【5】 協力
「すまない、先輩。博士は基本ああいう人でなしなんだ」
「いやいや、君が謝ることじゃないよ。だから顔上げて。ていうか辛辣だね」
駅前の喫茶店。窓辺のボックス席で、カレンは深々と頭を下げた。
営業開始間もなくで店内の客の姿は疎らだが、灯也はそれでも視線が気になった。
お冷を運んで来たウェイトレスに灯也は軽食と飲み物を適当に注文し、人目を追い払うと重い嘆息が思わず零れる。
喫茶店に入ったのは失敗だったかもしれない。
だからと言って外で話をするには日本の夏は殺人的だし、図書館やネットカフェは私語は憚られる。叔父の家は論外。
加えて言えば男女のペア。その内の片方は人目を引く白髪であり、更に一方は巷を騒がせる殺人事件の被害者家族。こんな所マスコミにでも見つかれば何を聞かれるか分かったものではない。
気にし過ぎなのかも知れないが、灯也は胃が痛くなってきた。
「顔色が悪いぞ。薬草取ってこようか?」
「いや、ちょっと日差しに当てられただけ。ていうか薬草って……」
「大丈夫。毒草と間違えたりしないぞ。この身で実験済だから」
「次の機会にしておこうかな、うん……」
自分の体調より彼女の私生活の方が灯也は心配だ。
あまり余裕のある生活をしていないことは早い内から察していたが、医薬品ではなく薬草を頼るほどとは。
彼女が博士と呼ぶ男のことが益々信用ならなくなってきた。
とりあえず本題に入ろうとしたところで、ふとあることに気付いた。
「そういえば自己紹介がまだだったよね。もう知っているようだけど加賀灯也です」
「これは失礼した。私はカレン。姓は事情があって名乗れない。よろしく、先輩」
出会ってまだ一日、過した時間は一時間にも満たないだろうが、ようやくと言った所感だ。
ついでにと仮面の男の名も訊ねたが、カレンも本名を知らなかった。博士と呼ぶのは、以前に彼がそう呼ばれていたからとのこと。
「じゃあ、俺を先輩って呼ぶのはどうして? うちの高校の生徒だっけ?」
「ん? この国では年上の人をこの敬称で呼ぶのだろう? 年下の女子から先輩と呼ばれるのは全世界の男の願望とも博士は言っていたが」
確かに悪い気はしないだろう。それがカレンのような美人であれば尚更。俗物的な博士の入れ知恵は余計だが。
自己紹介に一区切り付いたところで、丁度注文したアイスコーヒーが運ばれてきた。灯也はブラックで、カレンはミルクとガムシロップを多めに投入して頂く。
初めて入った店だが、苦みとコクのバランスが取れたすっきりとした味わいだ。朝からバタバタとしていた心がようやく落ち着きを取り戻していく。
「さて、先輩。改めて確認しておきたいんだが、先輩はご両親の仇を追うのか?」
「……もちろん」
カレンの問い掛けに灯也は頷く。
彼女達の元を訊ねたのは半分成り行きであったが、事件から眼を背けるつもりはない。
もう彼はただの被害者家族ではなく、事件に片足を突っ込んでいるのだから。恐怖はあるが、危険は承知の上だ。
一瞬カレンは悲しそうに目を伏せたが、直ぐに「分かった」と灯也の気持ちを受け取った。
「じゃあ、私たちの素性も含めて、簡単に現状を整理しよう。
① 街で起きている殺人事件は吸血鬼の仕業。
② 私たちは吸血鬼狩りの賞金稼ぎ。
大雑把だけど、こんな所だと思う。ここまではいいか?」
メモ用紙に起こされた二項目を確認し、灯也は改めて目眩を覚えた。未だ両親の死すら受け入れがたいのに、漫画みたいな字面の列挙が眼に痛い。
もう一口コーヒーを飲んでから、灯也は①の項目から着手した。
「正直な話、吸血鬼なんて本当にいるの? 確かに昨日の女の人はそれっぽかったけど……」
疑問を口にしながらも、悪寒が蘇る。噛み痕に刻まれた捕食者と獲物の上下関係。
今更否定しようとは思わないが、あんな化物が人目の付かないところとはいえ街中にふらりと現れたことが、どうしても受け入れがたかった。
灯也の心境とは裏腹に、カレンはハッキリとその存在を肯定した。
「……残念ながら吸血鬼は確かに存在する。社会で明るみにならないだけだ」
「じゃあ、昨日のあの人も?」
「うん。アイシャ・ペンローズという名前だが、彼女は半世紀以上生きている大物だ。私たちは彼女を追ってこの街に来た」
裏を返せば、アイシャは五十年以上に渡って警察や賞金稼ぎの手から逃れ続けているということ。
まだ驚異の一端に触れただけの灯也であっても、手足が冷たくなった。
人間社会においても警察から逃げ果せた犯罪者は極まれだ。殺人犯ともなれば警察も血眼になって方々を捜査し、僅かな手掛かりであっても掻き集めて犯人を追い詰める。
嫌な想像をしてしまう。
アイシャという吸血鬼に勇敢にも立ち向かった警察が悉く返り討ちに合い、味わい尽くされ積み重なった屍の山。
遅れて、灯也ははっとする。
「ちょっと待って。吸血鬼に噛まれると、その人も吸血鬼になるんだよね? じゃあ、俺も……?」
有名な伝承だ。ゾンビと同じように吸血鬼に噛まれる、又は血を吸われた人間は吸血鬼になってしまう。
現代で扱われる吸血鬼の特徴は小説や映画のそれから定着したものが多いが、もし本当ならば灯也は既に人間ではないことになる。
青ざめる灯也の不安をカレンは首を横に振って否定した。
「それは無いから安心してくれ。その手の伝承は吸血で殺めた人を死霊魔術で操ったことから根付いたらしい。あ、でも感染症の危険は普通にあるから気を付けてくれ。特にアイシャはその……あちこちで複数の男性とイケない関係を持っているそうだから」
最後の方、カレンは顔を赤らめた。身体を抱くような仕草も見せ、灯也もまた気恥ずかしく窓の外へ視線を逸らす。
エアコンが効いた室内なのに顔が熱い。
早急に次の話題に映らねばと、慌てて思考を回した灯也はもう一つの吸血鬼の代名詞ともいえる弱点を思い出した。
「じゃ、じゃああれは? 日光に当たったら灰になるっていう」
「ああ、あれか。あながち間違いってわけじゃないぞ。灰になるって言うのは大げさだけど、気分は悪くなる。正確には違うけど夜行性なんだ。日光との相性が最悪なのは吸血鬼が好んで使う血や影を使った魔術の方だな」
確かに灯也がアイシャと遭遇した場所はかなり薄暗かったが、陽光は多少ながら差していた。カレンがこうして昼間に活動している事実とも矛盾はしない。
他にも海を渡ることが出来ない、ニンニクが苦手という弱点も創作とのことだが、逆に銀や聖水は実際に効果があるという。吸血鬼狩りは銀メッキを施された剣や銃弾を武器に、聖水に付け込んだ衣服に身を固めて吸血鬼に挑むのだとか。
また吸血鬼とはいうが外見に関しては牙と赤眼以外は人間と殆んど差異はなく、一見しただけでは吸血鬼であるかは判断できないとのこと。
ただ、と言葉を続けるカレンの表情は険しくなる。
「──生き血を啜る化物。その点は間違いなく吸血鬼の本性だ。ただ一つの例外なく」
「カレンさん……?」
吐き捨てるような声だった。怒りや恨みに根差すものではなく、嫌悪と侮蔑が籠った。
「博士に言わせると、吸血鬼って言うのは一種の魔術的な素質なんだそうだ」
「魔術……才能?」
問い返す灯也に、カレンは答えず両目を閉じて、ゆっくりと瞼を持ち上げてみせた。
一瞬、息を忘れた。
露わになったカレンの双眸、鮮血のような赤。
昨日の女吸血鬼、アイシャと同じ色を示している。
薄々そうではないかと予想はしていたが、やはり。そうでなくては人一人抱えてビルを飛び越えるような真似出来るはずがない。
「吸血鬼……!?」
「騙すつもりは無かったんだ。ただ、話すタイミングが無くて。……すまない」
謝るカレンの口元には、唇を割るようにして延伸した牙が覗いていた。それもまた吸血鬼の代名詞。
「なら君にとって、アイシャは同族なんじゃないのか? さっき君は自分を吸血鬼狩りの賞金稼ぎだって」
「そこも含めて②だな。……というか先輩。私が怖くないのか?」
ほんの少し躊躇いが混じった問い掛けに、灯也は眼をしばたたかせた。
言われてみれば何故吸血鬼と疑っていながら平然と膝を突き合わせているのか。
カレンが吸血鬼であることにショックは受けた。しかし何度己に問い直しても、恐れや嫌悪といった感情は不思議と希薄であった。
試しにと彼女が口元を血で汚している姿を想像してみるが、それも難しい。
「なんていうか……君はらしくないって言うのかな。大丈夫みたい」
「……む。私が弱そうって言いたいのか? それはすごく凄く心外だぞ」
真剣な面立ちから一転して、カレンは身を乗り出して灯也を睨む。灯也の反応がお気に召さなかったようだが、視線は鋭くとも子供っぽく膨らんだ両頬で迫力にはイマイチ欠ける。
身を乗り出したことで襟元に危ない隙間が出来ている方が、灯也にとっては脅威だ。
あたふたと両手を動かしながら、灯也は弁明する。
「い、いや、別にそういう意味じゃなくて、ほら、貫禄とか年季みたいなあれだよ!」
口にしてから、全く訂正できていないことに気付くも後の祭りだ。
火に油を注がれたカレンはそっぽを向いて唇を尖らせる。
「……ふん! どうせ私はアイシャと違って成りたてさ。初歩的な魔術だっていまだに使えないし」
妙な方向に話がいってしまった。
どう謝ろうか視線を泳がせていたところで、気付く。
「成りたて? でもさっき吸血鬼は噛まれただけじゃ増えないって」
カレンは反射的に口を手で塞いだ。致命的な失言を後悔するように眼を眇めて、灯也から視線を逸らす。
「ねえ、どういう意味? 俺は素人だからさっきの魔術的素質ってのも理解出来てない」
「それは……」
言いよどむカレン。
首が幻の熱を帯びる。噛み傷ではない。首を一周する自殺未遂の痣だ。
やがて追及の視線に耐え兼ねたように、カレンは答えた。
「吸血鬼は──元々は人間なんだ。人種も、血統も関係ない。十代半ばから二十代の境にある日突然、蛹から羽化するように人から人食いの化物に変化する。……私もそうだった」
言葉の意味を理解するのに幾らかの時間を要した。
吸血鬼は元人間。吸血鬼という人間とは似て非なる別種ではなく、人の姿をした化物。
「……っ、う!?」
途端、激烈な頭痛が灯也を襲った。
倒れるようにテーブルに伏した弾みで机から落ちたコーヒーカップが割れる。
頭が痛い。首の索条痕が灼熱を発し、同時に喉を締め付けるような苦痛で息ができない。
不意に視界がブレる。
薄暗い山奥の何処か。
宙吊りになる灯也を見上げて、笑いかける誰か。
「 」
聞こえない。思い出せない。
けれど胸を貫いた手を引き抜くその手だけは妙に鮮明だった。
穿たれた胸の穴へと、引き摺りこまれるような寒さに映像が乱れる。
何だ。何を忘れている。
いや、何から眼を背けようとしているのか。
垣間見た過去を強く意識すればするほど頭痛は強くなる。
これは警鐘だ。この件に関わるなという生物の防衛本能ではなく、その逆。決して眼を逸らすなという。
「先輩!? 大丈夫か先輩っ!?」
眼を開けると、心配そうに顔を覗き込んで来るカレンと目が合った。
彼女の赤眼に映るのは、今にも吐き出しそうな最低な面をした灯也。冷房が効いているのにも関わらず全身から汗が顎から垂れている。
止まっていた呼吸が再開され、酸素を求めて激しく喘いだ。
深呼吸を繰り返し、暴れる心臓をようやく宥めた時には灯也は憔悴しきっていた。
「すまない……やっぱり黙っていた方が良かったな」
「いやいや、大丈夫。カレンさんのせいじゃないよ」
「でもやっぱり気持ち悪いだろ。人間が血を啜る化物になるんだし」
カレンは灯也の反応を拒絶と受け取ったのだろう。
彼女は灯也とそう歳も変わらない。若くして人の道から外れたカレンの人生が華やいだものではないことは、想像に難くない。
短いやり取りでも分かる喜怒哀楽が素直に出るカレンの性格は、間違いなく彼女の魅力だ。初めから吸血鬼と知っていれば話は違っただろうが、現時点では嫌悪感など論外。
腹が減っても血を求めることはせず、饅頭を朝食と喜ぶのがカレンという少女なら尚更。
コーヒーの苦みで垣間見たイメージを脇に退けてから、カレンに改めて向き直る。
「確かに驚いたけど、民間伝承とそう大差ないよ。それにほら、吸血鬼ってデカい城とセットのイメージじゃない? カレンさんみたいな質素な生活とは結びつかないな」
「むう……好きで貧乏やっているわけじゃないんだぞ。さっきも言ったけど、私たちは賞金稼ぎだ。お金が入ればもう少し真面な生活をしているさ。……まあ、ほとんど博士が博打でスっちゃうけど……」
灯也の少々無礼な物言いに、カレンはぷいっとそっぽを向いた。
ひとまず嫌悪感が無いことが伝わったことに、灯也は苦笑を浮かべた。頭痛の謎は残ったままだが、今は脇に退けておけばいい。
それはそれとしてあの仮面の男、第一印象通り碌でもない。
「賞金稼ぎか……。もしかして人間に戻れる方法があるの? そのためにお金が必要なんじゃ」
「不可逆だ。人間から吸血鬼にはなっても、その逆はありえない。これは絶対だ」
カレンは吸血鬼への変貌を魔術的素質と称した。外的要因ではなく、元々備わっていたものであると。病でも障害でもない。
生まれ落ちたその日に遺伝子に定められた本性と言い換えてもいい。
──生き血を啜る化物。不意にカレンが吐き捨てた言葉が蘇る。
「先輩はさっき私をらしくないと言ったけど、私の中の鬼が目覚めたその日に、この手は真赤に染まっているんだ。勿論、血の味も」
「……、でも今は普通にしているじゃないか」
「博士の魔術で吸血衝動は抑えられている。さっきは賞金稼ぎなんて自称したけど、私は実際には博士の猟犬。贖罪も含めた狩りが私の仕事なんだ」
言葉を失った。
カレン達が人間の範疇を軽々と超えていることは、灯也はその身で味わって理解している。人間の理解を超えた存在であることも。
化物を真っ当に相手にできるのは、やはり化物しかいない。シンプルだが実に合理的。如何なる不運であろうとも、人を殺めた罪を不問とする理由にはならないのだから。
「先輩。博士は引き込むような真似をしたけど、私としては深入りするのはお薦めできない」
「……関わるなと?」
「帰れる家があるなら、その方がいい。ご両親の仇は私が必ず討つから──」
「──それはダメだ!」
口を突いた拒絶。
カレンもそうだが、口にした灯也自身も驚いた。
素人の自分が下手に首を突っ込むより、生業とするカレン達に任せた方がいいことは理解している。似たような言葉を叔父にも掛けられたばかりだ。
拒絶の理由を探ろうとすると、また頭が痛んだ。
女の子を戦わせる負い目。両親の仇への怒り。残された者の責務。
しかしどれも自分の中で上手く当てはまらない。
「ほら……救けてもらったお礼がまだだし、今更知らん顔して日常になんて戻れない。ニュースで犠牲者が報道される度に気を揉むのは嫌だし。手伝えることがあれば手伝うよ」
結局、当たり障りのない言葉で濁した。
だが嘘でもない。もう灯也の日常は壊れてしまったのだ。自分を誤魔化して生きることは、きっと悪夢と変わらない。
博士がナイフを寄越したのは、彼なりの発破なのだろう。ベルトに挟んでシャツで隠した凶器の重みに意識すると、不思議と覚悟は決まった。
カレンの赤くしたままの双眸を真っ直ぐに見据えて、手を差し出した。
「戦うことは出来ないけど、張り込みする刑事にあんぱんと牛乳を買って来ることぐらいはやってみせるよ。だから、お願い」
しばらく間が空いた。
やがて嘆息が一つ。諦めたようにカレンは手を取った。
「──……分かった。何かあったら私が絶対に守る。よろしく先輩」
交わされる握手は、手の大きさの違いで包み包み込まれるような不格好な形。
冷徹なイメージが先行する吸血鬼だが、カレンの手から人肌の温かみを感じ、久しぶりに灯也は笑った。