【1】 両親の死
規制線の向うに家がある。
なんてことのない建売の二階住宅。
生れてから十八年間住み続けた家が、ただそれだけで異界の様だった。
夏の強い日差しで色褪せて見える景色が、一層現実味を欠いていく。
「何か思い出せそうか?」
背中からの叔父の問いかけに、加賀灯也は力なく首を横に振る。
「……すみません、叔父さん。何も……何も思い出せません」
「そうか……いや、謝ることじゃないんだ」
両親が殺された。
灯也の高校最後の夏休み初日に起きた惨劇だった。
犯人は不明。凶器も見付かっていない。
両親は共に職場でも友人関係でも、殺人に繋がるような目立ったトラブルは今のところ確認されていない。
分かっている事は二つ。
一つ、犯行が深夜に行われたこと。
そしてもう一つが、事件発生の当時に灯也が行方不明になっていたこと。
灯也が発見されたのは事件発生から一週間後。
彼は自宅から数十キロ離れた街の病院に運び込まれていた。
搬送当時は意識がなく、全身が血塗れだったという。
当然、警察も何らかの関連を疑ったものの、時系列や防犯カメラ等の証拠から殺人との直接の関わりは薄いと、早々に結論付けられた。
だが無関係と断じている訳でもない。
意識を取り戻した灯也は警察の事情聴取に応じたものの、事件の糸口を見つける所か、更なる困惑をもたらすことになった。
記憶がないのだ。
行方不明になる前後の記憶を何一つ思い出す事が出来ない。
それ以外の事柄は正確に思い出せるのにも関わらず。
殺人現場となってしまった生家を眼の前にした今も、記憶にはぽっかりと穴が開いたまま。
両親と最後に何を話したのか、覚えていない。記憶喪失とは関係なく。
何てことない日常だったはず。
アスファルトを焦がす日差しに曝されながら、汗は一滴も流れて来ず、地面がいまにも崩れてしまいそうな錯覚に襲われる。
「大丈夫か、灯也君。顔が真っ青だぞ」
「……平気です」
「無理はしちゃいけない。捜査は警察に任せて、君は心を休ませよう」
灯也を気遣う叔父からしても、兄とその妻を失ったのだ。ここ数日で随分と痩せたように見える。
それでも年の功というやつか。ぎこちないながらも、穏やかな笑みと共に「帰ろう」と灯也の肩に手を乗せる。
確かにここで立尽くしていたところで、記憶が戻る気配もない。
家の中に入る勇気はどうしても湧いてこない。
握り締めたままの合鍵が批難するように手に食い込む。
血の匂いがこびり付いた実家をもう一度見上げてから、灯也は重い足で歩き出した。
暫くの間、灯也は同じ街に住む叔父の家に引き取られることとなった。
叔父の子供──灯也から見れば従兄弟たちは自立して久しく、部屋は余裕があった。
少なくとも高校卒業までは面倒を見てもらう運びになりそうだが、それ以降の事はまるで考えられない。
世間は八月に突入したばかり。
学生は夏休みを謳歌しているが、社会人には無関係。
灯也のためにわざわざ半休を取っていた叔父は、昼食代を渡して後ろ髪を引かれながらも職場に向かっていった。
「腹、減らないな……」
身体は空腹を訴えているはずなのに、食欲は全く湧いてこない。
それでも適当な飲食店に入ろうと駅前をぶらついていた筈なのに、気付けば叔父の家のすぐ傍まで来ていた。突き当りを曲がれば家は目と鼻の先。
無意識に帰路についているならば、どうせなら生家の方が良かった。
自分の薄情な一面を見た気がして、重い溜息が知らずに零れる。
食欲は更に失せ、夕食まで横になろうと決め突き当りを曲がった。
「ん……?」
家の前に一人のセーラー服姿の少女が立っていた。
ここ最近の尋ね人といえば警察かマスコミ関係が殆ど。学友や部活仲間とはSNSで連絡は取っているが、直接訪ねて来るものはいなかった。
何より、あの制服の学生とは面識がない。
従兄弟の知り合いかとも考えたが、それも違うようだ。
少女は灯也を見付けるなり、こちらに近付いてきた。
「失礼。加賀灯也先輩だろうか?」
「え、そうだけど、君は……?」
何故自分のことを知っているのかという疑問より先に、灯也は少女の素性を訊ねていた。
あまりにも少女が日本人離れした容姿をしたいたからか。
あどけなさが残る整った顔立ちもそうだが、眼を引くのが腰まで届く真っ白な髪だ。老人のそれとは違い、一匙の銀を加えたような白髪は、陽の光で輝いて見える。
それらを差し置いて灯也が息を呑んだのは彼女の双眸。
薄く赤みが差している瞳は、一本の剣を思わせる強い意志が宿って見えた。
凡そ、十代半ばの少女に備わる類のものでは無いだろう。
少女はその眼を申し訳なさそうに伏せて、灯也に謝った。
「すまない。今は名乗らないようにと厳命されているん」
「えっと……こう言っちゃなんだけど、それってかなり怪しいんだけど……?」
「い、いや! 決して危害を加えに来たわけじゃないんだ。私だって博士にそう抗議したんだが、『名乗るな。あと余計な事もするな』の一点張りなんだ」
「そ、そう……」
博士という人物が彼女を遣わしたらしい。少女は早速口を滑らせているわけだが、指摘してやるのも不憫というものだ。一応まだ匿名は守られている。
「あ、でもどうしてもという時はと教えられた奴があった。それでもいいか?」
「え……ああ、うん」
どうして偽名を名乗る許可を求められたのか。困惑して反射的に頷いてしまった。
そして直後に後悔することになる。
少女はスカートのポケットから金属製のヨーヨーを取り出し、糸を伸ばすと──
「おまんら、許さんぜよ!」
眼光鋭く叫んだ。
偽名ですらなかった。いや、むしろ偽名の方が良かった。
二十一世紀のこの時代、八十年代のドラマを知っている若者がどれだけいることやら。
住宅地のど真ん中でこんな事をすれば、普通の制服もただのコスプレになってしまう。
「……」
「──」
微妙な沈黙が両者の間に横たわる。
拍手の一つでもした方がいいのだろうかと、灯也が逡巡しているうちに少女は頬を紅潮させながらヨーヨーを仕舞った。
「くっ……博士め、また騙したなっ。これなら大受け間違いなしって話だったのに」
どうやら一度や二度では無いらしい。
少女も少女で現代のドラマにはかなり疎いのだろう。あるいは相当な天然か。
今の灯也のメンタルは人を気遣える状態ではないが、流石に少女が気の毒だ。
小さく咳払いを入れて、灯也は水を向けた。
「それで学生刑事さん。僕に何か用ですか?」
「あ、ああそうだった。要件自体は大したものじゃないんだ」
顔つきを改めた少女は反対のポケットから一通の封筒を取り出し、差し出した。
古風なことに封蝋が施されており、蝋には鐘楼のスタンプが押されていた。
どうやら少女はこれを渡しにに来たらしい。
しかしなぜ直接届けに来たのか。
その答えは、直ぐに分かった。
中身を確認して欲しいという少女の頼みに応じて、灯也は封蝋を丁寧に剥し、一枚の手紙を取り出す。
内容は簡潔。簡易的な地図にただ一言が添えられていた。
『両親の死の真相を追うなら、ここを訊ねろ』──と。
驚きも束の間。
灯也が内容に目を通した直後、手紙が突如として燃え上がった。
反射的に投げ捨てた手紙は、地面に達する前に燃え尽きてしまい、燃えカス一つ残らず消えた。
「君、これは一体──」
堪らず声を上げるも、いつの間にか少女は姿を消していた。
何処を見てもあの白髪は見当たらない。
白昼夢でも見たのだろうか。
両親を失ったショックに加えこの暑さだ。十分にその可能性はあるだろう。
しかし掌に残る炎の熱の余韻が、その日はしぶとく居座り続けた。