涛の勢いで彼女に迫る。
「み、巫女さんだったの? さすが聖教会ね、地獄耳よ! 訴え出る前に助けに来てくれるなんて。早速除霊をお願いね!」
「え、あ、あの、いえ」
「巫女殿、わたくしはライバルがいてこそ燃えるタイプですからご安心を。この際、協力して幽霊屋敷を綺麗な屋敷にしようではありませんか」
「そ、あの、ど、え」
「で、巫女さんなんだよな?」
「……はいそうです悪い悪霊をやっつけるために来ました」
涙目で何度も何度も頷く少女の肩をばんばん叩きながら喜ぶ大人を横目に、少年は歩き始めた。
幽霊となればもう駄目である。プロに任せるしかない。
自分に出来ることは、宿屋にいるミミと世間話でもしながらおやつを食べつつガリーナ達の安全を祈るだけだ。その際、バーバババ亭に寄って芋虫を三百エンスで売ることにする。これで二人分のおやつは余裕で確保出来る計算だった。
口笛を吹き鳴らしながら、大人って凄いなあ、と空を仰いだ。