第8話:森の咆哮
謎の襲撃から、森を抜けて十日目。
黒集団の追手は、いまのところ静かなものだ。でもきっともう、すでに王都に噂は届いていて、こちらに向かっているのに違いない。だからこそ、私たちは村や町を避けて、街道から外れた山道を歩きながら聖王国へと向かっている。
この国にはもう逃げる場所はないのだと悟ったからだ。
昼間はまだ春の柔らかな日差しに包まれているのに、夜になると冷たい風が骨身にしみる。焚き火の周りで身を寄せ合い、簡素な食事を済ませた。
「はぁ……宿のベッドが恋しい」
私は草の上に毛布を広げながら、心の底からため息をついた。
「慣れるしかないな」
カイルは火に剣をかざして油を塗り直している。無駄のない動き。視線は鋭く、気を緩めている気配がない。
「わりぃな、ロージィ。オレの山小屋なら、藁布団くらいはあったんだがな。もうあと数日も歩けば、聖王国にたどり着く。それまでの我慢だ」
ジョッシュは豪快に笑って、木切れを火にくべる。その大きな背中を見ると、不思議と安心できた。肉ばかりだったカイルとの道中に比べて、食の質は上がった。キノコも野菜も増えたし、塩だけの食事ではなく香草も入るようになったから。ジョッシュのスープは安心の故郷の味がした。
けれど――。
ここ数日、どうも気配が落ち着かない。昼間から時折、枝が折れるような音や、獣の低いうなり声が耳に届いていた。そして逆に、小動物を見かけなくなり、虫も鳥も息を潜めているようだ。
そのせいで、カイルも言葉少なげで当たりを警戒している。元々おしゃべりな方ではないけれど、あの襲撃までは、時々笑顔らしい含み笑いも見られたのにな。それは少し残念な気がした。
夜半過ぎ。
ふと目が覚めた。
風は止み、焚き火の赤い火が名残惜しそうに揺れている。
だが耳に届いたのは――地響き。
「……っ!」
寝床から飛び出した瞬間、森の奥で木々がなぎ倒される音がした。
「ロージィ、下がれ!」
カイルが瞬時に立ち上がり、剣を抜いた。
ジョッシュも斧を構え、険しい表情を浮かべる。
闇を裂いて現れたのは、巨大な影だった。
それは、熊のような胴と腕を持ち、背には黒い翼を広げ、猛禽のような鋭い嘴を光らせた怪物。黄緑色の双眸が、焚き火の残光を反射してぎらつく。
「……アウル、ベアか」
カイルの低い声に、私の背筋が凍りつく。
「嘘でしょ……こんな場所に……」
アウルベア――空の食欲魔獣。空を舞い、森を蹂躙する凶暴な存在。一度狙われれば、執拗に襲い掛かり、村ひとつ消し飛ぶとも言われる恐怖の象徴。残虐な悪魔。
「人の肉の味を覚えたか……」
ジョッシュが吐き捨てるように言いながら、斧を大地に叩きつけるように構えた。
アウルベアの咆哮が森を震わせ、私は思わず耳を塞いだ。
戦いが始まった。
カイルが真っ先に飛び出し、翼の間を狙って剣を突き立てる。だが分厚い羽毛と筋肉に阻まれ、刃は浅くしか入らない。逆に振り下ろされた爪が地面を裂き、土と石が弾け飛ぶ。
「ちっ、硬い……!」
すかさずジョッシュが斧を振りかぶり、巨腕に打ち込む。轟音とともに肉が裂け、アウルベアが耳をつんざく悲鳴を上げた。
「効いてるぞ!」
しかし怪物は怯むどころか、さらに暴れ狂った。翼を広げ、体をひねって二人を薙ぎ払う。カイルは木の幹に叩きつけられ、息を詰まらせる。ジョッシュも膝をつきながら、歯を食いしばった。
「……くそっ、翼が邪魔だ!」
私はその場に立ち尽くしていた。
恐怖で体が動かない。目の前で二人が血を流して戦っているのに。
「逃げろ……ロージィ!」
カイルが叫ぶ。
「お前はまだ――」
「おい、嬢ちゃん!」
ジョッシュの声も重なる。
「こいつは俺たちで食い止める。走れ!」
頭ではわかっている。
でも、心が拒んだ。
二人を置いて逃げる? そんなこと、できるわけがない。
アウルベアの影が二人にのしかかる。振り下ろされる巨大な爪。
「――ダメェッ!」
私の叫びとともに、光が弾けた。
温かな力が胸の奥から溢れ、全身を駆け抜ける。掌から放たれた光が壁のように広がり、爪を弾き返した。
怪物がたじろぎ、翼をばさばさと揺らす。
「……ロージィ?」
カイルが驚愕の表情を見せる。
「ちっ……やっぱりな」
ジョッシュは目を細めたが、その口元にわずかに笑みを浮かべた。
私は震える手を見つめた。でも、不思議と怖くなかった。体が熱い。怖さからじゃない、興奮からだ。
だって、私にも、守れるものがある。
「お願い……二人を守らせて……!」
両手を合わせ、光をさらに広げる。
淡い光がカイルとジョッシュを包み、彼らの傷を癒していく。血が止まり、呼吸が整うのがわかった。
「……これが、癒しの力……」
カイルの瞳に決意の光が宿る。
「ならば、勝てる!」
二人が再び立ち上がった。カイルは剣を構え、ジョッシュは斧を振りかざす。
「ロージィ、もう一度だ!」
「光で奴の動きを止めろ!」
私は頷いた。体の奥に流れる熱を感じながら、光を集中させる。
アウルベアが再び爪を振り下ろす。その瞬間、私の光が閃光となって走った。
巨体がひるみ、動きが一瞬止まる。
「今だッ!」
カイルが跳び、怪物の目を貫いた。同時にジョッシュの斧が胸を裂き、血しぶきが夜空に舞った。
咆哮とともにアウルベアは崩れ落ちた。
大地が揺れ、森が静まり返る。
私はその場に膝をついた。光は消え、息が荒い。
でも、二人は立っていた。無事だった。
「……やった、の?」
カイルが剣を収め、私を支え起こす。
「お前のおかげだ。ロージィ」
ジョッシュは豪快に笑い、背中をどんと叩いた。
「たいした聖女様だな。……もう誤魔化せねぇぞ」
胸が締めつけられる。情けなくも、涙が溢れてくる。怖いんじゃない。悲しいんじゃない。いや、聖女にはなりたくないけど、それでも、無くしたくないものを、守ることができた喜びで。
聖女――その言葉が、逃れられない現実のように響いた。
けれど今は。
二人が生きている。ただそれだけで、胸の奥に温かさが満ちていた。
こうして、三人の旅は大きな秘密を抱えたまま、聖王国へと進むことになった。




