【3】 邂逅
吸血鬼。
人の血を吸い、獣や霧に姿を変え、闇夜に住まう怪物。
それがいま灯也の首筋に犬歯を突き立て、血を啜ろうと欲している。
身体が動かない。
声が出ない。
呼吸さえ満足に叶わない。
分かるのだ。眼の前の女性が人間とは根本から異なる化物であることが。
草食動物が生まれながらに肉食動物を恐れるように。
本能が知っている。
人間など比較にすらならない程に、生物としての存在規模が吸血鬼は違うのだと。
──死ぬ。
手に取るように、数秒後の未来が明確に像を結んだ。
すう、と意識が身体から離れていく中で、自らが捕食される感覚だけが鮮明だった。
皮膚を突き破る犬歯。
溢れ出した血液に濡れる唇の熱。
舌の上を滑らした体液を嚥下する喉の蠕動。
女がどのように自分を楽しむのかが、灯也にはありありと理解出来る。理解出来てしまった。
もし眼の前の女が両親の仇であるのならば、問い正さなければならない事が山ほどある。償わさなければならない罪もそうだ。
しかし実際に対峙してみれば、悲鳴すら上げられない。
何一つ、この事件の真に迫ることは無く灯也はその人生に幕を下ろすことになる。
全く記憶は無いが灯也は自殺を図っているのなら。
結果的に奪われる形にはなるが、これで二度、灯也は命を投げ出したことになる。
「むっ……」
だが女は突如灯也の首から口を離し、大きく仰け反った。
手放しかけた自我が何故と疑問符を抱くより先に、灯也が聞いたのは耳を聾する破砕音。
身を引いた女から一拍遅れて、灯也の顔の真横の影の壁に罅が走った。
次の瞬間、灯也が幾ら拳を振り下ろそうがビクともしなかった障壁が、ガラスの破砕音のような音を立てて砕け散った。
飛び出してきたのは、一本の蹴り足だ。
砲撃めいた出鱈目な威力を内包した一撃は、正確に女の顔を狙ったもの。
女は余裕をもってこれを回避したものの、それは織り込み済みだったのだろう。
灯也の横を見覚えのある白銀の髪が駆け抜けた。
一瞬で女の懐に潜り込んだ白銀の影から、再び蹴りが放たれる。
今度は下から突き上げるような鋭い一撃だ。
終始微笑を浮かべていた女の表情が忌々し気に歪む。
それでも女は一歩後退するだけで二撃目を避けて見せたが、身代わりに髪が一房引き千切られた。
女は血に沈む亡骸まで後退。
そして白銀──先日灯也を訪ねて来た少女は灯也を守るように、女と相対する。
「君はっ……!?」
「やあ先輩。今度から変な人に声をかけられたら、恥ずかしくても大きな声を上げて逃げるんだぞ?」
「え、あ……うん」
確かに大声を上げることは抵抗を覚えるが、恥ずかしくて声が出なかったわけではない。
どこかズレた少女の忠告に毒気を抜かれたのか、灯也は少し正気を取り戻した。
痛む首筋を撫でると、掌にはべっとりと血が付着していた。
出血そのものは大した量ではないが、それが自らの血であるためか、今更ながら背筋に冷や汗が流れる。
噛み付かれた感触が先程よりも克明になったようで、自分がいかに危ない状況であったのか、今更のように自覚する。
もし眼の前の少女が助けに入って来ていなければ──。
ベーコンのように干乾びた最悪の未来を想像してしまい、腹の中がギュッと縮こまる。吐気がぶり返してきたがもう出すものが無いことは幸いだった。
普通だ。殺されかけた人間ならば、これが普通の反応だろう。
だからこそ、この場において少女の存在は際立った。
無残な亡骸、そしてその傍らに立つ女吸血鬼を前にしても、彼女に動揺した様子はない。
それどころか背中に隠れて灯也は表情こそ伺えないが、彼女が臨戦態勢であることは肌で感じ取れる。
緊張感の差はあれど、それは女吸血鬼も同じ。
髪を引き千切られた怒りを露わにし、少女を睨んだ。
「また貴女なのね、カレン。叩いても叩いても懲りずに追って来る。いい加減その顔も見飽きたわ」
「それは私も同意見だ。君が大人しく捕まってくれれば、もう少し落ち着いた生活ができて助かるんだが」
「へえ、ならお姉さんがいい物件を紹介してあげましょうか。まっずい三食付きで寝たきりで見ず知らずの人間との共同生活。入院って言うんだけどね」
「んん? 確か君はもう齢八十を超えているんだろ? お姉さんと言うにはちょっと無理がないか」
多分、挑発ではなく素の指摘なのだろう。
白髪の少女──カレンの言葉に、女吸血鬼の額に青筋が浮き上がった。
吸血鬼であってもやはり女性。外見は二十代前半を装って入るが、やはり実年齢を暴かれるのは地雷ということだろう。
「言ってくれるわね小娘。肉体の成長なんてとうの昔に止まっているっての」
苛立ちの中にもあった余裕から来る笑みも消え、女吸血鬼が纏う雰囲気が一段重くなる。
言葉使いさえ乱れ、鮮血のように赤い双眸が一層の妖しさを増して光る。
これが殺気というものなのか。
自分に向けられたものでは無いのに、灯也は全身の毛が逆立つのを止められない。
首の傷が痛む。今この瞬間にも正気を保っていられる自信がない。
「──大丈夫。私の傍から離れないで」
少女の声に、我に返る。
油断なく女吸血鬼を見据えながら、灯也の手を取る一回り小さな手。
スポーツどころかPvPのゲームさえ真面にしたことがない灯也にだって、この状況が一触即発の殺し合いの場だということは分かる。誰かを庇う余裕などあるはずがない。
カレンが吸血鬼を遥かに凌ぐ実力者であれば、話は分かる。
しかし先程のやり取りから推察するに、実力は恐らく逆だ。
ただでさえ道とも言えない狭い空間。灯也を守りながら戦うなど、無謀というもの。
「舐めてんの? それとも余裕の表れ? どっちにしろ、気に食わないわね」
女吸血鬼もカレンの言動を自らへの侮辱と受け取った。
パシャリとヒールが血溜まりを叩く。
名も知らない被害者の血液はどういうわけか跳ね上がることは無く、その水面に大きな波紋を走らせた。
不可思議な光景に灯也が疑問符を抱くより先に、変化は劇的であった。
血溜まりに噴水のように何か所か盛り上がった次の瞬間、矢のようにカレンに目掛けて何かが飛び出す。
矢の正体は蛇だ。血で形作られた赤い大蛇が、釣り針のような鋭利な牙を剥き出しにし、少女に飛来してきた。
いよいよをもって灯也は混乱の極致に追い込まれる。
惨殺死体。吸血鬼。血の大蛇。
実はすでに自分は正気を失っているのではないかと、本気で疑うその刹那。
四度目の衝撃が灯也を守った。
「跳ぶぞ。舌を噛まないように!」
「な、なにを──」
唐突にカレンに腰を引き寄せられた直後、灯也の言葉は凄まじい衝撃と風圧に掻き消えた。
以前遊園地で乗ったフリーフォール。あの最初の急上昇の感覚によく似ている。
キツく閉じた瞼越しの視界がものの数秒で明るくなり、肌に感じる数分ぶりの太陽の熱。
まさかと思い薄く眼を開き、飛び込んで来た光景に目を剥いた。
「な──」
視界が広い。
太陽が少し大きく見える。
大通りを行き交う人々が小さい。
足元から地面が消え失せている。
そこは地上から十メートル以上の空中であった。
何もかも普段より少しだけ小さく見えるこの光景に、灯也から小さく笑い声が零れた。だってもうこんなの笑うしかない。
カレンが灯也を抱えて跳んだのだ。
自暴自棄になっただけかも知れないが、今更『ありえない』などとは言うまい。
足元に見れば、赤い大蛇が同じようにして迫って来る。
一瞬背筋に冷たいものが走ったが、赤い大蛇は建物の影から飛び出した途端、苦悶に身を捩り、蒸発するように消滅していった。
なるほど、吸血鬼から生み出されたのならこの結果も納得だ。民間伝承通り太陽には弱いのだろう。
だとすればもう女吸血鬼も追って来ないか。
安堵に胸を撫で下ろす。
しかしそれも束の間。
人間に翼がないのなら、如何に出鱈目な跳躍であろうと訪れる結末は同じ。
慣性力と万有力が打ち消し合い、一瞬の静止。
「あ、着地のこと考えてなかった」
「ちょ──」
聞き捨てならない言葉の直後、嫌な浮遊感が灯也を襲った。再び重力に捕まり、加速度的に落下速度が増していく。
女吸血鬼から距離を取るためだったのだろうが、いささか跳び過ぎた。
二人は裏路地を余裕で飛び越えてしまい、大通りにまで差しかかっていた。当然近くには手頃な足場などない。
「うおああああああああああああああ!?」
「あ、ちょっ、加賀先輩どこ掴んで……っ」
灯也は両腕を必死に動かしカレンに全力で抱きついた。跳んだ時の立ち入りの関係で、カレンの背中から両腕を回すような格好だ。余裕のない声がすぐ傍で上がるも、それに気付く余裕はない。
だってもう地面がすぐそこだ。
スカイダイビングと洒落こむには低すぎる高度でも、しかし死ぬには十分過ぎる。
死んだ。
吸血鬼よりも大蛇よりも何倍もリアルな落下死。現実では走馬燈を見る余裕も無かった。
「んんっ」
再びカレンの声。
動揺しながらも彼女は街灯を掴み、灯也が振り落とされないギリギリまで耐え落下速度を緩和。同時に落下方向を街路樹へと微調整してみせた。
それでも落下速度を相殺するには至らないが、目論み通り街路樹と植え込みがクッションになってくれた。
着地の衝撃で二人は投げ出され、枝と葉を派手に散らしながら、最後には歩道に転がり出た。
突如空から降ってきた二人に、たまたま居合わせた通行人たちが騒然となる。
無論、灯也にそれらを気にする余裕などない。
硬い地面に大の字に仰向けになり、夏の高い空を呆然と見上げる。
肌が露出している部分は擦り傷だらけ。服の下もあちこち打撲してるようだが、正直どうでもよかった。
「生きてる……あんなに高いところから落ちたのに」
見上げる建物群は、やはり壁のように聳えている。
時間にすればものの十数秒の空の旅だったが、しばらくは高いところは御免被りたい。エレベーターに乗るのも遠慮したいものだ。ガラス張りは一生ダメかもしれない。
「いたた……ちょっと跳び過ぎたな。また力加減をミスってしまった。大丈夫だったか、加賀先輩?」
埃を払いながら、カレンは灯也に駆け寄る。
仰向けのまま呆然とする灯也と心配そうに覗き込むカレンの眼が合う。
「先輩? 動けないのなら私が担いでいこうか? もう追って来ないとは思うけど、暫くは私の傍にいた方が──」
カレンが手を差し伸べてくる。
そこでようやく灯也は我に返り、
「い、いや大丈夫。大丈夫だから、その……ごめん!」
痛む身体を押して、逃げるようにその場から走り去った。
あとには滅茶苦茶になった植え込みと、人混みに消えていく背中を呆然と見送るカレンのみが残された。
間もなくして、パトカーのサイレンが通りに響き渡る。
「ちっ……逃がしたか」
舌打ちを一つ。女吸血鬼は二人が消えていった切り取られた空を睨む。
カレンと顔を合わせるのはこれで四度目だが、相変わらず逃げ足だけは早い。
「まあいい。今はアイツに構っている余裕はないし」
昼もそろそろ更けてきた。民間伝承のように陽の光に焼かれて灰になることは無いが、やはり太陽が昇っている時間帯は気怠い。おまけにこの国の夏は高温多湿で不愉快なことこの上ない。
不意に視界が揺らぐ。
直ぐに脚に力を入れて踏み止まったが、目眩の余韻はしぶとく残っている。
昼間だからではない。
「血が足りない……あの坊やを逃がしたのはちょっと勿体なかったわね」
しかし今から新しい獲物を探す気にはならない。
ホテルで一眠りして、男を適当に見繕うことにしよう。
縁があればカレンと一緒に、あの少年と巡り合うこともあるだろう。
お預けをくらい疼く牙を沈めながら、女は溶けるように影に消えていった。