人間ピラミッド
市破防衛大臣は自衛隊に、再び出動命令を下した。
最寄りの駐屯地からは、戦車隊が出没湖畔を目指して出撃した。
攻撃ヘリ部隊も、もうすぐ飛来する。
その時、鬼熊隊長から携帯へ連絡がきた。
「大臣、今やっと民間ヘリをチャーターしました。すぐに飛んで行きますんで、しばしお待ちを」
まったく。間の悪い男だ。
出動命令を受けた鬼熊の戦車隊は、隊長不在のまま、この場所へ向かっている。
市破は、
「急げ! 馬鹿者!」
とだけ言った。
この鬼熊隊長なのだが、退官して次の選挙に出馬する。との噂がある。
おそらくその通りになるだろう。
何しろ、髭の鬼熊戦車隊長と言えば、先の中東イラヌ国での支援活動で、全国的に有名になった好感度抜群の男なのだ。
真昼間のバーボンはやけに効く。
いつしか市破は独り言を言っていた。
実は最近、この無意識の独り言が多くなってきている。
「鬼熊二佐は知名度があるからな。きっと当選して退官するだろう。──
将来は防衛大臣にだってなるだろう。
その頃、俺は総理になる。なんて……絶対無理だな。
まあいいさ。
しかし見ておれ、俺だって、だてに陸将補になってから退官した訳ではないのだぞ!
何てったって将軍様出身だ。
最近増えてきた自衛隊出身議員の派閥を作って、派閥の領袖として、鬼熊の上に君臨してやる!」
「それも良かろう。じゃが君は、派閥の領袖なんてガラじゃないよ。なにより大切な事は、国民の幸福を第一に考える事じゃないのかね?」
自分に話しかけていると勘違いした山根博士が、真面目な顔で応えている。
そもそもゲスラの〝死体〟を収容したつもりの研究施設であった。
息を吹き返した後、眠り続けるゲスラを収容しているその建物は、ゲスラにとっては、カプセルホテルの中。といったところだ。
外からだって、グオー・グオーと、コンクリートの施設内に反響した大きなイビキの音が、あたかもフラットスピーカーのように、ビリビリと壁を震わして聞こえてくるのだ。
まさに大気も揺らぐ。
今や学者達も警備隊も、建物を遠巻きにして、怖々と見守っているばかり。
ゲスラが寝返りをうった結果、左の太ももの下敷きとなり、押し潰されて殉職した松尾首席秘書官の、遺体の回収さえ不可能な状態なのだ。
現在ゲスラは左向きの横向きで横たわっているのだが、いつまたその体位を、どのように変化させるのかは、誰にも予測出来ない。
そんなさなかの研究施設に、一機の民間ヘリコプターが飛来した。
しかも、そのヘリは施設の屋上ヘリポートに着陸するつもりだ。
市破が腕時計を見ながら呟いた。
「総理が戻ってきたのかな? あ! 鬼熊の馬鹿かもしれない!」
市破はさっそく携帯をかけてみる。
「あ! 大臣。こちら鬼熊。今、飛び立つところであります。遅くなりまして、まことに……」
ヘリは鬼熊ではない。やっぱり総理なのか?
「いいんだ。それより鬼熊、バーボンを一本、買ってきてくれ。──
それから着陸は、屋上のヘリポートを使うんじゃないぞ。
ゲスラが起き上がったら壊れちゃうからな。
俺はお前が可愛いから教えてやってるんだ。
必ず地面の上に降りるんだぞ。
バーボンは、小ビンやミニチュアビンじゃ駄目だぞ。
あ、それから柿ピーも買ってきてくれ」
時流をおもんばかって、決死の覚悟で禁煙を断行した。
元ヘビースモーカーの市破であった。
だからこそ、こればっかしは止められない。
ところで学者達も警備隊も、謎のヘリコプターに向かって、手を振り回しながら口々に叫んでいる。
「そこはダメだー!」
「地面に降りろー!」
だが、ヘリには聞こえない。
警備隊長が叫ぶ。
「誰か早く、ヘリポートへ行って使用禁止にしてこい!」
部下が質問する。
「具体的には、どうすれば良いのでありますか?」
警備隊長が怒鳴る。
「ペンキ持ってって、ヘリポートのマークに×印を付けて、脇に『着陸禁止』と書いてくるんだ! ぐずぐずするな!」
部下は質問を続ける。
「ゲスラの脇を通って行くのでありますか?」
屋上のヘリポートからは、施設の内部へ出入りする階段があるだけで、地上へ直接降りられる非常階段は無い。
そもそも一階建てである施設には、非常階段など必要無いと思われたからだ。
つべこべと隊員に口答えされた隊長は、怒り心頭だ。
「ゲスラが何だ! ビビるんじゃない! 貴様ら、それでも機動隊から選抜された特別警備隊か!」
しかし、隊員達は誰一人動こうとしない。
「馬鹿者どもがっ! よし! こうなったら俺が行ってやろうじゃないか! ……と思ったけど、もう着陸しちゃったな。残念ながら間に合わなかった。うん。これは仕方のない事だな」
と、調子の良い警備隊長であった。
ヘリコプターは、屋上のヘリポートに着陸した。
幅五十メートル×三十メートル、高さ二十メートルの建物なので、地上から屋上ヘリポートは、全く見えない。
市破が警備隊長に言った。
「あのヘリ、誰が来たのか、何とか判らんものかな?」
警備隊長が答える。
「は。我々特別警備隊が、必ずや来訪者を突き止めてご覧にいれます。大臣、どうぞお任せを」
警備隊長は外の白壁沿いに隊員を整列させると、人間ビラミッドを組み始めた。
「いつも訓練しとるのかね?」
と市破。
「いえ、今回が初めてであります。だけど大臣、俺たち、自衛隊には絶対、負けませんから!」
と警備隊長は、さわやかに、白い歯を見せた。
「ふう」
とため息を一つ漏らした市破は、湖岸の大きな石まで、てくてくと歩いて行った。
石の上であぐらをかいて、残り少ないバーボンの携帯ボトルを取り出す。
そして呟いた。
「タバコ……やっぱり……吸いたいな……」
「おー! とっとっと! わっわー!」
特別警備隊がどよめいた。
人間ビラミッドが、すんでの所で崩れてしまったのだ。
山根博士と学者達は、出没湖畔の食堂に向かってぞろぞろ歩き出した。