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第1話:灰色の小屋と、銀の糸



カタカタ、カラコロ、スー……。

 カタカタ、カラコロ、スー……。


 薄暗い小屋の中に、糸車の回る音だけが規則正しく響いている。

 板張りの壁には隙間があり、そこから容赦なく冬の冷たい風が吹き込んでくるけれど、私の指先は止まらない。

 かじかむ手で綿の束を操り、車輪の回転に合わせて、一本の糸へとり合わせていく。

 出来上がっていく糸は、我ながら美しいと思う。

 窓から差し込むわずかな月明かりを吸い込み、まるで濡れているかのような艶やかな光沢を放っている。細く、しなやかで、それでいて大人の男が引っ張っても決して切れない強靭さ。


 私は、メルレライ。


 この国の歴史ある、けれど金のない貧乏子爵家の娘として生まれ、三年前にこの商会へと嫁いできた。

 ……いや、「嫁いだ」というのは正しくないかもしれない。「買われた」と言うのがふさわしいだろう。


「いいか、勘違いするなよ」


 初夜の寝室で、夫となったガルドは私を見下ろしてそう言い放った。

 新興の商会である彼の実家が欲しかったのは、没落寸前の我が家が持つ「貴族の肩書き」と「貴族との縁」だけ。

 ガルドには既に、平民の美しい愛人がいた。


「お前のような地味で暗い女、抱く気にもなれん。お前はただの飾りだ。本宅には俺と愛しいマリーナが住む。お前は裏の小屋で、大人しく暮らしていろ」


 そうして私は、使用人用の宿舎ですらない、かつて物置として使われていたこの小屋を与えられた。

 メイドも付かず、食事は使用人の残飯のようなものが一日一度運ばれてくるだけ。

 実家の借金のため、家族のためにと育てられた私は、逆らう術を持たなかった。


 カタカタ、カラコロ……。


 そんな私の心を支えたのは、幼い頃から家計の足しにと続けてきた、この糸紡ぎだけだった。

 嫁入り道具として唯一持参を許された古い糸車。

 これに向かっている時間だけは、孤独を忘れられた。嫌な現実から目を背け、ただ無心になれた。

 私の紡ぐ糸は、ガルドの商会によって買い上げられた。

 買い上げると言っても、市場価格の十分の一にも満たない、雀の涙のような駄賃だ。

 それでも私は、糸を紡ぐ手を止めなかった。


「……ここが少し、甘い」


 指先の感覚でわずかな毛羽立ちを感じ取り、私は眉を寄せた。

 こんな扱いを受けているのだから、適当な糸を納品してやればいいのかもしれない。すぐ切れる、ボロボロの糸を渡してやれば、ガルドも困るだろう。

 けれど、私はそうしなかった。いや、できなかったのだ。

 私は、自分でも呆れるほどに頑固だ。

 目の前に綿があるなら、最高の一本に仕上げないと気が済まない。

 どんなに憎い男の利益になろうとも、私の指から「未熟な仕事」が生み出されることのほうが、私にとっては耐え難い屈辱だった。


 丁寧に、丁寧に。


 呼吸を整え、心を静め、均一な速度で車輪を回す。

 そうして出来上がった銀色の糸は、商会の主力商品である高級織物の原材料となり、ガルドたちに莫大な富をもたらしているらしい。

 たまに遠くから見かけるガルドと愛人は、私の糸で織られた最高級のドレスをまとい、我が世の春を謳歌していた。


 ――それでいい。


 私は唇を引き結ぶ。

 あの人たちが私に関心を持たず、こうして静かに糸を紡がせてくれるなら、それだけでいい。

 そう思っていた。


 バンッ!!


 唐突に、小屋の扉が乱暴に開かれた。

 冷たい風と共に、革靴の足音が狭い土間に入り込んでくる。


 ガルドだった。


 上質なコートを羽織り、指には宝石のついた指輪をいくつもはめている。その顔は、相変わらず私を侮蔑の色で見下ろしていた。


「おい、メルレライ」

「……はい」


 私は糸車を止め、静かに立ち上がって頭を下げた。

 ガルドは鼻を鳴らし、懐から一枚の書類と、革袋をテーブルに投げつけた。

 ジャラリ、と重たい金属音が響く。


「離縁だ。サインしろ」


 その言葉にも、私の心は波立たなかった。いつか来るだろうと思っていた結末だ。


「マリーナに子供ができた。ようやく俺にも跡取りができる」


 ガルドは口元を歪めて笑った。


「これから生まれてくる子供に、お前のような陰気な女が『義理の母』として存在するなんざ、我慢ならんのでな。慰謝料は弾んでやった。お前の実家の借金、残りは俺が肩代わりしてやる。これで文句はないだろう?」


 私はテーブルの上の書類に目を落とした。

 離縁状。そして、借金の完済証明書。

 ああ、と私は息を吐く。

 

 悲しい、とは思わなかった。

 悔しい、とも思わなかった。


 私の胸に去来したのは、底知れぬ「安堵」だった。

 もう、あの男のために糸を紡がなくていいのだ。

 私のこの技術を、私のこの頑固さを、私を蔑む者たちのためにすり減らさなくていいのだ。


「……わかりました」


 私は短く答え、震えることもなくサインをした。

 ガルドは私が泣いてすがるとでも思っていたのか、少し拍子抜けしたような顔をしたが、すぐに興味を失ったように鼻を鳴らした。


「ふん、最後まで可愛げのない女だ。まあいい、今日中に出て行けよ。明日にはこの小屋を取り壊して、子供のための庭にする予定だからな」


 ガルドはそれだけ言い捨てると、踵を返して出て行った。

 再び静寂が戻った小屋の中で、私は小さく深呼吸をした。


 今日中に出て行け。

 望むところだ。一秒だって長くここに居たくはない。

 私は部屋の隅に置いてあったトランクを開いた。

 中に入っているのは、数枚の地味なワンピースと、この三年間、駄賃を少しずつ貯め込んだヘソクリの入った小瓶。

 そして、愛用の糸車。

 荷物はそれだけだ。飾り気のない私の人生そのもののように、少なくて、軽い。

 私は糸車を丁寧に分解し、背負い袋に詰め込んだ。

 重いけれど、これだけは置いていけない。これは私の誇りであり、私の魂そのものだから。

 小屋を出ると、外はよく晴れていた。

 三年ぶりに見る、「商会の妻」というフィルターを通さない景色。

 私は門番に一礼し、敷地の外へと一歩を踏み出した。

 振り返ることはしなかった。背後の豪邸からは、ガルドと愛人の笑い声が聞こえてくるよう

な気がしたが、それも風の音にかき消された。


 北へ行こう。

 ここから一番遠い、雪深い辺境の地へ。


 あそこなら、丈夫で暖かい布が喜ばれると聞いたことがある。

 見上げた空は、どこまでも高く、青く澄み渡っていた。

 吸い込んだ空気は冷たかったけれど、今までで一番美味しい味がした。


「さあ……行こう」


 私は背負った糸車の重みを確かめるように、キュッと紐を握りしめた。

 これでやっと、私は私のために糸を紡げる。

 私の新しい人生が、今、静かに動き出した。


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