【6】 まやかしの平和
夏の定番といえば海水浴、キャンプ、そして祭りだろう。
この日は街の神社でちょうど夏祭りが開催されており、色とりどりの提灯と出店が立ち並び、集まった人々で賑わっている。
ソースが焦げる臭い、祭り囃子の音、花火の色彩。
そんな中で一際人眼を引く白い影。
「先輩先輩! 次はあれにしよう! リンゴアメ! あんな宝石みたいな食べ物見たことないぞ!」
「馬鹿な……今さっき焼きそば十人前を平らげたばかりなのに……! いまだってイカ焼きを両手いっぱいに持って──あれぇ? イカ焼きってあんな棒みたいだっけ?」
口周りをソースやシロップで汚してはしゃぐカレンと、財布の中身がみるみる減っていく灯也の姿がそこにはあった。
昼間、喫茶店で吸血鬼狩りの協力を約束した二人は一度別れ、早速その日の夜に調査に乗り出した。
民間伝承の吸血鬼は太陽に弱い、という弱点こそデマだが、犯罪というのは総じて夜間に行われるものだ。
一連の事件で警察が調査・収拾した情報は博士が入手済らしく、カレン達の役目はいわゆる足で稼ぐこと。怪しげな所を勘と経験で探り当て、獲物を追う古典的な手法だ。
人間もそうだが、動物は必ず一定の活動範囲を有しているものだ。いわゆる縄張りだ。
吸血鬼狩りの基本は縄張りを見極めて、街を巡回して網を張ること。
地味で手間が掛かるが、実際にカレンは灯也を助け出している実績がある。灯也としても彼女の捜査方針に文句はない。無いのだが──
「なんで祭りを堪能してるんだろ……」
リンゴアメ十個分のお代を払いながら、灯也はぼやく。
いざという時のタクシーや軽食の買い出し用にと、多めに用意していた資金は底が見え始めていた。
暗い話題ばかりで気が滅入り、気分転換を兼ねて待ち合わせ場所にここを指定したまでは良かった。
日本の祭りは初めてだというカレンに、見栄もを張ったのが運の尽き。
見るもの全てが新鮮なのか、無邪気にはしゃぐカレンは飲食系の出店を荒らしまくった。
彼女の細い身体の何処にそんな容量があるのか。大量の食べ物が面白いように消えていき、あれだけ頼もしかった灯也の三人の諭吉は数枚の野口を残すのみ。
「美味い! リンゴを飴でコーティングするなんて、なんて贅沢な! これならいくらでも食べてしまえそうだ!」
……その顔は反則だな。
幸せそうに頬袋を膨らませる彼女を眼の前にしては、駄目なんて口が裂けても言えない。
屋台の店主もカレンの笑顔に満たされたのか、代金を少しだけまけてくれたので、まあよしとしよう。お金は後でまた下ろせばいいのだから。
金魚すくいでは惨敗した時はどうなることかと危惧したのが、今では懐かしいほどだ。
それはそれとして──
「吸血鬼は人から成る、か……」
今日何度目かの、記憶の再生。
素質がある者だけが、ある日突然、吸血鬼へと成り変わる。
その言葉の意味を灯也は計りかねていた。
いまも擦れ違う人々の誰かが、人を吸い殺す化物かもしれない。こうして日常に触れている今は到底信じ難い話だ。
あの女吸血鬼、アイシャに襲われる以前であればだが。
吸血鬼の成り立ち云々はともかくとして、街中で擦れ違う誰かが吸血鬼かもしれない。その可能性がチラつくだけで当たり前と思っていた日常が、急に張りぼてのように見えてしまう。
無論、それは錯覚だ。いつだって何処かで悲惨な事故や事件は起きている。今回は吸血鬼だが、通り魔に襲われた被害者も今の灯也と近しい心境を抱いたことだろう。
毎日が平穏だと、何の根拠もなく信じていただけのこと。
日常とは何て脆いことか。協力こそ申し出たが、灯也は気を緩めれば途端に脚が震えだしそうな自分が情けなかった。
ならカレンは? 戦いに身を投じる彼女には、この世界がどう映っているのか。
「ん? どうしたんだ先輩? あ……そうか。私ばかり食べ過ぎだったな。はい、あ~んだ」
「うん…………え?」
差し出されたリンゴアメを口にしようとして、直後に我に返る。
灯也が思考に耽っている間に、カレンはリンゴアメも一つを残して平らげていた。その一つもカレンが齧ったもので、瑞々しい果肉が露出していた。
「やっぱり口を付けたものは嫌か?」
「いや、そうじゃなくてっ」
悲しそうに眉を下げるカレンだが、思春期真っ盛りの灯也には大いに焦り、そして意識してしまった。
リンゴよりも瑞々しく赤い、カレンの唇を。
関節キス。小学生ではあるまいし、気にするの子供らしいと割り切るには、恋愛経験は乏しすぎた。
加えて赤という色が良くない。赤は暴力的なイメージが伴う一方で、煽情的なイメージも内包している。カレンが吸血鬼であることも手伝ってか、妙に生々しい。
追い打ちを掛けるようにカレンはその容姿とここまでの大食いで散々注目を集めている。その彼女が何の特徴もない男子高校生にあ~んなどしようものなら、視線は棘となり剣となろう。
屋台の親父らは無責任に囃し立て、孤独を友情で誤魔化す男子共の「④ね」という殺気。
やるのか、やらないのか。
「じゃあ……一口」
意を決して口を付けていない場所を灯也は齧った。
水あめの固い感触を噛み破って、りんごの果肉を齧り取る。
「どうだ? 美味しいだろ?」
「うん……」
正直味なんて全く分からない。
けれども期待に満ちたカレンの顔を眼の前にしてしまえば、頷くしかないだろう。
「もっと食べるだろ? 先輩は何も食べてなかったし」
「い、いや。小食なんだよ俺。それよりほら、食べてばっかで喉渇いたし、何か飲もうよ」
いい加減針の筵だ。
カレンの背を押して、灯也は逃げるようにその場から遠ざかる。
今頃になって甘酸っぱい味を自覚して、顔が熱くてたまらない。
心臓の音を代弁するように、咲き続ける花火がいまばかりは疎ましい。
✝ ✝ ✝
「意外と大胆なことするね」
「美味しいものを分け合うのは当たり前だろう? まあ今日はちょっと堪能し過ぎたかもしれないが」
人気のない本殿の裏手で、二人は買ってきたジュースで喉を潤す。
昼間でも何処かで鳴いている蝉に押されて、祭り囃子が余計に遠い。
「日本の祭りは美味しいし楽しいな。巡回は明日にして、私じゃなくて友達と来ればよかったんじゃないか?」
言われて、去年の今頃を思い出してみる。
友達はいないわけでは無いが、部活に入っていない灯也に合宿といったイベントは無縁な学生生活。自然と友人も腐れ縁を除けば浅い付き合いばかりだ。
祭り自体は脚を運んだ覚えこそあるが、それだけ。
思い返せば誰かを遊びに誘うこと事体、随分久しぶりだ。それが吸血鬼退治を前にした交流を目的としても。
「俺の場合は誘う友達がそもそも少ないからね。一応受験生だし、同級生は塾か予備校で缶詰が普通かな」
勉強は決して苦手ではないが、要領がいい方でもない。
全てが片付いたとして、遅れた分を取り戻すことを考えると憂鬱だ。最悪、浪人も視野に入ってくる。
「そういうカレンさんは地元ではどんな生活をしてたんです? 見た感じ外国の人ってのは分かるけど」
「私か? 私はドイツの酪農家の生まれで、学校が終われば毎日牛の世話をしていたな。祖父の道楽で馬も飼っていたから、こう見えて手綱捌きには自信があるぞ」
自慢げに語るカレン。
以前、灯也も競馬好きの叔父に連れられて乗馬体験をしたことがあるが、馬は賢い動物であると同時に力は人間の比ではない。しっかりと注意を払っていなければ、ちょっと馬が頭を下げただけで手綱ごと身体を持っていかれるものザラである。
その点、カレンはしっかりとした技術と経験を持ち合わせているのだろうが、今の彼女ならきっと競走馬とも併走も軽くこなしそうだ。
凄いのかどうか灯也は微妙に判断に困った。
そんな雑談を適当にしていた時だった。
「おやおや、こぉんな暗がりで何してんの君たちぃ」
「さては祭りで浮かれてイケない遊びに興じちゃうところだった」
「だったら水差しちゃったわ。マジスンマセン。それにしても凄え美人。こういうの何ていうのかな。北欧系?」
やたらとテンションの高い声に振り向けば、三人の若い男達がこちらに近付いて来るところだった。
軽薄な言葉遣いによく似合う、いわゆる不良系の出で立ち。
灯也の存在はすぐに意識から外れ、男たちの視線はカレンを無遠慮に嘗め回している。
派手な催し物はこういった不埒者も必ず呼び寄せてしまうもの。
「カレンさん、行こう」
囲まれてしまうと面倒だ。
カレンの手を取って、出店のエリアへと向かおうとした矢先、別の男に阻まれた。
「何急いでんだよ兄ちゃん。別に喧嘩しようってわけじゃないんだからよ。せっかくの祭りなんだから楽しもうぜ」
白々しい。
射的や金魚すくいを楽しみに来たわけではあるまい。
彼等の娯楽は遊興か肉欲であることが見え透いている。
「すみませんが、この後は予定があるんです。通して下さい」
「そうなの? なら奢るから俺達も混ぜてくれよ~。ソースと汗で臭えから、サッパリしたいんだよね。用があるならお前だけで済ませてこいよ」
会話は成立しているようで、していない。
見た目通り堪え性がない獣たちは、早くも取り繕うこともしなくなった。
思わず、灯也の意識がナイフへ向くが、直ぐに思い直す。
刃物を見せびらかしたところで、男たちの背中を押すだけだ。袋叩きにされるのが関の山。
「先輩。下がって」
どうしたものか迷う灯也の手が引かれ、それまで沈黙していたカレンの背に庇われる。
男達から卑しい笑みが零れる。カレンが自ら身を差し出したとでも思ったのだろう。
熱に浮かされた獣たちはカレンの纏う雰囲気が鋭利に研がれていることに、誰も気付いていない。
「彼等の首元を見てくれ」
「首……?」
肩越しの指示に最初こそ疑問符を浮かべたが、灯也はすぐにその意味を悟る。
暗がりで分かりづらいが、確かにそれを見て取った。
赤紫色に腫れる肌に穿たれた四つの刺し傷。──吸血痕だ。
「アイシャの下僕だな。随分と乱暴に愛されたようだけど」
途端、人間を取り繕うことを止めた男たちの軽薄な笑みが一層の獣欲を帯びる。
肌に血管を思わせる痣が浮かび上がり、肉食獣のように瞳孔が狭まる双眸は今や血の色を示している。
吸血鬼ではない。
もっと別の、破綻した生き物だ。
「いいねいいねぇ、とんだ上玉だ」
「あの人を知っているってことは、敵ってことだよな」
「なら嬲ろうが犯そうが御咎めは無しってことだ!」
たがが外れ、本性を現した獣たちは一斉にカレンへと襲い掛かった。
それこそ本当に動物のように……いや、動物以下だ。
弄ぶことだけを目的にした都合八本の手と四つの口は、カレンの肢体を、滑らかな肌を、ふくよかな胸元を求め向かう。
今度こそ灯也はナイフを掴み取り、直後に一陣の風が通り過ぎる。
「ふっ──!」
「「「「ぷぎゃ────!?」」」」
重なる四つの悲鳴。
殆んど同時に聞こえたドドドドッという打撃音と、これまたほぼ同時に獣たちは錐もみ回転しながら吹き飛んだ。
男達は優に五メートル以上を滑空同然に飛んでいき四人仲良く生垣に突っ込み、それっきり動かなくなった。
唖然とする灯也の前でカレンが振り抜いた脚をゆっくりと下ろしたところで、ようやく理解に至る。
文字通りの一蹴であると。
「……マジか」
人一人を抱えてビルを軽々と飛び越える脚力を鑑みればむしろ当然の結果。蹴り飛ばされた男達は折り重なってピクリとも動かない。
一応生きてはいるようだが、彼等の今年の夏は入院生活で消化されそうだ。
灯也は背筋に流れる冷や汗を意識した。何かが間違っていれば彼等と同じ運命を辿っていた未来もあったわけだ。
後退りそうな足を踏み止めるのに灯也は全力を要した。内心では二度と彼女に無礼を働かないことを固く誓う。
「まずいな」
切迫したカレンの声に我に返る。
彼女が抱く危機を問うより先に、答えは悲鳴となってもたらされた。
「今のはッ!?」
祭り会場の方からだ。
それも悲鳴は一つや二つじゃない。二人がこうしている僅かな内に、喧騒と入れ替わるようにして瞬く間に大きく膨れ上がっていく。
尋常な様子ではない。
同時に、灯也は気付いてしまった。
風に乗って来る焼きそばやイカ焼きの臭いの中に、鼻腔にへばり付いてくる血の匂いを。
脳裏を掠めたのは、まだ記憶に新しい路地裏での惨殺死体と女吸血鬼との邂逅。
「カレンさん!? まさかこれって──」
「アイシャの仕業だ。でも、ここまで派手に動くなんて……」
己の見通しの甘さを糾弾するように、カレンは臍を噛んだ。
会場では火の手も上がっているのか、濛々と立ち昇る黒煙も見える。
祭りは小さいながら、境内にはそれなりの人数の来場者がいたはずだ。出店で道が狭まっている状況で殺人鬼と火に追われれば、それだけで死傷者が出かねない。まだ事態を把握していない人たちもいるだろう。
被害を最小限に留めるのなら、いま手を打つしかない。
「鎮圧してくる。他にもアイシャの下僕がいるだろうから、先輩は身を隠していてくれ」
「それって、君一人で戦うってこと!?」
「狩りは私の役割だからな。心配しなくていい」
「ちょっと、待っ──」
カレンは大きく膝を撓めると本殿を跳び越えて祭り会場へと向かってしまった。手を伸ばした時にはその背中はもう見えない。
正直、灯也は未だに状況は飲み込めていない。
戦いになるのであれば、灯也は戦力にならない。さっきだってまるで動けなかった。
隠れろと言われたのなら、そうするべきなのだろうが、惨状となりつつあるだろう会場の方に苦々しく視線を投げた。
距離にすれば百メートルもない。走れば三十秒とかからずに会場に戻れる。
また暴徒に出くわす可能性はあるが、背後の雑木林に入れば多少進みづらいが駅へ続く大通りに出られる。逃げるならこっちだ。
「……っ、しっかりしろ加賀灯也。家族の仇を追うって決めたろ」
両頬を強く叩いて、萎えかけた覚悟を固める。
退く選択肢はハナから無い。
虎穴に入らざれば虎子を得ずだ。
ここで渦中に飛び込まなくては、何のためにカレンに協力を申し出たというのか。
灯也は震える脚を叱咤して、悲鳴と血臭の渦中へと走り出した。
吸血鬼が支配するリアルへと。