第9話:焚き火の誓い
その夜、焚き火を囲んでいたのは三人だけだった。
獣の脅威が去ったはずの森は、まだ重い沈黙に包まれている。
ロージィは眠りについたジョッシュの背を見つめながら、小さな声で切り出した。
「カイル……」
「……聞いている」
焚き火の光に照らされたカイルの横顔は、普段よりずっと影が濃かった。
「どうして……どうして自分を犠牲にしてまで、私を守ろうとするの……?私が”聖女”だから?」
問いに、カイルは一度唇を噛みしめた。そして、ゆっくりと吐き出すように言葉を重ねる。
「私は……本当はアスロッド王国の、聖女の騎士だった。正確には前聖女の、だが」
「聖女の、騎士……」
ロージィの心臓が跳ねる。
「国王の命で、聖王国からやってきた聖女を守る役目を。だが、ある時、王子が聖女を手籠にしようとしたのを止めたんだ。国の宝である聖女に不埒な真似をすることは、たとえ王子でも許されないと切り捨てた。それが、私に与えられた役目だったからだ。誰であろうとも、聖女に手を出すものは切り捨てられても文句は言えぬと。だが、……仲間の裏切りに気づけず、私は嵌められた。聖女に手を出そうとしたのは王子ではなく私で、それを止めようとした王子を、私が切り伏せたと」
火がはぜる音だけが、短い沈黙を埋めた。
「私は冤罪から逃げるのに必死で、聖女を守る役目をほんの少し疎かにした……証拠を掴もうと奔走していたんだ。そこで見つけたのは……王子の節操のない行動の証拠ではなく、王国の聖女に対する扱いだった」
低い声に悔恨が滲む。
「王国は己の私服を肥やすため、聖女を監禁し王宮神殿の奥深くにある泉に聖魔力をこめることを強要した。王侯貴族の願いを叶えるために、酷使され続けた聖女はそこで息を引き取った。私が駆けつけたときはすでに遅く、聖女様は……!それからだ。王国のやり方に絶望して……聖王国に密かに連絡を取った。もし次の聖女が現れたら、今度こそ救うために」
「……だから、私を」
ロージィの声はかすれた。
カイルは彼女を見つめる。いつも凛然としているはずの瞳が、今は苦しげに揺れていた。
「最初は、贖罪のつもりだった。今度こそ、と思っていた。だけど、今は。使命だからじゃない。贖罪だからでもない。……ロージィ、君を失いたくないんだ」
その言葉に、ロージィは胸を強く打たれた。
焚き火の赤が滲むのは炎のせいか、涙のせいか分からなかった。
「……その聖女の最後は、どうなった」
気がつくとジョッシュが起き上がり、太い腕の間から瞳だけをぎらつかせてこちらを見ていた。
「ジョッシュ……?」
「なあ、その聖女様の亡骸は、どうした」
「私が責任を持って泉から引き上げ、内密に、聖王国へと引き渡した」
「それは本当か?」
「ああ、本当だ。女神に誓ってもいい。それに、聖女は誰にも指一本触れられてはいない。その証拠は、聖女の額に現れた聖痕で聖王が確認を取ってくれた」
「聖痕が……そうか。そうだったか…」
「あなたは、元々聖王国の騎士だったな…。なぜアスロッド王国で木こりなどやっていたんだ」
ロージィは焚き火の残り火に手をかざしながら、隣に座るジョッシュを盗み見る。
厚い胸板に巻かれた布は赤く染まり、まだ痛みを訴えているはずなのに、彼は雰囲気を変えるかのように、口笛を吹いてみせた。
「……なあ、ロージィ。昨夜はよく頑張ったな」
「私……怖くて、ただ必死で……」
「それでいい。あの光がなけりゃ、俺もカイルも今ここにいなかったさ」
豪快に笑ってみせるその顔に、どこか影が差しているのをロージィは感じた。
「ジョッシュ……」
呼びかけると、彼は焚き火の灰を棒でつつきながら、ぽつりと口を開いた。
「俺はな、カイルのいう通り、昔は聖王国の騎士だった」
「……!」
ロージィは思わず息を呑む。
「剣ばかり振り回してた若造の頃、聖女様を守る任務についたんだ。おっかないくらい真っ直ぐな人でな……気づいたら、俺はあの人を好きになってた」
焚き火の灰がふっと舞い上がる。
ジョッシュの声は、どこか遠くを見るように掠れていた。
「だが、彼女がアスロッドに向かうことになったと聞いた日、俺も護衛にと申し出た。聖女は神の物だ。どんなに好きになったって神に叶うわけがない。だけど、彼女は言ったんだ。この任務が終わったら、自由になれると。聖王国の聖女の任務は、大体16歳から25歳くらいまでだ。それ以上は人間の女性としての幸せを束の間だけ掴むことができる。そして、彼女は、メリッサはこの任務が終わったら、普通の女になるから、だから、俺と、夢を見させてくれないかと」
ぱちっと炎が爆ぜて、飛び散った火の粉が静かに闇に消えた。
「嬉しかったなぁ、あんときは。俺の大事な姫さんだ。それが奥さんになってくれるってんだからさ。だから俺は何年でも待つから、任務が終わったら結婚しようと約束した。その足で、聖王国に戻って騎士の役職を降りたんだ。それで、それで……アスロッドに戻って来たのに、メリッサの姿がない。聖女はどうなったんだって話さ。聞き回っても誰も聖女の顔も姿も見たことがないという。こんなことなら騎士やめんじゃなかったって思ったよ。そうすりゃあ聖王国の名で王宮の中まででも入って、さらっていけたのに…っ」
ちくしょう、と小さな呟きが風に攫われた。
「王国は聖女を道具にしか見てなかった。命を削って奴等の満たされない欲に食い潰された……結局俺は、彼女を守りきれなかった」
短く息を吐く。
豪胆に見える背中が、その瞬間だけは小さく見えた。
「俺は剣を捨てた。聖騎士なんざ二度とやるもんかと思った。誰にも関わらず生きていこうと決めた。……ロージィ、お前に会うまでは」
「……」
「お前はあの人に似てる。強がりで、頑張り屋で、人のために泣けるところが。……けど違うのは、まだ生きてるってことだ。だから俺は、今度こそ守りたい。お前を……妹みたいに、大事に」
その言葉は、不思議とロージィの胸に温かく染み渡った。
「ジョッシュ……」
涙がこぼれそうになり、彼女は慌てて袖で拭った。
ジョッシュはわざと明るい声で続ける。
「だから安心しろ。お前を“聖女”だから守るんじゃねえ。“ロージィ”だから守るんだ。な?」
彼の大きな手が、そっとロージィの頭を撫でた。
その仕草に、幼いころから欲しかった父のぬくもりを感じ、胸が詰まる。
朝日が霧を裂いて差し込むころ、三人は静かに荷をまとめ、再び歩き出す。
けれどロージィの胸には、昨夜と今朝の二人の告白が深く刻まれていた。
――私を“聖女”としてじゃなく、“私”として守ろうとしてくれる。
その思いが、彼女の中にまだ小さな灯火のように揺らめいていた。
やがてそれは、後に「聖女として生きながら、自分の生き方を選ぶ」という決意へとつながっていくのだった。




