2
あくまで伝説という観点から言えば、この太陽と月の元にある世界を人界という。そして例えば蓋の裏にくっついたナモ草まんじゅうのように、人界の反対側にくっついて広がっている夜の世界、これを冥人世界又は冥界と言う。冥人とは、ヒトと似た体を持つ知能生物であるが、その生態はまるで一線を画すものである。曰く寿命はヒトの十倍、子を生さず、恐るべき目に見えぬ力を持つ。尤も、冥人を見たものはほぼ皆無であるため、伝説の域を出ないのはこれも同様である。
さて、人が死ぬとその魂は地面に沈み、冥界へと行き、冥界の空を漂いやがて星になる。
逆に生まれる時は、星が落ち地面に沈み、人界へと浮遊し生物の中に宿る。
このように、人界と冥界は表裏一体、切っても切り離せない存在同士なのであり、冥界の夜の星の力を拝借する冥魔術を人界で多用する事は双方のバランスを崩しかねないと推測される。
但し、それを本心から信じている者は余り多くない。冥魔術遣いですら、それは「冥界の力ではなく、冥府の力だ」と言い放つ。冥府というのは生という壁を越えた者たちの精神世界と定義されているが、検証も何も無いので伝説と大して変わらないものである。
従って、冥界だと主張する聖教会と冥府だと主張する冥魔術協会で絶えず論争が繰り広げられているのも、仕方の無い事だと言えよう。 カイムさんのばか。
今我々に必要な事は、どちらの説が正しいか否かと喧々諤々論ずるよりも、術をどのように社会に貢献する道具とまで昇華させることが出来るかを検討する事であろう。 なんちゃってぷー。
冬第二月、アンドルフ助教授記。 趣味はふんころがしをじっと見つめること。
こと、と落書きをし終わると、ガリーナは本をたたんで寝台に突っ伏した。哀れアンドルフ助教授の名著「冥界と人と洗濯板のぬめり取りに関する考察」は意味の繋がらぬ文脈の宝庫と変化した挙句、床へと放り投げられ単なる脚立代わりへと落魄する。元々この本は、漬物石代わりにと隣の村に住む父親から貰ったものなのだ。肝心要目の中身は三頁目に涎の跡を付けられているのだから、後は推して知るべしである。
それよりも今、彼女が本当に読みたい本があるとすれば、それは「サルでも出来る!怒髪天をついた相手に許して貰える方法」なのである。
用無しだとか馬鹿だとか阿呆だとか、そういう言葉には慣れている。どんなに悪口雑言を並べられても、大して何とも思わない。それが普通だと思っていたから。
けれど、あそこまで徹底的に嫌われ避けられるのは生まれて初めてだった。十七年間生きていて、初めての体験なのだ。
咄嗟に枕に顔を押し付け、小さなくぐもった声を出す。
「怖いよう……おじいちゃーん……」
一昨々年亡くなった祖父の笑顔が脳裏に浮かび、少女は鼻をすすった。
まさかずっと、この状態なのだろうか。嫌われ続けたまま、怪我の完治した彼は村を出て二度と戻って来ないのだろうか。
心臓が喉元まで上がってくる。息をするのが苦しくなってきて、ガリーナは枕を放り投げた。それはアンドルフ助教授の厚い本に落ちて跳ね返り、ベッドの真下に転がって来た所で、急に手持ち無沙汰になった少女に再び掴み上げられた。
「嫌です、嫌われたまんまなのは絶対に嫌です……」
それは自分の我侭なのだと解ってはいる。都合の良すぎる願望だと解っている。
けれども、他人の負の感情を看過する事が出来るほど、彼女は大人でも無関心でもなかった。馬鹿でも阿呆でも用無しでも良い、どんな言葉でも構わない。その鉄のように堅く冷えた声を溶解してくれるのならば、どんな事でもしようと思う。抱きすくめた枕がみしみし音を立てた。
「もう一度です、これが最後です。全身全霊を賭けて、強烈な土下座を一発かましてきましょう。仕返しに十連撃させろと言われたらいくらでも頭を差し出しましょう。そうです、謝るんです!」
鼻息荒くそう立ち上がった時、既に最後の別離から丸二日は経っていた。
椅子の上に丁寧に畳まれて置かれたヴェールを取り、髪をその中に仕舞い込む。そろそろ暖かくなってきたので本当は被りたく無いのだが、一応正装なのでしない訳にはいかない。気の置けない村人に会う為ならば構いやしないが、相手は自分に対して激怒している人間なのである。力一杯礼儀を弁えた格好をしていかねばならないだろう。念の為、抽斗を引っ繰り返して、昔母親から貰った香水を一滴耳の裏に付けた。
最後にスカートを叩いて気合を入れる。これで戦闘準備は完了した。一部の隙も無い。
ガリーナは玄関の扉に突進すると、その勢いで扉を開けた。
その瞬間、眼前にちょび髭が襲い掛かる。
「ひょえ!」
奇声を発し、少女はちょび髭を避けた。髭が襲い掛かる訳が無いことは良く考えなくとも分かるようなものだが、彼女にとってちょび髭は過去の学習により本能が避けるようにと命令を下しているのである。結果、その勢いで地面に顔面から激突し、土埃がもうもうと上がった。
玄関をノックをしようとしていた所だったファイは、矢庭に飛び出しては奇声を上げそのまま地面へとダイブした少女を唖然と見下ろした。
「……せっかく……綺麗にしたのに……」
土や草に塗れた体を大地に横たえたまま、ガリーナはめそめそと顔を覆う。しかし、彼女の奇行にすっかり適応しているファイの次の言葉に、勢い良く体を跳ね起こした。
「あんた、鐘を直してやる代わりにわたしの言うこと聞くか?」
「本当ですか? 良かったあ、これで毎日ぼくぼくじゃなくてかんかんと鳴らせます! 何でもしますよ!」
余りの嬉しい衝撃に、カイムの事を瞬間的に忘却してしまう。
例の大地にめり込んだ鐘は、そろそろ居住まいが宜しくなってきたようで、何の違和感もなく玄関先に鎮座している。聖女は律儀にも、時間を知らせる音をそのオブジェから毎日鳴らしていたが、鐘楼にあった頃を懐古するのも難しくなるほどに、半径八トーマス内を陰鬱に響く。
しかし次に与えられた新たな衝撃に、少女は言葉を失った。
「カイム君ね。うちの店に来るように説得して欲しいのね。わたしはほら、忙しいから、あの屋敷まで行けないし……」
「あの屋敷? って、あの幽霊屋敷ですか? ……まさかカイムさん、す、住んでるんですか?」
曖昧に頷くファイの広い額を見ながら、ガリーナは驚きを禁じ得なかった。
あの屋敷――村外れの広い屋敷は村には稀少の裕福を象徴するものであるはずが、何時まで経っても買い手が付かずに放置されていた。何故ならば、七十年近く前に持ち主が蒸発し、それ以来、魑魅魍魎の跋扈する館として恐れられているのだ。幽霊屋敷という簡素な名前の他に、首吊り坂のトンガリ屋敷、悪魔が来たりてほら吹き屋敷、往きは良い良い帰りは怖い屋敷など、適当な二つ名を持っている。
二日前にカイムがマーブルに連れられて向かったのを見たが、ガリーナはそれをただの胆試しだと思っていた。まさか住むなどと、誰が考えただろう。
実は彼女は、幼少期に一度だけ赴いた事がある。しかし、その記憶が無い。気が付くと真夜中、大人達に手を引かれて屋敷から自宅へ繋がる道を歩いていた。恐らく、余りの恐怖体験に記憶が綺麗に吹き飛んでいるのだろうと思う。
さて、一大事である。
ガリーナは彼が未だ宿にいるものだと思っていたのだ。幽霊屋敷に居るとなれば、カイムに会いに行く勇気に加え、幽霊に会いに行く勇気も加算しなければならない。
すっかり意気消沈してしまった少女を追い立てるように、ファイは唾を飛ばした。
「鐘は平気よ、さっき暇そうな人見つけたから。一緒に手伝ってくれるって、ね、あんた」
すると、ファイの後ろで曖昧にああとかううとか呻き声が聞こえた。
全く気付かなかったが、彼の背に隠れるようにして何時ぞやの桜色の髪の少女が小さくなって俯いている。存在感がこれほどまでに稀薄な人間も希少だろう。
「あら、この間のしょぼん玉の方ですね? どうもありがとうございます」
微笑むガリーナを一瞬だけ上目遣いで見ると、彼女は地面を向いて顔を赤くしたり青くしたりする。蚊の鳴くような声で「わたし、その、」と何かを言いかけるが、声量の大きいファイが遮った。
「さ、行ってくるね! 九里金豚の未来はあんたにかかってるよ!」
その言葉に奮い立たされたのか、
「望むところです、こちらから宣戦布告させていただきます。幽霊など何するものぞ、我が土下座を邪魔するものはおじいちゃんの入れ歯で撃ちてしやまん、ってもんですよ」
俄然鼻息を荒げて行ってしまった彼女を見送りながら、あの子は少し読む本を選んだ方がいい、とファイは漠然と考えた。次に彼は聖女を泣き出しそうな顔で見送る少女を見ると、彼女が大事そうに抱えているものに気付く。
「あんた、いいフライパン持ってるね。料理するの?」
「え……? あ、いえ、あの、これは、殴る為に」
「は?」
「う」
それきり黙りこんでしまった相手を不審げに見下し続けると、相手はどんどん萎縮して小さく小さくなってゆく。彼女が芋虫より小さくなる前に、ファイは鐘を持ち上げるよう促した。
+
とは言うものの、やっぱり怖い訳で。
「今日のテーマは踏ん反り返ってブリッジにゃんこの面の皮ですっ! こんにゃろめ!」
朱色である。
何故か息巻いている聖女を尻目に、キリアはしゃがみ込んだまま雑草を取る手を休めずに大根と芋の成長を憂慮した。この時期になると、当地特有の虹色の芋虫が葉を食い荒らすために卵から孵る。普通の芋虫ならば潰して肥しにして終わりだが、どうもこいつは炒めてやると良い酒の肴になるらしい。九里金豚かバーバババ亭に持っていけば、一匹三エンス程度で買ってくれるので、少年にとっては畑の手入れついでの良い小遣い稼ぎになるのだ。
肩から提げた小さな虫籠一杯に蠢く色鮮やかな芋虫を見下ろし、キリアはにんまりと笑った。
「三百は堅いな。ああ、労働って素晴らしい」
くつくつと喉の奥で笑い声を漏らす一方で、蔑ろにされたガリーナは寂しそうに隣にしゃがみ込んでその手元を見つめている。そして不意に籠に手をかけ、
「えい」
ぱちんと蓋を開けて逆さまにした。
滝のように落下し、そぞろ這い逃げる芋虫達。
「んな、何すんだああ!!」
「キリアは私なんかより毛虫の方が大切なんですね! ひどいです!」
「当たり前だこのおバカ―――!!」
よじよじ逃げる芋虫を引っ掴み、ガリーナに投げ付ける。それでは飽き足らず、まだ収穫には早い大根を抜き取ってぼこんぼこん殴りつける。
すぐに我に返り、踏ん反り返ってブリッジにゃんこの面の皮色のガリーナにたかった虹色の生き物を摘み上げて籠に再び放り込むが、大根を振るう手だけは休めなかった。
「あーあーもう……餓鬼みたいなことすんなよな。で、何なんだよ」
「今日、こそ、ちゃん、と、あや、まり、に、いた、痛い、です」
ぼこんぼこんと頭が揺れる度に言葉も揺れる。たんこぶがもりもりと成長するのを見て、流石にキリアは大根を捨てた。
「じゃあさっさと行けよ。なんでいちいちおれに言いに来るんだよ」
「む、そう言えばそうですね。そうだ、きっとキリアが私と遊べなくて寂しい思いを」
「してない」
「……ですよね。じゃ、うつくすぃ私といつも一緒に居たいな〜なんて思いを」
「抱いてない」
「……ですよね。じゃ、行ってきます」
寂しげに頷くと、スカートの土を掃いながら彼女は立ち去って行った。その小さな後姿を見送ると、少しだけ罪悪感が生まれてきたように感じ、キリアは雑草を思い切り引き抜いた。
本当はついていってやりたいが、これは自分の出て行くべき問題ではない。彼女自身が解決しなければならないものなのだ。頑張れガリーナ芋虫のように、と雑草と芋虫に注意を払いながら思う。
(それにしても変だよなあ、兄ちゃんの態度。怒るにしてもどうも不自然というか)
少なくとも、ああいう陰湿な怒り方はしないと思っていたのだが――。
あれではまるで、彼女が近づく事を厭うているようではないか。
大きく息を吐くと、考えるのを止めて再び虹色がぎっしりと詰まった牢獄を持って立ち上がる。今の内にどちらかの酒場に持っていけば、今晩中に商品として出せるだろう。待ってろ三百エンス、と呟いて大通り――ただの貧相な道なのだが、村の面目上そう呼ぶ事を好まれている――に出た。
すると、村の入り口付近で数人が佇んで話をしている姿が目に入る。その内一人は世話好きで名を馳せているマーブルで、どうやら村を訪ねてきた人間に対応しているようだ。
彼は単純な好奇心から、そちらに向かって客の顔を見ようとした。しかし次の瞬間、稲妻に打たれたように足を竦ませる。
その客人は、皺一つ無い黒服を影のように着こなし、彫像の如く背を垂直に伸ばしている。
少年の脳裏に一瞬閃光が走る。次に背中を走る怖気。本能が逃げろと囁いた。けれども足は木の根のように地面に張り付く。
やがて客人は、キリアに気付くと片手を上げ、気軽な調子で言った。
「おお、我が朋友よ、久方振りですな」
キリアの声にならない絶叫は、村を越え森を揺らし草原の果てまで響いたとか響かなかったとか。