【8】 吸血殺し
ムカデ人間を葬ったものの、灯也は生存者を一人として見付けられなかった。
あるのは無残に喰い荒らされた死体だけ。
その死体でさえ少なからず薪となってしまっていた。
恐らくはもう生きている人間はいないだろう。
炎の勢いが強く捜索は十全ではないにしても、嫌でも感じられる悪意がそう確信を強いる。
そして脅威となってそれは灯也の前に現れた。
「伏せろッ、先輩!」
頭上から切羽詰まった声が降って来た。
見上げる前に頭を強く押さえつけられて、灯也は無理矢理うつ伏せにさせられる。
直後に頭上を黒い光線のようなものが横薙ぎに擦過。
次の瞬間、軌道上にあった物体が悉く消滅した。燃える出店も櫓も、石造りの灯篭に至るまで空間ごと削いたように。
上空から俯瞰すれば、ある地点から扇状に火災が途切れていることが見て取れるだろう。
巻き込まれていれば、灯也は腰から上が無くなっていた筈だ。
焼死どころではない。場合によっては骨も残らない。
「どうして来てしまったんだ!? 隠れていろって言っただろッ!」
「…………っ、」
叱責以上の強い憤りをカレンの瞳から見ており、灯也は返す言葉を見失った。
カレンは灯也が忠告に従わなかったことを責めているのではない。克己心と道徳だけで素人が殺し合いの場に踏み込む蛮勇を糾弾しているのだ。
彼女が「狩りは私の役目」と口にした意味を悟った頃には、もう灯也は蜘蛛の巣の上だ。
「誰かと思えば、あの時の坊やじゃない」
艶かかった甘い声の出所は破壊の起点。
炎の揺らめきを妖しく跳ね返す金髪。情欲を煽るバニースーツと白衣の取り合わせ。
忘れるはずもない。
灯也が初めて出会った吸血鬼、アイシャ・ペンローズ。
肉が焼ける臭いに満たされるこの場でありながらも届く香水と、濃密な血の香り。
エメラルドに輝いていた碧眼は、いまはカレンの双眸よりも深く、鮮烈な赤眼。
死者が大量生産されるこの火炎地獄において、微笑すら浮かべ悠然と佇むその姿。
事情を知らぬ第三者であっても、彼女こそがこの地獄の元凶と確信することだろう。
委縮してしまった灯也をカレンが背中で隠す。
その様子で二人の関係を察したアイシャはつまらな気に鼻を鳴らした。
「そう。小娘が割って入ってきた時から察してはいたけど、坊やもあの男に首輪を付けられてたわけ」
「今は私と戦っている最中だろう。先輩は無関係だ。手を出すな!」
「嘘が下手ね、駄犬。何の魔術武装もしていない人間をここまで素通りさせるほど、私が温いバイキングをすると思うの?」
パチンとアイシャが指を鳴らすと、彼女の足元の地面から二体の瘦身が飛び出す。
多少の差異は見受けられるが、それは両方とも灯也が葬ったムカデ人間と酷似している。
形容し難い臭気と土汚れの上からでも分かる濃密な返り血を纏う異形が、アイシャをその長身で取り巻く。
「あら? もう一匹はどこに行ったのかしら?」
首を傾げるその言動に、灯也は恐怖を一瞬忘れた。
「なら貴女がこの人たちをこんな姿にしたのか!?」
「先輩なにをっ……」
止めるカレンの手を払って、前に出た灯也は気力を掻き集めて吸血鬼へ問う。
「吸血鬼が血を吸うことは承知している。それで人を殺めてしまうのなら、まだ理解できる。でもその為に無関係の人を化物にする理由がどこにあるんだ!?」
「…………へえ、これは驚いたわね。もしかして坊やが私の下僕を殺したの?」
アイシャの視線が棘を帯びる。
取るに足らない虫けら程度の認識から、僅かながら、しかし明確な脅威への格上げ。
チロリと、ラズベリー色の唇を舌が舐める。
「どうやって殺したのかしら? 突貫工事とはいえ、この国の警察が出張って来ても軽くひねり潰せる仕上がりだったはずなんだけど。それともあの男から何か武器を持たされていて?」
「質問しているのはこちらだ! それとも貴女は礼儀を払うことに人を選ぶ卑しい人なのですか?」
アイシャの視線の鋭さが増す。
身構えたカレンの危惧に反して、アイシャは微笑を浮かべるに留まった。
ここで手を上げれば灯也の挑発通り、アイシャは自らの品格を下げることになる。それは彼女のプライドが許さない。
「そう難しい話じゃないわよ。ただ単に効率を重視しただけだもの」
「……効率?」
酷く耳障りな言葉を聞いた気がした。
「貴方たち人間のお得意技よ。最小の労力で最大限の結果を追求する。コンビニやデパートに並んでいる大量の食糧が、それに最適化された工場で生産されているのと同じよ。
多くの人間から血を収穫するには、一人一人私が血を吸って回るよりも、特化した最適化された回収装置を用意する方が効率的。分かるでしょ──コレがそれよ」
より新鮮なジュースを蒐集するために心臓ごと回収するよう設計したと、アイシャはムカデ人間を指差して付け加えた。
「…………っ、」
一つ一つの言葉の意味は無論理解している。
それでもアイシャが何を言っているのか半分以上理解出来なかった。理解したくない。
「人間も腹を満たすために命を消費する利己的な生物だ」
以前、授業で牛の解体映像を見たことがあった。
肉になるために生まれ、良質な品質を生むために生涯を人間に握られた命。広義では弱肉強食の一環と解釈できなくもない。
宗教や主義によってはこれを嫌う人がいるのも頷ける現実だった。
アイシャがやっている事は、人間社会が当たり前に行っている、食べるための命の消費と何ら変わらない。そうアイシャは言っているのだ。
「それでも人は悪戯に命を弄ぶことは罪だと律することは出来る」
「偽善だよ。自己満足と言い換えてもいい。なまじ高度な知性を有してしまった欠陥だね。坊やの主張は無自覚に動物を見下している人間の青臭い傲慢そのもの」
「でも貴女も元は人間だったのでしょう!? どうしてこんな真似が出来る!?」
「どうして? それは私が吸血鬼だからだよ」
何を当然のことをと、アイシャは肩を竦めた。
「ライオンは自分より大きな獲物には滅多に狩りを仕掛けない。狙うなら群れから孤立した小食動物か子供だ。その理由は単純。自分より弱く仕留めやすいから」
噛んで含めるように、自らの存在を主張する。
「吸血鬼にとって人間は食料。牛や鶏と大差なんてない。ものによっては傍に置くこともあるけど、愛玩動物と同じようなもの。
坊やは吸血鬼が理性で吸血衝動をコントロール出来ると思っているのかも知れないけど、あの燃えるような渇きはそんな生易しいものじゃないわ。カレンだって魔術で衝動を抑えていなければ、直ぐにでも坊やの首筋にガブリね」
背後でカレンが視線を切る気配。
ムカデ人間に付けられた傷は止血しきれておらず、止血帯代わりのハンカチに赤い染みを広げている。
「良心の呵責を問うてるなら、無いわよ。成りたてだった頃は違ったかもしれないけど、直ぐに血の味と強者である優越感に溺れたもの。少し自嘲するなら、これが吸血鬼の罪深いところ、原罪ね。
人としての善性を保った吸血鬼がいるとすれば、血の味を覚える前に自ら命を断つぐらいしてようやくね」
詭弁だ。それでいて矛盾している。
これは駄目だ。
理解してはいけない。
一秒だって長くこの世に留めてはいけない。
アイシャ・ペンローズは今すぐにでも消滅させるべき災害だ。
元人間だからといって、人間の価値観でアレを推量るのがそもそもの過ち。
まったくもって、度し難い甘さだった。
「お喋りはもういいかしら? なら今日こそ坊やの血を啜ってあげる!」
アイシャが腕を横に一薙ぎ。
その合図で二体のムカデ人間が仕掛けた。
本物のムカデのように、長い胴体を地面とほぼ水平にした、殆んど滑空に近い猛進。
人間を紙切れのように裁断する大顎が灯也に迫る。
首の即席の止血帯とナイフに手を伸ばす──途中で、後ろ襟を強引に引っ張られた。
尻もちを付く灯也の盾になるのはカレン。
「下がってッ」
僅かに先行してきたムカデ人間をカレンは自らも飛び出し迎え撃つ。
瞬きの間に距離が埋まり、両者が衝突するその間際にカレンの姿が消えた。
滑空するムカデ人間より更に低く、スライディングの要領で鋭く死角に潜り込んだのだ。
更に鼻先を掠める剣山のように屹立する肋骨に構うことなく、蹴りを放った。
ビルを軽々と飛び越える業脚を真面にくらい、くの字に折れる長身と砕けた肋骨。
追撃の回し蹴りで吹き飛ばされたムカデ人間は、もう一体を巻き込んで燃える屋台を突き破り、石造りの灯篭に激突し火の粉と粉塵を盛大に巻き上げる。二体の異形は息はあるものの長身と肋骨が仇となり絡まって動けない。
灯也は眼の前で起きたことを処理しきれず身を固めた。
ビルを軽々と飛び越える業脚ならば当然の威力ではあるものの、灯也が死に目を見てようやく仕留められた相手を秒殺。
あわよくば援護をという無自覚な傲りさえ粉砕された。
「……相変わらずの脳筋。まだ処女ならその脚でワインでも作ったら?」
「ご忠言感謝するが、私はフランス語がさっぱりだ」
軽口に付き合いながらカレンはすぐに攻撃は仕掛けず、アイシャと灯也の直線上に立つ。
その様子を一瞥し、つまらな気に嘆息。
「吸血鬼がまるで騎士気取りね。坊やはそれでいいのかしら? そこの駄犬も私と同じ吸血鬼よ。さっきも言った通り、枷さえ外れれば血に欲情する化物だって」
「……っ、」
微かにカレンの肩が震える。
それに気付きながら、灯也は立ち上がり呪いの言葉を弾き返す。
「カレンさんにはもう二度命を救われた。それに枷と揶揄しているが、それは自分を律している証左だ。力に酔った貴女と彼女を同列に扱うのは不愉快だし、仮に襲われたとしてもカレンさんなら俺は構わない」
「な、なにを言っているんだ先輩……!?」
かあとカレンが頬を紅潮させているのは、背中に隠れて灯也は見えていない。
吸血鬼と人間。
似て非なる本来相いれない捕食関係にあるはずのその二人。
愛玩することはあっても、それ以上は有り得ないと遠い昔に削ぎ落としたアイシャにとっては、酷く不快な光景だった。
「恥ずかしいぐらいに可愛いわね、あなたたち」
炎が作り出す深い陰影が浮き彫りにする、酷薄の笑み。
戦い慣れしたカレンは勿論、一般人の灯也ですら肌に電気が走ったと錯覚するほどの濃密な殺気。
浮ついた空気は欠片も残らず吹き飛んだ。
アイシャの足元で不自然に広がった影が膨れ上がり、さざ波立つ。
「先輩。信用してくれたのは嬉しいけど、可能なら隙を見て逃げるんだ」
今までにない切羽詰まった声。
「私は過去に二度アイシャと交戦したけど、戦績は実に無残なものだ。多分、彼女からしたら子犬にじゃれつかれている程度だったかも」
「………………つまり?」
今にも震えそうな両脚を叱咤して、とっくに察している答えを求めた。
「怒ってる彼女相手じゃ何分持つか分からないっ……!」
「──何分? 図に乗るな小娘ッ!」
膨れ上がる影に一瞬極光が奔った直後、大瀑布が二人を襲った。
解き放たれたのは数十トンは下らないであろう激流。
咄嗟にカレンは灯也を抱きかかえて跳んで難を逃れた、その足元で悪夢のような光景が広がる。
ダムの決壊もかくやという水塊は恐ろしい勢いで境内を飲み込み、圧倒的な質量と水圧で全てを押し流す。
燃え盛る出店は勿論、木造のお堂も内部に流れ込んだ水で支柱や壁が破壊されていく。
消火どころの話ではない。建造物も、遺体も、水流と瓦礫に磨り潰されて更地になるだけ。
これでは本当に災害と何ら変わらない。
「濡れなかったことは褒めてあげる」
「しま──」
死神の声は頭上。
お堂の瓦屋根に灯也を突き飛ばすことがカレンに出来た精一杯。
身代わりになるように鉄槌のような蹴りを真面に喰らい、落ちた濁流に水柱が屹立した。
「カレンさんっ!」
全身を打ち付けた痛みを無視して、灯也は軒先から身を乗り出す。
古代中国の黄河文明では、荒れ狂う河を龍に例えたそうだが、轟々とうねりを上げる濁流はむしろ龍の咀嚼に近い。
飲み込まれれば最後。瓦礫を孕んだ濁流で人間など即座に磨り潰され、人の形を失うだろう。
一帯を飲み込んだ濁流の勢いが緩まると、逆再生のように引いていく。
収束点は水面に降り立ったアイシャ、その影。
ダムの決壊とは逆。今度は大穴に雪崩れ込むようにして瓦礫を巻き込んだ大量の水が影に高圧圧縮されていく。
灯也が立つお堂もまた、引き波に壁が剥され、柱が軋む。
その光景は貪欲に血を貪る吸血鬼に相応しい。この濁流の捕食がもっと人の多い市街地で解き放たれればどれだけの犠牲が出ることか。
故にこそ。
この厄災に屈することは吸血鬼狩りの名折れでもある。
引き込まれていく濁流の中に、灯也は青白く輝く光を見た。
直後、パパパッと一際眩い光が連続して瞬いた瞬間、濁流を断ち割って流星が奔った。
放たれた三条の弾丸の如き流星を、しかしアイシャは苦も無く操る影で二発を弾き、残る一発を素手で掴み取った。
アイシャの端正な容姿が深い気に歪む。
矢のようにかなり細長いがそれは吸血鬼退治に用いる武器の代名詞。月明かりを反射する鋭利な先端は銀メッキが施され、掴み取るアイシャの手を浅く焼いている。
「吸血鬼が杭を使うなんて、どんな皮肉かしら」
有名な民間伝承だ。
不死身の吸血鬼は心臓に杭を打ち込まれると死ぬ。十字架や聖水と横並びにされる武器。
濁流を割ったカレンは全身から水を滴らせながら、口の端の血を拭って、軽口を返した。
「私は吸血鬼狩りだ。私とその在り方が既に矛盾しているんだ。今更だろう」
カレンの右脚はいまや砲台と化していた。
連なる長鉄杭の群れが羽衣のように浮遊し、次弾の一本が右脚に控えている。
全ての杭がカレンの魔力を吸い上げ、薄闇を染め抜くように輝く。
門外漢の灯也でさえ、対吸血鬼用に鍛え上げられた逸品であることは容易に察せる。
「あら、自覚はあったのね」
些かの動揺もなく、揶揄い甲斐がないとばかりに、圧し折られ捨てられる長鉄杭。
からんと地面に落ちたそれを合図にカレンが動いた。
杭を従えて爆発するように突進する。彼女が唯一アドバンテージを取る業脚にものを言わせた超加速。ただし真正面から突っ込まず、アイシャの周囲を円を描くように。跳ね上げる水飛沫を目隠しに、影の攻撃が飛んできても回避が間に合うギリギリの距離を保って。
アイシャは動かず、静観の構え。傲りではなく、強者が抱く当然の余裕。実際にカレンは二度敗北している。
付け入る隙があるとすればそこだろう。
仕掛けたのはまたしてもカレン。
飛沫の帳を突き破っての牽制の一射、一秒に満たない間隔をあけて背後から続けざまに角度を付けた二連射。Yの字のように音速を超える速度で杭を放った。
「しゃらくさい」
迎撃は無造作な影の一振り。
大型重機を一撃で粉砕するであろう運動エネルギーを意に介さず、三本の杭は明後日の方向へと弾かれるも、それは折りこみ済みだ。
背後からの二射を放つとほぼ同時に、カレンは一射目を追うようにして正面から突貫。アイシャの影が背後を迎撃する僅かな隙に、懐へと踊りこむと鋭い呼気と共に斜め下から鋭く蹴りを放った。タイミング、角度共に悪くない一撃だ。
しかしアイシャは半歩身を引いた最小限の動きで苦も無く躱した。この程度では意表を突いたことにもならない。続く連撃も紙一重で躱されるばかりか、逆に鞭のような蹴りをカレンは脇腹に頂戴してしまった。
──かかった。
逆流する血で汚れる口の端を釣り上げ、脇腹に爪先を突き刺す網タイツの脚を掴み取り、カレンはあらん限りの力で上へと跳んだ。
追従する杭の発光が薄闇に一閃を刻む。
「何のつも──」
振りかぶられる逆足の蹴りを喰らう直前に、カレンは掴んだ足を離し、アイシャを踏み台に更に跳躍。
心身を翻し、頭を下にしながら五本の杭を右脚に装填。杭を魔力で束ね、溶け合う杭は眩い光を放ち現れたのは一振りのエストック。
「しまっ……!?」
如何に吸血鬼と言えど空の自由は得難い。
咄嗟に影を盾に展開したアイシャの反応速度は驚嘆に値するも、カレンの杭も伊達ではない。銀に加え、迫撃砲もかくやという威力は確実に影の強度を削いでいた。
元より短期決戦が狙い。
捨て身の特攻で作り出した最初で最後の千載一遇のチャンス。
肉体強化の魔術で膂力を底上げし、カレンに許される最大火力を右脚へと託す。
乾坤一擲────撃ち抜く。
「──ッ!!」
落雷にも似た閃光を迸らせた、断罪の一撃。高純度の銀被膜で覆われたエストックの切先は影との刹那の拮抗を演じたが、もろともアイシャの腹部を串刺しにし、貫いた。超音速の剣によって弾き飛ばされた真空の弾道に空気が一気に戻り、巻き込まれた周辺組織に深刻なダメージを負わせる。
自ら作り出した湖に叩き付けられアイシャは、凄まじい勢いで水切り石のように水面をバウンドし、灯也の直ぐ真下、お堂を突き破り背後の竹林をも破壊して沈黙。遅れて大量の水飛沫が地面を叩いた。
カレンもまた無理な体勢から蹴りを放ったことで、背中を強かに水面に打ち付ける。即座に跳び起きて、大穴を開けたお堂から覗く竹林を油断なく観察。
耳が痛いほどの静寂。
動きは、無い。
「ふう…………」
気が緩んだ瞬間、背中から倒れ込んだ。
気泡を吐きながらその背中は暗い水の中へと消えていった。
「カレンさんっ!?」
泡を食って、灯也は屋根から飛び降りた。
大分水は引いてきたが、まだひざ下まで浸かるほどの水嵩がある。肺呼吸の生物は口を鼻が塞がる程度の水嵩でも簡単に溺死してしまう。
水に足を取られながらも全速力で向かい、薄闇と泥水で見通しの悪い水中に手を伸ばし、華奢な身体を引っ張り上げた。
意識はしっかりとあるようで、カレンは灯也と目が合うなり形のよい眉を寄せた。
「先輩……逃げろって言ったのに……」
「あの状況じゃ無理だよ。いやそれより大丈夫なの!? 救急車呼んだ方がいいかな。ああいや、こんな状況じゃマズいか」
「うん。それに私は吸血鬼だからな。注射を打ってもらう必要はない。それより先輩、水に身体を入れてくれないか。肉体強化魔術の反動で身体が熱を持っているんだ」
言われて抱きかかえるカレンの身体が異様に熱いことに気付く。生物にとっては命に関わる高温。
慌ててカレンを水の中に戻す。
「熱すぎるっ……! これ大丈夫なの?」
「いつものことだよ。私みたいな未熟な吸血鬼は魔術行使でこんなふうに代謝機能が暴走するんだ。アイシャみたいに血を沢山吸って器を成熟させればこんな事にはならないけど」
魔術云々は灯也にはさっぱり分からないが、話の筋は見当がつく。
パソコンの情報処理能力に近いものだろう。百の仕事をこなせるCPUがあっても、容量が半分の量しか受け入れられなければCPUは能力を発揮できない。情報処理の過負荷でパソコンが動かなくなったり、熱を持ったりする。
カレンの場合、魔力出力に対して器が未熟なのだ。力を無理矢理行使した反動で一時的に代謝機能に不具合が発生したのだろう。
彼女がどれだけ無茶をしたのか。薄闇に目が慣れ始めてきた灯也は奥歯を鳴らした。
恐らくだが左腕が折れている。上腕部のあたりが大きく腫れあがり、だらりと垂れ下がった腕は力が入っている様子がない。アイシャから灯也を庇った時のものだろう。
それ以上に右脚の損傷が深刻だ。衝撃波で破れたパンツの下、本来なら滑らかな肌で覆われているだろう右脚は、無数の裂傷が走って無事なところが見付からない。蹴りの威力に脚が耐えられなかったのだろう。足首が妙な方向に曲がっている。
命に関わるものではないにしても、日常復帰に一体どれだけ時間がかかることか。
吸血鬼として未熟ということはつまり、戦闘は必ず自損ありき。勝っても無傷とはいかないということだ。
灯也は無力感に打ちひしがれそうになる己を叱咤する。今はそれどころじゃない。
「とにかく、人が集まる前には離れないと。ひとまず博士のところに行けばいい?」
「その前にアイシャを拘束しないと」
そんな場合じゃないと、喉元まで出かかった反論を飲み込む。
「……っ、わかった」
本当だったら引き摺ってでも博士の元に担ぎ込みたいが、アイシャも無視はできない。
灯也はカレンを抱きかかえてお堂ではなく、鳥居に向かうとその土台にカレンを預けた。
「俺だけで様子を見てくるよ。カレンさんはそこで待ってて」
「それはダメだ! アイシャはまだ動けるかもしれないんだぞ」
「だからこそ、満足に動ける俺が行くだんだ。大丈夫。やばそうだったらすぐ逃げる。それにカレンさんはもう動けないだろ? 連れてけないよ」
「……っ、でも!」
予想通りの反対を灯也は実行可能な案で封じられるも、カレンは食い下がろうとし、自らの状態を顧みて、口惜し気に頷いた。
「危なくなったらすぐに戻って、私を囮にして逃げるんだぞ」
人間は吸血鬼の餌。手負いならば何があっても血の補給を優先する。
そのリスクは灯也も重々承知しているが、警察や消防が集まってくるのも時間の問題だ。アイシャの状態だけでも確かめなければ。
カレンから渡された杭を背中に隠し、背後からの不意打ちに最低限備えてから、お堂を迂回して竹林へと踏み込んだ。
月光が照らし出す無秩序に屹立する竹から伸びる細い影の群れ。
ひんやりとした空気に包み込まれた竹林は音を吸い込んだような静寂。
たっぷりと水を含んだ土のせいで、踏み出す度にぴちゃぴちゃと音が鳴る。
アイシャは相当な勢いで飛ばされたのか、圧し折られた竹が道を示すように続いている。
ナイフのグリップを固く握りながら、その道を慎重に辿り、不意に途切れた。
「いない……!」
直ぐに周囲を確認してもそれらしい影は見当たらない。
鼻を突いた血臭を辿れば、落ち葉と土に吸い込まれて気付かなかったが、足元が赤く湿っている。バケツをひっくり返したような量。普通であれば動ける傷ではないだろう。
しかし改めて観察してみても血痕はここだけ。移動したのなら血痕がどこかに続いているはずなのに。
不意にすぐ真横にある竹に何か赤いものが伝うものを見た。
嫌な予感に顔を上げたその瞬間、頭上から飢えた獣は降って来た。
避ける間もなく仰向けに押し倒され、同時に鳩尾に膝が落される。
「ぐふぅっ……!」
激痛に意識が飛びかけ、呼吸を一瞬忘れた。ナイフだけは何とか離さなかったが、抑えられた両肩は万力のような力で掴まれ、それだけで骨が砕けそうだった。
「まさか坊やが、しかも一人で来るなんてね。襲われるとは思わなかったのか、それともあの脳筋娘はもう動けないのかしら。まあいまはどうでもいいわね」
嘲笑するアイシャはやはり深手を負っていた。
杭の直撃を受けた腹部の傷は貫通しており、いまも血を吐き続けている。呼吸は乱れ、顔色は青を通り越して土気色であり、灯也を掴まえる手はこれでも随分と弱々しい。
重傷だ。間違いなく。
だからこそアイシャは竹によじ登り、必ず生死を確認しに来るであろう灯也たちを待ち伏せた。失った血を補充するために。
痛みで火花を散らす頭で、灯也は内心で激しく舌を打った。
こうならないようにとカレンには念を押され、警戒していたはずなのに。結局は恐れていた自体に自らハマったに等しい。
まだ自由に動かせる腕でナイフを突き刺そうとするが──
「前はお預けにしちゃったからね。今日は是が非でも貰うわ」
それも脚で弾き飛ばされ、両手は踏み抑えられた。脚は動かないこともないが、鳩尾の痛みで暴れたところで大した抵抗にはならない。
その前にアイシャの牙が届く。
即席の止血帯を口で乱暴に引き千切り、女豹のように息を荒らげたアイシャの舌が傷口をなぞり、牙で押し広げられた。
啜られる、灯也の血液。
生命力そのもののが奪われる虚脱感の中、灯也が見たのは過去の記憶でも、走馬燈でもなく──アイシャの首筋。
見覚えのある、四つ穴の噛み傷。
「ぐぅっ……おえ!」
嚥下の音が鳴った直後だった。
苦悶の声を上げたアイシャが弾かれるように灯也から離れた。
喉と胸を抑えて、飲み込んだ血を吐き出そうと咳き込む。
その光景にハッとなる。
同じだ。あのムカデ人間もまた灯也の血に苦しんでいた。
理由は全く不明だが灯也の血は吸血鬼にとって銀と同じく猛毒なのだ。
「小僧ォ! 何を仕込んだか知らないが、舐めた真似をしてくれたなッ!!」
だがアイシャには効き目が薄い。
ムカデ人間は口周りがグズグズに溶けるほどの激烈な反応を見せたが、アイシャは精々が軽度な火傷程度。
雑兵と吸血鬼では致死量が違うのか。
だがアイシャは二度と灯也の血は吸わないだろう。
それどころか激昂した彼女は数秒後には灯也を殺すだろう。その後に遠からず来る警察か消防を改めて襲えばいいのだから。
つまり今しかない。
いまがアイシャを仕留められる最後のチャンス。
しかし相手は手負いであっても男一人を容易に抑えつける吸血鬼。ムカデ人間の時のような奇跡はもう二度と起きない。
『──それを使うようなことは避けることだ』
不意に、脳裏を博士の忠告が掠めた。
あの時は対して気にも留めなかった。餞別に最低限の自衛武器を寄越しただけだと。
しかし冷静に考えれば可笑しな話だ。
化物そのものである吸血鬼に対し、ただの高校生がナイフ一本で立ち向かえるはずもない。
ナイフで切り裂くのは敵ではない。
加賀灯也の武器はナイフではない。
答えに至り、逡巡の後、覚悟は思いのほかすんなりと決まる。
全身の力を掻き集め、跳ね起きた灯也は弾き飛ばされたナイフに飛びつき、アイシャへ走る。
首筋の流血を刃に塗りたくり、猛毒の刃を振り被った。
「見え透いた攻撃。貴様はもう私に近付くなッ」
アイシャは手近の折れた竹を掴み取り、力任せに横薙ぎに振るった。
リーチは勿論、使い手の身体能力の差が著しい。
腹に大穴が開いてなお、吸血鬼が振るう即席のこん棒は残像を引くほどの速度。一撃でも喰らえば人間はそれだけで肉が裂け、骨が砕けるだろう。
──本来なら。
アイシャが逃げず、迎撃に留まった時点で勝利の天秤は灯也には傾いた。
振り下ろされるナイフはアイシャではなく、己自身。
月光を跳ね返す血に汚れた鈍色の刃は、灯也の手首を深々と切り裂き、吸血鬼に厄災をもたらす。
噴き出した大量の血飛沫が、至近距離からアイシャへと降り注ぐ。
「ギャアアアアアアアアアッ! 熱い、痛い痛い痛い!! 何だこれ、溶けてるッ!?」
効果は覿面だった。
多量の血を浴びたことで、硫酸を浴びたように激烈な反応を示す。
髪は溶け、肌は焼け、傷口は更に広がる。
竹を取り落とし、かつてない激痛にアイシャは半狂乱に陥った。
灯也は攻撃を緩めない。
意趣返しとばかりに、体格差に任せてアイシャを押し倒して、切り裂いた手首を口に無理矢理押し込んだ。
勢いよく噴き出す血が喉奥に溜まり、アイシャはそれを反射的に飲み下し、食道から胃にかけての組織が壊死。少量ながらも気道に侵入した血が呼吸器官の要である肺を破壊していく。
「ごふァ! やめ、やめろおォッ!」
「逃がさないッ。逃がすわけがないだろ!」
火事場の馬鹿力というやつか。死に物狂いで暴れるアイシャを不完全ながらも灯也は驚異的な力で抑えつけた。
口に押し込んだ手首は暴れる牙で傷つき、更なる毒となって吸血鬼に跳ね返る。
爪で引き裂けば返り血で指先が溶け、腹を殴れば吐き出される吐血で顔面が焼かれた。
灯也の傷がそのまま極上の呪いとなって、女を蝕み、その形を崩していく。
これ以上ないほどの皮肉だ。
アイシャ・ペンローズは今まで散々貪りつくし、いま何よりも欲して止まない血液で殺されかけているのだから。
それでもやはり、限界は灯也が先だった。
気力だけでは誤魔化しきれない。どうあっても加賀灯也は人間なのだ。血を急速に失ったことで、身体は活力を失い、力が緩む。
「ドゲエエエエエエエエエエエエエエ!」
「ぐっ……!」
何度目かの殴打で大きく身体が揺らぎ、身体の間に滑りこませた脚で蹴り飛ばされてしまった。
一切の受け身も取れず、全身を泥の地面に打ち付ける。
立ち上がろうとしたが、碌に力が入らない。ナイフも落としてしまった。
「血ヲ……早ク血ヲ吸ワナイド……血ヲ、血、血、血!!」
「くそ……まだ動けるのかっ……」
急速に狭まっていく視界の中、ゾンビのような有様の女が竹林の向う、赤く明滅する光の方へと吸い寄せられていく。
不味い。間に合わなかった。警察か消防の人間が来てしまった。
這ってでもアイシャを止めようともがくが、身体が鉛のように重く、そもそも感覚が殆どなくなりつつある。
叫ぼうにも強かに鳩尾を強打され過ぎたのか、声は到底届きそうにないか細いもの。
万事休すか。
「へえ。これは驚いた。あの露出狂が死に体だよ。やるじゃん」
不意に、軽薄な声が聞こえた。
聞き覚えのある声だが、思い出せない。聞き慣れているような気がするが、記憶と違う気もした。
首を巡らせることさえ出来ないために、顔を確認することも出来ない。見えるのは足元のみで、それすらも意識が急速に遠のき見えなくなる。
「貴様ハ──」
アイシャの驚嘆に満ちた声と、重い何かが地面に落ちる音を聞いたのを最後に、灯也の意識は闇へ引き摺りこまれていった。