【モノリス】
小学5年の時だった。
同じクラスに気の合うオタク仲間が4人いて、へたっぴいなマンガを描いたり、無線通信キットを作ったり、アホらしい遊びを考えたり、いつも一緒に遊んでいた。
ちなみに、当時はオタクという言葉はなかった。
しかし、SF好きで、マンガ好き。
それから超安カメラ。これは激安というのとは意味が違う。
くじのオマケとか、多々存在する不思議な流通品だ。
バッタ品と呼んでいた。プラスチックレンズのカメラで500円とか800円で買える。
映りだって、オリンパスペンシリーズなんかの1万円クラスのカメラに引けを取らない。
しかし、デザインが、旧ソ連風とでも言おうか……かなりカッコ悪いから、他人に見せるのが、ちょっと恥ずかしい。
変なモノ好きで、機械好きで、オカルト好きのウンチク好きだから、ヨースルニ、オタクだった。
ムカシだから、番長みたいなのがいた。
コイツは多数派の親分だった。
この番長の取り巻き(今風に言うと、パシリ)の一人、丸夫って奴が、何かというと我が4人組を、めのかたきにしていた。
番長を敬わないで、シラッとした態度で接するのが、しゃくにさわるのだ。
ある朝、教室の中、丸夫が、新聞(?)の切り抜きを持って、わざわざ見せにきた。
切り抜きには、
『太平洋上を飛行中の未確認物体は〝葉巻型母船〟の可能性が高く、米空軍が追跡中。このまま進むと日本列島に到達する模様。自衛隊は未確認物体の飛行コースを割り出すべく……』
と、こんな感じの記事だった。
うっすらとした葉巻型母船の写真も掲載されていて、我々4人は、にわかに色めきたった。
まさにその瞬間、丸夫は、その切抜きをひったくり、ストーブに放り込んだ。(ムカシの寒いイナカだから、薪ストーブをガンガン燃やしていた)
「あー!」
と我々が叫び声をあげると、丸夫は、さも痛快そうに、
「うっひゃっひゃっひゃっ」
と笑った。
「おい丸夫! 今のはどこの新聞なんだ?」
と聞くと、
「知るか! クソバーカ!」
と答えた。
その後、我々の懸命な調査にも関わらず、その記事は発見できなかった。
「ありゃ確かに、新聞紙っぽかったよな」
「ザラ紙(少年マンガなど)でも、ワラ版紙(学級新聞など、ガリ版刷りで使う)でもなかったよ」
「ヨタ(ガセネタの意)かな?」
「シカシなあ……(捏造は)無理だろ?」
パソコンもワープロもない時代だ。
『ムー』みたいなカルト系の雑誌も、まだ存在しない。
我々は本当に悩んでしまった。
悩んでいた4人組の中に、今も付き合っている樺山とヘス(あだ名です)がいた。
笑っちゃうほど長い付き合いなのだ。
もう一人は、お亡くなりになった。イイ奴だった。合掌。
現在、樺山には、拙作のキャラクター〝参照太夫〟の画を描いてもらっている。
ヘスとは一緒にバンドをやっている。
後年、ヘスが言った。
「丸夫の親父ってな。組合の、イットーエライさんで、あすこんちにゃ和文タイプライターなんかもあったんだって」
「じゃ、あの記事は、やっぱり丸夫が作ったって訳か?」
と私。
ヘスが言う。
「丸夫ってさ。番長の注文で(頭ゲシゲシこづかれながら)ムキムキマンばっか、描いてたよな。アイツ、画が上手かったんだ。〝葉巻型母船〟な。アレだってシコシコ描いたんじゃないか?」
番長は、プロレスラーみたいな男の裸の画が大好きだった。(筋肉マンはまだ無い)
10本に1本くらいの割合で、オンナの画(水着でポーズとか……たいしたモンじゃないが)を描かせては、「にへへ」と喜んでいた。
喜びながら、テレ隠しに「このシケベが!」と言って、更に丸夫の頭を小突くのだ。
トーゼン周りの女の子は、丸夫にケーベツの視線を向ける。
こんな時、お抱え絵師の丸夫としては、パシリの悲哀をかみしめていたのだろう。
「そーか! 丸夫こそ、本物のオタクだったって事だ。実は、俺達と遊びたかった……」
と私。
「いや、むしろ、お前らの〝オタク度〟なんて、俺に比べりゃ〝大甘〟だって、言いたかったんじゃないか?」
とヘスが言った。
SFにまつわる思い出を一席。デシタ。