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第3話:回る糸車と、断ち切られた過去


「戻って来い、メルレライ! 今すぐだ!」


 静謐だった工房に、ガルドのしゃがれた怒鳴り声が反響する。

 彼は泥だらけの靴で床を踏み荒らしながら、私の作業台へと詰め寄ってきた。

 その異様な剣幕に、私は一歩も引かずに、ただ冷ややかに彼を見つめ返した。


「……不法侵入ですよ、ガルド様。お引き取りください」

「ふざけるな! 俺はまだお前の夫だぞ!」

「離縁状にはサインしましたし、受理もされています。私たちはもう赤の他人です」


 私が淡々と事実を述べると、ガルドは顔を真っ赤にして、何かを振り払うように腕を振った。 


「あんなもの、無効だ! 俺が悪かった、謝ってやる! マリーナとは別れたんだ。あの女は金食い虫で、商会の品位を下げるだけの馬鹿な女だった。だが、お前は違う!」


 ガルドは私の肩を掴もうとして、私が避けたため空を切った。彼はそのまま、懇願するように両手を広げた。


「お前を正妻として迎えてやる! あの小屋じゃなくて、本宅の……一番いい部屋をやる。食事だって豪華にしてやる。だから戻ってきて、あの糸を紡いでくれ! お前の糸がないと、商会が潰れちまうんだ!」


 その言葉を聞いた瞬間、私は呆れを通り越して、奇妙な納得感を覚えた。 


 ああ、やっぱり。


 この人は、私のことなど一ミリも見ていない。

 彼が見ているのは、私が生み出す「金になる糸」だけだ。

 かつて私を「飾り」と呼んだ時と、本質は何ひとつ変わっていなかった。


「……ガルド様。あなたは何も分かっていませんね」


 私は静かに告げた。


「私の糸がなぜ、あのような光沢と強靭さを持っていたのか。魔法を使ったわけでも、特別な綿を使っていたわけでもありません」


 ガルドは苛立ったように地団駄を踏んだ。


「理屈なんてどうでもいい! 結果だ! あの糸があればいいんだ!」

「いいえ、作れませんよ。もう二度と」


 私の言葉に、ガルドの動きがピタリと止まる。


「……な、なんだと?」

「あの糸の光沢は、あの暗い小屋で、誰とも口を利けず、あなたに顧みられることもなかった『孤独』の結晶です。あの強度は、理不尽な扱いに耐え抜くために、私が心を殺して指先に込めた『忍耐』そのものです」


 私は、自分の指先を見つめた。

 皮が剥け、タコができ、それでも動かし続けた指。


「私は、あなたへの愛のために糸を紡いだのではありません。あの絶望的な日々の中で、私が私であり続けるために……発狂しないために、魂を削って紡いでいただけです。あの糸は、私の『悲鳴』だったのですよ」


 今の私には、もうあのような悲痛な糸は紡げない。

 今はもっと、温かくて、優しい糸を紡いでいるから。

 しかし、ガルドには私の言葉が届かないようだった。彼は理解することもせず、欲望に濁った目で作業台の上の糸の山を見た。


「御託はいい! なら、今ここにあるその糸をよこせ! 金なら払う! 借金してでも言い値で買ってやる! これがあれば王室との契約が戻るんだ!」


 ガルドは獣のような声を上げ、私の大切な糸へ向かって泥だらけの手を伸ばした。

 その薄汚い手が、私が辺境伯様の娘さんのために祈りを込めて紡いだ白銀の糸に触れようとした、その時。


 パァンッ!!


 乾いた音が、工房に響き渡った。

 私は、ガルドの手を思い切り叩き落としていた。

 自分でも驚くほどの強さだった。手がじんじんと痺れている。

 ガルドは呆気にとられた顔で、叩かれた自分の手と、私を交互に見た。

 大人しくて、何を言っても言い返さない人形のような女。

 そんな私が、明確な「拒絶」を示したことが信じられないようだった。


「さ、触らないで……」


 腹の底から、低い声が出た。

 私は彼を真っ直ぐに見据えた。もう、視線を逸らしたりはしない。


「私の糸を、その汚い手で触らないで」

「な、なにを……金ならあると言っているだろう!」

「お金の問題ではありません!」


 私は一歩、彼に向かって踏み出した。その気迫に押されたのか、ガルドがたじろぐ。


「私が今、ここで糸を紡いでいるのは、生活のためではありません。あなたに認められるためでも、過去を嘆くためでもありません」


 背筋を伸ばす。


 ここには、私を職人として敬ってくれる人々がいる。私を必要としてくれる場所がある。


「私が糸を紡ぐのは、私の未来のため。……そして、私の未来に、あなたはもう一ミリたりとも必要ないのです」


 きっぱりと放たれた私の宣告。

 それは工房の空気を震わせ、ガルドの浅ましい希望を完全に打ち砕いた。


「そ、そんな……」


 ガルドは膝から崩れ落ちた。

 その顔は絶望に歪み、かつての尊大さは見る影もない。ただの哀れな抜け殻だった。

 その時、工房の外が騒がしくなり、数人の武装した男たちが飛び込んできた。

 領主様の屋敷に詰めている警備兵たちだ。


「メルレライ殿! 悲鳴が聞こえたが、無事か!」

「……ええ、私は大丈夫です。ただ、招かれざる客が迷い込んでしまったようで」


 私が視線を向けると、警備兵たちはすぐにガルドを取り囲んだ。


「貴様、見ない顔だな。……ん? 王都から手配書が回っている、詐欺商会の会長に似ているが」

「あ、ああ……俺の商会が……俺の糸が……」

「おい、連れて行け! 取り調べだ!」


 ガルドは抵抗する気力もなく、両脇を抱えられてズルズルと引きずられていった。

 最後に一度だけ、彼が私の方を振り返った気がした。

 けれど、私はもう彼を見なかった。

 私の中の彼は、もうとっくに死んでいたのだと気づいたから。

 ガルドのわめき声が遠ざかり、やがて聞こえなくなった。


 再び、工房に静寂が戻る。


「……ふぅ」 


 私は大きく息を吐き、乱れた服を直して、椅子に座り直した。

 手足が少し震えている。けれど、それは恐怖からではない。

 長い間、胸の奥につかえていた重たい鉛が、ようやく取れたような爽快感からくる震えだった。


 目の前には、作りかけの糸。


 私は足元のペダルに足を乗せた。

 さあ、仕事に戻ろう。この糸を待ってくれている人のために。

 車輪が、軽やかに回り出す。


 カタカタ、カラコロ、スー……。


 その音は、以前よりも澄んで聞こえた。

 リズミカルなその音色は、私の新しい人生を祝福する拍手のように、いつまでも優しく部屋に響き渡っていた。 



(了)


メルレライの紡ぐ糸はごく普通の糸ですが、とても仕事が丁寧なので、ここまでの仕事をする職人はごく稀で人気となりました。



最後まで読んでいただきありがとうございました!

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