第2話:辺境の奇跡と、崩壊する商会
北の果てにある辺境伯領は、一年の半分が雪に閉ざされる極寒の地だ。
けれど、私の心はかつてないほど温かかった。
カタカタ、カラコロ、スー……。
暖炉の火が爆ぜる音と、愛用の糸車が回る音が、工房の中に優しく響く。
私がここに来て、半年が経とうとしていた。
「メルレライさん、調子はどうだい?」
工房の扉がノックされ、人好きのする笑顔を浮かべた初老の男性が入ってきた。この地を治める辺境伯様だ。領主が自ら職人の元を訪ねるなんて、以前の暮らしでは考えられないことだった。
「はい、辺境伯様。北の綿花は繊維が太くて丈夫ですね。これなら、騎士様たちが着る下着には最適かと」
「いやあ、助かるよ。君が来てからというもの、騎士団の連中が大喜びでね。『あの糸で作った服は、薄いのに鉄のように丈夫で、しかも暖かい』って評判なんだ」
辺境伯様は、私が積み上げた白銀色の糸の山を見て、眩しそうに目を細めた。
「まさに『辺境の奇跡』だ。君の糸を求めて、王都からも商人が来ているらしいじゃないか。おかげでこの寂れた領地も潤ってきた。君は我が領の福の神だよ」
「福の神だなんて……。私はただ、手を抜かずに紡いでいるだけです」
私が恐縮して首を横に振ると、辺境伯様は笑い飛ばした。
私は、自分の手を見つめる。
やっていることは、あの暗い小屋にいた時と何も変わらない。
けれど、ここでは私の仕事に対して「ありがとう」「素晴らしい」という言葉が返ってくる。
対価も十分に支払われ、美味しい食事と暖かいベッドがある。
誰かの役に立っているという実感が、凍りついていた私の心を溶かし、糸にさらなる輝きを与えているようだった。
私は今、確かに幸せだった。
***
一方その頃、王都にあるガルドの商会は、怒号と混乱の渦中にあった。
「どういうことだ! また返品だと!?」
執務室で、ガルドは机を叩いて怒鳴り散らしていた。
目の前には、青ざめた番頭と、突き返されたドレスの山。
「は、はい……。王妃様より、『最近のドレスは質が落ちた。一度袖を通しただけでほつれるような粗悪品、二度と持ってこないでちょうだい』と……」
「ふざけるな! デザインも縫製も、今までと同じ職人にやらせているだろうが! なぜ質が落ちるんだ!」
ガルドの怒声に、呼び出されていた縫製工場の親方が、意を決したように口を開いた。
「会長、申し上げにくいのですが……『糸』です」
「糸だと?」
「はい。以前、会長が裏の小屋から持ってきていた、あの銀色の糸です。あれがなくなってから、生地の強度がまるで出ないのです」
ガルドは眉をひそめた。
あの糸? メルレライが紡いでいた、あのゴミのような糸のことか?
「あんなもの、ただのヒマつぶしの手慰みだろう! 代わりの糸など、いくらでも市場にあるはずだ!」
「それが、ないのです!」
親方が悲痛な声を上げた。
「あの糸は異常でした。極細の絹のような光沢を持ちながら、ドラゴンが引いても切れないほどの強度があった。しかも、魔力を通しやすい性質まで持っていたのです。あれを使っていたからこそ、うちは『最高級』を名乗れていました。他の糸では……ただの凡庸な服しか作れません」
ガルドは言葉を失い、ドサリと椅子に座り込んだ。
脳裏に浮かぶのは、暗い小屋で黙々と糸車を回していた元妻の姿。
地味で、暗くて、何の取り柄もないと思っていた女。
だが、商会の栄光を支えていたのは、ガルドの商才でも愛人の美貌でもなく、あのアリアの指先だったというのか。
「……くそっ、あの女、どこに行きやがった!」
商会の評判は地に落ちていた。
王室御用達の看板は外され、借金取りが日夜押しかけてくる。
愛人のマリーナは、「貧乏なんて耐えられない」と言い捨て、お腹の子を堕ろして別の金持ちの男へと走った。
何もかもが、手の中から零れ落ちていく。
「探せ! 草の根を分けても探し出せ! あの女を連れ戻さないと、俺は破滅だ!」
***
そんな元夫の絶叫など知るよしもなく、私は今日も平和な午後の光の中で作業を続けていた。
カタカタ、カラコロ……。
心地よいリズムに乗せて、最後の仕上げに入る。
この糸は、辺境伯様の娘さんの婚礼衣装に使われる予定だ。
花嫁の幸せな未来を願いながら、祈りを込めるように指を滑らせる。
私の紡ぐ糸が、誰かの幸せの一部になる。それが何よりも嬉しかった。
作業が一区切りつき、私はふう、と息を吐いてお茶を飲もうと立ち上がった。
その時だった。
バンッ!!
工房の扉が、乱暴に叩き開けられた。
冷たい風と共に雪が舞い込み、暖かな空気が一瞬で凍りつく。
私は驚いてカップを取り落としそうになった。
「はぁ……はぁ……、やっと……」
入り口に立っていたのは、ボロボロのマントを羽織った男だった。
髪は伸び放題で、頬はこけ、目は異様にぎらついている。雪道を歩き続けてきたのか、靴は破れ、足元は泥だらけだ。
一瞬、誰だか分からなかった。
けれど、その男が顔を上げ、私を睨みつけた瞬間、背筋に冷たいものが走った。
「やっと、見つけたぞ……メルレライ!」
執念のこもった低い声。
かつて私を「役立たず」と切り捨てた男。
ガルドが、そこに立っていた。
「……どうして、あなたがここに」
私が問うよりも早く、彼は泥だらけの靴のまま工房へと踏み込んできた。
その目は、私ではなく、私の背後にある白銀の糸の山に釘付けになっていた。
まるで、砂漠で水を見つけた遭難者のように。
平穏な日々は、唐突に終わりを告げた。
けれど、不思議と恐怖はなかった。
私はもう、あの頃の無力な私ではないのだから。




