【2】 索状痕の謎
謎の少女との邂逅から一週間。
灯也は未だ手紙に記された場所に行くか結論を出せずにいた。
無論、両親を殺した犯人は捕まって欲しい。
警察も動いているならば、遅かれ早かれ犯人は何らかの形で明らかになるだろう。
しかし、あの手紙には『真相』と記されていた。
誰が犯人か、ではなく。
それが何を示しているのか、灯也には漠然とではあるが分かる気がしていた。
朝。気怠い身体を布団から引き剥がし、洗面所で顔を洗う。
夏の温い水では眠気を払うには力不足だが、何度も手に水を溜めて顔にぶつける。
儀礼的な単純作業。肌のケアが目的ではない、染み付いたただのルーティーン。
タオルで水を拭き取る前に、ここ最近新しい項目が付け加えられつつあった。
「…………」
洗面台の鏡に映る自分と目が合う。
見間違うはずの無い加賀灯也がそこにいるが、もしかしたら何かの間違いではないのかとも疑ってしまう。
無意識に手が首元に伸びる。
喉仏の辺りに横一文字に引かれた、痣。
先日まで入院していた病院の医師によれば、索条痕と呼ばれるものらしい。
縄なので首を強く締め付けるなどして、首に刻まれた痕。
つまるところ──自殺の痕跡。
断定はできないが、少なくとも他殺ではない。もし何者かに絞殺されそうになったのなら、抵抗の痕も残るためだ。しかし灯也の首にそれは見当たらない。
そうなると事件当日に灯也が何故自宅から離れた病院に搬送されていたのかも、一応の説明は付いてしまう。
最大の謎は動機であるが、両親の死とは無関係。
少なくとも警察はそう結論付け、外部犯の線で捜査は進められている。
「違う。多分、無関係じゃない」
鏡像に向けられた独白。
依然として記憶は戻らず。根拠は無い。
だが確信はあった。
自分は何かをしくじって、その負債を両親が最悪の形で被ってしまったのだと。
警察や叔父に打ち明けたところで、心を病んでいるのだと取り合ってもらえないだろう。
それでも日に日に確信は強くなる一方であり、灯也は焦燥感を募らせていった。
その最たる要因が既に世に解き放たれている。
着替えを済ませてリビングに降りれば、丁度ニュース番組でそれは取り上げられていた。
『次のニュースです。──街の駅前の路地裏で二十代の女性の遺体が発見されました。警察によりますと、先月末に起きた加賀夫妻殺害事件と同一犯の疑いがあり、関連を調査しているとの事です。同様の事件はこれで三件目となり、住民への夜間の外出自粛が呼びか──』
ぶつ、とTV画面が暗転する。
振り返ると険しい表情を浮かべた叔母がリモコンを握っており、その手はじっとりと汗が滲んでいた。
「おはよう、灯也さん。朝ごはんの用意は出来ているから、食べちゃって」
「……はい。ありがとうございます」
無理して笑う叔母の眼元には、濃い隈が浮かんでいる。
彼女もまた平静とは言い難い心境なのだろう。
ここ数日、街中で若い女の遺体が相次いで発見されている。
遺体の損傷は激しく、いずれも原型は留めていないとのこと。切断された手足で頭部を中心に卍型に配置されていた現場もあったという噂も流れている。
安っぽいネーミングだがニュースやネットでは猟奇殺人と銘打たれ、切り裂きジャックの再来かと注目されている。
人殺しを何処か娯楽のように扱われていることには、灯也も不快感を隠せない。
連日家に押しかけて来るマスコミ関係者の奇異の視線とカメラの数々。報道の使命という正当性を盾にして、家の前を張られ、出先で追い回される。
当事者である灯也よりも、マスコミへの盾となってくれる叔父や叔母たちの方が憔悴は激しい。
マスコミは殺人犯を突き止めようとしているわけでは無いところが、尚のこと質が悪い。彼等はただ淡々と惨憺たる事件の概要を並べ立てるだけなのだから。
故になのだろうか。
先日の少女の元を訊ねるべきなのではという思いが、日に日に灯也の中で大きくなっている。
捜査は警察に任せておけばいい。
そう思う一方で『自分が動かなければ』という、漠然とした焦燥が胸の内で蟠っている。
「いや……違うな」
知らずに零れた否定の独白。
動かなければ、という焦燥ではなく。
──渦中に戻らなければ、という責務。
なら灯也は会わなくてはならない。
両親を殺めた殺人鬼に。
それはきっと忘れ去った自殺の理由を解くことに繋がるはずだ。
「灯也さん」
再び叔母から声がかかる。
見れば食卓にはとっくに朝食が並び終えられていた。
考え込んでいて気が付かなかった灯也は、慌てて席に着こうとしたところで、思いつめた様子の叔母と目が合った。
「灯也さん。貴方、危ないことを考えていませんか?」
「……大丈夫ですよ」
あたりさわりのない笑みを浮かべて、灯也はそう言った。
『お前は人付き合いが病的に上手い割に、一番の本音は全然隠せてないよな』
ふと、中学校の頃に同級生に言われた言葉が脳裏を過る。
あの時は大きなお世話だと適当に聞き流したが、叔母からは今自分がどう見えているのか。
それを確かめる勇気は無く、灯也は誤魔化すように朝食を摂り始めた。
舌が慣れてしまったのだろうか。
濃いめの味付けの叔母の料理が、どうにも薄味に感じた。
✝ ✝ ✝
朝食を終えてからすぐに灯也は出掛けた。
特に目的があるわけでは無い。
居候の身ならば家事の手伝いぐらいするべきだろうが、暫くの間は叔母は家事を分ける気は無いらしい。
かといって家で呆と過ごせるほど心は凪いでいない。
あてもなく歩き続け、気付けば駅前まで来ていた。
学生は夏休みでも、平日の社会は今日も忙しない。
都市部ほどでは無いにしても、駅前を行き交う人々は皆がそれぞれの目的地へ歩いている。
誰もが連日騒がれる猟奇殺人など気にも留めずに。
当然だろう。つい最近まで灯也も彼等と同じだったのだから。
何処かの誰かが事故で亡くなった。電車との接触事故があった。焼失した家屋から遺体が発見された、等々……。
登校前に朝の報道番組でその手の話題を眼にしても、直ぐ後の占いコーナーに一喜一憂していた。
極論だが今の社会は人間同士の干渉は必要最低限で済む。通信技術が急速に普及したここ数年では、殊更だろう。
どれだけ凄惨な事件があろうと、この雑踏が変わることはあるまい。
薄情なのではなく、平和な日常とテレビで報じられる事件や自己が結びつかないだけだ。
誰もが不幸を共有する事態など、それこそ大規模な災害や戦争ぐらいのものだろう。もちろん当事者としてという条件つきで。
「ダメだな……これじゃ世の中に八つ当たりしてるみたいだ」
頭を振って灯也は人混みから離れる。
多くの人が殺人鬼に怯えて過ごしていない。平穏に対して盲目であること自体はは憂うことなのだろうが、やはり不運に見舞われるよりかはずっといい。
慰めて欲しくて外出したわけでもないのだ。
慈悲と慈愛の言葉が欲しければ教会にでも行けばいい。
時間を確認すればまだ午前九時を回ったころ。一日はまだ始まって間もなくだ。
高校三年の夏。本来であれば受験勉強に奔走している時期。
通常であっても人生の大きな岐路に成り得るだろう。
少し前とは意味合いが異なった将来を思いながら、灯也は駅前から遠のいていく。
気付けば雑居ビルが立ち並ぶ小道に入っており、歩く人の姿は疎らだ。
狭いコインパーキング。電柱に張られた怪しげな求人ポスター。空きテナントのシャッターの落書き。地下へと続く階段とその上で踊る派手な看板。
建物同士の間から換気口がごうごうと唸り、古い自販機が不規則に明滅している。
駅前の喧騒が遠い。
散歩にはあまり適さないだろう。
少なくとも普段の灯也であれば近づく事もない区画。
夏の暑さに当てられてか、灯也は吸い寄せられるようにそのまま進んだ。
左右に壁を作るビルの影で薄暗い路地は、表通りよりかは幾分とひんやりしていた。先日の雨で作られたであろう水たまりが真っ黒い穴のよう。
進めば進むほど人気は失せていく。
一際暗い影を落とす小道に入れば、殊更にそれは顕著になった。
灯也の足音だけが左右の壁に反響し、切取られた細長い空に溶けていく。
どんな栄えた都市であれこういう場所は存在する。
いや、栄えているからこそか。
街の死角とでもいうような、街の中にありながら営みから切り離された空隙。
殆どの人間が近づかず、知る必要もない、人々の意識から外れた密室。
灯也の足が止まる。
眼前には行き止りを告げる高い壁。
そこは異界と化していた。
年季を感じさせる外壁に新しいペンキが塗りたくられている。
乱暴に壁に叩き付けられたのだろう。粘ついて糸を引いているそれは左右の壁にも飛散して、大小様々な斑模様が縦横無尽に踊っている。
不法投棄されたゴミとカビの臭いを塗り潰す、生臭い鉄の匂い。
ゆるゆると視線を地面に下ろすと、液溜まりに沈むソレと眼があった。
──あたりは血の海だった。
温かみさえ感じられそうな夥しい血液が赤い湖面を広げている。
脳髄が揺さぶられるようだった。
路地を侵食する鮮烈な赤。
鼻腔を突き刺す粘ついた匂いで、やたらと喉が渇きを訴え、動悸が早まる。
血溜まりの中心で、死体が沈んでいた。
恐らく二十歳前後の女性。まるで齧り取られたように首が大きく抉れて、頭と胴は泣き別れ寸前。血で張り付いた髪で表情は見えないが、隙間から覗く大きく見開かれていた虚ろな両目。
彼女の身体は所々足りない。破れた水袋のような有様で、とりわけ胸の中心──心臓の辺りでぽっかりと穴が開いていた。
「──うっ……」
途端、胃が急速に締め上げられ、灯也は堪える間もなく胃の中身を吐き出した。
熱い液体が迸る苦痛にもがきながら、両親の顔が脳裏を過った。
灯也は二人の死に様を知らない。ただ殺されたとしか聞かされていない。知ろうともしなかった。
眼の前にある亡骸は巷で騒がれている猟奇殺人の犠牲者だろう。
もし、両親が同じように殺されていたのなら。そう考えただけで、身体は激烈な拒否反応を示した。
吐気が収まったのは、胃の中身を出し尽くした頃。
口元を乱暴に拭って、混乱する頭でどうするか考えた。
「……とにかく、警察に連絡しないと」
場所が場所なだけに通報するにしても正確に伝えられる自信がない。
一度表通りに戻って、直接交番を訊ねるのがいいだろう。容疑者の一人になってしまうだろうが、些事だと灯也は切り捨てる。
萎えた両足に活を入れて、来た道を戻ろうとした時だった。
「──真っ昼間から随分とまあお盛んなこと」
場違いな陽気な声に背筋が凍った。
「……っ!?」
反射的に振り返ると、そこには奇抜な背格好の女の姿があった。
典型的な金髪碧眼の欧米人の成人女性だが、身に着けている服はいわゆるバニースーツ。その上から奇抜な裏地の白衣を合わせており、分厚いベルトで一度絞られている。
アニメや漫画から飛び出してきたような人物だ。
あまりにも場違い。
だからこそ、眼の前の女性の異常性ばことさらに際立った。
「妙な気配を感じたから来てみたけど……これじゃまるで赤ん坊の食事ね。一番おいしいところはしっかり持って行っているあたり、獣に近いけど」
女性は惨状を前にしても動揺するどころか、灯也の横を通り過ぎて亡骸を愉快気に観察している。ヒールが汚れる事も異に返さず、血溜まりの中でチロリと唇を舐める。
まるで被害者がどのように殺されたか、想像して楽しんでいるかのように。
「ねえ、これをやったのは坊やかしら?」
「ち、違う!」
「そうよね~。血の味どころかキスの味だって知らなそうだし。でも、それならどうしてこんな所にいるのかしら?」
「それは……」
返答に詰まる。
灯也が此処まで来たのはただ単に人を避けてのこと。
だがそれならもっと落ち着いた場所は幾らでもある。どうしてこんな所に足を運んでしまったのか。
これではまるで血の匂いに誘われてきたようではないか。
全く同じことが女性にも当てはまるが、動揺する灯也にそれを指摘する余裕はない。
「ふ~ん……やっぱりちょっと妙な子ね。これはこの街でやんちゃしてる子の残飯なんだろうけど、坊やは坊やでただの人間ってわけじゃなさそう」
ぴちゃりと血を撥ね上げて、女性が灯也に向けて一歩踏み出す。
「なにをっ……」
無意識に灯也は後退った。
彼女と関わってはいけない。うなじが凍えるような得体の知れない恐怖を覚え、今すぐ逃げろと本能が警鐘を鳴らす。
しかし後退する灯也は、背後の固い感触に阻まれた。
「なっ、なんだこれっ!?」
振り返れば、黒く薄い壁が狭い道を塞いでいた。
間違いなくこんなものは先程までは無かったはずだ。加えてガラスのように向う側が透けているのに、叩いてもビクともしない。
「そんなことしても無駄。その壁は私の魔力で編んだ影なんだから」
「……っ!」
いつの間にか、女性が眼前まで迫っていた。
僅かでも身動ぎすれば鼻先が触れる距離。
香水と女性特有の甘い匂い──その奥に隠し切れない濃密な血の匂いを嗅ぎ取り、灯也は呼吸を忘れた。
今度は吐気を覚えることすらできない。
「へえ。その反応。やっぱり普通じゃないのね」
愉快気に細められる女性の双眸。
翡翠のような鮮やかな色を示していた瞳に、滲むように朱が浮かび上がり、瞬く間に全体へと波及していった。
つい先程まで網膜に焼き付いていた赤が、灯也の意識を絡め捕る。
「──っ!?」
身体が命令を受け付けない。頭から爪先まで微動だにせず、息苦しささえ覚えた。
まるで赤眼を見たことで、身体が石にでもなったかのように。
「食事の予定は無かったけど、坊やは少し面白そうだから味だけ見てあげる。素質があればそのまま私の手足になるといいわ」
首筋を長い舌が這う。
押し当てられた唇の感触、その奥に鋭く硬い感触が見つけてしまい、灯也はいよいよ混乱の極致に達しようとしていた。
赤い眼。そして唇を割って伸びる鋭い犬歯。
人とは似て非なる怪物、その代表例の一つ。
若い女を好んで遅い、光を嫌うアンデッド。どちらも驚くほど街で起きている猟奇殺人と符合するではないか。
「それじゃ──頂きます」
皮膚を突き破り、牙が首に埋まる。
吸血鬼。
人の血を啜り、その恍惚に取り付かれた殺人鬼。