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小説『獏(ばく)と夢追い人の物語』

作者: カズ ナガサワ

 少し唐突ですが、動物園にいる(ばく)が人の夢を食べるとは誰も思わないでしょう。でも、伝説の(ばく)は、あなたが見たその悪い夢を食べてほしいと願えば、夢を食べます。そして、あなたは二度と見ないですみます。  

 美術大学に通う高林雄介(たかばやしゆうすけ)は、ある夢のような出来事に巻き込まれ、彼は『これが運命と言うなら、僕は神様に従います。でも、こんなに切ない想いは、一生に一度っきりにして下さい。どうかお願いします!』と祈りました。

 彼に、そんな思いをさせた物語を、これからあなたにご覧いただきます。



《バイト終わり》

 彼は、自分が通う東都美術大学の近くでアルバイトをしていました。美大生と言ってもけして将来が約束されているわけではなく、バイトの収入を学費や絵の製作に充てていました。

高林「あっ、先輩お疲れさまでした!」

佐山「おお、お疲れさま! 悪いけど明後日あさって代わりたのむわ!」

高林「分かりました。先輩も楽しんで来てください!」

佐山「ああ、分かった。でも初のデートが動物園じやなー! 悪くはないけど、地味と言えば地味だなー」

高林「それはそうですけど、ゆっくり色んなこと話せますし、家族連れとかいて僕は気取らなくていいと思います!」

佐山「まあ分かるけどな! ただ動物を見て何を話せばいいんだか、なかなかイメージが湧かなくってさ!」


 高林は、同じ美大に通う先輩の佐山に、バイトの代わりを頼まれたのでした。佐山はデートの関係とその理由を説明し、相手とは動物園に行くと言いました。

高林「相手の方も、動物園でいいって言われてるんでしょ!」

佐山「ああ、二つ返事でのりのりさ! 一応スカイツリーとかも考えたんだけど、高さも高いけど金も高い。だから動物園にしたんだが!」

高林「まあ、たしかにそうですね!」

佐山「やっぱ、とりあえず、流れに任せて行くしかないか! ちょうど文化の日で学校も休みだし、バイトのシフト変更も店長にオッケーもらったしな! そんで、おまけにデートって言ったら店長に気合い入れられて。頑張れだってさ!」

高林「……僕は今のところバイトしかやること無いですし、未だ、先輩からお願いされている作品のイメージも固まっていませんから!」

佐山「そっか、分かった。何だかんだと、いつも悪りーな!」

高林「いえ、いいんです!」


 先輩の佐山は、何かに付けて後輩の高林の面倒をみる兄貴分的な存在でした。二人は絵のタイプも違い、性格も全く違います。逆にそれが芸術の世界では仲を近づけたのかもしれません。

佐山「ところで、おまえ明日あした学校は?」

高林「午前中の近代技法のあとは画材屋に行って来ます。とりあえずそんなところです!」

佐山「そっか! おれは朝イチから製作室にこもって仕上げに入る。個展に間に合うようにな! 時間があったら顔出してくれ!」

高林「はい、そうします! それでは、明日あすまた」

佐山「おう、じゃな!」


 高林は、先輩の佐山に面倒をみてもらうたびに自分の不甲斐なさを感じ、また佐山もそんな高林の性格に、もどかしさを拭えずにいました。



《バイトの帰り》

高林「個展の前にデートか。いいなー! 描けない時期にバイトで気を紛らわしてる俺は、いったい何をしてんだか!」

 高林は、佐山の存在が大きくなればなるほど自信を失い、絵を描けない日が続いていたのです。


高林「あっ、先輩から(電話)だ。……もしもし!」

佐山「悪りーなー、今さっき会ったばっかで! あのさー、明後日あさってのことだけど、俺に代わってデートしてくんない? お前しか頼める相手がいないんだ!」

高林「ええ! どうしちゃったんですか?」

佐山「いやぁ、つまりー、前の彼女から今電話があって、よりを戻したいって。だから悪りんだけどバイトは俺が代わるから、なっ! なんとか頼むよ」

高林「ええ!?、その人は先輩と知り合いではないんですか?」

佐山「んー! 未だ会ったことはない。ホントは作品のモデルの打合せのついでに動物園にでもって誘ったら、一緒に行くってことになって! だからお前が俺の代わりに会ってくれれば、どってことない。言ってる意味わかるだろ!」

高林「はあ! まぁ分かりますけど!」

佐山「じゃあ! 分かったと言うことで。後で詳しく相手のこととか時間とか説明するから。明日あす学校でな! よろしく頼んだぞ!」

高林「あっ! はい」


 高林は、ゆっくり電話を切りました。彼はその瞬間が自分にとつてどれだけ大きな選択であったか、後になって知るのでした。

高林「……なんか嫌な予感がするけど、久々にデートみたいな時間ができるし。まっ、いっか!」



《美術大学》

佐山「おお、ちょうど切りがいい! 昨日のことだけど……。これが相手からのメールで、相手のメジルシだ。そんで待ち合わせの場所と時間!」

高林「あっ……はい!」

佐山「えーと! この場所に着いたら、こっちが写メする。それを相手が見て、手を振ってという感じだ! それで、彼女の名前は『おか、OKAeri』。今お前に送信する」

高林「岡さん! はい!」

佐山「俺の名前は相手が知ってるし、学校に絵画モデルで来たことがあるって言ってた!」

高林「じゃあ、僕が先輩に成りすます。ですね!」

佐山「まあ、そんな感じだ。これ少ないけど二人でお茶でも!」


 佐山は、着ていたジャケットの胸ポケットから、封筒入りの新札で三千円を高林に渡しました。

高林「あっ、分かりました! ちょっと先輩の作品、見ていいですか?」

佐山「おう、あとは背景のバランスと、先生に見てもらってってとこかな! でも、問題はそこから先の話しだ。買っていただく方が現れるかだなー。これを!」

高林「先輩は、絵を描くためにスポンサーを見付けるって前に言ってたじゃないですか!」

佐山「そうだ。だからそれが元カノ、いや彼女! とりあえず(めし)と住む場所はタダだし。俺がバイトでそれ以外の金を稼ぐっていうのは、前の彼女のこと。今は全部出してもらえる……うーん、まあ予定だ!」

高林「えっ! 予定でもいいじゃないですか!」

佐山「そろそろお前も卒業までには、なんとか考えた方がいいって。俺はそう思うな!」

高林「まあ、そうかも知れませんが、いやいや! とりあえず明日のデートのことで、ぼく的にはいっぱいです! じゃあ僕のバイトの代わり、よろしくお願いしますよ!」 

佐山「ああ分かった。こっちこそ宜しくたのむな!」

高林「はい! 分かりました」

 高林は、絵の話しに集中したかった割には、最後に明日のデートの話しに戻ったことに戸惑いを感じていまた。



《待ち合わせの場所》

・・・えーと、メジルシは『メガネと、シャネルのバッグ』、そろそろ時間だ!

・・・ここで写メを撮って、ここに貼り付けて、送信と!

 誰も手を振って……あっ、あの!、、、違うか!

 何だ、このドキドキ感、、、、。

・・・もう20分も経過! あーあ、帰るに帰れない、、、。


紗絵「あの、高林さん、ですか?」

高林「はい!」

紗絵「ああ、やっぱり! 想像してた感じの人でした」

高林「え!?」

紗絵「佐山さんから聞いてた通りの方で、本当にいいやつがいるから、お前に紹介してやるって!」

高林「よく分かりませんが、あなたは僕のことを知って、たん、ですね!?」

紗絵「ええ、そうですよ! 佐山さんは父の絵画教室の生徒さん。今は、父と一緒に指導されています」

高林「あの〜、絵画モデルの打合せとか聞いてませんか?……あと、動物園とかも!」

紗絵「はい、そうですね! ちゃんと聞いてます。久しぶりに動物園も、入口の近くのお団子屋さんも、この辺も懐かしいです!」

高林「じゃあ、この辺は詳しいと言うことは! もしかして、先輩とお付き合いされていた、とか?! あっ、いや、ごめんなさい! 先輩が、元カノさんとよりを戻したって言ってたんで、つい! 失礼極まりないことを聞いてしまいました」

 

 高林は、今の一言が、違った意味で目の前の女性を驚かせたとに気付きませんでした。

紗絵「佐山さんの元カノですか? そっか、それで分かりました。佐山さんは卒業したらアメリカに留学されるんです。うちの姉と、婚約されていて、向こうで暮らす予定ですよ。聞いてませんか!?」


 紗絵はふと我に返りました。自分のことを妹に成り済まして話すことが、こんなにも切ないのかと心を痛めていました。

高林「ええ!? いや、聞いてません。あっ、立ち話も何ですので、さっきのお団子屋さんに行きますか!」

彩絵「はい!」



《歩きながら》

紗絵「あそこですよ!、あの坂の上です」

高林「へえーこんなところに、いい感じの店だ! えっ、この先は動物園!?」



《お団子屋》

店員「いらっしゃいませ、空いてるお席へどうぞ!」

高林「僕、こんなとこ知りませんでした。僕は学校とアパートの往復と、バイト先以外、この辺はあんまり! すいません。お名前伺ってませんでした」

紗絵「そうでしたね。私は『岡絵里おかえり』です! 携帯のメルアドにアルファベットであるとおりです」


 紗絵は、妹の絵里に成り切る決定的な瞬間が来たと思い、声に力を入れたつもりで話しましたが、自然に言葉が出たことに驚きました。

高林「そっか! 絵里さんですね。……よく考えたら、僕があなたにメールを送った時点で、佐山さんじゃないって分かったんですね。あっいえ、僕は佐山さんに成りすますつもりだったんです。本当にごめんなさい!」


 この高林の飾り気のない言葉も、紗絵の緊張を解きほぐしていったのでした。

紗絵「私も佐山さんの説明が何だかおかしいと思ってました。あっ、あなたを紹介してあげると言われたときではなくて、動物園に行きたいと、あなたが言われたと聞いてです!」

店員「お茶をどうぞ! ご注文が決まりましたらお呼びください」

紗絵「何にされますか?」

高林「よく分からないので、一緒のものを!」

紗絵「あのー、すみません! 抹茶セットで、甘辛と焼団子で! それを二つお願いします」

店員「はーい! 抹茶セット二つ!」

高林「そうですよね! たぶん僕がこの辺をあんまり知らないと、先輩が分かってたからだと思います。だから、動物園なら落ち着いて話が出来ると!」


 紗絵は、このとき妹の絵里が自分の側にいる感覚に驚きました。何故か妹しか知らないことも、何も考えずに自然に言葉に出来るという感覚はじめてでした。

高林「岡さんは、この辺は詳しいんですか?」

紗絵「ええ、高校が直ぐそこの公園のわきでしたから! でも、友達とはあんまりいい関係じゃなくて。それで帰りは一人でこの辺をブラブラしてました」

高林「あのー、モデルのお仕事は、かなり?」

紗絵「ええ! 父の関係でたのまれて何度か。でも、長い間動けないので、月に一ニ度程度です」

店員「お待たせしました。抹茶セットです! 甘辛と焼団子。一つはサービスですよ」

紗絵「……ありがとうございます!」

高林「あのー、失礼だと思いますが、もし僕がモデルをお願いしたら、おいくら位でやっていただけるんですか?」


 紗絵は迷うことなく、妹の絵里がやっていた絵画モデルに成り切っていました。

紗絵「ノーコメント! 本当にお描きになられるなら何時でもご相談に応じます」

高林「すいませんでした。僕は今、描けないんです。なので余計なことでした! はじはかけますが……あっ、これはもっと余計なことでした」

紗絵「佐山さんから、高林さんというポテンシャルの高い絵描きさんが、スランプであえいでいるって聞いてます。前に佐山さんは、私の絵を描かれた作品が日展に入選されたので、ラッキーガールって言ってました。それに、これは余計なことですが、私の名前『OKAERI』は、お帰りなさいです! ですから、またあなたが絵を描けるようになって、佐山さんがあなたと語り合いたいって言ってましたよ」

高林「はあ、そうでしたか。おかえりなさい、ですね!」


 二人の間に沈黙が暫く続きました。でも、気まずいというよりは、二人はこの時間をお互いの気持ちの整理に使っていたのです。

高林「あの〜、動物園に、行きましょうか!」

紗絵「はい! 行きましょう」

高林「この店は僕が……先輩から頂いているので!」

紗絵「じゃあ、ごちそう様です!」

店員「お気をつけて! またお出で下さい」



《動物園》

高林「僕は子供のとき以来かなー!」

紗絵「私は高校のとき、一人でよく来てました。ライオンやトラと顔なじみで、よくお互い挨拶したりしていました!」

高林「えっ、本当に!?」

紗絵「動物たちにも、ちゃんと表情があることに気付いたんです。ただ、同じ顔の様ですが人間には分かりにくいだけで、皆んな表情や鳴き声、体の動きで表しているって! 安心したときや、子供を可愛がっているときは、少し間抜けに見えたりします!」

高林「そっかー、じゃあ、あのチーターはどんなことを考えてるのかな~」

紗絵「たぶん、たぶんですが、あなたを美味しそうって思ってる?!」

高林「いや、それはないでしょ〜。どちらかと言ったら絵里さんでしょ!」

・・・あれ、彼が初めて冗談と、名前を言ってくれた(微笑)!


 紗絵は、もしかして妹の絵里ではなく、この初めて会った高林という男性が、自分と何かの縁があるのではないかと一瞬感じました。

高林「絵里さんは、モデルをされているから、モテる!」

紗絵「……そのギャグセンス、修行し直しですね! 絵画モデルの場合、あまり可愛らしいとダメだって父が言ってました」

高林「ええ、そうかなー!」



《別れ際》

 二人は、現実の自分を忘れかけた時間にピリオドを打とうとしていました。絵の描けない高林と、妹の絵里に成り済ましていた紗絵の時間が終わろうとしていたときです。

高林「今日はありがとうございました。楽しかった!」

紗絵「いいえ、こちらこそ!」

高林「また連絡していいですか?……あっ、いや! モデルのこととか、お願いすることがあるから。はい、あのーはい!」

紗絵「いいですよ。またデートしましょ!」

高林「はい! よろしくお願いします!」


 紗絵の口から、何の躊躇いもなくデートという言葉が出てしまいました。その時の紗絵は間違いなく絵里になっているように誰が見てもそう思うことでしよう。

紗絵「じゃあ無事に終わりましたって、私から佐山さんに連絡しますね! よかったら、写メ撮りましょっか! じゃあ顔を、近づけて……それでは、はいチーター!」

高林「ぶふっ! チーターですか?!」


 まるで写メのスイッチが紗絵の意識を引き戻すように、この何気ない戯れのチーターという言葉が、獣医師を目指す現実の彼女に、早く夢から覚めるようにと言っていたのでした。でも、その戸惑う顔は未だ妹。絵里のままでした。



《美術大学》

佐山「どうだった? 昨日のデート!」

高林「ありがとうございました。いろいろ気を使っていただいて!」

佐山「いい感じのだろ!」

高林「あっ、はい! 素敵な方だと思います。でも……」

佐山「その弱気がお前の課題だな! 絵里はいま、画材屋で働いてるんだけど、聞いたか?」

高林「えっ、そうなんですか! そんなこと全く。先輩は彼女のお姉さんと婚約されて、アメリカに留学されるとは聞きましたが!」

佐山「そっか! 絵里と姉の紗絵さえは、実は双子なんだ。お前より一つか二つ歳上かな。俺も子供の頃から見てるけど、しょっちゅう間違えてた!」

高林「それも聞いてません。お父様の絵画教室で先輩が教えてるとは聞きましたけど!」

佐山「姉の紗絵は、芸術とは全く関係ないんだ。獣医のたまごだよ! それも大型肉食獣が専門だ。だから日本よりアメリカでもっと経験を積みたいって言ってね!」

高林「それでか! 婚約してる先輩がアメリカに一緒に行くんですね! なんか、僕には別の世界みたいに聞こえます」


 佐山は、高林がどんな話しをしたか気になりました。しかし、絵里に高林を紹介すると話したとき、絵里が知らない方が楽しいと言ったことを思い出し、それ以上は聞きませんでした。そして、自分と姉の紗絵のアメリカ行きを、口下手な二人が共通の話題として繋いだと思ったのです。

佐山「俺もいろいろ悩んだんだが、まあ、結論としては今の日本で近代アートを中心にやっていける環境はないし、卒業のタイミングを考えて、決めたってこと!」

高林「そうでしたか! そっか、絵里さんと僕が付き合うと、その流れで先輩の代わりに僕がお父様の絵画教室で教えることもできるってことに!」

佐山「まあ、そうも思ったが! お前がもっとグイグイ押すようなタイプならな〜。スランプの画家が教えるのは、何だか生徒さんに失礼だし!」

高林「あっ、いやあ、まあそうですけど!」


 そして佐山は、彼の思いを投げつけるように言いました。

佐山「お前、彼女を描いてみないか?!」

高林「んー! やってみたいとは思いますが、また途中で描けなくなると……いえ! そこまで言っていただけるのに、描かない理由はないですね。描きます!」

佐山「分かった。やってみるか! 彼女に直ぐに連絡してくれ。彼女も画材屋のシフトの関係があるから、頼んだぞ!」

高林「はい、分かりました!」

佐山「アッと! 必要だったら、いつでもバイトは俺が代わるから。 いいな!」

高林「すみません。よろしくお願いします!」


 


《初めてのデッサンの日》

高林「失礼します! ゆったりした部屋のレイアウトですね。いいな〜!」


 そこは、少し薄暗い高天井の部屋に、キャンバスの位置を意識した照明があり、脇に絵画教室で使う椅子や机が置かれていました。

高林「本当に何もかもお世話になって、お父様の教室を借りて描けるなんて、恐縮です!」

紗絵「ちょうど今日は教室がお休みですし、道具も照明あかりも揃っているので!」


 高林は部屋を見回し、あらかたの使い勝手を理解したように自分の道具を並べはじめ、革の重厚な椅子と照明を調整し、立ちながら目線を何かに集中していました。

高林「ここでいいですか! じゃあ、準備ができたら始めさせていただきます!」


 そのとき、紗絵は初めて絵画モデルをやるという迷いはなく、写メのイメージを思い出しながら、また絵里が近くに来ることを期待したのでした。

紗絵「はい! メガネを外しますね。髪は流したままで!」

・・・もう描き始めている。集中すると何も聞こえないみたいだわ!


 手の絵コンテが滑り出した瞬間に、高林は何を描こうとしているのか記憶が薄れていくように感じました。ただ、何かを形にしようとしている。それが自分の目の前の女性への思いであることに気付いていたのです。

高林「メガネを取ると、全然違う表情が浮き上がる。髪を解くと、ほんと、モデルの雰囲気に覆われる。……素敵だ!」


 高天井の小窓から西陽が反射してきました。紗絵は疲れも感じず、高林とのデッサンの時間を、この絵画教室で過ごした家族との懐かしい思い出の整理にあてていました。

高林「ふーっ!、もう4時間か! 長い間お疲れさまでした」

紗絵「はい! じゃあ、コーヒーでも入れましょうか?」

高林「すみません。お願いします!」


 高林は、最初にこの絵画教室に入った瞬間、絵の具の匂いに混じってコーヒーの香りがしたことに気付いていました。

高林「あのーちょっと、あそこに置いてある作品、見ていいですか?」


 ゆっくりと紗絵が入れるコーヒーが香り、時間の中に刻まれたそれぞれの思いが解けていきます。

紗絵「どうぞ! 父の作品と、何枚か佐山さんのがあると思います」

高林「うわー! 迫力がハンパないな!、これが実力か。……あっ! 絵里さんの肖像(未完成)が何枚かある。どうして描き上がってないのが、こんなにあるんだろう?!」

紗絵「お待たせしました。コーヒー!」

高林「はーい! ありがとうございます。あのー、あそこにある作品に、何枚か絵里さんのがありますけど、どなたが描かれたんですか?」

紗絵「父です! それに、あれは私ではなく母の肖像画です。私も姉も、あの絵を見て驚きました。3人ともうり二つ! いえ、うり三つで」


 彩絵は、高林といる時間は、やはり絵里に成りきっていました。何気ない会話の中でも何も考えずに自分自身のことを姉や紗絵と呼べるのでした。

高林「お母様は、今どちらに?」

紗絵「母は、私と姉が一歳になって直ぐに他界しました。私たちの妊娠が分かった直後に、乳ガンと診断されて、転移して亡くなったんです。ですので、母の記憶が全くなくて!」

高林「どうもすみませんでした。僕は、いえ!……なんでもありません。いつも、大事なことに気付かない、ほんと間抜けです。ごめんなさい!」

紗絵「もう前のことですし、姉も私も母の思い出はありません。居ないのが当たり前だと感じてます。たぶん父は、私たちが母に日に日に似てくるのを、色んな思いで見ていると思います。簡単には忘れられないですから!」


 高天井の小窓の暗さが、二人に日が暮れたことを伝えました。

高林「あっ、コーヒー頂きます!」

紗絵「ごめんなさい。つい話し込んで!」

高林「他の作品は迫力に圧倒されて、ほんと素晴らしいし! もう、実力の差を見せ付けられているようです」

紗絵「じつは、あの絵は全部、母が亡くなってから、その悲しみをぶつけたって父が言ってました。その前は父も描けなくって、母のデッサンを繰り返し描いていたそうです。その一部が残っているんですよ!」


 高林は、ガンで妻を亡くして子供を育てながら絵を描いた思いを、自分に置き換えてみようとはしませんでした。消えゆく夢の流れに身を任せ、目の前の女性への思いを壊したくなかったからです。

高林「そうでしたか! 絵を描くパワーはテクニックじゃないと思います。でも、心を切り取ったような作品に出会うと、僕は怖気おじけづくと言うか、圧倒されると言うか!」

紗絵「高林さんは、きっと優しい方だからですね。その優しい心をお描きになればいいのに……。あっ! ごめんなさい。素人の私が言い過ぎました。そうだ、大事なことを聞き忘れてました!」

高林「あっ、今回のお金ねことですね!」

紗絵「ぶっ!! 違います。お名前です。それに、お金の無い方に頂くつもりはありません。もし、作品が売れたら考えて下さいね!」

高林「もう、僕はほんとにダメだな! また失礼なこと言って! 下の名前は『雄介ゆうすけ』です。高林雄介たかばやしゆうすけ!」


 高林が名前を言った瞬間に、また夢の続きの時計の針が進みはじめました。

高林「あれ!、先輩から留守電が入ってました。なんだろう!……あのー、僕は今日はこれからバイトです。予定通り来週も今日と同じような感じでお願いできますか?」

紗絵「はい、分かりました! 佐山さんにも宜しくお伝え下さい」



《バイト先》

高林「すみませんでした。遅れちゃって! 絵里さんが先輩に宜しくって言ってました」

佐山「おう! 何となくあいつ、最近よそよそしいんだよな〜。だって、俺に宜しくって、気を使う間柄じゃないし!」

高林「そうですか! 僕には普通に見えましたけど。でも、まだ2回目ですが!」

佐山「まあいい! 明日、時間見付けて絵画教室に顔出してくる。お父さんに聞きたい事もあるし!」

高林「えっ、お父さんですかぁー、やっぱ婚約すると、そう呼ぶのか!」

佐山「バーカ! 子供の頃からだ!」


 高林には、佐山の言う気遣いの意味は分からず、ただ絵里という女性と次のデッサンで会えることしか頭にありませんでした。



《絵画教室》

・・・『誠に勝手ながら、暫くお休みします。』

佐山「なんだよ〜この貼紙! 電話も繋がらないし、メールも見てくれない。どうしたんだ!! お父さんも、紗絵も、絵里も!」


 佐山の予感は当たりました。ただ何故こうなったのかの疑問を解き明かすには、佐山自身も不安と重苦しさを感じていました。佐山は、それを何かの思い過ごしであってほしいと祈っていました。



《翌日の学校》

佐山「高林! 悪いけど、次に絵里に会うのはいつだっけ?」

高林「ああ! 来週の月曜日です。お昼の1時頃に絵画教室で2回目のデッサンですが、何かありますか?」

佐山「じゃあ、俺も一緒に行ってもいいか?」

高林「はい! もう、できれば作品のアドバイスを頂きたいですし!」

佐山「分かった。絵里には内緒にな。驚かすつもりだ!」

高林「はい。じゃあ現地で!」


 そう言った高林も、あの佐山が何か心配していることは薄々感じていました。ただ、ようやく絵を描くことができるようになった自分に、気を遣わせたくないと佐山が思うと考えて、その事に触れないでいました。



《2回目のデッサン(月曜日)》

佐山「お疲れさま! おじゃまします」

 狭山は、雰囲気を確かめるように絵画教室の中を見ながら、高林のところに近付いていきました。

高林「ああ、先輩! わざわざ来ていただいて。今、こんな感じです!」

佐山「あれ! 絵里は?」

高林「先輩かそろそろ来るって言ったら、急に用事を思い出したって! でも、直ぐに戻るそうです」

佐山「そっか! これ差し入れ! 店長からだ。店の品物で悪いって言ってたけどな」


 いつも見ているバイト先の惣菜が、他の何よりも高林の創作を後押しすることは佐山には分かっていました。けして欲張らず、直向きに作品に向かう高林を、佐山は温かく見守るのが好きでした。

高林「いやーすみません。あそこの惣菜って家庭の味なんですよね!」

佐山「まあな! あの人が店長になってからだけどな!」

高林「あっ! 絵里さんが戻って来た!」

 

 紗絵は、いえ絵里と名乗った一人の女性は、この瞬間に夢から覚めてしまったのです。

佐山「あれ!!、、紗絵?だよな。おまえ明日アメリカから戻って来る予定じゃなかったのか?」

紗絵「そう言ったけど、実は嘘ついてたの! 本当にごめんなさい」


 紗絵はうつむき、少し肩が震えています。

佐山「どうして嘘なんか! じゃあ、絵里は?」

紗絵「その事だけと……今、パパが来るから少し待ってて!」

 

 紗絵は、もっと話したい心内をグッと圧し殺しました。すると、感情が溢れて目から涙が一筋、そしてまた一筋……。それを見た高林は、どうしていいか分からなくて言葉を発しました。

高林「あのー、これ先輩から頂いた差し入れの惣菜です。結構美味しくて僕もファンなんです!」


 紗絵は涙を拭きながら、妹の絵里ではないことを高林に伝える時が来たことを覚悟しました。でも、またそのことが夢よ覚めないでと心を引き戻そうとしています。

紗絵「高林さんにも、ちゃんと説明させていただきます。作品の製作途中で本当に申し訳ないと思いますが、どうか宜しくお願いします」


 紗絵の絞り出す声に、高林は繋ぐ言葉が見付からず、返した言葉がこれでした。それを見た佐山はその思いが胸に染みました。

高林「えっ! また僕、何か失礼なことやっちゃったんでしょうか?」

紗絵「とんでもありませんわ!」

佐山「あっ、紗絵! お父さんが帰って来られた!」


 佐山はこのとき、ある意味覚悟を決めました。何とか高林に作品を描き上げてほしいと思いったのですが、ただそれも、佐山が見ていた夢だったのです。

周作(父)「すまん。突然! こんな話をする事になるとは、私も気持ちが、ちゃんと整理できないんで、本当に心苦しいんだが。落ち着いたら君に話そうと思っていた。それが! それが、今になるなんって」


 紗絵の泣顔を見ながら、父周作は心の内をゆっくり話し始めました。周作も夢を追おうとしましたが、今その夢から覚めようとしています。

周作「本当に、未だ実感がわかないんだが……実は、絵里は亡くなったんだ。君が、先月うちに来て高林さんを紹介していただけると言われた次の日に! 自転車に乗っていてタクシーと出会い頭に……」

佐山「えっ! まさか、嘘でしょう! 嘘でしょう!! だって、僕とメールしてたし、高林と会うのを楽しみにしてるって!」

周作「すまない! 君と紗絵のアメリカ行を考え過ぎていた私の責任だ。絵里が亡くなったとを言ったら、君がやろうとすることに、わだかまりを抱くんじゃないかと思って! 君にはアメリカに行って、思う存分活躍してほしい! それでどうしても話せなかった」


 このあと紗絵は泣き崩れました。絵画教室に並んだあの肖像画は、紗絵をじっと見つめているようです。夢から覚めた幼子(おさなご)が泣き止むまで、ずっと待ってるよ!って言っているようです。

佐山「じゃあ、あの後のメールや電話は、全部紗絵が?!」

紗絵「ごめんなさい! 絵里の携帯を私が預かって、私があの子に成りすましていたの。それに、高林さんにも嘘を付いてしまって!……本当にごめんなさい!」

高林「じゃあ、僕と一緒にお話ししていたのは、全部紗絵さんだったんですか?……僕には全く違いが分かりませんが、普通に絵里さんが近くにおられたように感じてました。……もう泣かないでください! 僕は紗絵さんが悪いと思っていませんから!」


 紗絵は、ようやく自分が見ていた夢を振り返ることが出来ました。

紗絵「高林さんと初めてお会いしたとき、私も絵里が近くにいるような気がしていました。あの子が亡くなって、こんなに悲しいときに、双子でもあの子に成りすますと、話しづらかったりするのかと思っていました。でも、あなたが優しく接して下さり、絵里の高校時代のことや、動物園で猛獣たちと仲よくなったことを、まるであの子が私と入れ替わったみたいに話せたんです。……そして『お帰り!』って、子供の頃、冗談で名前とお帰りなさいを、、、あの子が落ち込むと言ってたことを、思い出したんです!」


 紗絵の落ち着きを待って、周作が涙ながらに気持ちを表しました。 

周作「皆んな、本当にすまないと思っている。こうなったのは全部私が至らなかったせいだ!……どうか紗絵を責めないでほしい。どうか、私のように悲しみを引きずって、キャンバスに向かうことがないよう、君たちに本当の芸術を極めてほしい、そして幸せを掴んでくれ!」


 高林は、仕舞い忘れた筆をそのまま布に包んでいたことを思い出し、そっと画板に添えました。自分の悲傷(ひしょう)が、目の前にいる3人より遥かに小さく感じ、失ったものの大きさや、見ていた夢の中身は、この3人からしたら他愛のないことです。でも、何故か辛く、苦しく、凍るように寂しい。彼はそう感じたのでした。



《一月後》

 高林はまた夢を追いかけていました。彼が紗絵宛に送った手紙には、こう書かれていました。

・・・あれから一月ですね。僕は、絵里さんの絵、いや紗絵さんがモデルの絵を、お父様にお願いして、一旦あの時のまま絵画教室に置かせてもらうことにしました。そして僕は、違う絵を描き始めました。何枚も何枚も描いて、笑ってしまうくらい描きました。それは、あの動物園のライオンや、トラや、チーターの絵です。そしたら、その絵は、絵画教室で子供たちに人気となりました。それで、僕は時々、絵を教えることになっていました。今思えば夢見たいな話です。紗絵さんと過ごしだ時間は夢のようだったと感じています。・・・そして今は、自分でも不思議なくらい動物たちの思いが伝わってくる気がしています。たぶん、絵里さんが生きておられたら、僕と一緒に動物園で動物たちのことを話して、いつも笑いながら過ごしているだろうと思っています・・・



《動物園のチーターの前(更に一月)》

絵麻「あのー、高林さんですか?」

高林「そうですけど!」

絵麻「私、絵里の従姉妹いとこで、多田絵麻ただえまと言います。突然で驚かれたと思います!」

高林「あっ、はあ〜! どうして僕がここに居ると?」

絵麻「紗絵から聞きました。いつも動物園で絵を描いているって!」

高林「ん!? でも、ここにどうして?」

絵麻「絵里の思い出を探しに来ました。」


 絵麻は辺りを見て、懐かしむように背伸びをしました。高林は筆を止めかけましたが、また描き始めました。

絵麻「あの子が落ち込むと、この辺でチーターやライオンとお話ししてたんです。……私も一緒に、です!」

高林「ええ! あなたも動物たちと話したりするんですか?」

 高林は、絵麻の方を見ようとせず、描き続けました。

絵麻「まさか!……あの子がライオンに話しかけると、私が、ライオンに成りすましてました。岡絵里(お帰り)僕はライオンくんだよ! 今日も学校で、なんか嫌な気分になったな?とか言ってました」

高林「へえ~! そうなんですか、、。」


 ちようど、学生服の女子高生が、何人かで動物たちに話し掛けて笑っていました。

絵麻「中学、高校と姉の紗絵は頭が良くて、大学の附属高校から推薦で獣医になるルートでしたが、でも絵里と私は学校を休んでばっかりでした!」


 高林は一瞬筆を止めました。また夢の世界に迷い込むと感じたからです。

高林「じゃあ、絵里さんのこと、いろいろご存知なんですね!」

絵麻「そうですけど! お知りになりたいですか?」

高林「いえ、そうではなく! あの時から自分で勝手に想像してるだけです」


 高林はまた描き始めました。でも、同じ所を繰り返して筆を入れています。

絵麻「……むー、なるほど! 何か気付きませんか?」

高林「えっ! 何のことでしょう。僕、また失礼なことしたでしょうか?」


 高林は集中を欠き、筆を置きました。

絵麻「確かに、ちょっとにぶいかな! 私と話してて気付きませんか?」

高林「はあ〜?! 髪が短いとか、絵麻えまって、神社に飾ってある絵馬とか!」

絵麻「それですか(笑)!」


 絵麻は、高林の方に向かって言いました。

絵麻「私の声が誰かに似てると思いませんか?!」


 高林が立ち上がりながら絵麻の方を向くと、絵麻がわざと感情を加えて言いました。

絵麻「んー、、じゃあ、『あなたのお名前は、高林雄介さんですね!、私は岡絵里です!』……気付かれましたか?」


 すると、曇っていた高林の顔は一瞬笑顔に変わり、信じられないと言わんばかりに驚きました。

高林「まさか、絵里さん! いや紗絵さんの声だ! モノマネが上手というか、そっくりです。スッゲー!」

絵麻「そのとおり! 私と紗絵と絵里は、戸籍の上では従姉妹いとこですが、三つ子なんです。実の母が癌で闘病中に、私は母の兄のところに養子に行くことになったんです。ですから、紗絵と絵里と、絵麻は一卵性の三つ子! です」

高林「確かに、そう言われれば似てますが、髪も短いし、体型も筋肉質でマスクされていて……」

絵麻「じゃあ、マスク外しますよ!」


 目を凝らす高林の顔が、ゆつくりと満面の笑顔に変わりました。

高林「・・・そっくりだ!!」

絵麻「確かに私もそう思います。今はラクロスに夢中で、顔は黒くて、ガタイはいいですが、高校生のときは3人いると、親でも分からないくらいそっくりでした!」

高林「もう、そういうことだとは全く知りませんでした!」

絵麻「これが高林さんの子供たちに人気のライオンの絵ですね! わあー迫力が凄いし、なんか生きているみたい!」

高林「あっ、いやぁ〜! これチーターですけど……」

絵麻「また、いろいろお話ししましょう。なんだか高林さんとお話ししているとホッとします。不思議ですね!」

高林「ええ! もっと絵里さんのお話しが聞きたいです。とても素敵な方だったんだろうなって!」

 絵麻と会った直後は、絵里のことを聞きたくないと言った高林でしたが、本心を覗かせてしまいました。

高林「僕は、紗絵さんを描いてましたが、あの時は絵里さんだと思って描いていました。まだ、描き上がってないけど、いつの日かあの絵を描き上げないと、ずっと夢を追い続けているみたいで!」

絵麻「でも、私はモデルはしませんから!」


 絵麻は分かっていました。高林が自分に二人の姉の代わりを期待することが。それがまた、夢であると伝えたいので、モデルをしないと言ったのでした。

高林「はい、分かってます。早く現実に目覚めないといけないと!」

絵麻「それは、私も高林さんと一緒かな!」



《成田空港》

・・・僕は、あの絵を描き上げる目標の日を、勝手にこの日と決めていた。でも、それは叶わなかった。

 高林は、アメリカに出発する佐山を見送りに来ていました。そしてアメリカには、紗絵が待っているという現実を受け入れるつもりでした。

高林「先輩!、いろいろありがとうございました」

佐山「いや、それを言うならこっちもだ! 紗絵も君に悪かったって。でも楽しかったって言ってた。お前と一緒に居たときの一つ一つが、頭から離れないって!」

高林「えっ! そうですか」 


 平日の国際線ロビーは人は疎らで、アナウンスの声が良く通り、それが別れを後押しするように思えました。ふと、高林は後ろに気配を感じました。

高林「ああ、絵麻さん! 先輩の見送りに来てたんですね」

絵麻「ええ! この前はありがとうございました」

高林「あっ、いえ。こちらこそ!」

佐山「なんだ絵麻は、お前と知り合いだったんだ! そっか……」


 佐山は二人が既に知り合いであることが、紗絵の気持ちであると直ぐに分かりました。自分の婚約者の紗絵が夢から覚めようとしていることが、彼を搭乗ゲートの中へと向かわせたのでした。

佐山「じゃ、俺そろそろ行くわ! あとは宜しくな!」

高林「はい、お元気で! あっ、向こうで頑張って下さい。あっ、あと紗絵さんとお幸せに!」


 佐山の後ろ姿は、思ったより寂しそうにゲートの中に消えて行きました。

高林「………行っちゃいましたねー!、僕は、、いえ、何でもありません!」

絵麻「佐山さんが、私に高林さんのことを宜しくって! どうせあの絵は仕上がらないし、絵里みたいに動物園に行ってばっかだからって!」

高林「はあー!」

絵麻「あのーよかったら、お茶しませんか?!」

高林「そうですね! 気付きませんでした。ホントは男の方が誘うのがスジでした!」



《空港の喫茶店》

高林「絵麻さんは、何をお飲みになりますか?」

絵麻「ホットコーヒーを!」

高林「じゃー、僕も! サイズはMでいいですか?」


 絵麻は小さくうなづきました。でも目線を合わせません。

高林「僕が持って行きますから、席に座ってて下さい」


 驚いた高林は、絵麻との距離を取ろうとしました。

絵麻「はい!」

高林「どうぞ。お待たせです!」

絵麻「ありがとうございます!」


 高林は、動物園で絵を描いていたときに会った絵麻が、何故か姉の紗絵の様に感じてきました。また夢の扉を探す高林に、麻は言いました。

絵麻「高林さんは、もう絵を描けるようになったんですか? ライオンの絵ではなくて、他の絵とかを描けるんですか?!」

高林「たぶん……描けると思います! ただ、自分で描きたいと思うものに、今は出会えてないだけだと思います」

絵麻「そうですか! あの紗絵がモデルになった絵を超えるような対象に、未だ出会えてないんですね! それが本当なら、一生描けないかも知れませんよ。だって、あの絵は好きな人を描いている絵じゃないんですか!」

高林「僕は……、、」

絵麻「高林さんは、岡絵里をかたった紗絵に興味を持った! それで、描けない絵が描けるようになった! 違いますか?!」

高林「……確かに、僕はあなた方三姉妹の関係は知らずに、目の前にいる素敵な女性を好きになり、その人が岡絵里と妹の名前を名乗られた。だから、描き始めた!……そのとおりです」

絵麻「紗絵は! あなたがいると、まるで絵里が近くにいるような気がしたと言ってました。それってどういう意味か想像してみてください!」


 高林の心には、今まで見ていた夢が崩れる音がして、彼は夢の扉に鍵を掛けようとしました。

絵麻「妹が急に亡くなって!……本当は妹が佐山さんのことが大好きで、ずっとそのことを紗絵は知っていた。あなたを紹介してやるって言われた妹が、会う直前に亡くなってしまって……」

高林「それは! そのことは本当ですか? 絵里さんが佐山さんを好きだった!? じゃあ、なぜ僕を紹介してやるって言われた時に、断らなかったんですか?」

絵麻「私には、私たちには分かるんです! なぜか分かるんです。紗絵がアメリカに行く前に、私に預けていった絵里の携帯に、あなたと紗絵が一緒に写った写真! 二人が初めてあったあの日の写真が、待ち受けになっていました!」


 高林は、必死に忘れようとしている夢をまた追いかけようとしました。忘れられない夢だから忘れようとしている自分に、ようやく気付いたのです。

絵麻「紗絵は、アメリカに行って佐山さんと結婚しても、あなたとの思い出を大切にすると思います。最初は亡くなった妹の代わりのはずが、絵里が好きになれば良かったあなたのことを、亡くなった彼女が大好きだった佐山さんのことを思って!」


 絵麻はその時、絵麻であり、紗絵であり、そして岡絵里(おかえり!)であることを、自分にも高林にも問いかけました。空港の喫茶店にアメリカ行きのアナウンスが流れていました。

絵麻「すみません。感情的になって!」


 高林の中には、楽しかった思い出ではなく、切なさだけが残ります。

絵麻「紗絵は、絵里が亡くなって、そして彼女の携帯を預かって、佐山さんの写真が全部消されて、そこには残っていないことを知りました。……きっと絵里は、佐山さんにあなたを紹介してやるって言われたので、あなたと会う前に彼女なりの覚悟を決めたんだと思います。そして姉の紗絵はうすうす、絵里が佐山さんを忘れようとしていたと……本当に好きだった人を忘れようとしていると気付いていたと!」


 高林の頬に、涙が一筋流れ落ちました。

絵麻「簡単には整理できなくても、岡絵里という子は、岡絵里はいつも自分のことを我慢して、やせ我慢して、夢を諦めて生きて来たんです!」


 二人は、夢から覚めたいという思いを吐き出しながら、そこに居るように見えました。もちろん、絵麻は高林とは未だ二回しか会ってはいません。

高林「僕は、僕は、紗絵さんがOKAERIおかえりって言ったときに、この人からお帰りなさいと言われたら、なんて幸せだろうって思いました。でも、僕の悲しみは、あなた達から比べれば、大したことないと分かるんです。でも、悲しいし、苦しいし、忘れられないし、会いたいし! グシュ!……すみません。僕まで!」



《さらに一月》

・・・そして、先輩の佐山さんがアメリカに行って、一ヶ月が過ぎた。僕は暫く動物たちの絵を描くことを止めてしまっていた。

 でも毎週、絵画教室で子供たちに絵を教えている。最初はこの子たちも、僕のように描けなくなったらどうしょうと気になったが、今は楽しい。絵を描くことより教えることの方が、自分らしいと考えることもある。


高林「今日の教室は、ここまででーす!」

子供達「はーい!」

高林「皆んな薄炭うすずみを使って、竹や岩を描くのがとても上手になりました。七夕の飾り付けに是非使ってみてください!」

子供達「はーい!」

高林「はい! 忘れ物がないように、帰りは車に気を付けて、お家に帰りましょう。いいかなー。では、ご一緒に!」

高林と子供達「さようなら、また来週!」


 周作は高林に、このまま子供達に絵を教える人生を期待するようになっていました。

周作「なかなか板につているじゃないか! 子供たちも楽しそうだし」

高林「ああ、岡さん! ありがとうございます」

周作「このあと、来週から君のクラスに入りたいという子の面談だよ! それが終わったら少し話したいことがある。ちょっと待ってて下さい!」

高林「はい!、片付けもありますし、バイトも休みですので大丈夫です」


 高林はいろんな思いが詰まった絵画教室を、いつか後にするかもしれないと感じていました。 

周作「お待たせしたね!」

高林「いえ! とんでもありません」

周作「コーヒーでも入れようか!?」

高林「……はい!」


 教室の横の戸棚から取り出したサイホンに、ゆらゆらと湯気が立ち、コーヒーの色と香りが揺れています。

周作「さあ、どうぞ! この豆はいつも北新宿の親戚の店から特別に仕入れているんだ。かなり古い釜で焙煎したやつをね!」

高林「どうりで、香りも味も他ではなかなか出せないレベルですね!」

周作「うちに来て、先ず色んな絵の具の匂いがするだろう! 人がいるのに、夢中で絵を描くと『シーン』と静けさだけを感じるときがある。そんなときに、この香りがいい感じで気持ちを解きほぐしてくれるんだ!」

高林「そうだ! 紗絵さんから入れていただいたとき、確かにそう感じました!」

周作「タバコもお酒もやらない僕の、こだわりかな! むすめたちも、おかげでコーヒーにはうるさくなったよ!」

高林「絵麻さんも、ですか?」

周作「そうだな! 養子と言ったって、他の二人が自分とソックリだから、三つ子だと直ぐに分かっていた。子供の頃よくここに来て、そして僕にコーヒーを入れてくれたよ!」


 周作は、思い出の中の3人の娘のそれぞれを楽しげに話していました。

周作「後で君に見てほしいものがある! 実は、描きかけだった絵をまた描き始めて、昨日完成したばかりなんだ!」

高林「そうですか。是非見せて下さい!」


 二人はコーヒーを飲み終え、奥の作品置き場に行きました。もちろん、高林の描きかけの絵もシートを被り並んでいます。

周作「これがそうだ!」

高林「……これ、三つ同時に描かれたんですか?」

周作「そうだ! そうしないと、それぞれのイメージや、思いが重なるんでね!」

高林「僕には、違いがほとんど分かりませんが、たぶんこの絵は、紗絵さん! これは絵麻さん! そして、これが絵里さんですか?!」

周作「ああ! そのとおりだ!」


 高林は特に何も考えずに、殆ど見分けの付かない絵を言い当てました。周作はそれを驚きもせず高林にこれまでの経緯を話しました。

周作「これはね! 20年もそのままにしていた妻のデッサンから、また少しづつ描き始めたものなんだ。私の記憶の中にある三人のむすめのことを、何とか残しておきたいと思ってね!」

高林「そうですか! 僕は絵里さんとお会いしたこともありませんし、お写真も見てませんから」

周作「確かにそうだね! でも、私の絵を見て直ぐに三人を見分けられるのは、あのたち三人を除き、あっいや! 二人を除き、君と佐山君しかいないと思うよ! そうだ絵里の写真のことだけど、君は既に見たと言った方が正しいかも知れないかな! 画家としてはね」

高林「えっ! それってもしかして、あの携帯の待ち受け画面のことじゃないですか?!」

周作「ああ! よく分かったね」

高林「あれは、あの写真は間違いなく紗絵さんですが、あの笑顔とピースは紗絵さんの感じと少し違って見えました。エクボのでき方とか、口に力を入れて笑ってる感じなんか!」

周作「そう、それそれ! あのは、いつも笑うと同じ顔しかしなかった。本当に嬉しかったらクシャクシャでいいのに、どこか気遣いしたり、はにかんだりして見えた。その点、紗絵と絵麻は思いっきり笑って、怒って、泣いて。エクボは君の言うとおり、三人とも微妙に違ってできる。いや、さすがの観察力だね!」

 周作と高林の心に柔らかな思い出がそっとイメージされていきます。


高林「絵里さんは、亡くなる前はどんな感じだったんですか?……本当は、こんなこと、聞いてはいけないと思いますが!」

周作「うーん、そうだね! 君にとっては気になるとこだね!……実は、絵里に率直に聞いてみたんだ『佐山君がもし、紗絵よりお前のことが好きだったら、これから会う君のことをどうするかってね!』そうしたら何と言ったと思う? あのは、、絵里は『姉の紗絵に成りすまして私がアメリカに行く!』そう言ったんだよ。まあ驚いたが、あのが、そこまで言うかとね! でも、ある意味本音が聞けて納得もしたんだ!」

高林「そうだったんですね。そう言う方なんですね!」

周作「ああ! そう言うむすめだ」


 高林は周作の話を聞き、自分の絵がこのままだと描き上がらないと思いました。紗絵と絵里のどちらを描いているのか、自分でも分からなくなっていたのです。

高林「あのー! 僕の描き上がっていないあの絵のことですが、暫くと言うか、僕が完成させるまでここに置かせてもらっていいですか?」

周作「ああ、勿論いいが、私はそのつもりでいたよ!」

高林「僕も! あの絵はここに置いたまま当たり前のように描き上げるつもりでした。でも、ちょっと当たり前のことを心配するのが、僕ですので……」


・・・どうしてこうなったのかは分からない。でも、僕はあの時から夢を見ているような不思議な感覚を毎日感じている。そして、現実が僕を夢から覚まそうとしても、未だ寝た振りをしているのだ・・・

 


○三年後

 そして、あれから3年が過ぎようとしていました。

 高林は、絵を描けない毎日が続き、周作の絵画教室に足を運べなくなり辞めてしまいました。でも、あの絵はそのまま残してきていました。

高林「紗絵さんからのメールだ! アメリカで獣医師の資格を取ったので日本に戻って来る……どうしても描き上げないと、僕は本当に二度と絵が描けなくなる!」


・・・僕は、夢でいいからあの絵を仕上げたい。どんな絵でも、誰の絵でもいい・・・


 高林は、絵画教室に久しぶりに足を運んびました。彼の顔は抜け殻のように気力を失い、何も考えていないように見えました。汚れたままの自分の道具を広げ、あの描きかけの絵を前にして色を落とそうとしていました。でも、目は涙で画線を定めきれず、手は震えて何度も修正を繰り返えしています。

 

 絵の具が尽きかけて頭がフラフラと動き、服の袖で何色か分からないほどの絵の具を拭き取り、筆先に震えが伝わって、彼の見ている絵の夢が止まろうとしません。

高林「あーー! もうこれでじゆうぶんだろ!」


 高林の筆の先が顔の輪郭に触れた瞬間のことです。

「これが運命と言うなら、僕は神様に従います。でも、こんなに切ない想いは、一生に一度っきりにして下さい。どうかお願いします!(高林)」


 そう言って彼は筆を仕舞い、自分の絵を岡周作が描き終えた3人の娘の絵の横に置き、その中から紗絵の絵を手に取って抱きしめました。彼はどんな夢を見ていたとしても、それが自分の夢なら何度でも見直さなければならないことに、ようやく気付いたのでした。

 彼は、誰を描いたか分からない自分の作品に、(ばく)と名前を付し、その後再び筆をとることはなかったのです。


それから暫くして、周作の絵画教室に銀座の『画廊雅がろうみやび』のオーナー田崎雅たざきみやびが訪れました。

田崎「しばらくぶりだね! お互い……」

周作「ああ! ようやく完成したよ。長かった!」

田崎「そうだな。そのとうりだ! じゃあ見せてくれるか」

 田崎は周作の美術大学の同窓生で、周作が亡くなった妻の絵を必死で書いていることを知っていました。そして、描きかけていた3枚の妻のデッサンから3人の娘に変えて描き上げたことを知り、周作のもとを訪ねたのでした。

周作「あそこに並んでいるよ! 一人は天国に行って母親と楽しくやっているけどね」

田崎「そうか! ところで、これも君が描いたのか? すごい情念というか、もがいている感じが伝わる遺作のようにも見えるが!」

周作「ああ! また一人、僕が夢を奪い取ってしまった。素晴らしく優しくて、周りをコーヒーのように癒してくれる、才能あふれる逸材の夢をだ!」

田崎「これほどの作品を描けるのにな!……これ、僕に引き取らせてくれないか?! 久々に心が震えるような作品に出合えた。海外のオークションに掛けて、本当の価値を確認してみたい! このまま眠らせておくのは君も心苦しいだろう」

周作「たしかにその通りだ! 僕もどうしていいやら迷っていた。間違いなく素晴らしい作品だと思う! 実は、作者とは全く連絡が取れないんだが、後の説明は全て僕の責任でやるよ!」

田崎「ああ、分かった!」


 それから、高林雄介の『獏』は田崎の手に渡り、イギリスのオークションに掛けられ高い評価を受けたのでした。

 そしてその時の英語の作品名は『The story of Baku and dream chaser(獏と夢追い人の物語)』と名付けられたのでした。


〜〜おわり〜〜


             作者 カズ ナガサワ

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