冷酷で傲慢な姉が少し変わった日
ミレーネの部屋は、南の廊下のいちばん奥にあった。
そこはもともと、薪や雑巾をしまっていた物置。
風も通らず、窓も小さく、光がほとんど届かない。
藁を詰めた薄いマットの上に、ネズミよけの香草が撒かれているだけの、ただの小さな空間だった。
「掃除用具が眠っていた場所なんだから、おまえにはぴったりでしょ」
それは、姉――ルシアナ=ヴァルシュタインが言い放った言葉だった。
わずか一歳年上の八歳とは思えないほど気品があり、美しい紫の髪とアメジストの瞳を持つ少女。公爵家の嫡出の令嬢であり、完璧と称される姉。対するミレーネは、侍女との間に生まれた庶子。まだ七歳の彼女は、屋敷では「公爵の落とし子」と陰で呼ばれ、居場所は与えられても、居心地は与えられなかった。
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――ダッ、ダッ、ダッ。
廊下を駆ける音が響くたび、ミレーネの身体はびくりと跳ねる。
こんな時間にこの部屋へ向かってくるのは、決まって一人しかいない。怒りをぶつける場所を探している時のルシアナは、いつもこの部屋にやってくる。
理由はいらない。
ただ黙って、怒られて、叩かれて、終わるのを待つだけ。
けれど、寒さが幸いしていた。この部屋では肌の感覚も鈍くなるから、痛みも半分で済む――はず。
扉が勢いよく開く。
ミレーネがそっと顔を上げると、そこにいたのはやはりルシアナだった。
今日はナイトドレス姿で、紫の髪はいつものように巻かれておらず、まっすぐに肩まで落ちている。その瞳が、ほんの少しだけ赤くなっていることに、ミレーネは気づいた。
「おまえ、そこで何してるの」
わずかにかすれた声。
姉が泣いた後であることは、すぐに分かった。
「……床を、お掃除しておりました」
それが最善の返答だったかどうか、ミレーネには分からなかった。けれど、少なくとも姉の眉間には、きつくしわが寄った。
ああ、やっぱり間違えた。叩かれる。
恐怖で目をぎゅっと瞑る。
けれど、頬に痛みはこなかった。
代わりに、手のひらにあたたかいぬくもりが触れた。
「……おまえの手、なんでこんなにボロボロなの?」
目を開けると、姉の白く細い指が、そっとミレーネの手を包んでいた。
「魔法はまだ使えないの?」
触れた手は、やさしくて、あたたかかった。
かつて“汚らわしいから視界に入らないでちょうだい”と言ったあの姉が、今こうして触れている。
「……おまえ、まさか寒さで耳が聞こえなくなったの?」
小さな呟きとともに、ルシアナは杖を取り出した。
それは、彼女が七歳の誕生日にお父さまから贈られたという、小さな杖だった。
ひとふり、呪文とともに光が弾け、夜のように冷たい部屋が、まるで春の朝のように温もりで満たされていく。
「ご、ごめんなさい……床を濡れた雑巾で拭いていたので、手が……それに、魔法はまだ……使えません」
「そう。わかったわ」
それだけ言って、姉はくるりと振り返る。
「そこの侍女。この子をお風呂に入れて、温かいご飯を用意して。余ってるベッドとテーブルを持ってきて。それと、私のお古のナイトドレスを着せて」
戸惑いを見せた侍女に対し、ルシアナの声は怒気をはらんでいた。怒鳴りこそしないが、その一言一言が鋭く張りつめていて、空気を切り裂くようだ。
「……おまえ、私の命令が聞こえなかったの?」
「い、いえっ!ただ…」
「耳と頭、どちらが悪いのかしら。もういいわ。おまえはもういらない」
紫の瞳が真っ直ぐに侍女を射抜く。
その迫力は八歳の少女のものとは思えなかった。
「おまえ……じゃないわ。ミレーネ=ヴァルシュタイン。――いいえ、なんでもない。……ただ……ああもう、面倒くさいわね。ヴァルシュタインの名に、誇りを持ちなさい」
その言葉の意味は、よく分からなかった。
だって、ミレーネは“ヴァルシュタイン”として生まれてきたことを、姉が一番嫌っていたはずなのだから。
けれど――。
「……わかりました」
ミレーネが頷いた瞬間、ルシアナの表情から、ほんのわずかに張り詰めた空気がほどけた。
まるで答えに満足したかのように。
それが優しさなのか、単なる気まぐれなのか――ミレーネにはわからなかった。
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それからというもの、姉は毎晩ミレーネの部屋を訪れるようになった。
小さな焼き菓子を持ち、自分の学んだことを教えながら、魔法陣や読み書きを一緒に勉強してくれる。
ただし、誰にも気づかれないように。
他の侍女には相変わらず冷酷で、使用人を叱りつける声は今も屋敷に響いていた。
姉が優しいのは、ミレーネに対してだけ。
その事実は、七歳の少女の心を震わせるには、あまりにも大きすぎた。
「そんなに見つめて……私の顔に見惚れたのかしら?」
ミレーネはこくんと小さく頷く。
「お姉さまは……本当に、お美しいです」
その笑顔は、まるで夜空に降る光のように、ひどくまぶしかった。
――どうか、この気まぐれが、もう少しだけ続きますように。
まだ七歳の少女は、夜の祈りを捧げながら、温もりの余韻に包まれて眠るのだった。